このミステリーは破綻している――『存在のすべてを』(塩田武士)

丹念に描きこまれたミステリーである。

『本の雑誌』が選ぶ2023年度ベスト10の第1位で、2024年本屋大賞で「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」に挙げられている。
 
久しぶりに本屋に行って、そういう本があれば、何冊か買ううちの1冊に、紛れ込ませておきたくなる。
 
しかしこの小説は、破綻している。
 
よく書けているところもある。

冒頭、別々の子どもの同時誘拐は、緊迫した筆で息も継がせぬほど、展開が速くて素晴らしい。私は映画の『天国と地獄』を思い浮かべた。それよりもなお、緊張の度合いが強い。
 
冒頭からこれでは、どれほど質の高いミステリーを読むことになるのかと、いやが上にも期待が膨らむ。

画商の娘と、天才画家の片鱗を覗かせる男子高校生との恋も、どきどきさせる。これは女の方からの描写だけだが、2人の淡い恋が、やがて愛情に変わっていくところが、繊細極まる筆致で描かれる。
 
文章も素晴らしい。
 
新聞記者が刑事の車に同乗する場面。

「先回りして退路を断つというやり口が狭い車内を取調室に変え、その剝き出しの鋭さに私的な人間関係の線を切ってきた刑事の刃を見た。」
 
また、こういうところも。

「一切の取材を封じられる協定は、記者にとって一時的にペンを没収されるに等しい。それに各々が長年の仕事の中で、公務員の『聞かなければ答えない』『隠せるものは隠す』という習性を嫌というほど見てきている。」
 
そういう部分部分はよく書けているが、全体が荒唐無稽で、破綻している。
 
子供を誘拐するチンピラの弟は、絵の天才であり、そこでは仲睦まじい夫婦として、兄の誘拐してきた子を愛情豊かに育てる、――ということはありそうにない。
 
その子供も、やはり絵の天才で(何という偶然!)、3人で仲良く暮らすが、やがて別れがくる。だってもともとは、誘拐してきた子だから。
 
どうしてそんなことができたかといえば、もともと子供の祖父母は裕福だったが、一人娘である母親が家を出て、だらしない生活をしており、子育てを放棄していたからだ。
 
小説の構成全体は、時間と場所、それに登場人物が、複雑な入れ子細工になっており、読んでいるときは夢中だが、読み終わってみると、まったくあり得ない話で、実に空疎だ。
 
次回は、映画の脚本家にならって、人物とその背景を、できればその家系を頭に入れて、書き出すといい。登場人物は突然、都合に応じて出現するものではないのだから。
 
それに塩田武士は、確固たる文体を持っているのだから、もう無理に取ってつけたようなミステリーにしなくても、よいのではないか。

『本の雑誌』に拠る書評家や書店員も、目の前の本さえ売れればいい、ということでは、結局、自分で自分の首を絞めているだけではないか。

(『存在のすべてを』塩田武士
 朝日新聞出版、2023年9月30日初刷、2024年2月15日第5刷)