今とは別の将棋界――『一葉の写真―若き勝負師の青春―』(先崎学)

この本が、最初に単行本で出たのは1992年2月。僕は筑摩書房を辞め、法蔵館で仕事をしだしてから、5年くらいたったころだ。
 
法蔵館は仏教書を中心とする出版社だから、僕もそれふうの本を出し、それをカモフラージュにして、養老さんや池田晶子さん、森岡正博さん、島田裕巳さんなどの本を出していた。
 
養老孟司さんの『神とヒトの解剖学』、池田晶子さんの『事象そのものへ!』、森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』、島田裕巳さんの『戒名―なぜ死後に名前を変えるのか―』など、懐かしい本がいっぱいある。
 
そういうふうに仕事で一杯一杯のときだったから、書評で面白そうな本を見ても、仕事でかすりもしない本は、手が出なかった。
 
しかしこの本は、長く印象に残った。この前、古本屋で見たときまで、頭の古層に残っていたのだ。
 
この本は先崎学の処女作である。米長邦雄の内弟子として、三段から四段に上がるころを中心に、10代後半のハチャメチャな日々、つまり青春を描いている。
 
30年前の将棋界は、今とはかなり違っている。「序」を米長邦雄が書いている。その書きぶりが、すでに別の将棋界である。

「二人〔=先崎学と林葉直子〕が内弟子でいた三年間は、師匠の私はほとんど愛人の家に入りびたりで〝火宅の人〟であった。その嵐の中にあって、三冠王から四冠王へと歩んでいったのだが、女房も含めて、まさしくそれは人生の大半を、僅か数年に凝縮した感のある日々であった。」
 
こういうことを、後に将棋連盟会長になる人が、あっけらかんと書いている。しかもその怒濤の日々を経るうちに、三冠王から四冠王になっているのだ。
 
これは、藤井聡太が八冠王となって君臨し、その将棋界全体を、羽生善治が会長として睨みを利かせる、というのとはまったく別世界である。
 
例えばその頃の奨励会。

「……ヒロアキは立派だった。将棋は弱く、才はなかったが、彼は立派な戦士だった。夢を持ってこの世界に入り、挫折し、故郷に帰っていった。帰るときの顔は、病気のような顔だった。毎日のように麻雀を打ち、酒を飲み、その間に恋をして、そして敗れた。」
 
いやあ、昭和ですなあ。ドロドロとした剝き出しのところが、懐かしい。

「ヒロアキたちは決して器用な人間ではなかった。〔中略〕
 だが彼らは、本音で自分を語れる奴らだった。泥くさい奴らだが、ハートはあった。その奴らが、何もいわずに去っていった。彼らの亡霊に取りつかれて、今日も僕は将棋を頑張る。そして、やるからには、羽生に、森内に、佐藤康光に、郷田に、勝たなければいけない。」
 
結果はよく知る通り。しかし最後の一文は、何度読んでも、何とも言えない感慨がある。
 
将来の予測をしているところもある。

「十年たって二十一世紀になってもあまり大きな変化はおこらないに違いない。名人戦があり、竜王戦があり、NHK杯があり……棋士たちは矢倉を純文学と称して好み、振り飛車には居飛車穴熊や左美濃が多く、そして棋士の体質もそれほど変わらず、麻雀を打ち、仲間意識が強く、対局の昼食は千駄ヶ谷の『さと』で食べ、女にはそれほどモテないだろう。」
 
予測は大半、違っている。

その最大のものは、コンピューターが職場や家庭で身近になったこと。とくにプロ棋士の一手一手を、AIが予想するのは画期的だった。プロよりもコンピューターの方が、正確に予測できるのだ。
 
そしてもう一つは、藤井聡太の登場。この若い求道者はすべてを受け入れ、しかし自分は絶対に曲げない。この人は、女の人にモテるどころではない。もっとも知性的であるにもかかわらず、およそアイドルの中で、この人を凌駕する者はいない。
 
しかしそれでも僕は、たまに先崎学の文章が読みたくなる。百戦錬磨のA級やB級のドロドロした戦いを、もう一度、読んでみたくなるのである。

(『一葉の写真―若き勝負師の青春―』先崎学、講談社文庫、1996年5月15日初刷)