このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(3)

「戦後詩」は、夜を主題にしたものが多い。つまり、比喩的に言えば、「おやすみの思想」が詩の主潮になる。これではまったく意気上がらない、と寺山は言う。

「おやすみは、コミュニケーションの終りの挨拶である。ここからは何もはじまらない。少なくとも対話としての詩の可能性は望むべくもないのである。」
 
だから「おやすみ」ではなく、「おはよう」ということを考える。

「『おはよう』はこっちから話しかけるための出だしのファンファーレである。それは話しかけられるのではなくて話しかけるためにある。私の考えでは『弱者の文学』でしかなかった戦後の詩に、最初の『おはよう』を持ちこんだのは谷川俊太郎である。」
 
ここで初めて「戦後詩」の転換点が、誰にもわかるかたちで現われる。

「彼の処女詩集『二十億光年の孤独』は、私にとって、ひどく親しい友人からの手紙を思わせたものだ。」
 
その時代を考えれば、この詩集の衝撃力は、想像をはるかに超えたものだったろう。

「私は『いかに生くべきか』の詩が、はじめて『いかに死ぬべきか』にとって変るべき時がきたことを感じた。谷川俊太郎は、戦後詩史の上では人であるよりも前に事件だったといえるだろう。」
 
この寺山の評価に、付け加えることは何もない。
 
ただ最後の2行を読むと、谷川俊太郎もまた、いい意味で、時間と環境に制約された人と思われる。

「私は彼〔=谷川俊太郎〕のなかに強い詩人を見出す。それはあらゆる権力によらず、経済的な背景も集団の後押しも必要としない、きわめて不安定な『個人』の強さなのであった。」
 
谷川俊太郎の後ろには、父である谷川徹三、戦後の一時期、自由な日本を引っ張っていった、哲学者の顔が見える。
 
第三章は「詩壇における帰巣集団の構造」、といえば何やら厳めしいが、要するに詩の雑誌のことである。

「詩歌壇における結社誌とか同人誌とかの発行の意義は、もはや一つのメディアでむすばれた作者と読者の関係などではなくて『相互慰藉』ということに絞られてしまっているようである。それは新興宗教の団体よりも、もっと味気ない感傷の福祉団体なのだ。」
 
客観的に言って、詩の雑誌はこういうものだと突き放し、さらにたたみかける。

「彼等は『みすぼらしい人生』を報告しあう。そして報告を芸術であるかのように誤解することによって、辛うじて生甲斐という免罪符を受け取っている。彼等には『救済』へのはげしい願望もなければ、『変革』のための身をよじるような苦悩もないのである。」
 
匕首を突きつけて迫り、相手の胸倉を、心臓の中まで抉り取る。そういう文章である。
 
その結果、この章の題名に帰ってくる。

「彼等にとって、打ちあけあう心は出発点ではなくて『巣』である。なぐさめの藁と、あきらめの泥によってかためられた心の巣にはいつでもお互同志を迎え入れる準備ができている。それはいかなる世界へ向っても、決してひらくことのない、ほとんど絶望的なディスコミュニケーションの牢獄である。」
 
そういう結社の代表として、ここでは短歌の「アララギ」が取り上げられ、歌が二首、引かれる。

 「ダンスもし麻雀将棋囲碁するにやはりわれには短歌が似合う

  禿頭に苦しみ事務に苦しむに今月もまた「アララギ」に落つ」

一首目は字面通りで、ただそのまま。

二首目は「禿頭」や「事務能力」によって自信のなくなった自己を、仲間同士の場で何とか回復したい、しかし今月も「選」に漏れたなあ、という短歌命の詠嘆である。
 
よくこんな短歌が、寺山修司の前に、おあつらえむきに出てきたものだ。ほんとに笑ってしまう。
 
しかし寺山は、ただ一方的に、これらの短歌の読み手たちを、突き放しはしない。

「会費を払って毎月、こうした生甲斐を交換しあう歌人たちのことを思うと、なぜか心にしみるものがある。たぶん、どんな時世にあっても『つまらない人生』などというものは存在しないであろう。」
 
寺山はちゃんと分かっているのだろう。そして「つまらない人生」は存在しなくても、「つまらない詩歌誌」は高名であっても存在する、ということを。

このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(2)

「『荒地』の功罪」という章がある。『荒地』はもちろん、T.S.エリオットの「荒地」ではなく、それにちなんで田村隆一や鮎川信夫、北村太郎らが同人となった雑誌『荒地』である。

ねじめ正一『荒地の恋』で有名な、この同人誌の刊行時期を確かめてみると、1947年9月から1948年6月までの、1年に満たない期間である。

寺山修司はこの章を、こんな言葉で始めている。

「私がはじめて戦後詩と出会ったとき、戦後詩は大分くたびれた顔をしていた。
 それは一つの時代の漂流物に纏いつかれて身動きできないでいる『弱者』の苦悩を思わせた。『荒地』運動の中に私が見たものは、『いかに生くべきか』という思想ではなくて、『いかに死ぬべきか』というシニシズムの影であった。」
 
戦後が始まったばかりなのに、「戦後詩」はもう、「大分くたびれた顔をしていた」というのである。

「特攻」に象徴されるように、第2次大戦末期の日本は、死の影に覆われていた。もちろん上層部と皇室は、いち早く逃げ延びることを目的としたが、それ以外の日本人は、ずっと死と隣り合わせだった。
 
その余韻が、『荒地』の中にも漂っていたのか。

「戦後詩の出発点は、鮎川信夫の『詩を書くことだけが誠実であり……それを特に悲劇的なものと見做さねばならぬところに、現代意識の特徴がある』という意見に代表されるような一種の悲壮感に支えられていたのである。」
 
時代が違う、環境が違う、としか言いようがない。
 
引き続き鮎川信夫の言を引く。

「『もし誠実を失うならば、悲劇性をも同時に失うのであり、現代文明の破滅的な危機に直面して知識人に課せられた厳粛な使命を擲つことになる』というほどの重い責任感が支配していた。」
 
個人は何ぴとであろうと、時間と空間を限られて生きなければならない、ということが、いやになるほどよくわかる話である。
 
ここでは黒田三郎の「死のなかに」、山本太郎の「祈りの唄」、そして福島和昭の「みみよりも愉快な自殺の唄」が引かれている(引用はしない)。

『荒地』の時代の総括として、寺山は痛烈な言葉を投げつける。

「これらの疑似悲劇の系列の作品には、社会との関わりあいの感覚、べつの言葉でいえば『愛』がすっぽりと欠落しているのである。」
 
寺山はさらに、愛が欠落するとはどういうことかを、的確に描く。

「ここには『自己の存在を盲目的に束縛するというよりももっとおそろしい危険――深く愛し愛されることによって他人の存在を左右する立場に立つ』という自分の運命がいささかも感じられないではないか。」
 
終戦直後の個人は、そこまで追いつめられていた、ということだろう。他者を愛し、その結果を引き受ける、という余裕は全くなかった。

「『いかに死ぬべきか』という思想は、結局『荒地』運動の出発時以来不毛だったのであり、この『幻滅的な現代の風景を愛撫する』という姿勢が、現代詩を弱者の文学に追いやってしまったのだと私は考えるのである。」

『荒地』に出発する戦後初期の「現代詩」が、どんなものであるかを、私はごくわずかに知っているだけだ。それに『荒地』といっても、さまざまな詩人がいて、その個性を無視することはできない。
 
しかしそれでも、寺山修司によって「戦後詩」が、初めから負の烙印を押されていた、ということは重くのしかかってくる。

このサブタイトルは必要か?――『戦後詩―ユリシーズの不在―』(寺山修司)(1)

これは荒川洋治『霧中の読書』に、サブタイトルの失敗例として挙げてあった。

副題が失敗例であろうがなかろうが、寺山が「戦後詩」を総体としてどう見ていたか、というのであれば、これは是が非でも読まねばなるまい。
 
この本は、1965年に紀伊國屋書店から刊行され、1993年、ちくま文庫に収録され、2013年には講談社文芸文庫に収録された。
 
それを読む前に、荒川洋治がサブタイトルの失敗例として、挙げてある理由を見ておこう。

「首をかしげたいものもある。寺山修司『戦後詩――ユリシーズの不在』(一九六五・現在、講談社文芸文庫)は、現代詩論としてとても魅力のあるものだが、『ユリシーズの不在』とはいったい何だろう。」
 
これでは何のことか分からない、というわけだ。

「日本人の大多数はギリシア神話に暗い『風土』だから、これは無理。副題の失敗例かと思われる。『ユリシーズ』もわからないうえに『不在』が来ると、よりわからないという、ぼくのような人は他にもいるだろう。読む人がみんな寺山修司のような教養人ではないことを天才寺山修司はつい忘れたのだと思う。」
 
だからこのサブタイトルは失敗だと、荒川は言うのだ。
 
この問題は最後に考えてみよう。
 
この本は1965年に刊行されている。つまり1945年から20年間の、戦後詩を扱っている。そういう意味では、今から60年前に問題とされていた事柄が、今では問題にされない、ということがある。
 
例えばこんな話題。

「何かをいうためには、私たちは代理人を立てなければいけない。
 多くの代理人たちは忙しそうに、私の為すべきことを『代行』する。政治家は、私の政治的活動の代理人であり、レストランのコックは私の台所仕事の代理人である。〔中略〕
 活字にも頼らず、ことばの標準語化にもまきこまれず、いかなる代理人にも頼らず、私自身のことばで詩を直接的にコミュニケーションする『自分の場所』は、もうないのだろうか?」
 
今、こういうことで悩んでいる詩人は、いるのだろうか。人々の暮らしが、内面からも、外面つまり社会的にも整ってきて、戦後は徐々に一掃されていく。

「自身のことばで詩を直接的にコミュニケーションする『自分の場所』」が、いったい何のことかわかる人間は、あの時代にも少なくなり、今ではもう何のことやらわからない。そういうことではないか。
 
しかしもちろん、すぐれた詩が目の前に現れて、有無を言わせず、時間なんか飛び越えていく場合もある。

「記号的現実の世界を訪ねるために、読者に一つのパスポートを貸してあげよう。それは『恐山』と題された長谷川龍生の詩である。〔中略〕この詩の意味する世界とか、作者の意図とかとは全く無関係に、呪文か阿呆陀羅経でも唱えているような恍惚感にあふれてきて、やがて『記号経験』というものの不思議さを験すことができるだろう。」
 
そして「恐山」の詩が、13ページにわたって引用してある。これはあまりに長くなるので、最初のクライマックス(と私が思うところ)の一節を挙げておく。

 「きみも、他人も、恐山!
  人っ子ひとりいない
  山の上にひろがる火山灰地。
  真冬の夜の、おちくぼんだ空に
  かすかに散るつめたいしだれ花火。
  かよわい渡鳥類が
  その山巓〔さんてん〕にまで
  やっと、たどりつき
  息たえだえに落下する灰ばんだ湖水。
  きみが、英雄であろうとも
  他人が、書記長であろうとも
  きみも、他人も、恐山!
  癩のように、朽ちはて
  ただれ、ふやけた脚をさすり
  風てんになった頭脳に光をとぼし
    ああー ああー ああー ああー
    ううー ううー ううー ううー
  死人のうめき声が
  こがらしに舞いむせび
  ひからびた赤ン坊のあばら骨に
  火山灰が、しんしんと
  降りつもっている
  どすぐろく変色し、しわのふかい
  更年期おんなの、くちびるが
  だらりと、ゆがみ、たるんで
  意味不明の祭文が、きみと、他人の耳に
  ひびいてくるだろう
   〔中略〕
  きみも、他人も、恐山!
  悲しみも、こごえる、人の世の断崖。
  霧のたちこめる怨霊の空のはて。
  さまよう個人主義者の自殺する空井戸。
  きみの、その、覆面の下の白い顔。
  きみの、その、仮面の裏の汚れた顔。
  きみの覆面、きみの仮面を
  はぎとり、殺していく
  他人の覆面、他人の仮面。
  きみも、他人も、恐山!
  きみも、他人ものぼっていく。」

 
これでも引用全体の6分の1。
 
寺山修司は、「この詩を声を出して読まれるといい、必ず声を出して」という。それで私はほんとに、声に出して読んだ。明らかに昂揚しているのに、気持ちの全体は沈み込んでいく、何とも言えない瞬間だった。

取り合わせに驚く――『ワインズバーグ、オハイオ』(シャーウッド・アンダーソン、上岡伸雄・訳)

荒川洋治の『霧中の読書』に、『うらおもて人生録』(色川武大)の批評が書かれていて、素晴らしい文章だった。
 
たとえば、こんな感想。

「一章一章の濃度が高いので、次から次へと読むことはできない。そうかあ、と感心しながら、人間についての新しい発見をしながら読むので、ことばと文章にしっかりと向き合って読むと、実はとても時間がかかるのだ。軽やかに書かれているのに、知らず知らずに心地よい重みがかかるのである。」
 
平明で的確。しかし問題は、この次である。

「こういう文章は、日本の人生論ではこれまで現れたことのないものである。これは小説だが、アメリカの作家シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』(一九一九)をぼくは思い出す。ちょうど百年前の短編連作だ(一つの長編でもある)。一つの町のなかで生きる人たちの孤独な、でもそれぞれに大切な人生を映し出したもので、二二編の短編は一つ一つがすばらしい重みをもつので、とてもひといきには読めない。」
 
一瞬、うっと息がつまり、眼が点になる。『ワインズバーグ、オハイオ』、ほんとかよ。
 
荒川洋治はこんな言葉で、2作品を結ぶ。

「〔『ワインズバーグ、オハイオ』は〕そらおそろしいほどの感動をおぼえる名作だ。色川武大のエッセイは、アンダーソンの短編を思わせる。そんなはるか遠い例しか思いつかないほど、色川武大の文章は特別なものだ。」
 
これは『ワインズバーグ、オハイオ』を読むしかない。幸い新訳が、新潮文庫で2018年に出ている。
 
と思って読んでみるが、これがけっこう大変なのだ。
 
色川武大の『うらおもて人生録』は、毎日新聞・日曜版のときから読んでいた。本になったのも読んだ。

人生においては、どこまでも九勝六敗をめざせ。負けになってはいけないが、大勝ちしてもいけない、長くは続かない。これは色川武大の、人生の知恵として知られている。ここらあたりは、色川武大というよりは、博奕打ち阿佐田哲也の心得である。

『うらおもて人生録』は、しみじみとして、面白く、心豊かになった。そういう記憶がある。
 
一方、『ワインズバーグ、オハイオ』は、寂れた田舎町を扱って、表面的には、味わい深い面白い小説ではない。
 
カバー裏表紙の惹句を引いておく。

「オハイオ州の架空の町ワインズバーグ。そこは発展から取り残された寂しき人々が暮らすうらぶれた町。地元紙の若き記者ジョージ・ウィラードのもとには、住人の奇妙な噂話が次々と寄せられる。僕はこのままこの町にいていいのだろうか……。」
 
アンダーソンは、人間が様々な衝動(性はその最も大きなもの)に、晒されていることを見抜き、合理的には説明のつかない人間の行動を、生々しく描き出した。
 
20世紀初めの作品なので、小説の典型的な文体でないものも混じる。ときどきはノンフイクション的な要約文体も混じっている。
 
もう一つ厄介なのは、これが新訳だということだ。最も新しい新潮文庫は上岡伸雄・訳だが、この文庫はもとは橋本福夫・訳で、1959年に上梓していて、長くこの版で親しまれてきた。ほかにも何種類か訳本がある。

『ワインズバーグ、オハイオ』と『うらおもて人生録』の共通点を言うなら、どの訳本かを言ってくれないとどうしようもない、ということにならないだろうか。
 
そういうこととは別に、『ワインズバーグ、オハイオ』は異常な物語で、独特の面白さがあった。読み進むうちに、私は自然に、山本周五郎の『青べか物語』を思い浮かべていた。物語の異常な位相が、よく似ていると思ったのだ。

(『ワインズバーグ、オハイオ』シャーウッド・アンダーソン、上岡伸雄・訳
 新潮文庫、2018年7月1日初刷、2022年1月10日第2刷)

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(11)

目次に従えば、この後、橋本忍は『人間革命』『八甲田山』『八つ墓村』と、大作が続いている。
 
それぞれ橋本のシナリオとしては、当たった映画だし、当てるための綿密な下準備もしているが、私は見ていないので省略する。
 
1970年代初め、日本の映画界は壊滅的な状況にあった。60年代に入るころから観客数が減り始め、71年には、あの『羅生門』を作った大映が倒産した。

日活は経営規模を大幅に縮小し、ロマンポルノを始めた。ロマンポルノは、学生のときに観ている。性的な場面さえ入れておけば、かなり自由に撮れるというので、それを逆手にとって何本か名作が生まれ、監督では神代辰巳のような名匠が出た。

さらに逸脱して言えば、日本映画はこのころ、「神代辰巳と深作欣二の時代」が確かにあって、それは外国映画祭の華やかな賞や、一家で観に行く興行収入何億円とは違った世界で、映画がもっと親密で、肌に染み込んでいた時代だった。
 
それはともかく、東宝でも制作部門を別会社にして切り離し、そして、黒澤明が自殺未遂をはかった。
 
惨憺たる中で、大作映画をヒットさせ続けた橋本忍は、このころはひとり別格の存在だった。
 
春日太一は橋本をこんなふうに書く。

「『〔映画は〕やってみなきゃわからない』から『やらない』とはならなかった。むしろ、『わからない』からこそ、燃えた。なぜなら橋本は『映画の賭博者』だから。先がわからないからこそ、賭ける価値がある。それが橋本の根元にあるのだ。」
 
これは橋本が春日太一に、直接その心境を語っている。

「じゃあ、それを作る僕に、当たる自信があったか。実は、何もないよ、そんなもの。やってみなきゃ、わからん。だけども、僕が『やってみなきゃわからん』なんて言ったら、誰もそんなの乗らないよ。だから、いつも強いことを言っていたけど、本人としてもやってみなきゃわからなかったんだよ」。
 
そしていよいよ1982年に、『幻の湖』が公開される。この映画は、『砂の器』『八甲田山』に続く、橋本プロダクションの第3弾であり、東宝の創立50周年記念作品であった。
 
この作品で橋本忍は、原作・脚本・監督・プロデューサーと、すべてを担っていた。

『幻の湖』は、記念作品ということもあり、東宝が製作費を出し、準備段階を含めて長期ロケーションも敢行し、完成までに丸3年かかった。
 
しかしこの映画は、大ゴケにコケた。
 
春日太一は、この映画を徹底的に分析する。これまでに成功したどの映画よりも、この作品について書き尽くそうとする。まるで橋本に、恨みでもあるかのようだ、というのは冗談だが、『幻の湖』がなぜ失敗したか、を読んでいくと、もう結構という感じになる。
 
まず「あらすじ」から入るが、これが4ページを超える長さで、しかも春日太一は、次のように結論づけている。

「何がなんだかよく分からない方もいるかもしれない。
 だが、それで間違いない。実際のところ、筆者もいくら観ても、何がなんだかよく分からない映画なのだから――。そして〔中略〕、橋本自身もよく分からないまま書いていた可能性すらある。」
 
ボロクソである。こんな「あらすじ」を紹介する愚は避けたいので、簡単に1行ですまそう。

「飼い犬を殺された風俗嬢の復讐の物語」である。

春日太一は、この映画を料理し尽くそうとする。たぶん橋本忍があまりに無様だった映画が、この1本だけなので、著者としては、なぜこういうことになったのかを、納得したいのだと思う。
 
これが帯にあった「〝全身脚本家〟驚愕の真実」だな、と思って「あとがき」まで読み進めると、なんと驚愕のどんでん返しは、きれいさっぱり落とされているのだ。

「どのような『どんでん返し』を用意していたのかは、また改めての機会に発表したい。その個所も含め、構成をシンプルにする上で削除したのは『橋本忍と春日太一の対峙』、つまり取材時のドキュメントの場面だ。これが、なかなかにスリリングな状況の連続だったのだが、それは最終的に全て無くした。」
 
そういうことだ。そういう広い意味で、「くんずほぐれつ」をやり、本にするのに12年かかったという。そしてその成果は、十分すぎるほど十分に出ている。

この次はぜひ、謎の「どんでん返し」と、緊張感あふれる「橋本忍と春日太一の対峙」を、本にしてもらいたい。

(『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』春日太一、
 文藝春秋、2023年11月30日初刷、12月25日第3刷)

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(10)

1961年、『砂の器』の新聞連載が終わって間もなく、野村芳太郎監督の下で映画の撮影が始まる。それが突然、中止になる。松竹の城戸四郎社長による、トップダウンの命令だった。
 
面白いのは、橋本忍の態度である。すでに脚本を書いた段階で、橋本の仕事は終わっており、その後のことは気にならなかったようだ。あるいは、それを気にしていられないほど、仕事が忙しかったのか。『砂の器』の企画は、一度お蔵入りになったのである。
 
63年に橋本の父、徳治が死病に倒れる。郷里に見舞いに行った橋本に、徳治は2冊の台本を見せて、こう語った。

「『お前の書いた本で読めるのはこの二冊だけだ。読んだ感じでは『切腹』のほうがはるかにホンの出来がいい。でも、好き嫌いから言ったら『砂の器』のほうが好きだ』と。そして最後にこう付け加えた。
『忍よ、これは当たるよ』」。
 
橋本忍は、父の博才に惚れ込んでいた。父はかつて、ある座長が「忠臣蔵」を売り込んできたのに対し、「一人が四十七人斬った話なら面白いけど、四十七人かかって一人のジジイを斬ってどこが面白いんだ」と、その提案を断った。
 
橋本は、その当時の思い出して、こんなふうに語っている。

「僕は非常に感動したの。親父の考え方、正しいと思ったね」。
 
橋本忍は、それから4,5年たって、東宝のプロデューサ―が、「忠臣蔵」を書いてくれと言って来たとき、父の言葉をそっくりそのまま語って、周りを啞然とさせたという。
 
それはともかく、『砂の器』である。

松竹では、一度はお蔵入りしたので、すでに版権は持っていない。

東宝でも、企画を統括する藤本真澄に、「おまえ、頭どうかしているんじゃないか。今時、乞食姿が白い着物を着てあちこち歩き回るって、それが売り物になると思っているのか」、とニベもなく断られる。
 
続いて東映に持ち込むと、今井正監督に呼び出された。

「橋本君、あれはな、やめといたほうがいいよ。客こないよ。これはもうどこへもほかへ持って回らんほうがいいよ。あんたの評判傷つけるだけだよ」。
 
まさに友情ある説得である。
 
橋本は、最後に大映に持ち込んだ。大映は『白い巨塔』で仕事をしている。

ちなみに今日、5月20日のNHK.BSの昼の映画は、『白い巨塔』だった。私がこのブログを書く日に合わせて、NHK.BSが配慮してくれたのだ、――というわけはないが、久しぶりに古い映画の面白さを堪能した。
 
田宮二郎、小川真由美、田村高廣、……。昔の俳優は「スター」だったから、画面に登場するだけで、もう何も喋らなくても、濃厚な雰囲気がある。小川真由美のホステスなんか、たまらないぜ。

こういう雰囲気は、おおむね今の映画にはない。しかしもちろん、今の映画の方が面白い。

この映画は、キネマ旬報・ベストテン1位、毎日映画コンクール(日本映画大賞、監督賞、脚本賞)、ブルーリボン賞(作品賞、脚本賞)、芸術祭賞、モスクワ国際映画祭(銀賞)など、数々の賞を獲った。
 
その橋本忍が、強力に『砂の器』を売り込んできた。大映は一計を案じ、「重役会議にかけるためにペラで三十枚くらいのプロット(あらすじ)を書いてきてほしい」と要求した。
 
橋本忍は、『砂の器』の筋を面白いとは思っておらず、勝負できるのは、「親子が追われて、日本全国を旅する」という一点だけ、というつもりだった。橋本はしばらくして、自ら企画を取り下げた。
 
完全に八方ふさがりに陥った橋本は、ついに自身が運営する「橋本プロダクション」を設立する。すさまじい執念である。ときに1973年のことだった。
 
その後も、なお難局は次々に襲ってくる。それは本を読むと本当に面白い。

そしてついに橋本は、映画『砂の器』の完成にこぎつける。それはしかも、大当たりをとるのだ。
 
日本の映画界の全員が、当たるわけがない、といった映画が、橋本忍の父が予言したごとく、大当たりをとったのだ。
 
ただ、大勢の人が見た中で、小説と映画が違う、という批判が聞かれた。
 
橋本はこんなふうに答えている。

「原作のとおりであるとか、ないとか、そんなことは問題じゃないんだ。原作には目指していたものがある。でも、そこに他の余計なものがくっつき過ぎている。
 たとえば、清張さんも『砂の器』は父子の旅だけを書きたかったんだと思うんだ。〔中略〕その清張さんが途中までしか行けなかったバトンを受け継いで前へ僕が走るんだから、ほかのとこは要らないんだ。」
 
凄まじい自信である。そして最後にこんな言葉がくる。

「原作と同じものを作るんだったら、わざわざ映画を作る必要ないよ」。
 
実際に会えば、圧倒される人だったろう。
 
最後に『砂の器』について、私の感想を記しておく。
 
前半は推理ものとして面白くみられる。しかし橋本忍には申し訳ないが、後半の「父と子の旅」は、あまりに長過ぎて、実に退屈だ。一度見たらもういい、たくさんである。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(9)

橋本忍が、松本清張原作でシナリオ化したものは、『砂の器』の他に、『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』『ゼロの焦点』『霧の旗』『影の車』と、6本ある。
 
しかし、この章で扱うのは『砂の器』、1本である。それほど橋本忍にとって、この映画の持つ意味、つまり当たらないだろうという周囲の見方を、徹底的に覆したことは大きい。
 
しかしその前に、ここには題名が挙がっているだけで、まったく触れられていない『影の車』に言及したい。
 
1970年に公開されたこの映画を、私は70年代半ば、大学生のころに見て、忘れられない1本となった。一言で言えば、ゾッとするほど怖い映画なのだ。
 
主演は加藤剛、岩下志麻。このコンビは他にも、松本清張原作の映画を何本か撮っている。
 
2人は不倫の関係にあり、加藤剛の女房は、そのことにまったく気付いていない。亭主は絵に描いたような平凡な男で、女房は、地域の奥さんたちとの付き合いで忙しい。小川真由美が神経の太い、鈍感な奥さんを演じていて、素晴らしかった。
 
岩下志麻は女手一つで、6つくらいの男の子を育てている。その家庭に、加藤剛が入り込んでくる。2人は女の家で逢引きを重ね、ずぶずぶと関係を深める。
 
そして破局がくる。女が出かけているとき、男は会社の仕事で疲れていて、うたた寝をする。ふと気がつくと、ガスが充満している。窓を開けようとするが、どの窓も外側から目張りがしてあり、男は徐々に気が遠くなっていく。

かすむ窓を通して見た庭には、あの男の子が、鉈をもって、殺意もあらわに立っていた。
 
そこで場面は変わって、警察に取り調べを受ける加藤剛。小学生にもならない子どもが、はっきりした殺意なんか抱くものか、バカなことを言うな、と刑事は言う。
 
そこで、奥底に秘めた男の、遠い殺意が蘇ってくる。

子どもの頃、母親と2人きりだった。そこにおじさんが入り込んできた。男と女の交わりを、次の間からこっそり見ていた。
 
ある日、おじさんは釣りに行こうと、少年を誘った。おじさんは断崖の途中から、腰に命綱を巻いて、魚を捕っている。少年は小刀で、おじさんの命綱を切ったのだ。そのときの殺意が、まざまざと蘇る。
 
書いてみると、どうということのない映画だが、この映画はバックの曲まで覚えている。そして今でも、口をついて出てくる。
 
記憶は変形して、きっと私の中で、より怖いことになっているだろう。だからこの映画は、テレビで見る機会があっても、見たことはない。ずっと私が温めてきた、怖い印象のままで、行くことにする。
 
さて『砂の器』だ。これはもう「親と子の旅路の果て」、ただそれだけの映画である。

この章は、全部オミットしてもいいのだけど、橋本忍の特徴がよく出ているという点では、この章をおいて他にないので、そういう訳にはいかない。
 

そもそも橋本忍は、この原作をどう思っていたか。

「いや、まことに出来が悪い。つまらん。もう生理的に読めないの。半分ぐらい読んだけど、あと読まないで、どうしようかと思ってたんだけどね……」
 
橋本は断るつもりだった。これに待ったをかけたのが、助監督の山田洋次だった。橋本は、山田洋次が「松竹の代表」のように映っていた、と語る。
 
そうして橋本は、あるアイデアを思いつく。

「そういえば、小説にはあの父子の旅について二十字くらいで書かれていたよな。《その旅がどのようなものだったか、彼ら二人しか知らない》って。〔中略〕
 それじゃ洋ちゃん、この小説の他のところはいらん。父子の旅だけで映画一本作ろうや。〔中略〕
 できたってできなくったって、それ以外に方法はないんだよ。」
 
こうして『砂の器』は、原作とは違う、別の話になったのである。

当たり前だ。橋本忍は、原作をまともに読んでいないのだから。しかし私は、2種類の結末があることを、全然知らなかった。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(8)

試みに映画史を書くとしよう。ローラーで均したところに、これはという映画のタイトルを嵌め込んで、これはいかにも優れたプロデューサーや監督、シナリオライター、役者などが、力を合わせたからできたのだ、というぐらい嘘くさい話はない。

1967年の『日本のいちばん長い日』(東宝・岡本喜八監督)などは、映画はできるにはできたが、だれも(橋本忍ですら)大ゴケするに違いないと思っていた。
 
これは玉音放送が流れ、終戦に至るまでの1945年8月14日と15日、内閣や軍部の動きを追った作品である。俳優陣は三船敏郎、山村聰、小林桂樹、加山雄三、志村喬、笠智衆など、東宝オールスターが集結した。
 
とくればシナリオは、橋本忍をおいて他にはいない。
 
ところが彼は一言のもとに、やらないと否定した。

「『日本のいちばん長い日』を僕のところに持ってきたのは東宝の田中友幸プロデューサー。『橋本君、やってくれよ』というから、最初は断ったの。『そんなもの、今さら入るわけないよ』と。
 というのもね、新東宝が『日本敗れず』(五四年)っていう八月十五日を舞台にした映画をやった時も、東映が『黎明八月十五日』(五二年)という企画を持ってきた時も、外れてるんだ。だから、今回もすぐ断ったわけ。」
 
橋本忍は他の例を挙げて、明快に断っている。
 
ところが橋本は競輪に狂っていて、このときもすぐ後に競輪をやり、スッテンテンになって、帰りの電車賃もなくなった。

それで後楽園から、日比谷の東宝まで歩いて行って、前言を翻して、シナリオは書くと言い、そのかわり1週間後に、脚本料を払い込んでくれ、と言った。
 
この映画は、その後もごたごたが続き、監督は小林正樹から岡本喜八に替わっている。
 
そういうこともあって、東宝の社内でも、ダメだろうとなっていた。

「でも、金だけどんどんかかっていく。これはもう、阪急に対してどういう申し訳するかということにまでなったんだよ。東宝は阪急資本だからね。
 普通の作品で外れたんならいいけれど、普通の作品より二倍とか三倍とかっていう製作費かけてよ、それがベタにこけたら大ごとだからね。だから、コケるという前提で、あらゆるセクションが撮影中から事後処理にうごいていたんだ」。
 
その果ては、8月15日に公開する予定を、9月15日に公開する、という画策までした。封切りが1カ月ずれたことが、いいわけになると考えたのだ。
 
これは橋本忍が烈火のごとく怒って、8月15日の封切りとさせた。

私が思うに、橋本は最後に、博奕打ちの血が騒いだのではないだろうか。絶体絶命だが、勝負は勝負、万に一つの勝ちもあろう、と。

「開けたらもう大入りになったわけだよね。〔中略〕当たりも当たり、とんでもない当たりになったんだ。
 ああいうことがあるんだよな。上から下まで、作った僕からみんなが外れると思ったものが――とんでもない。それが多少当たったというんならいいんだけれどね。とんでもない大当たりすることがある。」
 
振り返ってみれば、当たり前である。『日本敗れず』や『黎明八月十五日』では、意気が上がらない、というより真っ赤な嘘である。それに対し、まずタイトル、『日本のいちばん長い日』がいい。そしてシナリオは橋本忍、役者はオールスターキャスト、どこから見ても、当たる要素しかない。
 
そう考えるのは、歴史を見るとき、現場に自分を立たせる想像力が足りないのだ。

企画を考え、実現していくのは、いつも将来に向かって、五里霧中の闇を進む人間なのだ。関わった全員が、試行錯誤する群像が、見事に描かれている章だ。
 
もっともこの節の最後は、橋本忍のこんな言葉で締めくくられている。

「興行というのは全く水もの、これは。だから、やってみなきゃわからんよ。『日本沈没』なんかは『絶対に入る』と思っていて、やっぱり入ったんだけどね」。
 
揺るぎない、絶対の自信。橋本忍はこうでなくちゃ。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(7)

橋本忍は『真昼の暗黒』や『私は貝になりたい』を書いたので、共産党員だと思われていた。
 
しかし1958年に、松本清張の『張込み』をやって、「あれ以来、誰も僕を共産党だって言わなくなった」。

『張込み』は、刑事2人が犯人を待ち伏せして、ただひたすら張り込む話だった。暑い夏の盛りで、モノクロの画面から、汗が噴き出るようだった。ということも含めて、50年前にリバイバルでみて、単純な話だけれど鮮明に憶えている。
 
これは刑事の側に立ってシナリオを書いたので、誰も橋本を、共産党員とは見なさなくなったという。
 
しかし原作者の松本清張は、筋金入りの共産党シンパだったと思うが、そこはどうなっているのか。
 
付け加えて言っておくと、一方の『私は貝になりたい』は、芸術祭に出品されて、テレビドラマで初めて芸術祭賞を受賞した、記念碑的な作品である。
 
1960年代、橋本忍は「スター脚本家」の道を、まっしぐらに進んでいった。
 
おもなものを挙げれば、1960年『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、61年『ゼロの焦点』、62年『切腹』、63年『白と黒』、64年『仇討』、65年『侍』『霧の旗』、66年『白い巨塔』、67年『日本のいちばん長い日』、68年『首』、69年『風林火山』『人斬り』などなど。
 
作品の規模やジャンルを問わず、名作や問題作を毎年のようにシナリオにし、ヒットさせている。橋本忍は日本の映画界に、確固たる地位を確立していった。
 
ここでもう一つ、橋本に関して重要なことがある。それはシリーズ作品をやらなかったことだ。

「たとえば頭から『三船敏郎でこれをやるんだ』ってなことになってると、こっちは三船君を思い浮かべればすぐ書けちゃうわけ。でも、それはとってもつまらないんだよね。もう三船君のできることでしか芝居が繫がらないから、それ以上のものにならない。だから役者のイメージってのは一切持たないというのが大事なんだよ。黒澤さんがそういうところがあったから僕もそれを受けた。〔中略〕
 役者を当て込んだらもうダメ。最初からもう三流の映画にしかならんね」。
 
60年代から70年代にかけて、シリーズ全盛のころである。加山雄三の「若大将」、市川雷蔵の「眠狂四郎」、高倉健の「昭和残俠伝」「網走番外地」、小林旭の「渡り鳥」など、どのシリーズも全体を見たわけではないが、それでもテレビなどで見れば懐かしい。
 
しかし1本の映画としてはどうだろう。
 
その意味では、深作欣二の『仁義なき戦い』だけが、違っている。これはシリーズとはいっても、主人公が毎度おなじみの活躍をするのではなく、菅原文太を狂言回しとして、表に出てこない裏の戦後史を描くものだから、一連のシリーズものとは違う。
 
橋本忍に関しては、勝新太郎から、『座頭市』シリーズへの参加を求められたことがある。

「一本一本は面白いのよ。だけどね、午前中に二本と午後二本ないし三本見て、二日目からはしんどいんだよ。それでもう何も見たくなくなったね。結局やらなかった。最初は書くってことで引き受けてみたんだ。大変に無責任な話だけどね。」
 
橋本忍の「座頭市」は見たかった、と私は思う。
 
それとも、最後は座頭市が、スーパーマンとして斬りまくる、というシリーズものの約束事が、我慢できなかったのか。

ただもう、びっくりした――『鬼の筆―戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折―』(春日太一)(6)

春日太一は丹念に、橋本忍の映画のタイトルを追っていく。それは読んでいただきたい。それよりも、このブログのタイトル、〈ただもう、びっくりした〉と言えるところに、焦点を絞りたい。
 
橋本忍はシナリオ執筆の動機として、次の3カ条を挙げている、「いくら稼げるか」「面白いかどうか」「名声が得られるか」。
 
いずれも大事だが、声高に言うことではない、と私は思う。俗臭紛々、語るに落ちる気がする。しかし本人は大真面目である。
 
橋本によれば、当時のシナリオライターたちは、「みんなこんな大きな家がもてるんだ」と言えたらしい。それがまず、シナリオを志す第一番目の動機だ。

次の「面白いかどうか」は、初期の『羅生門』『真昼の暗黒』『切腹』『仇討』あたりの執筆動機は、まさにこれであるらしい。

しかし「面白いかどうか」は、私に言わせれば雑駁に過ぎる。どういう面白さか、それが問題なのだ。

例えば、1951年の八海事件を題材にした『真昼の暗黒』は、5人の強盗殺人犯のうち、最終的には4人が冤罪で、無罪になった。

『真昼の暗黒』は、橋本忍が「一人の脚本家」として、高い評価を得ることになった作品である。キネマ旬報ベスト・テン1位、毎日映画コンクールの日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞を受賞。今井正が各監督賞を受賞し、橋本忍もそれぞれの脚本賞を受賞した。
 
橋本忍は、「なぜこの映画を書いたのか」と聞かれるたびに、こう答えていた。

「国家の裁判制度というのは巨大な歯車が回っているようなもので、それに絡まれたらもうどうしようもないんだ」。

社会派、正義派の面目躍如! しかしそれは、タテマエに過ぎない。

「国家の裁判制度がどうのこうのなんて考えてる限り、実際にはシナリオは書けないんだ。書けないんだけども、そう言ったほうが通りがいいから言うの」。
 
では本当は、どういうつもりで書いたのか。

「〔今度の映画は〕無実の罪になってる人が四人いるんだ。それにみんな母親や恋人がいる。つまり、四倍泣けます、母もの映画だ。〔中略〕
 その後、僕はいろいろな新聞記者に聞かれたりした時は、『国家機構がどうの』『裁判機構がどうのこうの』『刑事訴訟法と新刑事訴訟法の違いがどうのこうの』いろいろ言ったよ。でも、本当は『四倍泣けます、母もの映画』で作っていたんだ」。
 
いやあ、「社会派作家」の仮面を捨てて、これだけ内情を語ってくれれば、いっそ気持ちがいい。
 
それはそうだが、一方でこんなことも喋っている。

「〔四人の〕苦悩や憤怒の鉾先は、決して一警察、一検察庁、一裁判所に向けられたものではない。もっと大きく巨大で無慈悲なもの、弱い人間達を虫ケラの如く圧し潰して行く、巨大な鉄の輪〔ローラー〕に対する限りなき怒りなのである。」
 
ここは聞き捨てならない。この「鉄の輪」とは、一体どんなものだろう。

「私は決してこれを現在の社会機構だとか、国家機構だとは思っていない。むしろ、自分自身の心の中に巣くっている怠惰と無気力な精神であると思っている。つまり私は眼前の物事に対して正邪の判断を下し、その結果を勇気をもって主張するより、ともすれば、だまって誤りを見のがすほうが、処世上、はるかに楽な場合のほうが、ずうっと多いことを、よく知っているからだ。」
 
お分かりだろうか。冤罪を作っているのは、これを見ているあなただ、と言っているのだ。現代人の怠惰と無気力の、厖大な集積によって、あの恐ろしい巨大な「鉄の輪」ができあがったのだ。
 
春日太一は橋本忍を、統一的で単純な人格に持っていこうとする。これは春日太一の人間観の問題である。その結果、橋本忍は「映画はエンターテインメントに徹するべき――その考えを終生貫いた」、となる。
 
私は、橋本忍は、そうではないと思う。いや、そういう一面もあったが、エンターテインメントに徹すると同時に、つまりそれを「形式」として、そこに盛り込むべきものを、徹底的に考えて抜いたと思う。