ムダに血がのぼる――『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』(山口正紀)(2)

2021年3月6日、33歳のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが亡くなった。名古屋の出入国管理局に無期限に収容され、ストレスで食事ができなくなり、飢餓状態に陥るも治療は受けられず、見殺しにされた。
 
遺族の代理人、指宿昭一弁護士は、名古屋入管の責任者らを、「未必の故意」による殺人容疑で、名古屋地検に告発した。
 
でもこれは、検察も入管も一蓮托生なのだから、どうしようもない。
 
そのころウィシュマさんの遺族が来日し、テレビや新聞で、入管の非人道的な対応を訴え、監視カメラのビデオの全面開示を迫った。

「だれがウィシュマさんを殺したのか」の章は、正直、あまり読みたくない。なんども報道されたので、ほとんどのことは知っている。
 
この内容を読むたびに、少し前までは、血が頭に上って沸騰したようになった。特にビデオ映像が開示され、それをテレビで見たときは愕然、憤然となった。政府の関係者、役人以外は、みんなそうなったろう。
 
それはこんなふうだった。

「ベッドから落ち、何度助けを求めても無視される様子。鼻から飲み物をこぼしたウィシュマさんを見て、『鼻から牛乳』などと笑いものにする職員たち。死の前日『あー。あー』と繰り返す泣き声は、『まさに死んでいく人の声でした』と指宿さん。姉の悲惨な映像にショックを受けた妹二人は途中で見ていられなくなり、一時間一〇分ほどで出てきた。」
 
これは入管庁が、ビデオ映像の残る13日分を、2時間に編集したもので、部分開示に過ぎない。つまり、本当に不都合と考えるところは、隠してる。

入管は、このくらい開示されても、どうということはない、と考えている。外国人が入管と関われば、なぶり殺しにあっても、それが公開されても、どうしようもないとなるわけだ。
 
しかし部分開示にしても、こういうものを残して、入管の誰も罪に問われないとはどういうことか。日本国は人の命を、いとも簡単に奪い去る。それはロシアと変わるところがない。
 
移民の話は、このブログで何度も取り上げた。だからここでは繰り返さない。ただ入管の方針、姿勢は、今の日本が取るべき態度とは、真逆である。そういうことに鈍感な国は、いずれ滅びるほかはない。
 
他の章も、同じような方向性で書かれている。著者が癌で死んだのは、メディアに対して悶死したのではないか。ついそういうふうに考えてしまう。
 
最後に、これだけは言っておきたい。

「菅〈臭いものにフタ〉政権誕生を助けたメディア」の章で、菅義偉が首相になる前、官房長官だったときのことだ。
 
官房長官といえば、内閣のスポークスマンである。一日一回は記者を集めて会見をする。この会見が噴飯もの、というか開いた口がふさがらないものだった。

「菅氏の独裁的性格を物語るのが、官邸記者会見で常用した言葉だ。記者の質問を、『ご指摘には当たらない。ハイ次』『まったく問題ない。ハイ次』と問答無用で切り捨てていく。質問で指摘されたことについて、なぜ『指摘に当たらない』のか、『問題がない』のか、その理由を何も示さず、説明を一切省いて答弁したことにしてしまう。恐るべき傲慢さであり、異論・反論を許さない独裁者の振る舞いである。」
 
2013年から16年まで、この人が内閣官房長官として毎日、記者会見を開いていたのである。

その期間、毎日ムカムカしていた。子どもがこんな大人の真似をしたら、と考えると、正気ではいられなかった。
 
小学生の国語の教科書は、「読み・書き・話す」という教材が均等に入っていて、「話す」は、人に話すとき、あるいは人の話を聞くときは、一生懸命気持ちを込めて、よくわかるように、と指導しているはずだ。
 
管の態度は、それとは正反対だった。管よ、もう一度、小学一年生からやり直せ。少なくとも人前で、テレビで喋るのは、絶対にやめてくれ。全国の小中学生に、正反対の手本として害悪を垂れ流しているだけだ。
 
ということを思い出すから、こういう本は、できれば読みたくないのだ。
 
私は9年前に脳出血で倒れ、半身不随になった。いわゆる公けの場所へは、もう行くことができない。私が社会参加するのは、選挙のときのみ。だからこういう本は、できれば読みたくないのだ。しかし無理だろうなあ。

(『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』
 山口正紀、旬報社、2023年3月10日初刷)

ムダに血がのぼる――『言いたいことは山ほどある―元読売新聞記者の遺言―』(山口正紀)(1)

元編集者のSさんは年賀状に、前年面白かった本を、2,3冊挙げてくる。その挙げ方は、簡単な評も含めて絶妙で、読んでない本の場合には、必ず読む気にさせる。
 
ジャンルは思想・歴史系が多いが、昨年の年賀状では珍しく、山口正紀『言いたいことは山ほどある』を挙げていた。
 
サブタイトルを見ればわかるように、今はフリーのジャーナリストが、がんの末期に言っておくべきこと言ったもの。著者は2022年12月に亡くなった。
 
内容は、2020年から22年にかけての社会問題を扱ったもので、目次ではなく、テーマを簡単に抜粋しておく。

 少年の立ち直りを妨げる「実名報道解禁」案

「アベ政治の七年八か月」検証報道は放棄された

「袴田事件」の冤罪に加担したメディアの責任

 体制翼賛の東京五輪、疑問・批判はタブーに

 新型コロナの感染大爆発は「患者見殺し政策」という人災

「飯塚事件」は検察によって死刑執行された冤罪

 いよいよ〈壊憲〉に動き出した岸田首相

 だれがウィシュマさんを殺したのか

 ヘイトクライムを助長した石原慎太郎の暴言録

 「安倍はウソつき」と言っただけで逮捕・勾留される危険性

本の内容は、およそこれの倍あるが、ここに挙げただけでも、その方向性はわかるだろう。

このなかでは「飯塚事件」に注釈が必要だろう。

これは1992年、福岡県飯塚市で起きた2人の女児殺害事件で、久間三千年さんが逮捕され、一貫して無実を訴えていたが、2008年に死刑が執行された。
 
問題になったのはDNA鑑定だ。これと同じ時期のDNA鑑定が、「足利事件」で誤りであることが分かり、こちらの方は再審無罪となったのだ。

「この足利事件で『DNA型再鑑定へ』と報道されたのが〇八年一〇月上旬。その一〇日余り後、突然再審準備中の久間さんの死刑が執行された。それを知った時、私は恐ろしい疑惑に駆られた。この死刑執行は、足利事件に続いて『DNA冤罪=DNA型鑑定を悪用した冤罪』が発覚するのを恐れた検察による口封じ殺人ではなかったか……。」

「足利事件」の再審無罪は、テレビや新聞で大きな話題になった。

被告が死刑判決を受けた「飯塚事件」は、同じ型のDNA鑑定を用いているから、裁判はやり直しになると思っていたら、突然死刑が執行された。

「飯塚事件」は、上・中・下と3章をついやし、委曲を尽くして冤罪を証明しようとしている。誤ったDNA鑑定以外にも、誰が見てもおかしな証拠がいくつもあるのだ。
 
僕はこの事件を、「現代を聞く会」という勉強会で知った。そのときの講師は、青木理さんだった。

「飯塚事件」は、著者がこれを書いている時点で、第2次再審請求がだされている。
 
そこでは、「警察が握りつぶしてきた真犯人につながる新たな目撃証言が加わる。この強力な新証拠を前に、裁判所は、司法が犯した『冤罪死刑』という取り返しのつかない過ちに目を逸らし続けることができるだろうか。」
 
僕はできると思う。というか、冤罪で死刑になったことが明白であればあるほど、裁判所は再審請求を認めないだろう。

「袴田事件」や「足利事件」は、冤罪とされた人が生きていた。「飯塚事件」は、検察が被告人を殺した。というのはつまり、国が冤罪の疑いのある人を殺したのだ。これは後戻りできない決定的な事実である。検察庁と裁判所は、裁判のやり直しを認めるわけがない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(4)

「離れた素顔」は、「飛び地」の話である。飛び地とは、「同じ行政区画なのに離れたところにある地域のこと」。
 
吉田一郎『世界の飛び地大全』(角川ソフィア文庫)という本があって、世界中に散在する飛び地の、位置と沿革を記したものだ。
 
ふーん、本の企画としては、成り立たないわけじゃないんだろうが、しかし読者を想定するとき、どんなふうに言うんだろう。この本の刊行を決定したときの、企画会議を見てみたい。
 
それはともかく、本はすでに出て、荒川洋治は興味を惹かれ、購入した。
 
そこで問題。世界最大の飛び地はどこにあるか。

答えはアメリカのアラスカだ。しかしこれを飛び地というのは、あまりにもデカすぎる。
 
面白いのは、飛び地の中に、飛び地のある例。

「アラブ首長国連邦に囲まれたオマーン領の飛び地マダのなかに、アラブ首長国連邦の飛び地ナワがある。飛び地のなかの、飛び地なのだ。ああ、これは、どう考えたらいいのだろうか。」
 
飛び地が入れ子になっている。こんな例は他にないらしい。
 
とはいえ、あまり悩まずに、そのまま受け取るほか、ないんじゃないか。
 
荒川洋治の、全体を読んだ感想。

「飛び地には、いくらか謎めいた印象があり、その地形にも惹きつけられる。」
 
僕は飛び地には、それほど惹きつけられない。それよりも、飛び地に惹きつけられる荒川洋治に、不思議な興味を感じる。

「幻の月、幻の紙」は、荒川洋治がやっている詩の出版社、紫陽社の話だ。
 
1972年に村上一郎の『草莽論』が出た。明治維新前後の革命の話だ。本の表紙は漆黒で、本文は字体がきれいで読みやすい。
 
1973年、大学を出た翌年、荒川洋治は先輩と出版社を始めた。印刷のことは何も知らないので、『草莽論』の奥付にある印刷所に原稿を持っていき、ひとつひとつ『草莽論』と同じになるように伝えた。
 
こうして郷原宏の第一詩論集、『反コロンブスの卵』が出来上がったが、これは紫陽社ではない。紫陽社はまだ存在していない。
 
その後、荒川洋治は会社勤めをしつつ、1974年に単独で紫陽社を始め、「四五年間に、新人の第一詩集を中心に二七〇点の本を制作、出版した。清水哲男、則武三雄、井坂洋子、伊藤比呂美、近年では蜂飼耳、日和聡子、中村和恵などの詩集だ。」
 
僕は、井坂洋子の『朝礼』と、伊藤比呂美の『姫』という詩集で、紫陽社を知った。そのころ、どちらも評判になった。本は鮮烈な印象を与えた。
 
紫陽社のすべての本のおおもとに、『草莽論』があるのだ。

「それらはすべて前記の同じ印刷所でつくられた。『草莽論』は、ぼくの小さな出発を支えてくれた大切な本だ。」

「平成期の五冊」は、吉行淳之介『目玉』以下、いくつか並んでいるが、その中で、小山田浩子『庭』というのを知らなかった。著者の名前は聞いたことがあるが、読んだことはない。

「小山田浩子『庭』(新潮社・平成三〇年)は「庭声」「名犬」「蟹」「緑菓子」などを収めた近作集。世代、時代、個人の間の距離と時間が消えうせる、不思議な世界を映し出す。文章の傾斜と、速度が印象的。」
 
どういう作品を提出すると、こういう批評が成立するのか。これは読んでみたい。

(『霧中の読書』荒川洋治、みすず書房、2019年10月1日初刷)

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(3)

「流れは動く」は、西東三鬼の俳句について。
 
山本健吉『現代俳句』を、高校時代に松尾稔先生が薦めておられたので、読んでみた。とりわけ面白かったのは、山口誓子と西東三鬼。その西東三鬼である。

「西東三鬼は、岡山県津山市生まれ。シンガポールと東京で歯科医を開業。東京・神田の共立病院歯科部長のとき、患者を通して俳句を知る。そのとき三三歳だから出発はおそい。」
 
そんなこともすっかり忘れていたが、句は今も鮮烈に浮かんでくる。

  水枕ガバリと寒い海がある

  おそるべき君等の乳房夏来〔きた〕る

  中年や遠くみのれる夜の桃

  露人ワシコフ叫びて柘榴打ち落す

  広島や卵食ふ時口ひらく

ここに取り上げられている句は、僕でも口を突いて出てくる。

「際立つ句が、次々に見つかる。こうした名句の内側をたどる。あるいは周りの句の表情を見つめる。どちらも楽しい。さらに、それらがとけあって別の景色に変わることもある。人の視界を大きく開く。そんな作品を西東三鬼は書いた。」
 
最後の文章の、「人の視界を大きく開く」というのが、たまらない。

「底にある本」は国語辞典の話。ここで荒川洋治は、驚くべきことを言う。

「ことばや、ことばの使い方に、ぼくの場合は、まちがいが多い。あやしいと感じたときは、文字やことばを、辞典でたしかめなくてはならない。正しいと思っていたことが、くつがえる。それでわずかでも、ものを知ることになる。自分の力だけでは、文章は一歩も進まないのだ。」
 
そういうふうに言葉に磨きをかけ、彫琢を凝らしているから、深く人を感動させる文章が生み出せるのだ。
 
そのときに使う辞書は、『広辞苑』の他に、久松潜一監修『新装改訂 新潮国語辞典 現代語・古語』である。
 
いや、これは知らなかった。名前を聞くのも初めてである。

「現代語と古語をともに収録するので、とても便利。古語辞典にいちいち手を伸ばさなくても済む。毎日のように使うので、本がくたびれてきた。この辞典は現在発行されていないが、古書店でもまず見つからない。」
 
まいったな。現在、発行されてなくて、古書店でも見つからないとなれば、ほとんどお手上げである。
 
著者はそれでも、古本屋で見つけた。それだけでなく、その前の『改訂 新潮国語辞典』も見つけた。

「編者のことば」は旧版でも、同じである。

「従来の国語辞典が『現代語』と『古語』を区別して、別々に出ている(古語は『古語辞典』、現代語は『国語辞典』という名で)のは、『辞典の本来あるべき姿からいっても』十分ではないこと、『二つを切り離して扱うのは、学理的にも問題の多いこと』であり、『古語と現代語とを有機的に結び合わせて説くのでなければ』意味はない、と。」
 
この扱い方についての、荒川洋治の意見はこういうものだ。

「そこから、この辞典がつくられたとある。国語辞典の理想が実現していることになる。だからとても大切な、意味のある辞典なのだ。」
 
手放しの絶賛である。
 
しかし新潮社は『新装改訂 新潮国語辞典 現代語・古語』が、時代とともに売れなくなって、発行をやめてしまった。
 
これもコンピュータ―全盛の弊害だろう。

僕だって分からない言葉は、パソコンかケータイで引くだけで、言葉の意味をじっくり溯って味わうことは、なくなってしまった。
 
だいたい紙の辞書でなければ、その周辺も含めて読むということは、成り立ちようがない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(2)

「現象のなかの作品」の章に、さらに見出しを立てて、その一つに「活字の別れ」という節がある。
 
活字離れというのではなく、印刷の方法が変わってきたことを、述べたものだ。
 
活字は鉛と錫とアンチモンの合金で、それを文選工が拾って、版を作っていく。明治から昭和まで、活版印刷は続いたが、写植文字が登場し、1970年前後から、オフセットへの転換が始まった。今では活版で刷るところは、ほとんどない。

「活版印刷では凹凸面が、じかに用紙と接する。オフセットは、インキをブラケットという樹脂・ゴム製の転写ローラーにいったん移して紙に転写するので、版と用紙がじかに触れない。紙に、文字がくいこむのが活版。立体感がある。刷られた文字に格調がある。オフセットではそれがないので紙面の印象は平板。」
 
だから70年代の初めは、オフセットは見劣りがしたが、今はそれほどでもない、と荒川洋治は言うが、僕は最初から大して気にならなかった。本を物神として扱う熱意が、著者に比べて、薄いのだろう。
 
それよりも、手書き原稿から、パソコンによる原稿作りに変わって、劇的な変化が起きた。

「活版は、一つ一つの活字を職人たちが拾って組み上げるので、書き手も、手間をかけさせてはいけないと思い、正しいことばでしっかり、まちがいなく書こうと、多少とも気を引き締めたものだ。いまはパソコンの画面のなかでつくり、訂正や差し替えも容易。他人の介在がないので気軽になり、文章もかるく書いてしまう面がある。書く量も増大した。」
 
これを、何ともしょうがないことだ、としてよいのだろうか。
 
その結果、作家を取り巻く環境が変わった。存在感が軽くなった分だけ、「作家さん」と呼ばれるようになった。「作家さん」は、勝手口から入る「御用聞き」と似ている。夏目漱石や森鷗外を、「作家さん」とは呼ばない。井伏鱒二や大岡昇平も、「作家さん」とは呼ぶまい。これは僕の意見である。

「活字の別れ」はまだ続く。

『そうかもしれない』の耕治人などは、最後まで活版であった。

以下は僕の補足。『そうかもしれない』は、認知症になった妻を、老人ホームに尋ねていくと、妻は対面しても何も言わない。介護職員が見かねて、旦那様ですよと言うと、少したってボソッと呟く、『そうかもしれない』、と。まったく唸るような見事さだ。
 
再び荒川洋治の言葉。

「〔耕治人たちの〕共通点は寡作であること、少数だが一定程度の読者をもったこと、その著作が美術品のようなものであることを読者も願ったこと。活版にふさわしい人たちだった。結城信一、島村利正、耕治人はそれぞれ特色のある文学を熟成させ、昭和後期に亡くなった。活版文化と共に生きた人たちだ。彼らのような作家はその同世代でも稀少だ。」
 
同じ世代でも「稀少」だったのだから、今はもういない。
 
そういうふうになると、究極、本はどうなるか。

「すべてがオフセットの時代になると、書物に対する気持ちがうすまる。本という『物』を見つめることで、内容のよさ、文章の美しさだけではなく、『物』が生まれるまでにかかわる人たちの工夫や努力、多くの人の存在の手触りを感じるなど、さまざまなことがわかって意識が広くなる。そうしたことがないと書物はただの情報の容物になってしまう。」
 
紙の本と、パソコン・データーで読むのとが違うのは、つまりそういうことだ。
 
しかしこれは作り手の話。キンドルでなければ読むことができない、という人がいるのも事実だ。本の内容、つまり情報が、さまざまなかたちで人に手渡されるのは、喜ぶべきことではないか。
 
僕はそう思うが、読み手の側に立ったときの、荒川洋治の意見は知らない。

究極の読書――『霧中の読書』(荒川洋治)(1)

荒川洋治の書評集というよりは、読書遍歴を、いくぶん詩のような文章で綴ったみすずの本である。
 
編集は尾方邦雄氏。オビは、僕なら苦労するところだが、尾方さんなら、さほど苦労はしないのだろうか。これは聞いてみたい気がする。
 
オビ表。

「『いい本にはいつも新しい世界がある。あとからわかる、不思議なこともある。だからいい本はこれからも、いい本である。』真剣に面白い、充実の近作46編。」
 
これは、どこか一節を抜こうと決めたら(こう決断することが難しいが〉、あとは比較的簡単と思う。
 
みすずの本は、カバー裏が踏み込んだ解説になっている。ここが、比較的高い定価を納得させるかどうかで、編集者の腕試しというところがある。

「これまで多くの読者と高い評価に支えられてきた散文集シリーズ.『忘れられる過去』(講談社エッセイ賞),『過去をもつ人』(毎日出版文化賞書評賞)につらなる本書もまた,ぶれない著者の発見と指摘に,読む者は胸を突かれ,思念の方位を示される.そのありがたみは変わらない.」(抜粋)
 
こういう書き方がしてあると、ファンにとってはたまらない。とくに「そのありがたみは変わらない」とあれば、いちど手に取った本を、棚に戻すことは難しい。これは本の呼び水というよりは、いくぶん宗教の勧誘に近い。
 
以下は気になったところや、感心したところ。

「美の要点」の章は、色川武大のエッセイ、『うらおもて人生録』を取り上げる。

「『大勢の他人のことを想う』ことは容易ではないが、それ以前に、『大勢の他人のことを想う』という視点そのものが、通常の人の人生では存在しない。でももしそれがあるとしたら、そこには普段見えることのない、いいものがあるのだ。自分を忘れるほどの新しくて楽しい世界が、そこから開かれていくのだと思う。あらためて色川武大の思考のすばらしさに思いを凝らしたい。」
 
こういうところが、荒川洋治の素晴らしさだ。「『大勢の他人のことを想う』という視点そのものが、通常の人の人生では存在しない」というところに、僕は気がつかなかった。

『うらおもて人生録』は文章の密度が高く、人間について、新しい発見をしながら読み進むので、大変時間がかかる、という。
 
こういうのは、日本の人生論にはなく、荒川洋治はアメリカの作家、シャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ、オハイオ』を思い出したりする。

「〔『ワインズバーグ、オハイオ』は〕一つの町のなかで生きる人たちの孤独な、でもそれぞれに大切な人生を映し出したもので、二二編の短編は一つ一つがすばらしい重みをもつので、とてもひといきには読めない。だがそらおそろしいほどの感動をおぼえる名作だ。色川武大のエッセイは、アンダーソンの短編を思わせる。そんなはるか遠い例しか思いつかないほど、色川武大の文章は特別なものだ。」

「そらおそろしいほどの感動」を呼ぶ『ワインズバーグ、オハイオ』は、何種類か翻訳があって、手を出しそびれていた。荒川洋治のこういう文章を経験したら、読まずに済ますことは難しい。

最高の本――『唯脳論』(養老孟司)

山田太一の『月日の残像』を終わりまで朗読したので、この次の朗読は、養老孟司の本でなければ釣り合いが悪い。
 
で、『唯脳論』である。35年も前の本なのに、読んでいると、まるで昨日書かれたように新しい。
 
ここですでに、人工知能の話が出ている。養老さんは、「人工知能が人間を置き換えるというのは、単なる誤解に過ぎない」という。機械はヒトの脳ほど、いい加減なものではない、という。

「それなら、ヒトの脳を置換するものはないか。それはもちろんある。あると思う。それはなにか。ヒトの脳を包含する脳である。」
 
それがChatGPT を超えるAIで、テスラのイーロン・マスクCEOは、この2年のうちに、完成品をご覧にいれよう、と言っている。

『唯脳論』の予言が、それが現われてから、35年を超えたあたりで現実になる。見てみたい気もするが、イーロン・マスクが言うのでは、見たくない気もする。この人は本当にいけ好かない。しかしそんなことは関係なく、来年には見ることになるだろう。
 
次は「言語の周辺」の章から。

「注視ニューロン」という細胞が、サルの視覚系にあることが知られている。訓練したサルの脳には、対象を注視している間、放電しているニューロンが検出される。これを注視ニューロンといい、注視ニューロンが出ているのは、じっとしたサルがいいという。
 
ここで突然、時代劇作家の名が出てくる。

「中里介山の『大菩薩峠』に、サル回しのサルの正しい選び方が書いてある。それには、キョロキョロしないサルを選ぶことだ、という。こういうサルを始めから使えば、注視ニューロンが捕まるかもしれない。」
 
なるほど。しかし養老さんは、真面目なんだろうな?

「介山によれば、こういうサルは滅多にいないからサル回しが苦労する。そもそもサルというのは、勝手にキョロキョロするものであり、注視ニューロンが多いサルは、サルの秀才かもしれないが、なんとなくサルらしくない。つまり、脳にはそういうところがある。」
 
含み笑いしつつ、やっぱり最後は正論に返る。どういう状況に置かれた脳が、本当の脳なのか。この辺りが脳の実験の難しいところだ。
 
次は「形とリズム」。

「『形の神髄はリズムである』。そう言ったのは、私ではない。哲学者の中村雄二郎氏であり、亡くなられたが、解剖学者の三木成夫氏である。つまり、視覚対象の抽象化が行き着く果てまで、『形』を徹底的に考える。そこで、だしぬけに『リズムだ』と膝を叩く。悟りが開ける。ここのところがなんとも言えない。名人伝である。」
 
私にはこの文章の方が、養老孟司の「名人の技」に思える。

『唯脳論』は、自分が70年生きて来て出会った、もっともすぐれた本である。内容の独創性、構成、文体、組み方、装幀、すべてにおいて、これを凌駕するものはない。

(『唯脳論』養老孟司、青土社、1989年9月25日初刷、1992年5月1月5日第9刷)

今とは別の将棋界――『一葉の写真―若き勝負師の青春―』(先崎学)

この本が、最初に単行本で出たのは1992年2月。僕は筑摩書房を辞め、法蔵館で仕事をしだしてから、5年くらいたったころだ。
 
法蔵館は仏教書を中心とする出版社だから、僕もそれふうの本を出し、それをカモフラージュにして、養老さんや池田晶子さん、森岡正博さん、島田裕巳さんなどの本を出していた。
 
養老孟司さんの『神とヒトの解剖学』、池田晶子さんの『事象そのものへ!』、森岡正博さんの『宗教なき時代を生きるために』、島田裕巳さんの『戒名―なぜ死後に名前を変えるのか―』など、懐かしい本がいっぱいある。
 
そういうふうに仕事で一杯一杯のときだったから、書評で面白そうな本を見ても、仕事でかすりもしない本は、手が出なかった。
 
しかしこの本は、長く印象に残った。この前、古本屋で見たときまで、頭の古層に残っていたのだ。
 
この本は先崎学の処女作である。米長邦雄の内弟子として、三段から四段に上がるころを中心に、10代後半のハチャメチャな日々、つまり青春を描いている。
 
30年前の将棋界は、今とはかなり違っている。「序」を米長邦雄が書いている。その書きぶりが、すでに別の将棋界である。

「二人〔=先崎学と林葉直子〕が内弟子でいた三年間は、師匠の私はほとんど愛人の家に入りびたりで〝火宅の人〟であった。その嵐の中にあって、三冠王から四冠王へと歩んでいったのだが、女房も含めて、まさしくそれは人生の大半を、僅か数年に凝縮した感のある日々であった。」
 
こういうことを、後に将棋連盟会長になる人が、あっけらかんと書いている。しかもその怒濤の日々を経るうちに、三冠王から四冠王になっているのだ。
 
これは、藤井聡太が八冠王となって君臨し、その将棋界全体を、羽生善治が会長として睨みを利かせる、というのとはまったく別世界である。
 
例えばその頃の奨励会。

「……ヒロアキは立派だった。将棋は弱く、才はなかったが、彼は立派な戦士だった。夢を持ってこの世界に入り、挫折し、故郷に帰っていった。帰るときの顔は、病気のような顔だった。毎日のように麻雀を打ち、酒を飲み、その間に恋をして、そして敗れた。」
 
いやあ、昭和ですなあ。ドロドロとした剝き出しのところが、懐かしい。

「ヒロアキたちは決して器用な人間ではなかった。〔中略〕
 だが彼らは、本音で自分を語れる奴らだった。泥くさい奴らだが、ハートはあった。その奴らが、何もいわずに去っていった。彼らの亡霊に取りつかれて、今日も僕は将棋を頑張る。そして、やるからには、羽生に、森内に、佐藤康光に、郷田に、勝たなければいけない。」
 
結果はよく知る通り。しかし最後の一文は、何度読んでも、何とも言えない感慨がある。
 
将来の予測をしているところもある。

「十年たって二十一世紀になってもあまり大きな変化はおこらないに違いない。名人戦があり、竜王戦があり、NHK杯があり……棋士たちは矢倉を純文学と称して好み、振り飛車には居飛車穴熊や左美濃が多く、そして棋士の体質もそれほど変わらず、麻雀を打ち、仲間意識が強く、対局の昼食は千駄ヶ谷の『さと』で食べ、女にはそれほどモテないだろう。」
 
予測は大半、違っている。

その最大のものは、コンピューターが職場や家庭で身近になったこと。とくにプロ棋士の一手一手を、AIが予想するのは画期的だった。プロよりもコンピューターの方が、正確に予測できるのだ。
 
そしてもう一つは、藤井聡太の登場。この若い求道者はすべてを受け入れ、しかし自分は絶対に曲げない。この人は、女の人にモテるどころではない。もっとも知性的であるにもかかわらず、およそアイドルの中で、この人を凌駕する者はいない。
 
しかしそれでも僕は、たまに先崎学の文章が読みたくなる。百戦錬磨のA級やB級のドロドロした戦いを、もう一度、読んでみたくなるのである。

(『一葉の写真―若き勝負師の青春―』先崎学、講談社文庫、1996年5月15日初刷)

このミステリーは破綻している――『存在のすべてを』(塩田武士)

丹念に描きこまれたミステリーである。

『本の雑誌』が選ぶ2023年度ベスト10の第1位で、2024年本屋大賞で「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」に挙げられている。
 
久しぶりに本屋に行って、そういう本があれば、何冊か買ううちの1冊に、紛れ込ませておきたくなる。
 
しかしこの小説は、破綻している。
 
よく書けているところもある。

冒頭、別々の子どもの同時誘拐は、緊迫した筆で息も継がせぬほど、展開が速くて素晴らしい。私は映画の『天国と地獄』を思い浮かべた。それよりもなお、緊張の度合いが強い。
 
冒頭からこれでは、どれほど質の高いミステリーを読むことになるのかと、いやが上にも期待が膨らむ。

画商の娘と、天才画家の片鱗を覗かせる男子高校生との恋も、どきどきさせる。これは女の方からの描写だけだが、2人の淡い恋が、やがて愛情に変わっていくところが、繊細極まる筆致で描かれる。
 
文章も素晴らしい。
 
新聞記者が刑事の車に同乗する場面。

「先回りして退路を断つというやり口が狭い車内を取調室に変え、その剝き出しの鋭さに私的な人間関係の線を切ってきた刑事の刃を見た。」
 
また、こういうところも。

「一切の取材を封じられる協定は、記者にとって一時的にペンを没収されるに等しい。それに各々が長年の仕事の中で、公務員の『聞かなければ答えない』『隠せるものは隠す』という習性を嫌というほど見てきている。」
 
そういう部分部分はよく書けているが、全体が荒唐無稽で、破綻している。
 
子供を誘拐するチンピラの弟は、絵の天才であり、そこでは仲睦まじい夫婦として、兄の誘拐してきた子を愛情豊かに育てる、――ということはありそうにない。
 
その子供も、やはり絵の天才で(何という偶然!)、3人で仲良く暮らすが、やがて別れがくる。だってもともとは、誘拐してきた子だから。
 
どうしてそんなことができたかといえば、もともと子供の祖父母は裕福だったが、一人娘である母親が家を出て、だらしない生活をしており、子育てを放棄していたからだ。
 
小説の構成全体は、時間と場所、それに登場人物が、複雑な入れ子細工になっており、読んでいるときは夢中だが、読み終わってみると、まったくあり得ない話で、実に空疎だ。
 
次回は、映画の脚本家にならって、人物とその背景を、できればその家系を頭に入れて、書き出すといい。登場人物は突然、都合に応じて出現するものではないのだから。
 
それに塩田武士は、確固たる文体を持っているのだから、もう無理に取ってつけたようなミステリーにしなくても、よいのではないか。

『本の雑誌』に拠る書評家や書店員も、目の前の本さえ売れればいい、ということでは、結局、自分で自分の首を絞めているだけではないか。

(『存在のすべてを』塩田武士
 朝日新聞出版、2023年9月30日初刷、2024年2月15日第5刷)

AIの描く世界――『ChatGPTの先に待っている世界』(川村秀憲)(5)

「第七章 代替される『知能』、代替されない『芸術』」は、文字通り「人工知能による芸術」がテーマだ。
 
川村先生は、芸術の創作意欲は人が持っている「特殊な能力」であり、芸術は人間だけが創作する、不思議な行動であるという。
 
だから人工知能に、なぜ芸術を創作させようとするのかは、明確な答えを得ることが難しく、哲学的なものにならざるを得ないという。
 
私はそんなことはないと思う。人工知能を作っている過程では、犯罪行為や反社会的な行為を除いては、どんなことでもやってみようとするのが、人間ではないか(あるいは犯罪行為や反社会的な行為といえども、やってみる価値はある、と思う人もいるかもしれない)。
 
コンピューターを用いた絵画などは、実は古くからある試みだ。川村先生は、ここでは最新のものとして、グーグルの技術者たちが開発した、「ディープドリ―ム」(DeepDream)を紹介している。

「〔ディープドリ―ムは〕人がこれまで描いてきたどの絵画ともまったく異なり、視覚を混乱させ、不安を抱かせるような新たな感覚を生み出します。当然コンピュータープログラムで実現されているので、単純なプロセスが幾重にも実行されているだけであり、そこには人間のような意思や意図は存在しません。にもかかわらず、その結果として生まれた作品からは、不安を掻き立てられたり、攪乱させられたりするような気持ちの悪さを感じつつも、一方でなぜか引きつけられる感覚も生まれます。」
 
そこでさっそくパソコンで、「ディープドリ―ム」をあたってみたが、なるほどいかにもAIが制作しそうな、その範囲内での不気味な、というか気持ちの悪い絵画で、どうということはなかった。

AI将棋で、勝つには勝つのだが、恐ろしく筋の悪い手ばかりを指す、というのと似ている。もちろんAI将棋には、筋のいい悪いは関係ないし、一手ずつの美しい手や醜悪な手は、関係ない。
 
なぜAIが進んだ先に、芸術が問題になるかといえば、それぐらいしか、人間にとって、時間の潰しようがなくなるからだ。

近未来において、そういうことが考えられるだろうか。
 
川村先生はだから、ベーシックインカムが実現したとするなら、「生活のために働く」必要は、なくなるのではないかという。
 
ここまで来ると私には、そういう社会状況は皆目わからない。ただ著者の言うのとは違って、働く必要がなくなったとき、人間はかなり悲惨なことになるのではないか、私はそう思う。
 
その前に、文明の根幹を揺るがすのは、人工知能と教育の問題である。
 
まず教育する側から見てみよう。人間の能力を育成するというのは、過激な言い方になるが、性能のよいロボットを、作り出すことではないか。

「社会が必要とするのは、一言でいえば『同じ能力を持った多くの人材』です。とすれば、ロボットに代えたほうが効率的ですが、これまでそうしてこなかったのは、それを実現するロボットが存在しなかったからです。」
 
そういうロボットが実現すると、これまでの人材育成教育は、変わらざるを得ない。しかしどう変わるか。

これまでは教師1人に複数の生徒、という劇場型の授業形態が、主流を占めてきたが、これからはそれが一変するだろう、と川村先生は言う。
 
この辺は、どう考えたらいいのか、私にはまったく分からない。

ただ教師1人に30人前後の生徒、という劇場型の授業は、授業を受ける側からすれば、必ずしも効率はよくない。だからいじめが起こったりする。

そういうことを考えると、変わるにしても、もっと実情に即して教育を考えなければ、だめなような気がする。みんながみんな、意欲をもって勉強に励むわけではない。
 
この本は、ふだん私が読まないジャンルのもので、大変に面白かった。しかし、著者の考えていることは、まだ人間の範疇だという気がする。人工知能はもっと先を、ひょっとすると遥かに先を、考えているかもしれない。私はそんなことを思う。

(『ChatGPTの先に待っている世界』川村秀憲、dZERO、2023年10月12日初刷)