AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(5)

「第七章 代替される『知能』、代替されない『芸術』」は、文字通り「人工知能による芸術」がテーマだ。
 
川村先生は、芸術の創作意欲は人が持っている「特殊な能力」であり、芸術は人間だけが創作する、不思議な行動であるという。
 
だから人工知能に、なぜ芸術を創作させようとするのかは、明確な答えを得ることが難しく、哲学的なものにならざるを得ないという。
 
私はそんなことはないと思う。人工知能を作っている過程では、犯罪行為や反社会的な行為を除いては、どんなことでもやってみようとするのが、人間ではないか(あるいは犯罪行為や反社会的な行為といえども、やってみる価値はある、と思う人もいるかもしれない)。
 
コンピューターを用いた絵画などは、実は古くからある試みだ。川村先生は、ここでは最新のものとして、グーグルの技術者たちが開発した、「ディープドリ―ム」(DeepDream)を紹介している。

「〔ディープドリ―ムは〕人がこれまで描いてきたどの絵画ともまったく異なり、視覚を混乱させ、不安を抱かせるような新たな感覚を生み出します。当然コンピュータープログラムで実現されているので、単純なプロセスが幾重にも実行されているだけであり、そこには人間のような意思や意図は存在しません。にもかかわらず、その結果として生まれた作品からは、不安を掻き立てられたり、攪乱させられたりするような気持ちの悪さを感じつつも、一方でなぜか引きつけられる感覚も生まれます。」
 
そこでさっそくパソコンで、「ディープドリ―ム」をあたってみたが、なるほどいかにもAIが制作しそうな、その範囲内での不気味な、というか気持ちの悪い絵画で、どうということはなかった。

AI将棋で、勝つには勝つのだが、恐ろしく筋の悪い手ばかりを指す、というのと似ている。もちろんAI将棋には、筋のいい悪いは関係ないし、一手ずつの美しい手や醜悪な手は、関係ない。
 
なぜAIが進んだ先に、芸術が問題になるかといえば、それぐらいしか、人間にとって、時間の潰しようがなくなるからだ。

近未来において、そういうことが考えられるだろうか。
 
川村先生はだから、ベーシックインカムが実現したとするなら、「生活のために働く」必要は、なくなるのではないかという。
 
ここまで来ると私には、そういう社会状況は皆目わからない。ただ著者の言うのとは違って、働く必要がなくなったとき、人間はかなり悲惨なことになるのではないか、私はそう思う。
 
その前に、文明の根幹を揺るがすのは、人工知能と教育の問題である。
 
まず教育する側から見てみよう。人間の能力を育成するというのは、過激な言い方になるが、性能のよいロボットを、作り出すことではないか。

「社会が必要とするのは、一言でいえば『同じ能力を持った多くの人材』です。とすれば、ロボットに代えたほうが効率的ですが、これまでそうしてこなかったのは、それを実現するロボットが存在しなかったからです。」
 
そういうロボットが実現すると、これまでの人材育成教育は、変わらざるを得ない。しかしどう変わるか。

これまでは教師1人に複数の生徒、という劇場型の授業形態が、主流を占めてきたが、これからはそれが一変するだろう、と川村先生は言う。
 
この辺は、どう考えたらいいのか、私にはまったく分からない。

ただ教師1人に30人前後の生徒、という劇場型の授業は、授業を受ける側からすれば、必ずしも効率はよくない。だからいじめが起こったりする。

そういうことを考えると、変わるにしても、もっと実情に即して教育を考えなければ、だめなような気がする。みんながみんな、意欲をもって勉強に励むわけではない。
 
この本は、ふだん私が読まないジャンルのもので、大変に面白かった。しかし、著者の考えていることは、まだ人間の範疇だという気がする。人工知能はもっと先を、ひょっとすると遥かに先を、考えているかもしれない。私はそんなことを思う。

(『ChatGPTの先に待っている世界』川村秀憲、dZERO、2023年10月12日初刷)