『学士会報』をぱらぱらめくっていると、川村秀憲という人が、ChatGPTについて書いているのが目についた。
『学士会報』は老人の読む雑誌だから、ChatGPTについても、非常に分かりやすく書いている。
読んでみると、なかなか面白い。そして終わりに、ChatGPTについては、現状で分かっていることを本に書いた、この本は大半を、ChatGPTの助けを借りて描いたので、原稿を完成させるのに20時間ほどで済んだという(ほんとかね?!)。
『学士会報』の論文要旨というかエッセイが、あまりに明晰だったので、この20時間で書き上げた本を、思わずアマゾンで注文した。私のような肢体不自由者は、巷の書店には申し訳ないが、ほとんどアマゾン命である。
著者略歴を見ると川村秀憲先生は、北海道大学の情報科学科の教授である。
「2017年9月より『AI一茶くん』の開発をスタートさせる。ニューラルネットワーク、ディープラーニング、機械学習、ロボティクスなどの研究を続けながらベンチャー企業との連携も積極的に進めている。」
中身については全然わからないけど、最先端の研究をしているらしい。
先生は言う。
「人工知能の進化は止まることを知らず、二〇二二年に登場したChatGPTのような生成系人工知能は、ある意味でティッピングポイント(転換点、臨界点、閾値)を超えたのではないかと感じます。」
ChatGPTは人間を相手にして、英語でも日本語でも普通に会話を交わす。できる限り人間の疑問に、答えようとする。
「今後、ChatGPTに代表される生成系人工知能に大量のデータを与えたらどうなるのか。その賢さには限界はあるのか、どこまで進化するのか。それは人工知能研究者でさえも、現時点では予測不可能です。つまり人工知能の能力はいま、徐々に人の手を離れつつあるということです。」
私はここからすぐに、ターミネーターの来襲を思い浮かべた。たぶんすべての人が、それを思い浮かべるのではないか。
著者もこう言っている。
「現在、ChatGPTを含めた人工知能の性能はさらに劇的に向上していて、見方によっては恐怖すら覚えるほどです。」
これはよくある発明ではない。それがどれほどの意味を持つのか、そこから考えなくてはならない。
「人工知能の発展によって、人間の価値観や尊厳は変わるのか変わらないのか。学ぶという行為は意味のないものになるのか、そうではないのか。この先、シンギュラリティ(技術的特異点、人工知能が人間の知能と並ぶ時点)が来るのか来ないのか、人類が滅ぼされるような脅威はあるのかないのか。」
ここまでが、「まえがき」である。
ここまで読んで、私は当然考える。人工知能の開発者は、軍事に特化して、凄まじいスピードで、敵を撲滅することに躍起になるだろう。たぶん今、世界の先進国はみなヨーイドンで、その競争に参加しているはずだ。ちょうど第2次大戦末期に、アメリカとドイツで、原子爆弾の開発競争をやっていたのと同じだ。
とりあえずはそんなことを思いながら、本文を読み進めていこう。
同じ年齢だ――『成城だより』(大岡昇平)(2)
大岡昇平はテレビも好きで、よく見ている。
「八時、テレビにて『三年B組金八先生』を見る。テーマソング『贈る言葉』を武田鉄矢扮するところの先生自ら歌う。シンガー・ソングライターの新手なり。受験日、妊娠女子生徒出産重なり、面長短軀の日本的先生、活躍す。〔中略〕人気上昇、同時間の退屈な刑事番組『太陽にほえろ』を食いつつあるのは目出たし。」(2月15日)
もちろん最後の、『太陽にほえろ』云々というのが留飲が下がる。
といっても、私はどちらも見てないが。金曜日夜8時半に、毎週テレビを見ている20代後半の男というのは、ちょっと考えられない。
3月6日は71度目の誕生日。大岡は35歳のとき戦争に行った。そのころは、こんなに長く生きられるとは思っていなかった。考えてみれば、戦後も同じ35年も生きたことになる。
この日は、心に浮かぶことが多くなる。
「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。」(3月6日)
病院の中で四方八方、管に巻かれた死と対になるのは、南方ジャングルの、あるいはシベリア酷寒の死である。
戦友たちはそこで戦死、または病死、あるいはこれが最も多いが、飢死にしている。そういう背景をもった、大岡の予想する病院内の死とは、どういうものか。
そういう「安全な死」を死んでも、いいものだろうか。大岡はそういうふうに考えていた、と私は妄想する。
大岡の思いは溢れてくる。
「老人は一九三〇年代の不景気と、終戦後の耐乏生活の経験あれば、どんな事態が来ても堪うる自信あれども、資本家共が軍備を拡張し、兵器輸出によって、利潤を確保しようと狂奔するさまに、拍手を送る手合いの発生には驚くほかなし。」(同)
政治家や経済人がまことしやかに分析し、日本の位置を確認して軍備を持たねば、などというが、底の底にはこういうことがある。それが世界中そうなんだから始末に悪い。
誕生日の最後は、そういう日にふさわしく、内省で締めくくる。
「われ少年時はおとなしい子供だったそうだが、思春期よりなぜか口論を好み、ケンカした人間、ざっとの見つもりにて三十人を越ゆ。そのうち仲なおりせるは、七、八人なり。幸い近頃ぼけにて、近きことより忘れつつあり、そのうちケンカはみな忘れ、おとなしい子供に戻って成仏できるか。もって七十一度目の誕生日の希望とすべし。」(同)
いやあ、可笑しい。大岡だって、喧嘩っ早いのは性分、そんなことは望むべくもない、と分かっているに違いない。
その舌の根も乾かぬうちに、雑誌が贈られてきて憤慨す。
「『文学という〝制度〟に引導を渡す』ごときたわ言も『批評という制度』の中にては通用す。『あらゆる出口は入口なり』の如き逆説横行して、似而非〔えせ〕問題の無限増殖を来せるに注意すべし。」(3月9日)
これはひところ、批評家がどっちを向いても、「制度、制度」とがなり立てるので、頭に来たものだ。しかしこれも、肝心の文芸批評が滅んでしまい、がなり立てる声も消滅してしまった。
ところで、こういう調子で、『成城だより』のいちいちに反応していったのでは、キリがない。
いや、もともとこのブログは、私にとって、不自由な言語の脳のリハビリというつもりなのだから、キリなく反応していってもいいのだが、テキストが大岡昇平の繰り言では、それを取り上げるのは、老いの繰り言に対する繰り言になってしまう。
それはさすがに、認知症と紙一重になってしまうので、ここでやめておきたい。
なお巻末に『成城だより』の書評が2本、載っている。
このうち小林信彦のものは、優れている。
「『成城だより』は、自閉と猫なで声と偽善におおわれたある時代の文壇に、風を通した記録として、後世、読まれることになるだろう。」
その価値をずばりと衝いている。
もう一方の三島由紀夫のものは、大言壮語、ただ空疎なだけだ。
(『成城だより』大岡昇平、中公文庫、2019年8月25日初刷)
「八時、テレビにて『三年B組金八先生』を見る。テーマソング『贈る言葉』を武田鉄矢扮するところの先生自ら歌う。シンガー・ソングライターの新手なり。受験日、妊娠女子生徒出産重なり、面長短軀の日本的先生、活躍す。〔中略〕人気上昇、同時間の退屈な刑事番組『太陽にほえろ』を食いつつあるのは目出たし。」(2月15日)
もちろん最後の、『太陽にほえろ』云々というのが留飲が下がる。
といっても、私はどちらも見てないが。金曜日夜8時半に、毎週テレビを見ている20代後半の男というのは、ちょっと考えられない。
3月6日は71度目の誕生日。大岡は35歳のとき戦争に行った。そのころは、こんなに長く生きられるとは思っていなかった。考えてみれば、戦後も同じ35年も生きたことになる。
この日は、心に浮かぶことが多くなる。
「戦争に行った人間は、なんとなく畳の上で死ねないような気がしているものなれど、すでに手足の力なく、眼くらみ、心臓鼓動とどこおり、よろよろ歩きの老残の身となっては、畳の上ならぬ病院の、酸素テントの中なる死、確実となった。」(3月6日)
病院の中で四方八方、管に巻かれた死と対になるのは、南方ジャングルの、あるいはシベリア酷寒の死である。
戦友たちはそこで戦死、または病死、あるいはこれが最も多いが、飢死にしている。そういう背景をもった、大岡の予想する病院内の死とは、どういうものか。
そういう「安全な死」を死んでも、いいものだろうか。大岡はそういうふうに考えていた、と私は妄想する。
大岡の思いは溢れてくる。
「老人は一九三〇年代の不景気と、終戦後の耐乏生活の経験あれば、どんな事態が来ても堪うる自信あれども、資本家共が軍備を拡張し、兵器輸出によって、利潤を確保しようと狂奔するさまに、拍手を送る手合いの発生には驚くほかなし。」(同)
政治家や経済人がまことしやかに分析し、日本の位置を確認して軍備を持たねば、などというが、底の底にはこういうことがある。それが世界中そうなんだから始末に悪い。
誕生日の最後は、そういう日にふさわしく、内省で締めくくる。
「われ少年時はおとなしい子供だったそうだが、思春期よりなぜか口論を好み、ケンカした人間、ざっとの見つもりにて三十人を越ゆ。そのうち仲なおりせるは、七、八人なり。幸い近頃ぼけにて、近きことより忘れつつあり、そのうちケンカはみな忘れ、おとなしい子供に戻って成仏できるか。もって七十一度目の誕生日の希望とすべし。」(同)
いやあ、可笑しい。大岡だって、喧嘩っ早いのは性分、そんなことは望むべくもない、と分かっているに違いない。
その舌の根も乾かぬうちに、雑誌が贈られてきて憤慨す。
「『文学という〝制度〟に引導を渡す』ごときたわ言も『批評という制度』の中にては通用す。『あらゆる出口は入口なり』の如き逆説横行して、似而非〔えせ〕問題の無限増殖を来せるに注意すべし。」(3月9日)
これはひところ、批評家がどっちを向いても、「制度、制度」とがなり立てるので、頭に来たものだ。しかしこれも、肝心の文芸批評が滅んでしまい、がなり立てる声も消滅してしまった。
ところで、こういう調子で、『成城だより』のいちいちに反応していったのでは、キリがない。
いや、もともとこのブログは、私にとって、不自由な言語の脳のリハビリというつもりなのだから、キリなく反応していってもいいのだが、テキストが大岡昇平の繰り言では、それを取り上げるのは、老いの繰り言に対する繰り言になってしまう。
それはさすがに、認知症と紙一重になってしまうので、ここでやめておきたい。
なお巻末に『成城だより』の書評が2本、載っている。
このうち小林信彦のものは、優れている。
「『成城だより』は、自閉と猫なで声と偽善におおわれたある時代の文壇に、風を通した記録として、後世、読まれることになるだろう。」
その価値をずばりと衝いている。
もう一方の三島由紀夫のものは、大言壮語、ただ空疎なだけだ。
(『成城だより』大岡昇平、中公文庫、2019年8月25日初刷)
同じ年齢だ――『成城だより』(大岡昇平)(1)
というわけで、大岡昇平『成城だより』を読む。
校條剛さんの『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』を読んだとき、大岡昇平が、武田百合子・花の親子にからかわれるのを見て、はてさて大岡は『成城だより』を読む限り、そんな人ではなかったが、と思ったのが、読み返すきっかけになった。
読むきっかけは、自分の心の針の揺れ具合である。
これは日記というか、備忘録を膨らましたもので、大岡昇平がそう書いている。
1979年(昭和54年)11月から、80年10月までをまとめたもので、このとき大岡昇平は、私と同じ70歳である。
これを最初に読んだとき、私は30代で、著者は遥かにおじいさんだった。しかし気づいてみればなんと同年齢、読み手の方が激変しているのだ。
読み始めれば、たちまち端正な文体のとりこになる。
「家並切れ、陽を浴びたる畠、空地の向うに夕日輝く。その方角の遠くに見える、這いつくばったる如き平屋が、わが家なり。窓小さく、屋根黒く、倉庫の如き外観。〔中略〕
土埃は室内に侵入し、窓枠にたまったが、とにかく静かだった。屋内座業にはこの上なくよき環境だった。十一年使えれば満足だ。その家の外貌を遠望しつつ、空地中の道を戻る。」(11月12日)
言葉がしみ込むようなこういう読書は、久しくしていないことに気付く。
とにかく同年齢で、住んでいるところも、成城と上高井戸と近くである。何となく親しみが湧くではないか。
大岡昇平は戦争に行っている。そのぶん身体にガタが来ている。
「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり。」(11月13日)
これは大江健三郎が、武満徹の新作のレコードを持ってきてくれたとき。大岡は、武満徹と対談したことがあったのだ。
身体のことは、これからも何度も出てくる。
「順天堂病院北村教授の定期健診日(月一回)。年末と五の日重なり、道路混み、お茶の水まで一時間半かかる。心臓少し大きくなっている。利尿剤を増やさねばならないが、これを増やすと体だるく、仕事にならないのだ。」(12月5日)
考えてみると、私は半身不随で、血圧と便秘の薬を飲んでいる。9年前に脳出血を発症して以来、かかりつけの医師がいる。そう考えれば、戦争に行ってようが、行ってまいが、同じことだともいえる。
もっとも似ているのは、あっちこっち不備が来ている身体だけで、内面の緊張感はまったく違う。
「『同時代ゲーム』読了。面白かった。『万延元年のフットボール』より始まった、谷間の村落共同体の一揆的反乱ものの集大成というべし。幕藩体制、天皇制への反乱譚の、ファルス的構成、話法に特徴あり。谷間空間の創造神への信仰保持家族の、死と近親相姦的再生、奇想なりうべし。」(12月13日)
わずか数行で、『同時代ゲーム』の批評と感想を言い尽くしている。
一方、小説家らしく好奇心旺盛なところも。
「中島みゆき悪くなし。『時代』『店の名はライフ』など、唱いぶり多彩、ひと味違った面白さあり。詞の誇張したところは抑えて唱い、平凡なところは声をはる。歌謡曲とは逆になっているところがみそか。もっともニュー・ミュージックは七八年がピークにて、いまは歌謡曲とあまりかわらなくなりつつありとの説あり。」
新しい知識を文士仲間に披露して、得意になりたき面あり(あっ、移ってる)。
「客にドーナツ盤をきかせて、暮れから得意になっていたが、新しがり屋の埴谷雄高だけは、中島みゆきのヒット曲『わかれうた』の題名まで知っていた。しかし高石友也、岡林信康など、フォーク以来の系譜を扱った富沢一誠『ニューミュージックの衝撃』(共同通信社)は知らず、抑えてやった。」
ここまで来ると、まるで子どもなり。
校條剛さんの『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』を読んだとき、大岡昇平が、武田百合子・花の親子にからかわれるのを見て、はてさて大岡は『成城だより』を読む限り、そんな人ではなかったが、と思ったのが、読み返すきっかけになった。
読むきっかけは、自分の心の針の揺れ具合である。
これは日記というか、備忘録を膨らましたもので、大岡昇平がそう書いている。
1979年(昭和54年)11月から、80年10月までをまとめたもので、このとき大岡昇平は、私と同じ70歳である。
これを最初に読んだとき、私は30代で、著者は遥かにおじいさんだった。しかし気づいてみればなんと同年齢、読み手の方が激変しているのだ。
読み始めれば、たちまち端正な文体のとりこになる。
「家並切れ、陽を浴びたる畠、空地の向うに夕日輝く。その方角の遠くに見える、這いつくばったる如き平屋が、わが家なり。窓小さく、屋根黒く、倉庫の如き外観。〔中略〕
土埃は室内に侵入し、窓枠にたまったが、とにかく静かだった。屋内座業にはこの上なくよき環境だった。十一年使えれば満足だ。その家の外貌を遠望しつつ、空地中の道を戻る。」(11月12日)
言葉がしみ込むようなこういう読書は、久しくしていないことに気付く。
とにかく同年齢で、住んでいるところも、成城と上高井戸と近くである。何となく親しみが湧くではないか。
大岡昇平は戦争に行っている。そのぶん身体にガタが来ている。
「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり。」(11月13日)
これは大江健三郎が、武満徹の新作のレコードを持ってきてくれたとき。大岡は、武満徹と対談したことがあったのだ。
身体のことは、これからも何度も出てくる。
「順天堂病院北村教授の定期健診日(月一回)。年末と五の日重なり、道路混み、お茶の水まで一時間半かかる。心臓少し大きくなっている。利尿剤を増やさねばならないが、これを増やすと体だるく、仕事にならないのだ。」(12月5日)
考えてみると、私は半身不随で、血圧と便秘の薬を飲んでいる。9年前に脳出血を発症して以来、かかりつけの医師がいる。そう考えれば、戦争に行ってようが、行ってまいが、同じことだともいえる。
もっとも似ているのは、あっちこっち不備が来ている身体だけで、内面の緊張感はまったく違う。
「『同時代ゲーム』読了。面白かった。『万延元年のフットボール』より始まった、谷間の村落共同体の一揆的反乱ものの集大成というべし。幕藩体制、天皇制への反乱譚の、ファルス的構成、話法に特徴あり。谷間空間の創造神への信仰保持家族の、死と近親相姦的再生、奇想なりうべし。」(12月13日)
わずか数行で、『同時代ゲーム』の批評と感想を言い尽くしている。
一方、小説家らしく好奇心旺盛なところも。
「中島みゆき悪くなし。『時代』『店の名はライフ』など、唱いぶり多彩、ひと味違った面白さあり。詞の誇張したところは抑えて唱い、平凡なところは声をはる。歌謡曲とは逆になっているところがみそか。もっともニュー・ミュージックは七八年がピークにて、いまは歌謡曲とあまりかわらなくなりつつありとの説あり。」
新しい知識を文士仲間に披露して、得意になりたき面あり(あっ、移ってる)。
「客にドーナツ盤をきかせて、暮れから得意になっていたが、新しがり屋の埴谷雄高だけは、中島みゆきのヒット曲『わかれうた』の題名まで知っていた。しかし高石友也、岡林信康など、フォーク以来の系譜を扱った富沢一誠『ニューミュージックの衝撃』(共同通信社)は知らず、抑えてやった。」
ここまで来ると、まるで子どもなり。
沢田研二の謎――『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』(島﨑今日子)(3)
島﨑今日子は、1999年に公開された映画、『大阪物語』のプロモーションで、沢田研二を取材したことがある。この本の「連載を終えて―後書きのようなもの―」に、そう書いてある。
この映画は池脇千鶴が主役で、その両親を沢田研二と妻の田中裕子が、映画の中でも夫婦役で出てくる。
このとき島﨑は、ジュリーにインタビューできるというので、舞い上がってしまい、あまり覚えていない、という情けない結果に終わったが、それでもいくつかのことは憶えている。
大物といわれる芸能人の威圧感が、ジュリーにはまったくなかったこと、田中裕子に対する手放しの愛情表現、そして島﨑の書いた原稿に、直しがまったくなかったことが、強く印象に残った。
島﨑今日子が、本気でジュリーを書いてみたいと思ったのは、およそ20年前のこのときからであった。
ところがジュリーには、なかなか会うことができない。
「それまでも、ジュリーには何度か取材を申し込んでいたがすべて断られており、もう取材は受けないとご本人が公言していた。」
このブログの初回に、オビ裏を取り上げ、これにはからくりがあると言った。
「共に『沢田研二』を創り上げた69人の証言で織りなす、/圧巻のノンフィクション」
これはつまり、本人は不在ということなのだ。
「69人の証言」といえば、圧倒される感じがする。事実この後書きには、いろんな人から奇蹟的に、資料や証言を提供されたことが出てくる。しかしご本人へのインタビューは、ただの一度も実現していない。沢田研二の肉声は、その時々の雑誌や放送によるしかないのだ。
僕にはこの点が非常に興味深い。
ジュリーはなぜ、一切の取材を断ったのか。
たとえば小説家が映画のプロデューサーに、原作権を売り渡した場合、その作家は以後、その映画に関しては何も言わない、という場合がある。
一方、脚本の段階で、注文を付ける人もいる。映画を撮り始めてからも、細かい注文を出す人もいる。それは人それぞれだ。
ジュリーは、自らが主役の本であっても、作家が書きたいように書けばいい、それについては、全てを受け入れる、というのだ。
これは大変珍しい。沢田研二は、これまで「ジュリー」というスターを作ってきた。作家が本で、作家による「ジュリー」というスターを作りたいなら、それは自分の意思で、どうぞおやりなさい。ただし沢田研二は、そこには一切、関わりはありませんよ。そういうことだろうか。
突飛な話だが、僕は大岡昇平が『成城だより』に描いた、小林秀雄を思い出す。大岡は、小林は一切振り返ることをしない人だ、と書く。
大岡昇平は昔のことを書いていて、どうしても小林に訊かなくてはならないことが出てくる。小林はきっと、そのことは忘れたなあ、と言うに違いない、と思いながら電話をする。
意外にも、小林は訊いたことに、丁寧に答えてくれた。
この挿話で強烈なのは、大岡が言った、小林は過去を一切ふり返らない、という言葉だ。
ジュリーは懐メロの番組に出ない。紅白歌合戦にも出ない。すべて意思をもって出ないのだ。
2008年、東京ドーム。沢田研二は60歳、還暦だ。
「二十分の休憩をはさんだだけで六時間半、八十曲を全曲フルバージョンで歌う圧巻のパフォーマンスを見せた。〔中略〕特設ステージを所狭しと駆け回るスターの声は一曲ごとに艶を増し、大きなスクリーンが一曲ごとにオーラを増幅させていく姿を映し出した。」
70を超えたジュリーは、今も走り続けている。そのコンサートを見たい。
(『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』島﨑今日子、
文藝春秋、2023年6月10日初刷、6月30日第2刷)
この映画は池脇千鶴が主役で、その両親を沢田研二と妻の田中裕子が、映画の中でも夫婦役で出てくる。
このとき島﨑は、ジュリーにインタビューできるというので、舞い上がってしまい、あまり覚えていない、という情けない結果に終わったが、それでもいくつかのことは憶えている。
大物といわれる芸能人の威圧感が、ジュリーにはまったくなかったこと、田中裕子に対する手放しの愛情表現、そして島﨑の書いた原稿に、直しがまったくなかったことが、強く印象に残った。
島﨑今日子が、本気でジュリーを書いてみたいと思ったのは、およそ20年前のこのときからであった。
ところがジュリーには、なかなか会うことができない。
「それまでも、ジュリーには何度か取材を申し込んでいたがすべて断られており、もう取材は受けないとご本人が公言していた。」
このブログの初回に、オビ裏を取り上げ、これにはからくりがあると言った。
「共に『沢田研二』を創り上げた69人の証言で織りなす、/圧巻のノンフィクション」
これはつまり、本人は不在ということなのだ。
「69人の証言」といえば、圧倒される感じがする。事実この後書きには、いろんな人から奇蹟的に、資料や証言を提供されたことが出てくる。しかしご本人へのインタビューは、ただの一度も実現していない。沢田研二の肉声は、その時々の雑誌や放送によるしかないのだ。
僕にはこの点が非常に興味深い。
ジュリーはなぜ、一切の取材を断ったのか。
たとえば小説家が映画のプロデューサーに、原作権を売り渡した場合、その作家は以後、その映画に関しては何も言わない、という場合がある。
一方、脚本の段階で、注文を付ける人もいる。映画を撮り始めてからも、細かい注文を出す人もいる。それは人それぞれだ。
ジュリーは、自らが主役の本であっても、作家が書きたいように書けばいい、それについては、全てを受け入れる、というのだ。
これは大変珍しい。沢田研二は、これまで「ジュリー」というスターを作ってきた。作家が本で、作家による「ジュリー」というスターを作りたいなら、それは自分の意思で、どうぞおやりなさい。ただし沢田研二は、そこには一切、関わりはありませんよ。そういうことだろうか。
突飛な話だが、僕は大岡昇平が『成城だより』に描いた、小林秀雄を思い出す。大岡は、小林は一切振り返ることをしない人だ、と書く。
大岡昇平は昔のことを書いていて、どうしても小林に訊かなくてはならないことが出てくる。小林はきっと、そのことは忘れたなあ、と言うに違いない、と思いながら電話をする。
意外にも、小林は訊いたことに、丁寧に答えてくれた。
この挿話で強烈なのは、大岡が言った、小林は過去を一切ふり返らない、という言葉だ。
ジュリーは懐メロの番組に出ない。紅白歌合戦にも出ない。すべて意思をもって出ないのだ。
2008年、東京ドーム。沢田研二は60歳、還暦だ。
「二十分の休憩をはさんだだけで六時間半、八十曲を全曲フルバージョンで歌う圧巻のパフォーマンスを見せた。〔中略〕特設ステージを所狭しと駆け回るスターの声は一曲ごとに艶を増し、大きなスクリーンが一曲ごとにオーラを増幅させていく姿を映し出した。」
70を超えたジュリーは、今も走り続けている。そのコンサートを見たい。
(『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』島﨑今日子、
文藝春秋、2023年6月10日初刷、6月30日第2刷)
沢田研二の謎――『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』(島﨑今日子)(2)
著者の島﨑今日子は、「沢田研二は『売れる』ために懸命に努力することを存在理由〔レゾンデートル〕に、走り続けてきたスターだった」と書く。
その彼が、ついに売れなくなった。
「きめてやる今夜」は、それでも13万枚のヒットとなり、1983年の日本歌謡大賞でプロデューサ―連盟賞を、また日本レコード大賞の特別金賞を受賞した。
しかしこれは、10万枚を超えた最後のシングルレコードだった。
1987年、国鉄が民営化されてJRとなり、地価は高騰し、東京全体の土地代でアメリカ全土が買える、と言われたバブルの時代、沢田研二は苦闘していた。
ファンの会誌『不協和音』に、この頃を語ったインタビューが載っている。
「たとえばツアー中、一階席は埋まっても二階席が空いていることに触れて、それを太ったなどと容姿のせいにされることへの苛立ちを隠さない。
〈要するに僕はずっと変わってないっていうの。僕はそんなに大したもんじゃなかったのに、周りですごいよ、すごいよって言ってすごいもんになっちゃったわけよ。それが今度はすごいもんじゃないってことになれば、周りは僕を責めてりゃ間違いない、絶対、安全パイなわけや〉」。
それでもジュリーは、来た仕事を誠実にこなす。1988年5月放送の「疾風のアラビア~天地創造の大地をゆく~」(テレビ朝日)は、ジュリーがレポーター役で、中近東を長期に取材して回り、見ごたえのあるドキュメンタリーになっていた。
しかしジュリー自身は、どこへ行くのか分からず、彷徨する。
〈一番つらかったのは、レコードは売れなくなるのだなあと、分かったことかもしれない。ちょうどそのころ『お芝居せえへんか』と誘ってくれる人がいて、その後10年間、新宿のグローブ座で歌を歌うお芝居に出演し続けました。1日ですべてが終わるテレビより、1カ月の間に少しづつ進んでいくお芝居のペースがいいなあと思うようになったんです〉。
これはジュリーが55歳のとき、毎日新聞(2003年7月3日夕刊)のインタビューで、あのころを振り返ったものだ。
この「ACTシリーズ」は東京グローブ座で、1989年春から、10年間にわたって上演された。
「『三文オペラ』の作曲家クルト・ワイル、映画にもなった無頼の作家ボリス・ヴィアン、作曲家ニノ・ロータ、シュルレアリスムの芸術家サルバドール・ダリ、シェイクスピア、エディット・ピアフ、バスター・キートン、エルヴィス・プレスリー、宮澤賢治、近代漫才を発明した漫才師。国も年齢も職業も、性別さえ違う時代のアヴァンギャルドを、時代を背負ったジュリーが演じて鈍色〔にびいろ〕の輝きを見せた。」
10年間、「ACTシリーズ」をやったことは、違う輝きを見せることに繫がったはずだ、と島﨑今日子は言う。
「ボリス・ヴィアンやキートンを歌い、演じるのだ。作詞の面での貢献もあるACTシリーズは、沢田研二に大きな影響を与えて、四十代からの背骨を作っていったのではないか。演じることで他者の価値観や生き方に触れ、共感や反発を覚えながらも発見し、刺激を受けていく。同一化の連鎖は〔中略〕、スターの血肉になって行ったに違いない。ジュリーが演じる時代の傑物たちは、ジュリー色に染まって蘇り、ジュリー自身をその色に染めていったのである。」
ひと口に10年というが、その期間、とことんやれば、たいてい何ものかにはなる。ましてある時代を象徴した人物を演じたのだ。何ものかにならない方がおかしい。
しかしその後も、ジュリーの苦闘は続く。そして60歳になったとき、朝日新聞の「ひと」欄に登場する。
〈60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と〉
〈言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインを送りたい〉(2008年9月13日付朝刊)
アルバムの中に「我が窮状」という、日本国の現状と、憲法9条を歌った歌がある。
「『我が窮状』を歌う沢田を見た心理学者の小倉千加子は、書いている。
〈人は生まれた土地と育った時代によってその価値観を形づくる。メジャーな音楽界にいながら、それでもやはりジュリーは団塊の世代であり、京都の人だったのである〉(「週刊朝日」2009年1月30日号)
こうして、紆余曲折を経たジュリーの彷徨は、おさまるところにおさまる。
しかし僕は、途中から気づいていた、この労作の異様な成り立ちを。
この本では、ついに終わりまで、ジュリーは一度も取材に応じていないのだ。「週刊文春」の目玉の連載で、本人の一代記で、こんなことがあるんだろうか。
その彼が、ついに売れなくなった。
「きめてやる今夜」は、それでも13万枚のヒットとなり、1983年の日本歌謡大賞でプロデューサ―連盟賞を、また日本レコード大賞の特別金賞を受賞した。
しかしこれは、10万枚を超えた最後のシングルレコードだった。
1987年、国鉄が民営化されてJRとなり、地価は高騰し、東京全体の土地代でアメリカ全土が買える、と言われたバブルの時代、沢田研二は苦闘していた。
ファンの会誌『不協和音』に、この頃を語ったインタビューが載っている。
「たとえばツアー中、一階席は埋まっても二階席が空いていることに触れて、それを太ったなどと容姿のせいにされることへの苛立ちを隠さない。
〈要するに僕はずっと変わってないっていうの。僕はそんなに大したもんじゃなかったのに、周りですごいよ、すごいよって言ってすごいもんになっちゃったわけよ。それが今度はすごいもんじゃないってことになれば、周りは僕を責めてりゃ間違いない、絶対、安全パイなわけや〉」。
それでもジュリーは、来た仕事を誠実にこなす。1988年5月放送の「疾風のアラビア~天地創造の大地をゆく~」(テレビ朝日)は、ジュリーがレポーター役で、中近東を長期に取材して回り、見ごたえのあるドキュメンタリーになっていた。
しかしジュリー自身は、どこへ行くのか分からず、彷徨する。
〈一番つらかったのは、レコードは売れなくなるのだなあと、分かったことかもしれない。ちょうどそのころ『お芝居せえへんか』と誘ってくれる人がいて、その後10年間、新宿のグローブ座で歌を歌うお芝居に出演し続けました。1日ですべてが終わるテレビより、1カ月の間に少しづつ進んでいくお芝居のペースがいいなあと思うようになったんです〉。
これはジュリーが55歳のとき、毎日新聞(2003年7月3日夕刊)のインタビューで、あのころを振り返ったものだ。
この「ACTシリーズ」は東京グローブ座で、1989年春から、10年間にわたって上演された。
「『三文オペラ』の作曲家クルト・ワイル、映画にもなった無頼の作家ボリス・ヴィアン、作曲家ニノ・ロータ、シュルレアリスムの芸術家サルバドール・ダリ、シェイクスピア、エディット・ピアフ、バスター・キートン、エルヴィス・プレスリー、宮澤賢治、近代漫才を発明した漫才師。国も年齢も職業も、性別さえ違う時代のアヴァンギャルドを、時代を背負ったジュリーが演じて鈍色〔にびいろ〕の輝きを見せた。」
10年間、「ACTシリーズ」をやったことは、違う輝きを見せることに繫がったはずだ、と島﨑今日子は言う。
「ボリス・ヴィアンやキートンを歌い、演じるのだ。作詞の面での貢献もあるACTシリーズは、沢田研二に大きな影響を与えて、四十代からの背骨を作っていったのではないか。演じることで他者の価値観や生き方に触れ、共感や反発を覚えながらも発見し、刺激を受けていく。同一化の連鎖は〔中略〕、スターの血肉になって行ったに違いない。ジュリーが演じる時代の傑物たちは、ジュリー色に染まって蘇り、ジュリー自身をその色に染めていったのである。」
ひと口に10年というが、その期間、とことんやれば、たいてい何ものかにはなる。ましてある時代を象徴した人物を演じたのだ。何ものかにならない方がおかしい。
しかしその後も、ジュリーの苦闘は続く。そして60歳になったとき、朝日新聞の「ひと」欄に登場する。
〈60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と〉
〈言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインを送りたい〉(2008年9月13日付朝刊)
アルバムの中に「我が窮状」という、日本国の現状と、憲法9条を歌った歌がある。
「『我が窮状』を歌う沢田を見た心理学者の小倉千加子は、書いている。
〈人は生まれた土地と育った時代によってその価値観を形づくる。メジャーな音楽界にいながら、それでもやはりジュリーは団塊の世代であり、京都の人だったのである〉(「週刊朝日」2009年1月30日号)
こうして、紆余曲折を経たジュリーの彷徨は、おさまるところにおさまる。
しかし僕は、途中から気づいていた、この労作の異様な成り立ちを。
この本では、ついに終わりまで、ジュリーは一度も取材に応じていないのだ。「週刊文春」の目玉の連載で、本人の一代記で、こんなことがあるんだろうか。
沢田研二の謎――『ジュリーがいた―沢田研二、56年の光芒―』(島﨑今日子)(1)
ジュリーの歌は好きだが、人物に興味はなかった。
ところが、朗読をしている『街と山のあいだ』(若菜晃子)に、ジュリーについての、興味深い文章が載っていた。
「ジュリーは六十歳を過ぎて、反原発、反戦の歌を歌っているという。衝撃だったのはその写真で、しばらく見ないでいるうちに見る影もなく太って、昔のハンサムな面影は長い睫毛の目もとにわずかに残している程度であった。〔中略〕
『還暦の前あたりから、言いたいことを言わなきゃと思うようになった』
『アイドル時代、表現の自由はなかった。華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは、言えなかった』」
若菜晃子は、ジュリーのインタビューが出ている、朝日新聞(2012年5月4日付)を読みながら、考えた。
「ジュリーは若い頃はスリムでダンディでため息が出るほどかっこよかったかもしれないけれど、年を取っても自分の言うべきこと、言いたいことを歌い続けるジュリーは、もっとかっこいい。たとえ太ったってかっこいい。」
そういうわけで、ジュリーが何を語っているか、ジュリーの人物伝を読むことにする。
まずオビの気になる部分。
「ザ・タイガースの熱狂、ショーケンとの友愛、/『勝手にしやがれ』制作秘話、/ヒットチャートから遠ざかりながらも、/歌い続けた25年間……」
ここでは、「ヒットチャートから遠ざかりながらも、歌い続けた25年間」、というのが気になる。
そしてオビ裏。
「バンドメンバー、マネージャー、プロデューサー、/共に『沢田研二』を創り上げた69人の証言で織りなす、/圧巻のノンフィクション」
これは「69人の証言で織りなす」というところに、誰でも期待を抱くはずだ。しかしここには、ちょっとしたトリックがある。それは一番最後のところで明らかになる。
この本には、僕の知らなかったことが、わんさと載っている。
たとえば、1975年6月から、TBSで放送された『悪魔のようなあいつ』のこと。これは久世光彦が演出し、原作は作詞家の阿久悠と漫画家の上村一夫、脚本は、後に沢田の主演で『太陽を盗んだ男』を撮ることになる、長谷川和彦である。
このドラマは、BL(ボーイズラヴ)の嚆矢とされる伝説のドラマであり、番組に先行して漫画が連載されるという、メディアミックスの先駆けでもあった。
そのエンディングには、3億円事件の犯人を演じる沢田研二が、ギターを弾きながら歌う「時の過ぎゆくままに」が流れ、この曲は沢田の最大のヒット曲となった。
1975年といえば、僕が大学4年のとき、テレビなどまったく見ないころだった。それでも『悪魔のようなあいつ』の記憶はあり、なによりも「時の過ぎゆくままに」は、かつてはカラオケで、今はYouTubeで、ときどき歌ってもいるのだ。
あるいは、ザ・タイガースが解散した後、沢田研二は萩原健一と組んで、PYGというバンドを作った。
この辺は少し関心があれば、それがどうした、というところだが、ジュリーとショーケンが、ヴォーカルとして並び立っていたバンドなど、僕はまったく知らなかった。そしてその行く先が、度重なる失敗で、バンドは自然消滅していったとは。
しかしもちろん、あとに残していったものはある。
「PYGという挫折は、〔中略〕ソロシンガー、沢田研二を華々しく誕生させ、はじめて見るような俳優、萩原健一を世に送り出した。我々は時代の二人の体現者、ふたつの太陽を仰ぎ見ることになるのである。」
そういう僕の知らないことは、たくさん載っているが、知りたいのはそういうことではない。スターであるよりは、そこから落ちていく方に、そしてそこに現われるジュリーの人間性の方に、惹かれるものがあるのだ。
ところが、朗読をしている『街と山のあいだ』(若菜晃子)に、ジュリーについての、興味深い文章が載っていた。
「ジュリーは六十歳を過ぎて、反原発、反戦の歌を歌っているという。衝撃だったのはその写真で、しばらく見ないでいるうちに見る影もなく太って、昔のハンサムな面影は長い睫毛の目もとにわずかに残している程度であった。〔中略〕
『還暦の前あたりから、言いたいことを言わなきゃと思うようになった』
『アイドル時代、表現の自由はなかった。華麗なジュリー、セクシーなジュリーに似合わないことは、言えなかった』」
若菜晃子は、ジュリーのインタビューが出ている、朝日新聞(2012年5月4日付)を読みながら、考えた。
「ジュリーは若い頃はスリムでダンディでため息が出るほどかっこよかったかもしれないけれど、年を取っても自分の言うべきこと、言いたいことを歌い続けるジュリーは、もっとかっこいい。たとえ太ったってかっこいい。」
そういうわけで、ジュリーが何を語っているか、ジュリーの人物伝を読むことにする。
まずオビの気になる部分。
「ザ・タイガースの熱狂、ショーケンとの友愛、/『勝手にしやがれ』制作秘話、/ヒットチャートから遠ざかりながらも、/歌い続けた25年間……」
ここでは、「ヒットチャートから遠ざかりながらも、歌い続けた25年間」、というのが気になる。
そしてオビ裏。
「バンドメンバー、マネージャー、プロデューサー、/共に『沢田研二』を創り上げた69人の証言で織りなす、/圧巻のノンフィクション」
これは「69人の証言で織りなす」というところに、誰でも期待を抱くはずだ。しかしここには、ちょっとしたトリックがある。それは一番最後のところで明らかになる。
この本には、僕の知らなかったことが、わんさと載っている。
たとえば、1975年6月から、TBSで放送された『悪魔のようなあいつ』のこと。これは久世光彦が演出し、原作は作詞家の阿久悠と漫画家の上村一夫、脚本は、後に沢田の主演で『太陽を盗んだ男』を撮ることになる、長谷川和彦である。
このドラマは、BL(ボーイズラヴ)の嚆矢とされる伝説のドラマであり、番組に先行して漫画が連載されるという、メディアミックスの先駆けでもあった。
そのエンディングには、3億円事件の犯人を演じる沢田研二が、ギターを弾きながら歌う「時の過ぎゆくままに」が流れ、この曲は沢田の最大のヒット曲となった。
1975年といえば、僕が大学4年のとき、テレビなどまったく見ないころだった。それでも『悪魔のようなあいつ』の記憶はあり、なによりも「時の過ぎゆくままに」は、かつてはカラオケで、今はYouTubeで、ときどき歌ってもいるのだ。
あるいは、ザ・タイガースが解散した後、沢田研二は萩原健一と組んで、PYGというバンドを作った。
この辺は少し関心があれば、それがどうした、というところだが、ジュリーとショーケンが、ヴォーカルとして並び立っていたバンドなど、僕はまったく知らなかった。そしてその行く先が、度重なる失敗で、バンドは自然消滅していったとは。
しかしもちろん、あとに残していったものはある。
「PYGという挫折は、〔中略〕ソロシンガー、沢田研二を華々しく誕生させ、はじめて見るような俳優、萩原健一を世に送り出した。我々は時代の二人の体現者、ふたつの太陽を仰ぎ見ることになるのである。」
そういう僕の知らないことは、たくさん載っているが、知りたいのはそういうことではない。スターであるよりは、そこから落ちていく方に、そしてそこに現われるジュリーの人間性の方に、惹かれるものがあるのだ。
ほとんど奇跡だ――『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』(泉房穂)(7)
泉房穂の実現したい市政は、専門職と一般職が、言ってみれば一緒に仕事をすることである。市職員に採用された、弁護士も社会福祉士も手話通訳士も、一般採用された職員と同じ部屋で、机も隣りどうしで、同じ仕事をしている。もちろん専門的な仕事もする。
「一般職が持つ『対応の広さ』、横軸を専門職も取り入れる。専門職が持つ『対応の深さ』、縦軸を一般職も学ぶ。『汎用性』と『専門性』を組み合わせ、チームで機能する。できるだけ幅広く対応できる体制をつくることが、市民の多様なニーズに応えていくことになります。」
言うのは簡単だけど、現実には難しい。というよりも、机上の空論そのものである。
「たとえば心理士でも、相談者が来たら話を聞く受け身のスタンスではなく、一般行政職の仕事をしながら、市民のところに自ら出向く。電話1本で、相談者の自宅の枕元までも行くのが行政の仕事です。」
素晴らしい、まったく素晴らしい。しかし、明石市以外の自治体では、そういう職員はいないだろう。
泉さんが、市長として最初の仕事に取り組んだとき、明石市の職員の間には、激震が走ったろう。この市長ではとてもダメだ、と市役所を去った人も多かった。そう泉さん自身が書いている。
しかし理想を曲げずに、邁進してきたからこそ、明石市の人口は増え、子どもの数も増え続け、市の税制は潤った。泉さんの市政に賛同する人が大勢いて、さらにそれは大きくなっている。
もう一つ、泉さんには強固な信念がある。
「しょせん人間の能力や、誤差の範囲でしかありません。」
五体満足な人と、障害のある人とは、誤差の範囲でしかないというのだ。これは障害者の弟と暮らし、そこから出てきた、実のある、重い言葉である。
しかし、そういう泉さんは、数限りない妨害、迫害を受けてきた。2022年7月には、「8月末までに市長を辞任しなければ殺す」、という殺害予告も受けている。
それが報道されると、その数は増え、殺害予告は百数十件にも及んだ。
警察に被害届を出し、自宅周辺にカメラを設置し、パトロールも強化されたが、犯人は未だに特定できない。そしてこのことは、家族の心にも、暗い影を落とすことになった。
「殺害予告を受けるのはこれが初めてのことではありません。市長になり、公共事業を削減し始めた直後から『殺す』とか『天誅下る』と書かれた手紙が自宅ポストに投げ込まれてきました。生き物の死骸や汚物を玄関前に置かれたりもしました。12年間もの長い間、家族にずっと怖い思いをさせたこともつらく、しんどかったのが正直なところです。」
しかしもちろん、泉さんは市民の側に立って選ばれた、という約束がある。泉さん自身も、冷たい社会を変えるという使命がある。泉さんは、「悲壮な覚悟で市長の職を務め続けて」きたのである。
公共事業のうち土建業は、やくざが絡んでいる。百数十件もの殺害予告は、組織的な犯行を推測させる。たいていは脅しだが、本当にイカレたやつがいたら、それまでである。
そう考えると、明石市長くらいで、悲壮な覚悟で理想を燃やすのは、何というか、割に合わない。そう考える私は、ロクなものではないが、しかしそう考えてしまう。
泉さん自身も、明石市ではいかにも土俵が小さい、と感じたのではないか。だから明石市の市長を辞めたのではないか。さて次はどのステージに上がるか、実に楽しみである。
(『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』
泉房穂、ライツ社、2023年1月31日初刷、2月21日第2刷)
「一般職が持つ『対応の広さ』、横軸を専門職も取り入れる。専門職が持つ『対応の深さ』、縦軸を一般職も学ぶ。『汎用性』と『専門性』を組み合わせ、チームで機能する。できるだけ幅広く対応できる体制をつくることが、市民の多様なニーズに応えていくことになります。」
言うのは簡単だけど、現実には難しい。というよりも、机上の空論そのものである。
「たとえば心理士でも、相談者が来たら話を聞く受け身のスタンスではなく、一般行政職の仕事をしながら、市民のところに自ら出向く。電話1本で、相談者の自宅の枕元までも行くのが行政の仕事です。」
素晴らしい、まったく素晴らしい。しかし、明石市以外の自治体では、そういう職員はいないだろう。
泉さんが、市長として最初の仕事に取り組んだとき、明石市の職員の間には、激震が走ったろう。この市長ではとてもダメだ、と市役所を去った人も多かった。そう泉さん自身が書いている。
しかし理想を曲げずに、邁進してきたからこそ、明石市の人口は増え、子どもの数も増え続け、市の税制は潤った。泉さんの市政に賛同する人が大勢いて、さらにそれは大きくなっている。
もう一つ、泉さんには強固な信念がある。
「しょせん人間の能力や、誤差の範囲でしかありません。」
五体満足な人と、障害のある人とは、誤差の範囲でしかないというのだ。これは障害者の弟と暮らし、そこから出てきた、実のある、重い言葉である。
しかし、そういう泉さんは、数限りない妨害、迫害を受けてきた。2022年7月には、「8月末までに市長を辞任しなければ殺す」、という殺害予告も受けている。
それが報道されると、その数は増え、殺害予告は百数十件にも及んだ。
警察に被害届を出し、自宅周辺にカメラを設置し、パトロールも強化されたが、犯人は未だに特定できない。そしてこのことは、家族の心にも、暗い影を落とすことになった。
「殺害予告を受けるのはこれが初めてのことではありません。市長になり、公共事業を削減し始めた直後から『殺す』とか『天誅下る』と書かれた手紙が自宅ポストに投げ込まれてきました。生き物の死骸や汚物を玄関前に置かれたりもしました。12年間もの長い間、家族にずっと怖い思いをさせたこともつらく、しんどかったのが正直なところです。」
しかしもちろん、泉さんは市民の側に立って選ばれた、という約束がある。泉さん自身も、冷たい社会を変えるという使命がある。泉さんは、「悲壮な覚悟で市長の職を務め続けて」きたのである。
公共事業のうち土建業は、やくざが絡んでいる。百数十件もの殺害予告は、組織的な犯行を推測させる。たいていは脅しだが、本当にイカレたやつがいたら、それまでである。
そう考えると、明石市長くらいで、悲壮な覚悟で理想を燃やすのは、何というか、割に合わない。そう考える私は、ロクなものではないが、しかしそう考えてしまう。
泉さん自身も、明石市ではいかにも土俵が小さい、と感じたのではないか。だから明石市の市長を辞めたのではないか。さて次はどのステージに上がるか、実に楽しみである。
(『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』
泉房穂、ライツ社、2023年1月31日初刷、2月21日第2刷)
ほとんど奇跡だ――『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』(泉房穂)(6)
どの政治家も、なぜかやろうとしない方法がある、と泉さんは言う。子どもを中心に、本や遊び場に力を入れると、経済が動き出すということである。
「子育ての『負担』と『不安』を軽減する。『安心』を提供する。安心なまちには人が集まり、経済もまちも元気になる。図書館で浮いた本代や、遊び場に払わずに済んだ余裕で、誕生日に家族で外食してもらえれば、商店街にもお金が落ちる。」
子どもに手を差し伸べると、地域の経済が回りだす、と泉さんは言う。
「市民の側から普通に考えれば分かることです。それでもなぜか、どの政治家もやろうとしなかったのです。」
これは政治家だけの話ではない。地方自治に携わっている役人、経済学者、経済・経営コンサルタント以下、諸々の人が、寄ってたかって知恵を出し合いながら、だれ一人、こういうふうにやってみたら、とは言わなかったものだ。
これはたんに泉房穂のアイディア、思いつきに留めておかずに、「地方自治体学」として早急に理論化し、公開すべきことだ。
ところで初めの方で、〈5つの無料化〉の中に、「おむつ定期便(0才児見守り訪問)」というのがあったことを、覚えているだろうか。
子育て経験のある職員が、0才児がいる家庭を月1回訪問して、おむつやミルク、離乳食などを届ける制度である。
私は、これは事情のある家庭以外は、必要ないんじゃないか、と思っていた。
しかし泉さんは、そうではないと言う。
「児童虐待で亡くなる子どもの半数は0才児です。
おむつはあくまで『きっかけ』。訪問先で不安や悩みを聞き、子どもが生まれたばかりの親を『孤立させない』ことが大きな目的なのです。」
ここまでは、誰もが考えそうなことだ。泉さんの冴えは、その先にある。
「〔親の〕孤立を防ぐ。その目的を果たすために、物理的にいい点がおむつにはあるのです。
答えは『かさばる』ことです。
玄関のドアのチェーンロックを外さないと、おむつを受け取れません。チェーンロックを外してもらえれば、玄関のドアが大きく開きます。反対にチェーンロックをしたままだと、わずか5センチぐらいしか開きません。」
なるほど、そういうことか。
これは全国区のニュースで、2014年に、児童相談所の職員が家庭訪問したところ、子どもは亡くなっているのに、人形に布団をかぶせて、ごまかしていたケースがあった。
明石市でも、生存が把握できない子どもが、実際にいた。
職員に、どうしてそんなことになるのか、と聞くと、「家の奥にいるみたいだが、ドアを開けてもらえない」との答え。これには我慢ならなかった。
「それを『はい』で済ますんかい! 窓ガラスかち割ってでも確認するからな!」。
いかにも関西、よしもと風、地が出てますなあ。
「思わず言葉を荒げてしまいましたが、なんとしてでも子どもの安全を確認するのが当然の役割です。冷たい社会を変えるために市長になったのです。誰も置き去りにせず、すべての子どもに100%会うのが当然のこと」。
この最後のことを、徹底してやれるかどうか。市職員の、やったつもりの事なかれ主義では、なにも解決できないのだ。
「子どもを守る現場には厳しい現実があります。弁護士時代にも、人間のどろどろしたリアリティを何度も経験してきました。」
だからこそ、「おむつ定期便」の見守り支援は、絶対に必要なことなのである。泉さんはそう考えている。
「子育ての『負担』と『不安』を軽減する。『安心』を提供する。安心なまちには人が集まり、経済もまちも元気になる。図書館で浮いた本代や、遊び場に払わずに済んだ余裕で、誕生日に家族で外食してもらえれば、商店街にもお金が落ちる。」
子どもに手を差し伸べると、地域の経済が回りだす、と泉さんは言う。
「市民の側から普通に考えれば分かることです。それでもなぜか、どの政治家もやろうとしなかったのです。」
これは政治家だけの話ではない。地方自治に携わっている役人、経済学者、経済・経営コンサルタント以下、諸々の人が、寄ってたかって知恵を出し合いながら、だれ一人、こういうふうにやってみたら、とは言わなかったものだ。
これはたんに泉房穂のアイディア、思いつきに留めておかずに、「地方自治体学」として早急に理論化し、公開すべきことだ。
ところで初めの方で、〈5つの無料化〉の中に、「おむつ定期便(0才児見守り訪問)」というのがあったことを、覚えているだろうか。
子育て経験のある職員が、0才児がいる家庭を月1回訪問して、おむつやミルク、離乳食などを届ける制度である。
私は、これは事情のある家庭以外は、必要ないんじゃないか、と思っていた。
しかし泉さんは、そうではないと言う。
「児童虐待で亡くなる子どもの半数は0才児です。
おむつはあくまで『きっかけ』。訪問先で不安や悩みを聞き、子どもが生まれたばかりの親を『孤立させない』ことが大きな目的なのです。」
ここまでは、誰もが考えそうなことだ。泉さんの冴えは、その先にある。
「〔親の〕孤立を防ぐ。その目的を果たすために、物理的にいい点がおむつにはあるのです。
答えは『かさばる』ことです。
玄関のドアのチェーンロックを外さないと、おむつを受け取れません。チェーンロックを外してもらえれば、玄関のドアが大きく開きます。反対にチェーンロックをしたままだと、わずか5センチぐらいしか開きません。」
なるほど、そういうことか。
これは全国区のニュースで、2014年に、児童相談所の職員が家庭訪問したところ、子どもは亡くなっているのに、人形に布団をかぶせて、ごまかしていたケースがあった。
明石市でも、生存が把握できない子どもが、実際にいた。
職員に、どうしてそんなことになるのか、と聞くと、「家の奥にいるみたいだが、ドアを開けてもらえない」との答え。これには我慢ならなかった。
「それを『はい』で済ますんかい! 窓ガラスかち割ってでも確認するからな!」。
いかにも関西、よしもと風、地が出てますなあ。
「思わず言葉を荒げてしまいましたが、なんとしてでも子どもの安全を確認するのが当然の役割です。冷たい社会を変えるために市長になったのです。誰も置き去りにせず、すべての子どもに100%会うのが当然のこと」。
この最後のことを、徹底してやれるかどうか。市職員の、やったつもりの事なかれ主義では、なにも解決できないのだ。
「子どもを守る現場には厳しい現実があります。弁護士時代にも、人間のどろどろしたリアリティを何度も経験してきました。」
だからこそ、「おむつ定期便」の見守り支援は、絶対に必要なことなのである。泉さんはそう考えている。
ほとんど奇跡だ――『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』(泉房穂)(5)
泉房穂が市長になる前、明石市は、よくある寂れた地方都市だった。明石駅前の一等地は、ダイエーがなくなって以降、幽霊ビルと化していた。
明石市の人口予測は、毎年1000人の割合で減少し、デベロッパーからは、「賑わいを生み出すのは難しい」、「名の知れた店がテナントに入ることはないだろう」と言われた。
泉さんが市長になる前の段階では、消費者金融やパチンコ屋などが入る予定だった。よくある地方都市の風景である。
泉さんはそれでは意味がないと考え、駅前の一等地を市民が望む施設にするために、アンケートを取った。
すると市民が希望したのは、第1位が「図書館」、第2位が「子育て支援施設」で、それは泉さんとまったく同じだった(うーん、ほんとかね)。
また一方、市民といっても、どういう母集団を選ぶかで、その結果は相当に違うと思う。
しかしとにかく、アンケートに即して、駅前のビルの公共空間を見直し、市役所の機能を集約、フロアの一つに図書館を、もう一つのフロアに親子の遊び場を作った。
「図書館と子育て支援施設をつくれば、国から数十億円の補助金もでます。〔中略〕コンセプトは『子ども』と『本』。公共サービスの窓口を一元化し、子どもの遊び場、本のまち明石の図書館を真ん中に置く。」
もしこんなことができるのなら、日本全国どこでもやればいいのだ。でも、どこもやらない。
「本を読む」という発想が、政治家には無いからだ。そして市民だって、本を読む人は、圧倒的少数である。
これは発端となった、市民が望むもののアンケートに、からくりがあるに違いない。
「駅前のビルに何が入ってほしいですか(複数に〇付け可)。
1 図書館 2 子どもの遊び場 3 サラ金(消費者金融) 4 パチンコ屋」
こういう類いのアンケートだったに違いない。これなら「私の考えとまったく同じ意見が多数を占めました」となるはずである。
そもそも日本人の、特に年寄りは本を読まない。ここからは私の感想だが、この9年間、デイケア、デイサービスで、私は、私以外に本を読んでいるのを、見たことがない。
いや、1人、男の人がいた。この人も、集団で参加するリクレーションのとき以外は、ひたすら本を読んでいた。この人は、脳溢血の後遺症のある、元文藝春秋の校閲部の人だった。
介護士が気を利かせて、席を隣り合わせにしてくれたが、2人とも黙って本を読むばかりで、ふだんは片言しか喋らなかった。
ことほど左様に、年寄りは本を読まない。あるいは若いときは、そこそこ本を読んだけれど、 70歳を越えると、目が辛くなるのかもしれない。そこは分からないが、とにかく日本の年寄りは、まったく本を読まない。
それに比べると図書館には、子どもがいる。幼児なら、その親もいるだろう。そこはサラ金やパチンコ屋よりも、大勢の人が集まるのかもしれない。
泉さんは市役所も工夫した。
「意識したのは導線です。妊娠してから子どもが生まれ、子どもが育っていく中で『ここに来ればなんでも相談できる場所』を駅前の便利な一等地につくりました。」
こういう普通の知恵、知恵というほどの知恵ではない、単なる想像力が、政治家には決定的に欠けている。
泉さんは子どものころに、「絵本を買って」とは言えなかった。受験勉強の問題集や参考書すら買ってもらえなかった。とにかくお金がなかった。
見かねた本屋の親父さんが、店内に机と椅子を用意してくれて、おかげで東大へ入れた。そのときの「ありがたさと申し訳なさ」は、忘れられるものではない。
「だからせめて、明石の子どもには思う存分、本を読ませてあげたいと思ってきました。
1つの家庭で1500円の絵本を1冊買っても、一人の子どもしか読むことができません。でも、みんなから預かった税金で絵本を1冊買えば、何十人、何百人という子どもたちが良い本を読めるのです。」
これが空疎な絵空事でないのは、泉さんの、子どものときの経験があるからだ。たきぎを背負った二宮尊徳は、もう古い。書店の片隅で勉強する、泉房穂の銅像ではどうか。
「本はやさしさや勇気、想像力を育みます。
人の悲しみや痛みを知るのは難しいことですが、本を読むことはその支えにもなってくれます。誰もが本に親しめるまちにすることが、冷たいまちを変え、やさしい社会につながっていく。税金はこういうことにこそ使うべきです。」
元出版社の人間としては感極まって、涙がこぼれそうだ。
明石市の人口予測は、毎年1000人の割合で減少し、デベロッパーからは、「賑わいを生み出すのは難しい」、「名の知れた店がテナントに入ることはないだろう」と言われた。
泉さんが市長になる前の段階では、消費者金融やパチンコ屋などが入る予定だった。よくある地方都市の風景である。
泉さんはそれでは意味がないと考え、駅前の一等地を市民が望む施設にするために、アンケートを取った。
すると市民が希望したのは、第1位が「図書館」、第2位が「子育て支援施設」で、それは泉さんとまったく同じだった(うーん、ほんとかね)。
また一方、市民といっても、どういう母集団を選ぶかで、その結果は相当に違うと思う。
しかしとにかく、アンケートに即して、駅前のビルの公共空間を見直し、市役所の機能を集約、フロアの一つに図書館を、もう一つのフロアに親子の遊び場を作った。
「図書館と子育て支援施設をつくれば、国から数十億円の補助金もでます。〔中略〕コンセプトは『子ども』と『本』。公共サービスの窓口を一元化し、子どもの遊び場、本のまち明石の図書館を真ん中に置く。」
もしこんなことができるのなら、日本全国どこでもやればいいのだ。でも、どこもやらない。
「本を読む」という発想が、政治家には無いからだ。そして市民だって、本を読む人は、圧倒的少数である。
これは発端となった、市民が望むもののアンケートに、からくりがあるに違いない。
「駅前のビルに何が入ってほしいですか(複数に〇付け可)。
1 図書館 2 子どもの遊び場 3 サラ金(消費者金融) 4 パチンコ屋」
こういう類いのアンケートだったに違いない。これなら「私の考えとまったく同じ意見が多数を占めました」となるはずである。
そもそも日本人の、特に年寄りは本を読まない。ここからは私の感想だが、この9年間、デイケア、デイサービスで、私は、私以外に本を読んでいるのを、見たことがない。
いや、1人、男の人がいた。この人も、集団で参加するリクレーションのとき以外は、ひたすら本を読んでいた。この人は、脳溢血の後遺症のある、元文藝春秋の校閲部の人だった。
介護士が気を利かせて、席を隣り合わせにしてくれたが、2人とも黙って本を読むばかりで、ふだんは片言しか喋らなかった。
ことほど左様に、年寄りは本を読まない。あるいは若いときは、そこそこ本を読んだけれど、 70歳を越えると、目が辛くなるのかもしれない。そこは分からないが、とにかく日本の年寄りは、まったく本を読まない。
それに比べると図書館には、子どもがいる。幼児なら、その親もいるだろう。そこはサラ金やパチンコ屋よりも、大勢の人が集まるのかもしれない。
泉さんは市役所も工夫した。
「意識したのは導線です。妊娠してから子どもが生まれ、子どもが育っていく中で『ここに来ればなんでも相談できる場所』を駅前の便利な一等地につくりました。」
こういう普通の知恵、知恵というほどの知恵ではない、単なる想像力が、政治家には決定的に欠けている。
泉さんは子どものころに、「絵本を買って」とは言えなかった。受験勉強の問題集や参考書すら買ってもらえなかった。とにかくお金がなかった。
見かねた本屋の親父さんが、店内に机と椅子を用意してくれて、おかげで東大へ入れた。そのときの「ありがたさと申し訳なさ」は、忘れられるものではない。
「だからせめて、明石の子どもには思う存分、本を読ませてあげたいと思ってきました。
1つの家庭で1500円の絵本を1冊買っても、一人の子どもしか読むことができません。でも、みんなから預かった税金で絵本を1冊買えば、何十人、何百人という子どもたちが良い本を読めるのです。」
これが空疎な絵空事でないのは、泉さんの、子どものときの経験があるからだ。たきぎを背負った二宮尊徳は、もう古い。書店の片隅で勉強する、泉房穂の銅像ではどうか。
「本はやさしさや勇気、想像力を育みます。
人の悲しみや痛みを知るのは難しいことですが、本を読むことはその支えにもなってくれます。誰もが本に親しめるまちにすることが、冷たいまちを変え、やさしい社会につながっていく。税金はこういうことにこそ使うべきです。」
元出版社の人間としては感極まって、涙がこぼれそうだ。
ほとんど奇跡だ――『社会の変え方―日本の政治をあきらめていたすべての人へ―』(泉房穂)(4)
この本を読み進めていくと、泉房穂の発想の違いに啞然とする。
例えば政策を実施するとき、まず最初に必要なのは、「発想の転換」であるという。
「最初に『事業者』を支援するのではなく、まずは『子ども』から支援する。『企業』でなく、消費者である『市民』の側から始めるからこそ経済が回り、持続可能な好循環につながります。」
言うは簡単だが、そううまくいくか、という不安は、泉さんにはまったくない。選挙ではあらゆる政党、業界団体に頼らずに、市民の側に立って戦ったのだから、それがいいという判断だ。
一番弱い存在である子どものことを、まず考えなければ、というわけだ。
「『親』にお金を配るのは厚生労働省、『先生』に給料を払うのは文部科学省、長期の『計画』は内閣府と、関係テーマで縦割りになっていました。」
つまり、子どもの立場にトータルに立つ者は、誰もいなかったということだ。
それはそうだろうな。選挙で票を持ってない子どもたちは、政治の表舞台からは消されたままだ。
子どもに焦点を当てた〈5つの無料化〉は、実は簡単にできる、と泉さんは言う。
地方自治法には首長の「権限」として、「予算を調整し、及びこれを執行すること」と明記されている。
「つまり無料化を実行できるかどうかというのは、政治のトップがやる気かどうか、ただそれだけの問題です。既存の制度を新たな市民負担なしで運用するだけ、かなりやりやすい施策なのです。」
まったく、発想の転換としか言いようがない。
これは要するに、市民の税金をどこに、どう使うかという話である。
「『公〔おおやけ〕』の使命・役割として、まず社会的に弱いところに使う。まずは『子ども』です。そうすれば子育て層からまちへとお金が動き、地域も賑わい経済も回ります。何度も言いますが、『子ども』から始めれば、市民みんなのためになり、まちのみんなが幸せになるのです。」
そういうことであるらしい。
しかしこれは「手段」としてというよりは、泉さんの中に、ある「理想」があり、それに基づいた政治だと思う。
もっとも、明石市が先頭を切って、子ども中心の政策をやるのは、どうかという気もする、と泉さんは言う。
「個々の自治体が単独で実施するのがいいのかは、おおいに疑問です。ベーシックな子育て支援は国がしてこそ、『すべての子ども』が救われると思っています。」
これは自民党の政治では、無理だろう。例えば、難民認定が取れずに、一家の中で父親だけが、帰国を余儀なくされる。残った母親と子ども、とくに子どもたちは、貧困のどん底に落とされてしまう。
そういうことを、自民党の政権は、何の痛痒も感じずにやってのける。というか、そういう子どもたちは眼中にない。
泉さんと、この国の政治には、果てしない隔たりがある。
例えば政策を実施するとき、まず最初に必要なのは、「発想の転換」であるという。
「最初に『事業者』を支援するのではなく、まずは『子ども』から支援する。『企業』でなく、消費者である『市民』の側から始めるからこそ経済が回り、持続可能な好循環につながります。」
言うは簡単だが、そううまくいくか、という不安は、泉さんにはまったくない。選挙ではあらゆる政党、業界団体に頼らずに、市民の側に立って戦ったのだから、それがいいという判断だ。
一番弱い存在である子どものことを、まず考えなければ、というわけだ。
「『親』にお金を配るのは厚生労働省、『先生』に給料を払うのは文部科学省、長期の『計画』は内閣府と、関係テーマで縦割りになっていました。」
つまり、子どもの立場にトータルに立つ者は、誰もいなかったということだ。
それはそうだろうな。選挙で票を持ってない子どもたちは、政治の表舞台からは消されたままだ。
子どもに焦点を当てた〈5つの無料化〉は、実は簡単にできる、と泉さんは言う。
地方自治法には首長の「権限」として、「予算を調整し、及びこれを執行すること」と明記されている。
「つまり無料化を実行できるかどうかというのは、政治のトップがやる気かどうか、ただそれだけの問題です。既存の制度を新たな市民負担なしで運用するだけ、かなりやりやすい施策なのです。」
まったく、発想の転換としか言いようがない。
これは要するに、市民の税金をどこに、どう使うかという話である。
「『公〔おおやけ〕』の使命・役割として、まず社会的に弱いところに使う。まずは『子ども』です。そうすれば子育て層からまちへとお金が動き、地域も賑わい経済も回ります。何度も言いますが、『子ども』から始めれば、市民みんなのためになり、まちのみんなが幸せになるのです。」
そういうことであるらしい。
しかしこれは「手段」としてというよりは、泉さんの中に、ある「理想」があり、それに基づいた政治だと思う。
もっとも、明石市が先頭を切って、子ども中心の政策をやるのは、どうかという気もする、と泉さんは言う。
「個々の自治体が単独で実施するのがいいのかは、おおいに疑問です。ベーシックな子育て支援は国がしてこそ、『すべての子ども』が救われると思っています。」
これは自民党の政治では、無理だろう。例えば、難民認定が取れずに、一家の中で父親だけが、帰国を余儀なくされる。残った母親と子ども、とくに子どもたちは、貧困のどん底に落とされてしまう。
そういうことを、自民党の政権は、何の痛痒も感じずにやってのける。というか、そういう子どもたちは眼中にない。
泉さんと、この国の政治には、果てしない隔たりがある。