「第1章 戦後論壇の巨人たち」の中に、小林秀雄の章がある。ここに坪内さんの秘密、というか本質が、はっきりと出ている。
この章は正確には、「小林秀雄――ものそのものと出会う」である。そして冒頭から、いきなり核心を衝く。
「大げさな言い方をすれば、小林秀雄は、生涯を通じて、一つのことしか語ろうとしなかった。その一つのことに対する考察を、彼は、長い生涯をかけて、深めていった。
その一つのこととは、つまり、さかしらを捨てて、ものそのものと出会え、ということである。」
小林は27歳のとき、「様々なる意匠」で、こんなことを述べている。
「古来如何なる芸術家が普遍性などという怪物を狙ったか? 彼等は例外なく個体を狙ったのである。」
そして40歳のとき、短いエッセイ「当麻」(たえま)で、あまりにも有名な言葉を書き記す。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
61歳で生涯を閉じた坪内さんは、全体を振り返って見れば、小林秀雄とよく似た道筋を通ってきた、と言えるだろう。
もちろん小林秀雄を師と仰いで、その道を歩んだわけではない。単にそういう気質だったからだ。
「戦後論壇の巨人たち」で、並ぶはずのない人物名が、呉越同舟で並んでいるのは、そういうわけである。
つまり個別徹底的に、人物を観察した結果、右翼・左翼の枠を超えた人たちが、「巨人」として残ったのだ。
それにしても小林秀雄の、「さかしらを捨てて、ものそのものと出会え」とは、何と魅力的な言葉だろう。
ちなみに私は、小林秀雄の言うことはすべて言う通り、と思ってきた、40代までは。
50になって、「ものそのものと出会え」は、それはそうだが、それで済ませるのでは足りないんじゃないか、もっと言えば間違いじゃないか、と思うようになった。
いってみれば、「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものも、次元を違えてある」、といったところか。
しかしこの理由を述べると、坪内さんの著書とは離れる。
「戦後論壇の巨人たち」は、「中野好夫――頑固なお調子者」の章も面白い。この人は、東大英文科教授を、定年を待たずに辞任し、以後はジャーナリズムで活躍した。
専門はシェイクスピアを中心とするエリザベス朝演劇だが、伝記作家として『アラビアのロレンス』『蘆花徳富健次郎』などがあり、また『ガリヴァ旅行記』『月と六ペンス』ほかの名訳者として知られる。
私は個人的には『月と六ペンス』が思い出深い。中学へ入ってすぐに、始めて文庫を買って読んだ。『赤と黒』(小林正・訳)も同時に求めて、これも読んだ。驚愕した。新潮文庫は、こんなに面白いものが入っているんだ。
それはともかく、中野好夫である。
坪内さんは、中野の『アラビアのロレンス』や『スウィフト考』などを愛読したが、論壇時評や、時事的なコラムには反発した。
「私が彼の時事的な発言に反発をおぼえたのは、彼がすぐに、右傾化が始まっただとか、またいやな時代がやって来そうだとか口にしたがるからだった。
進歩的文化人の典型。」
しかし坪内さんは、中野好夫の文章は、記事をスクラップするくらい好きだった。そこはわざわざ、「その辺に私の矛盾があるのだが」と断っている。
ただ最後に、中野好夫はこんなことを述べている。
「〔宮武〕外骨翁の反俗、叛骨ぶりの基底には、思想やイデオロギーではなく、それ以前のいわば天性の気質があったものと信じます。私はあまり思想なるものを信じません。より信用できるのは気質です」。
坪内さんが信頼を寄せるのは、ここである。
「つまり私はこう書く中野好夫の気質が嫌いではないのである。」
私も同じように、中野好夫は好きでよく読んだ。しかし、「またいやな時代がやって来そうだ」というのは、きっとその通りだと思っていたのだ。
私が坪内さんと、ある距離を置いていたのは、そこらへんに原因がある。