川村先生たちの究極の目的は、人工知能がどんな難問にも答えを出すこと、ではない。
そうではなくて、人がまだ考えたことのない問題、そういう問題を考え、自律的な答えを出すことである。
「つまり、知能というものは、単純な模倣を超えて、自発的かつ創造的な思考を持つ存在を指すべきであり、それが人工知能研究の最終的な目標であると言えるでしょう。」
SFと見まごうような、見方によっては高邁な理想とも言えるだろう。
しかし、そのままずっと突き進めばどうなるか。
「人工知能が新たな種として人類に置き換わる可能性もゼロではありません。人類が滅亡しても、その代わりに人工知能が繁栄すれば、大きな歴史の視点から見ればまったく問題ないのかもしれません。」
おいおい、ちょっと待ってくれよ、問題は大ありだろう。
しかも、「大きな歴史の視点から」見る話は、ほとんど神の視座からの感想になっていく。
「そのとき、人工知能は人類の死についてどう理解し、どう考えるのか。また人類が滅亡したときになにか反応を示すのか、とても興味深いです。」
ここにおいて、川村先生たちに、好き勝手に人工知能の研究を任せておいていいわけはない、とならないだろうか。
しかしたぶん、これを止めることはできない。
そうこうするうちに人工知能は、人間が生きるリアルな世界に、足を踏み入れてくる。
「近い将来には、私たちのスマートフォンや家、さらにはビル全体が、人工知能によって制御されはじめるでしょう。それは単純な制御ではなく、人間の曖昧な指示さえも理解し、それに従ってロボットが軽作業に従事するという世界です。」
それはもう目前に迫っている、と川村先生は言う。そこでは先生は楽観的だ。暗い将来ではなく、明るい未来が空想される、と。
1997年に、IBMのコンピューター、「ディープブルー」が、チェスの世界チャンピオンを打ち負かした。
このとき川村先生は大学生で、人工知能の研究をしていたが、大変な衝撃を受けた。
しかし同時に、これで人間だけでは解決できない問題を、一挙に解決できるのではないか、と思った。
「私たち人類が直面している課題は多岐にわたります。気候変動、食糧問題、戦争、医療など、一人の天才がどれだけ頑張っても乗り越えることのできない問題が山積しています。だからこそ、ディープブルーの勝利は、人工知能と人間が手を組むことで、将来これらの困難を乗り越えられる可能性を示していると思えたのです。」
川村先生と同じく、そう考えた人も多かっただろう。
しかし、逆の考え方をした人も、同じ程度いたんじゃないか。しめしめ、これで自分とその周囲だけが、うまい汁を吸える、と。
それはともかく、そういうところから出発して、現在は一つの答えが課題ではなく、人それぞれの価値観に合わせた答え、という課題に、人工知能を役立てる段階だ、と川村先生は言う。
「例を挙げれば、個々人に合わせたファッションを提案する人工知能、人間の気持ちを読み取って雑談を一緒に楽しめる人工知能、あるいはゲームで遊び相手になる人工知能などが考えられます。」
つまり、私たち一人ひとりの個性に合った人工知能!
「人工知能を使う人それぞれの価値観に合った、心地よい正解が多様に存在するイメージです。一人一人の心を読んで臨機応変に対応していく人工知能が実現できれば、私たちの暮らしは一変することは間違いありません。」
雑談を一緒に愉しみ、心地よい正解が多様に存在する人工知能の世界――。うう、気持ち悪う、本当にそんなものが出てくれば、私ならリアルな世界を返せと、半分発狂して叫んでいるだろうな。
そこまでいかなくとも、そういう人工知能が目の前にいるとして、どう付き合っていけばいいのか、ただ戸惑うだろう。
なお先の文章に続けて、川村先生はこの段落を、次のような言葉で締め括っている。
「私は研究者として、非常に抽象的で明確な答えがない課題にこそ、人工知能を役立てたいと考えています。」
これは分かりにくい。たとえば「善と悪の問題」とか、「歴史の終焉はあるかないか」とか、「抽象的で明確な答えがない課題」はいろいろである。
ここのところは川村先生に、是非とも突っ込んだ話を聞きたかった。