憂国の士となって財務省に挑む――『ザイム真理教』(森永卓郎)(2)

そういうわけで、『ザイム真理教』を終わりまで読んでみたが、結局、消費税が徐々に税率を上げているのが元凶だ、という以外には無いようだ。
 
消費税が諸悪の根源、という言い方には、一定の説得力があるように思う。

「消費税率を5%に引き上げるまで、日本の実質賃金は上昇していた。ところが、消費税率を5パーセントに上げた途端に実質賃金の下落が始まった。日本経済がデフレに転落したからだ。」
 
森永さんは、デフレに転落したわけを、誰でもわかるように絵解きする。

「消費税率を上げると、その分だけ実質所得が減少する。そうなると消費関連の企業の売上げが落ちるから、リストラをしたり、賃金の低い非正社員に置き換えたりして、人件費を削る。そうすると、また所得が落ちて、消費が減少するという悪循環におちいるのだ。」
 
これは2014年に消費税率を8%に引き上げたときも、2019年に10%に引き上げたときも、起こったことだ。
 
しかし森永さんの、この見解を報道することは、テレビや新聞ではタブーになっているという。
 
ほんとかね、と私は思う。こういうのはむしろ、ガス抜きの意味も含めて、盛大に議論した方がよくはないか。
 
そして仮にそうであるとするなら、消費税を引き上げる前提として、非正規社員の給与を、正規の5割にせずに、ヨーロッパなどと同じく8割くらいにしておけば、それでデフレ・スパイラルは避けられたのではないかと思う。
 
もっともこれは、経済ではなく、政治の領分の話だろう。
 
森永さんは、また別のところで、違う言い方もしている。

「日本経済が成長できなくなった最大の理由は『急激な増税と社会保険料アップで手取り収入が減ってしまったから』だ。」
 
その結果、また同じようなことになる。

「使えるお金が減れば、消費が落ちる。消費が落ちれば、企業の売上げが減る。そのため企業は人件費を削減せざるを得なくなる。……という悪循環が続いたのだ。」
 
そうして著者は鉄槌を下す。

「ザイム真理教は、国民生活どころか、日本経済まで破壊してしまったのだ。」
 
これはその通りという気がする。とはいうものの、急速な高齢化社会社に向かっては、会保険料は上げざるを得ないだろう。「急激な増税」は、何を指すのか分からないから、判断は保留する。
 
日本人の少子化についても、言及されている。2022年には出生数は、初めて80万を切って79万人となり、これは前年よりも4万3000人少ない。
 
今週のニュースによれば、2023年には75万人で、ますます加速度的に出生数は少なくなっている。

これについては政府も、出産一時金だの、児童手当や育児休業制度の強化などを、実施しようとしている。
 
東京都も歩調をそろえるように、18歳まで子どもに月額5000円の給付を、所得制限なしで行なおうとしている。
 
しかし森永さんは、これは方向ちがいの政策で、少子化対策にはほとんど関係がないという。
 
非正規社員の男性の平均年収は、170万くらいだから、まずほとんどは結婚できないだろう。結婚できないのに、結婚後の政策を並べてどうしようというのだ。

「少子化対策は、最低賃金を大幅に引き上げるか、同一労働同一賃金を徹底するなどして、所得格差を縮めるべきなのだが、そうした対策は一切出てこない。」
 
政府や役人が、現実に即した政策を打てないことは、一体どうすればいいのか。

ここまで劣化が急速に進んでくると、なにか息苦しくなり、あの亡霊のような、「時代閉塞の現状」という言葉が思い出されてくる。

憂国の士となって財務省に挑む――『ザイム真理教』(森永卓郎)(1)

この本は、田中晶子が買ってきて、少し読んでいたそのとき、彼女は救急車で運ばれ、大動脈解離の手術を受け、そのまま入院してしまった。
 
家に残った私は、取るものもとりあえず、ということになった。半身不随、要介護3で、食事の支度も含めて、家事一切ができないから、ヘルパーが来るのを、ひたすら待つことになる。
 
そういう状態になっては、本も落ち着いて読めない。
 
というわけで、田中晶子が読んでいた『ザイム真理教』を読むことにする。
 
オビの表が、「ザイム真理教はいかにして/生まれ、どう国民生活を/破壊してきたのか?」、そしてオビ裏が、「財務省が布教を続けてきた/『財政均衡主義』という教義は、/国民やマスメディアや政治家に/至るまで深く浸透し、国民全体/が洗脳されてしまったのだ!」
 
こりゃあ面白いぞ、とワクワクさせる。

しかし「まえがき」のところで、私にはよくわからない経済政策について書いてある。
 
まず「財政均衡主義」という理念について。前半のところが、財務省の言う、「ザイム真理教」の教義だ。

「財政均衡主義は、政界や財界、学会をはじめ一般国民にまで幅広く、そして深く浸透している。税収の範囲内で財政支出をしなければならないという理念は、われわれの暮らしになぞらえると、至極当然のことだと理解しやすいからだ。
 しかし、国全体の財政、特に自国通貨を持つ国の財政にとって、財政均衡主義は誤っているどころが、大きな弊害をもたらす政策だ。」
 
景気が悪化して、モノやサービスを作れる経済力があるのに、それが売れずに余ったときには、政府が公共事業を増やしたり、減税をして、需要を拡大すべきなのだ、つまり「ザイム真理教」の教義は間違っている、正反対だ、と森永卓郎は言う。
 
そして例にもってくるのが、昔懐かしい教科書で習った、アメリカのニューディール政策だ。1930年代、テネシー川流域総合開発を行ない、大量雇用を実施し、さまざまな需要を喚起して、経済を立て直していった。
 
もう一つ、財政均衡主義は長期的にも間違っている、と著者は言う。

「じつは財政の穴埋めのために発行した国債を日銀が買ったときには、その時点で事実上政府の借金は消えるのだ。」
 
森永さん、信じられないことを言う。そう思いながら、もう少し聞いてみる。

「まず、元本に関しては、10年ごとに日銀に借り換えてもらい、永久に所有し続けてもらう。そうすれば、政府は返済の必要が亡くなる。政府は日銀に国債の利払いをしなければならないが、政府が日銀に支払った利息はごくわずかの日銀の経費を差し引いて、全額国庫納付金として戻ってくるから、実質的な利子負担はない。」
 
なんだかよく分からないなあ。でもとにかく森永さんは、日銀への借金は気にすることはない、と言っているわけだ。

「そんな錬金術のようなことができるのであれば、世界中で税金徴収の必要がなくなるではないかと思われるだろう。もちろん、こうしたやり方には限界がある。やりすぎると高インフレが襲ってくるのだ。ただ、現在の日本では、このやり方での財政資金調達の天井が相当高いことを、アベノミクスが図らずも証明したのだ。」
 
なあんだ、アベノミクスとやらで、出たとこ勝負でやっていたところ、まだもうちょっとゆとりがある、ということらしい。
 
では、その限界はどのあたりにあるか。それは森永さんにもわからないらしい。こりゃあ駄目だ。
 
しかし森永さんは、憂国の士となって、財務省に戦いを挑んでいる(らしい)。

「最近、ネツトの世界では『ザイム真理教』という言葉が頻繁に使われるようになった。財務省は、宗教を通り越して、カルト教団化している。そして、その教義を守る限り、日本経済は転落を続け、国民生活は貧困化する一方になる。」
 
著者の言う、日銀の借金棒引きという経済原理が、よくわからないし、行き過ぎてはいけないという限界が、どの程度までかも分からない。著者にもわからないのだろう、たぶん。
 
しかし国民のために、というのが本気ならば、やはり最後まで目を通す必要はあろう。

これは消化不良――『大丈夫な人』(カン・ファギル、小山内園子・訳)

カン・ファギル(姜禾吉)の『別の人』は傑作だった。
 
女と男が一人ひとり孤立していて、セックスをしても、誰とも繫がれない、どこにも出口がない。
 
韓国現代文学の極北といった感じで、読んでいても、苦虫を嚙み潰すようで、終始寒々として、実に充実した読書体験だった。
 
これはそれより前に、カン・ファギルの名を国際的に高からしめた短篇集である。
 
となれば、期待するなという方が無理である。収録作品は以下の通り。

  湖――別の人

  二コラ幼稚園――貴い人

  大丈夫な人

  虫たち

  あなたに似た歌

  部屋

  雪だるま

  グル・マリクが記憶していること

  手
              
そういうわけで勇んで読んだのだが、この短篇集はダメだった。
 
僕が個人的に面白く思わないのか、それで消化不良を起こしたのか、それとも、これは習作の類いではなく、作家がはっきり意図して、作り上げたものなのか。
 
ここでは「訳者あとがき」が手がかりになる。

「カン・ファギル作品の特徴の一つは、人間心理を丁寧に読みほどき、ほどいた糸でタペストリーを織り上げるかのごとく、上質のミステリーに仕上げる手腕にある。」
 
なるほどこれは面白そうだ。ところがそれに続いて、こういうことを言う。

「手法として用いられているのが『信頼できない話者』だ。話者の緊張の糸が張りつめるほど、語られる内容は虚実ないまぜになる。」
 
そんなことでは、上質のミステリーにならないじゃないか。

「主人公の不安が主人公への不信になり、やがては読者の不安になる。それこそが作家のねらいである。カン・ファギル作品は、物語の終わりを読者に委ねる『開かれた結末』を取ることが多い」。
 
なにが『開かれた結末』だ。結末を考え抜かないから、締まりのない、だらしない結末になるんじゃないか。いい加減にしなさい!
 
さらに作者はこんなことを言う。

「結末自体より、読んでいる過程の方がより重要だと考えています。〔中略〕読者がともに経験するかたち。登場人物の感情が最高潮に達したとき、物語が終わります。内容の結末よりも感情の結末を強調するのが私の小説の特徴です。」
 
こうまで開き直られたのでは打つ手なしだ、と思わせといて、しかし作家はしたたかだ。『別の人』に続く長編第2作目、『大仏ホテルの幽霊』では、こんなふうになっている。

「実在した『大仏ホテル』を舞台に、霊が住むと噂されるホテルにかろうじて居場所を見つけた四人の男女の人生が描かれている。息もつかせぬ展開と、見事に回収される伏線。あえて『開かれた結末』を選ばなかったという著者の新境地だ。そちらも、一日も早く日本の読者に紹介できればと思う。」
 
そうだろう、そう来なくっちゃ。そういう日がくることを、切に願っている。

(『大丈夫な人』カン・ファギル、小山内園子・訳、白水社、2022年6月5日)

つらい師匠の泣き笑い――『師匠はつらいよ―藤井聡太のいる日常―』(杉本昌隆)(2)

ここからは例によって、目についたところを。

「棋士の涙」はぐっとくる。もうすでに、多くの将棋ファンが知っている出口若武六段の話。

「叡王戦の第三局は藤井聡太叡王の勝利。タイトル防衛で幕を閉じたが、局後の主役はむしろ挑戦者の出口若武六段であった。
 初の大舞台、終盤のチャンス、一手の逆転、藤井叡王の壁……。感想戦の大盤解説会場で流した涙はファンの心を打つものであった。」
 
出口六段は第3局の終盤、必勝の局面を迎えていたのだ。それが一手のミスで、勝利は手からこぼれ落ちる。将棋では、藤井聡太以外では、実によくあることだ。
 
私はそれまで、出口若武を知らなかった。大盤解説会場で涙したのも、ぐっと来ることは来たが、しかし本来、対戦相手には失礼なことだ。
 
ところが大盤解説会場から戻って、2人で感想戦を始めたとき、印象はがらりと変わった。
 
この27歳の棋士が、20歳の藤井叡王に、ここはどうやるんですか、もしこうしていればどうなりましたか、ということを、実に真摯に問うているのだ。
 
それは明らかに藤井聡太を信頼して、ただ道を乞う人といった感じだった。7歳ほどの年の差は、問題にならなかった。終始、礼儀正しく、教えを乞う若者の姿勢だった。
 
私はいっぺんに出口若武のファンになった。
 
エッセイの後半に、もう1人の泣いた若者が出てくる。この人は、杉本一門だった。

「後に東京大学に進む弟子の一人が奨励会を退会する直前、最後の研究会で対局相手に指名したのが藤井だった。
 規格外の才能を間近で見られる最後の日。一門を去る涙、それを見送る涙、対局中でも止めることなどできない。まだ中学生の藤井奨励会員までもらい泣きしていた。それを陰から見て涙腺が緩む私。」
 
広く知られることでなくとも、人がギリギリのところで闘っていることがある。そしてその相手が、まだ奨励会員の藤井聡太だ、ということに意味がある。
 
一門を去るに当たって、圧倒的で、自分の適わぬ相手であることを、最後に確認して、去っていこうとする。
 
一方、そういうふうに選ばれるのが、自分だという宿命を自覚する藤井聡太。
 
これはどちらにとっても、大きな意味のあることなのだ。
 
最後に、杉本の師匠らしい言葉。

「感情移入の涙、自分のための涙、実際に流すよりは心の中で、というケースが多いだろう。だが人生、嬉しさや悔しさで泣けるうちが花、という気もするのである。」
 
師匠は時に、充実したつらさも味わっているのだ。
 
ところで、杉本昌隆の「師匠」以外のニックネームは、「リフォーム杉本」だ。
 
対局の中終盤、きったはったをやっている際中、突然持ち駒の金銀で、自陣の囲いを修復するのである。これは、負けない気持ちは伝わってくるが、鋭さや華やかさとは無縁である。

しかしこの異名には、生活感が溢れまくっていて、「なかなか良いではないか」と、杉本は気に入っている。

「最大のネックは、これが炸裂しても、勝利には全然近づかないこと。
『杉本さんのリフォームが出た! うへぇ、今日は終電で帰れないな』
 対局相手以外の関係者からは恐れられているようである。」
 
こういうエッセイが、100話入っている。
 
そうして途中に、先崎学との対談、「藤井聡太と羽生善治」も入っている。

(『師匠はつらいよ―藤井聡太のいる日常―』杉本昌隆、
 文藝春秋、2023年6月10日初刷、7月20日第4刷)

つらい師匠の泣き笑い――『師匠はつらいよ―藤井聡太のいる日常―』(杉本昌隆)(1)

藤井聡太は、変わらず八冠を手にしている。今は伊藤匠七段を挑戦者に迎え、棋王戦を戦っている。
 
第1局は自将棋で引き分け。改めて今週土曜日に、第2局が行なわれる。
 
第1局は藤井の先手だったので、伊藤は引き分けで、よくやったと思われている(先手はわずかに有利だとされる)。伊藤匠七段は藤井と7,8局戦って、まだ勝ったことがないのだ。
 
自将棋は見ていて力が入り、終わった後、何とも煮え切らない思いが残る。そこで、藤井聡太に関する本でも読もうか、となる。
 
これは『週刊文春』に連載中のエッセイを、キリのいいところ、100本でまとめたものだ。
 
杉本八段は、自分の肩書に「藤井聡太八冠の師匠」と付くのに、もう慣れ切っているように見える。
 
しかし杉本も将棋指しである。将棋指しは常に1人で立っている。「藤井の師匠、杉本昌隆」が、半分汚辱にまみれた呼称であることは、誰よりご本人が一番わかっていよう。だから「師匠はつらいよ」なのである。
 
そういうことを前提にして、それでも面白いのである。杉本師匠は、あるところで達観している。
 
たとえば「哀しき大型連休」の章。
 
杉本はいくつかの棋戦に敗退して、結果的に大型連休の様相を呈することになる。

「世間ではちょっと残念がられる飛び石連休だってスケールが違う。二週間休み、対局一日、次の日からまた三週間休み。傍目には殆ど無職である。
 勝率の高い藤井聡太二冠は、絶対に体験できないこの特権。どうだ藤井、これが師匠の底力だ!……ああ空しい。」
 
思わず笑ってしまう。しかしその笑いには、二分の苦虫が嚙みしめられている。
 
次は「ライバルという存在」。豊島将之からストレートで、藤井が竜王位を奪取し、四冠になったころである。

「神から天賦の才を与えられた、小学一年生の聡太少年を観た衝撃。この日が来ることは私には既定路線である。それでも四冠達成は胸にグッとくるものだ。
 実は今回、私は山口県宇部市の現地を訪れていた。夜中に藤井新竜王の部屋を訪れ祝福をする。でも、祝いの言葉より将棋談義が楽しそうな藤井新竜王。こちらも望むところである。時間の経つのも忘れ、いつまでも話し込んだのだった。」
 
結局、この時間が珠玉の宝物だから、藤井の師匠と言われようが、何と言われようが、全て許せるのである。

失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(6)

1969年はヴェトナム戦争が泥沼化し、国内では左翼各派が先鋭化し、各地で暴力闘争を繰り返していた。
 
校條さんは、早稲田大学文学部に入学はしたものの、革マルの独裁で全学ストライキが決行され、大学はほぼ半年間のロックアウトになった。

「卒業までの四年間、ろくに授業も受けられず、ナチまがいの暴力組織(革マル)の支配下にあって、教職員たちは嵐が止むまで冬眠状態、穴のなかでだんまりを決め込んでいた時期である。大学は学費も返さず、卒業証書だけを代わりに寄越した。」
 
早稲田のそういう時代は、樋田毅の『彼は早稲田で死んだ―大学構内リンチ殺人事件の永遠―』を読んで知った。それは「思い返せば、違う光景が」という題で、このブログに書いた。

このノンフィクションは、高い評判にもかかわらずひどい本で、そのことをそのまま書いた。
 
しかしこの本は、養老先生のいう「臨床読書」としては、実(じつ)のある本で、この時代の早稲田が、とうてい入学するに値しなかったことだけは、よく分かる(今はそんなことはないだろう、たぶん)。
 
校條さんは『富士日記』を、逆にそういう観点から、改めて見直している。

「そんな時代であったということは、『富士日記』からは微塵も伝わってこない。そこが不満なのではない。むしろ、社会を覆う雲とは無縁の生活の細々を拾っているからこそ、この『富士日記』いつまでも古びないで読まれているような気がするのである。」
 
一般にはそう言えるだろう。
 
しかしもちろん別の本の場合には、その時代が生々しく蘇ってくるから、時代を超えて読み継がれる、ということもありうる。これはどちらとも言えない。
 
終わりのところに、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』の話が出てくる。
 
武田泰淳の『富士』の担当編集者になった村松友視は、ありきたりの「山荘日記」ではつまらないと思い、『神州纐纈城』を持参したという。

「『神州纐纈城』は未完の長編であるが、純文学の作家たちの注目書でもあり、三島由紀夫、安岡章太郎もこの作品を愛好していた。一九九五年にオウム真理教のサティアンと呼ばれるアジトが本栖湖にも近い上九一色村(現在は富士河口湖町に吸収されている)に存在し、警察官が突入して教祖の麻原彰晃を逮捕したときに、私はちょうど水上勉と一緒にいたが、この作家が『神州纐纈城やなあ』と呟いたのを聞いている。」
 
ところが校條さんは、恥ずかしながらこの小説を読んでいなかった。それで「すぐに探し求め、夢中になって読了した記憶がある。」
 
私もまた恥ずかしいことに、この小説を読んでいない。さっそく読まなければ。
 
全体の終わりは、「永遠」と「今」をめぐる考察である。

「『富士日記』のなにが読者を感動させるのかというと、紙の上に書かれた文章に『今』が留められていて、それは決して過去ではなく『今』そこにある時空であるという、そのことが感動を呼ぶのではないだろうか。その『今』に『永遠』が重なって見える。」
 
優れた文章表現というのは、すべからくそういう面を持っている。
 
最後の一文はこうだ。

「一瞬にして永遠、人類も地球の存在も、過ぎれば一瞬、宇宙の塵になれば永遠だ。」

「あとがき」に、河出書房の編集者、太田美穂さんにお世話になったとある。私にとっても限りなく懐かしい人だ。

(『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』
 校條剛、河出書房新社、2023年5月30日初刷)

失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(5)

富士山麓の別荘で暮らしていると、雨の日が多い。この土地の湿気は、乾くことがない。校條さんは雨の日が嫌いだ。

「雨は、冬場には少なくなるが、夏場には長く滞在していると結構雨天の日が多い。梅雨が長引く年などは、いささか気持ちが腐ってくる。秋口にも雨が多いので、四六時中雨に降られて暮らしているように思ってしまう。」
 
予想外だが、山の天気は変わりやすいのだろう。それにしても雨が多いと、気持ちが腐ってくる。

「だから、雨のあと、晴れ間が現われたときの喜びは大きい。まだ濡れている樹々の葉っぱが黄金色に輝きだす瞬間の美しさは得も言われない。これこそが、森林のなかで暮らす歓びの最たるものだろう。」
 
陰気な雨の場面から、転調して明るいところへ出る。その喜びが文章に出ている。
 
校條さんは、雨の日が本当にきらいなのだ。それは理由がある。

「子どものときから、私は雨の日が好きではなかったが、百合子さんと同様、家族や知人、友人の死を数多く体験している身としては、どこにいても雨の日はますます楽しくなくなっている。樹林のなかの雨がさらに寂しいのは、百合子さんと同じである。」
 
校條さんは、家族や友人の死を「数多く体験して」いたのだ。それが同年代と比して、どのくらい多いかは知らない。またそれを聞き出して、多い少ないを言ってみたって、何の意味があるだろう。
 
雨の日に、校條さんは、死者を思い出すことが多い。それだけで十分ではないか。
 
そして再び、百合子さんの日記に戻る。

「泰淳が亡くなった年の夏、一九七六(昭和五十一)年の八月三十日は、雨が降っている日だった。夫が寝ている部屋のコタツに入りながら、『さびしいなあ』と百合子さんが呟くと、『さびしいなんていっちゃいけない!!』と泰淳は語気荒く叱る。いつもは、冗談交じりなのに、夫のその言葉に百合子さんは少し傷つく。だが、このふた月後には、泰淳はこの世の人ではなくなってしまう。体調が思わしくないときに、『さびしい』という言葉が病人には応えたのだ。」
 
この、雨の日をめぐる2ページほどの文章は、百合子さんと校條さんが、共鳴して沈み込んでいき、それを読んでいる私も、すっかり寂しくなってしまう。山の別荘に、こういう日があるとすれば、すばらしい。
 
百合子さんはほぼ毎年、夏になると井伏鱒二の『黒い雨』を読む。校條さんは読んだことがなかった。

「読むべき時期を逃してしまったのだが、『原爆』を扱っているというだけで、『反戦』『平和のありがたさ』などを教育的に教えようとする姿勢を警戒してしまうのだ。」
 
私も『黒い雨』を読んだことがない。校條さんが挙げているのと、同じことを感じる上に、そもそも井伏鱒二を、そんなに面白いと思ったことがない。
 
しかし校條さんは、百合子さんが毎年夏に読み返すのだから、読んでみた。

「やはり、読んでよかった。見たまま、経験したままの事実をほとんど即物的に伝える文章は、教訓にもきれいごとの羅列にも無縁であった。
〔中略〕戦争文学の白眉といってもいい作品に違いない。」

『黒い雨』を、武田百合子が毎夏読み、それを見て急ぎ校條さんが読み、戦争文学の白眉であるという。そうすると2人に続いて、私も読まずにはいられない。

失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(4)

アトランダムに続きを。

『富士日記』の中で、酔っ払った百合子さんが、別荘地を車で飛ばすシーンがある。校條さんによれば、『富士日記』の中でも「最高にはハイなシーンである。」

「〈酔って夜遅くスピードをあげて山の中を運転する素晴らしさ。お巡りさんも白バイもいない。両手を放して運転してみる。〉
 世の良識派にザマーミロと言いたくなるような、まことに素直な背徳表現である。チェーホフの短篇を『不倫の小説』としか読めなかった、私のかつての教え子たちにも言いたい。文芸は基本反道徳、反良識のものなのだと。」
 
百合子さんの酔っ払い手放し運転から、突然飛躍して、文学の悪の話にまで行ってしまう。
 
これは乱暴な言い方で、「世の良識派」からは、徹底的に突っ込まれるところだが、しかしこういう無防備なところに、校條さんの編集者として本音が出ている。
 
と同時に、原稿取りの実際のサジ加減が、分かるような気がして面白い。
 
文芸は「基本反道徳、反良識のもの」とは、必ずしも言えない。というよりも、道徳とか良識を超えるものであって、そんなことはどうでもいい。そこを基準に持ってくると、文学が文学ではなくなってしまう。
 
車谷長吉が『漂流物』で、衝動的に殺人を犯す料理人を、迫真の筆で描いたとき、芥川賞の審査委員は過半数が、物情騒然たる社会を煽るようなことはすべきでない、という理由で賞を与えなかった。
 
私は啞然とした。よそ行きの文学に将来はない。
 
長吉は怒りがこみ上げてくるようだった、と妻の高橋順子は書いている。

『インザ・ミソスープ』を書いた村上龍も、批判にさらされただろう。新宿を中心に大量殺人を繰り返す、気味の悪いペニスをもつ外国人は、そのころ連続殺人を犯した現実の犯人と、重ね合わせに読まれた。
 
読売新聞に連載されたから、反響も大きかったろう。単行本になったとき、村上龍があとがきに、そのことを淡々と書いていた。しかし一皮めくれば、本人は自分の力量に自信を持ち、ひょっとすると得意になっていたかもしれない。それが当然である、と私は思う。
 
一方、斎藤美奈子が東京新聞に書いていた、『海辺のカフカ』で、四国へ向かうバスの中で、主人公の少年は、年上の女性からペニスをしごかれ、女性の持つティッシュに射精する。それは重たい気持ちを和らげ、身体全体が軽くなるようなことだった。
 
しかしこの少年は未成年である。ジャニーズの問題が前面に出て、こういう性行為は微妙になった。人によっては、書くべきではない、という人もいるだろう。
 
斎藤美奈子のコラムは、『海辺のカフカ』の名前を出していない。なぜだろう。
 
もしジャニーズ問題が前面に出た後であれば、その性行為の場面は、違った文体で書かれたろう。しかし少年が、年上の女性の手で射精するところは、必ずあったと思うし、意味のある場面だったと思う。
 
文学と悪、または反社会という点では、いくらでも書くことがあるような気がするが、それではとりとめがなくなってしまう。
 
校條さんの言いたいことは、編集者は全力で著者を支えるから、作家は変なところでシュリンクせずに、ビビらずに、書きたいことを十全に書くように、というものではないか。
 
それが「文芸は基本反道徳、反良識のものなのだ」という、強い言葉になったのではないか。私はそう思う。

失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(3)

ここからはアトランダムにエピソードを引いておく。
 
武田泰淳の山荘のそばに、大岡昇平夫妻も山荘を得た。『富士日記』に登場する大岡昇平は、『成城だより』の大岡からするとなかなか信じられないが、三枚目で笑える話が多い。

校條さんが個人的に興味を持ったのは、次の挿話だ。

「ホラー映画『悪魔のいけにえ』を吉田の映画館で上映していたときのこと。百合子さんよりも、花〔武田夫妻の娘〕が猛烈推薦する。それを真に受けて観に行った大岡は、観始めから気に入らなかったが、とうとう我慢が出来ずに途中で切り上げて出てきたという。『たいへんなものを推薦してくれたな』と百合子さんたちをなじる。」
 
校條さんも『悪魔のいけにえ』で、同じような体験をしている。
 
脚本家の故・田向正健と校條さんは、仕事を離れて付き合いがあった。その田向正健の大のお気に入りが、この映画だった。
 
校條さんは、そのころ上映館はもうなかったので、VHSのテープで観たのだった。

「冒頭、手のひらにカミソリの刃で傷をつけるところから、私はもうイケマセン状態になってしまった。最後までなんとか観たが、そのあとテープは荷物の奥に放り込み、もちろん二度観ることはなくて、とうとう捨ててしまい、疫病神を始末した気分になった。」
 
校條さんは、大岡と同じ感覚を持っていたのだ。

しかしそのあとで、こう書く。

「あの映画にはしぶといファンがいるのである。」
 
ホラーと言えば養老孟司さん。映画ではなく本の方だが、いっときは会えば必ずスティーヴン・キングの話をされていた。
 
あまり熱心に話されるので、そのときは自分も、キングのものを読んでみるのだが、面白いことは面白いが、熱中してつづけて読むというふうにはならなった。

映画も同じである。『キャリー』も『シャイニング』も『ペット・セマタリー』も、ホラー映画としてはそれなりに面白いが、つまりは、それだけのこと。

『悪魔のいけにえ』は観ていない。
 
ホラー映画を観ても、根本は作りものだから、通り一遍の怖さしかないのである。私が本や映画のホラーに熱中しないのは、たぶんそこに原因がある。それはSFの本や映画に、肩入れできないのと同じことだろう。
 
なお、大岡昇平と武田泰淳の初対面については、面白いことがあった、と校條さんは書く。

「最初の出会いは一九五二(昭和二十七)年ごろだろうか。泰淳は鎌倉にも近い片瀬江ノ島に、大岡は鎌倉に住んでいたころだ。大岡は『武田の小説は下手だ』と中村光夫に話していたので、両者が仲違いしないように、中村が間に入って、関係をおだやかな方向に持っていったとどこかで読んだ。」
 
大岡昇平と中村光夫と武田泰淳、三者三様の微妙な肌触り、その違いが、分かるような気がする。作家と批評家、一度登録されれば、一生それで食って行けた時代の話である。
 
校條さんは、軽井沢にいた水上勉のもとに、原稿取りに通ったことがあるという。

「昼間は昼間で大工さんやら何やら、地元の知り合いが顔を出すし、原稿を書こうという夜になると、今度は秘書に来ていた女優さんや銀座のバーのママさんやらが相談ごとを抱えてやってくるという塩梅で、原稿が多少進むのは深夜になってからだった。」
 
いかにも、売れっ子の作家を持っている敏腕編集者という構図だが、校條さんは最後に意外なことを書く。

「こちらは、風呂に入れてもらい、食事をご馳走になって、酒を飲みながら待っているだけのことで、気楽な商売とも見えるだろうが、原稿待ちは人生の無駄だったような気持ちもある。」
 
私は、作家の小説原稿を取ったことがない。最初に入った出版社で、売れっ子の翻訳家の原稿を取ったことがあるだけだ。それは大変だったけれど、若い私には充実した待ち時間だった。
 
それがメインの仕事になり、一生の大半の仕事ということになると、そんなふうに思うものなのだろうか。
 
ところで今も、小説雑誌の編集者は、同じことをしているのだろうか。

失われた「山荘」を求めて――『富士日記の人びと―武田百合子を探して―』(校條剛)(2)

『富士日記』は、武田泰淳の半強制的な勧めで、武田百合子が書き始めたものである。始めたのは1964年7月18日、終わりは、武田夫妻が別荘暮らしに別れを告げる、1976年9月のことで、9日の日付が最終である。
 
そのひと月後に武田泰淳は、癌のため急逝する。
 
校條さんは、『富士日記』が再読、三読に値する作品であることを強調する。

「たとえば一九六六(昭和四十一)年六月九日――

 朝 ごはん、味噌汁(キャベツ、卵)、牛肉、でんぶ、うに。
 ひる お好み焼、スープ。
 夕 ごはん、塩鮭、キャベツバター炒め、茄子とかき玉のおつゆ。
 お汁粉を作って食べた。

 一見、情緒とは無縁の『もの』の記述に過ぎないが、いや、そのように見えるのだが、嚙みしめて読むと、これらの言葉には、百合子さんの『食べることへの強い興味』が裏打ちされていることに気がつくのだ。」
 
ここら辺りはちょっと苦しい。私は右の例を写したから、思わずどんな味だったろうと、それぞれの料理を舌に転がし想像したが、ただ読んだだけなら、やはり「情緒とは無縁の『もの』の記述」に、過ぎないのではないだろうか。
 
そこで焦点は、実は校條さんの探求そのものに移っていくのである。

「山の別荘は夏場に利用するところだと思っている人が多いだろうが、空気の澄んだ秋の高原の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。そういうとき、『何ていいところなんだろう』という百合子さんの声が再び聞こえてくるのだ。」
 
ここでも「百合子さんの声」をバックに、メインは校條さんの、秋の高原の筆舌に尽くしがたい素晴らしさが、歌われている点だ。
 
ところで武田泰淳は、どういう作家であったのか。この時代、編集者として名を成した人が、次から次に出てくる。その名前は省略するが、「その他、毎日新聞、岩波書店、筑摩書房、新潮社などの編集者が山荘を訪れてきたり、電報や管理所を通して連絡を寄越したりと、当時の泰淳の売れっ子振りに驚いてしまう。」
 
そういう作家だったのだ。
 
編集者の付き合い方も、現代とはだいぶ違う。

「東京の出版社が電子メールどころか、ファックスもないような状況で電車を使い河口湖駅まで来て、そこからタクシーを使って、あるいは東京からタクシーあるいはハイヤーを雇って、直に山荘に到着して来ている。〔中略〕編集者のほとんどは日帰りで、また東京まで折り返すのである。自動車代もさることながら、作家も編集者もそれだけの時間的に余裕があったわけだ。」
 
これは作家と編集者が、かつての幸福な日々を送った時代であった。即物的な話をすれば、1人の作家が、まず雑誌、そして単行本、現代文学の選集(全集)、作家の個人全集と、1つの作品で4度も稼いでいた時代があったのだ。
 
さらに作家の地位が違う。

「作家は一度作家になると、一生作家でいられた時代でもあった。現代では毎日のように新人がデビューして、古手の作家は定期的にある程度売れる作品を刊行していないと切り捨てられてしまうが、泰淳の時代は一旦、文壇が作家として認めると、その看板が褪せることはまず考えられなかったのである。」
 
作家は尊敬されていた。今では、作家を無条件に尊敬する人は、誰もいない。