かくも豊かな疑問――『飛ばないトカゲ―ようこそ! サイエンスの「森」へ―』(小林洋美)(2)

なにしろ3ページに1テーマだから、それを次々に紹介すればいいのだが、文章があまりに凝縮され過ぎていて、その要約が難しい。
 
たとえば「雨のにおい」と題するエッセイ。

「『雨のにおいは何のにおい?』という問いは、アリストテレスの頃からあった。さらに、『雨のにおいはどうやって空中にただようのか』も謎なのだ。」
 
実に魅力的な問いである。
 
Joungら科学者たちは、土の上に水滴を落とし、それを高速度カメラで600回も撮影し、ある仮説を得た。

「水滴が土に落ちて、ぺしゃんこになってから中央が盛り上がる。すると土と水滴の境界に気泡ができる。水が土に吸収されると、土の小孔に閉じ込められていた空気が排出されて気泡が大きくなり、それが水滴の表面に到達すると、破裂してエアロゾルが飛び散ることがわかった。」
 
図版もついている。水滴が地面に着地してから、エアロゾルが分散するまでが、時間の経過を追って図になっている。

「さらに、土壌の物質や細菌はエアロゾルに内包されて飛び、この細菌は一時間も生きていたという。雨が降ると土のにおい成分や細菌がエアロゾルになって空中に舞う。これが雨のにおいなのだとJoungらは考えている。」
 
いちおう謎は解けた、と見える。
 
しかし本物の科学者は、追及の手を緩めない。

雨のにおいは複雑で、単品ではない。代表的なのが、カビに似たコロニーを作る放線菌のストレプトマイセス属である。

「『カビくさい!』というあのにおいで、雨が降ると空中にただようが、『なぜこんなにおいを出すのか』がこれまた謎なのだ。」
 
これはもっともなようでいて、まっとうな疑問ではない。雨上がりのカビ臭いにおいとは、人間にとってそう思うだけで、他の生物にとっては、なんでもないものかもしれない。それは分からない。
 
しかし西洋の自然科学者は、神になり代わって考えるのだ。ひょっとすると、このにおいに惹きつけられる生物が、いるのかもしれない、と。
 
そこでストレプトマイセス属を餌にして罠を仕掛けると、なんと小型の節足動物であるトビムシが捕まったのだ。

「ストレプトマイセス属が生成するストレプトマイシンやカナマイシンなどの抗生物質は、動物によっては毒として働くが、トビムシは解毒できるらしく、ストレプトマイセス属を食べるのだ。トビムシがストレプトマイセス属のコロニーの一部を食べると、トビムシの体に芽胞がつく。さらに芽胞はトビムシに食べられても消化されず、どこか排泄された場所で新たなコロニーになる。」
 
雨のカビ臭いにおいには、ちゃんと目的があり、それを立派に果たしている菌がいるのだ。もっともトビムシが、人間と同じように、あの雨のカビ臭いにおいを、感じているかどうかは分からない。

「ストレプトマイセス属は、トビムシをにおいでおびき寄せ、乗り物にする。エアロゾルにも乗って遠くに飛んでいく。トビムシで地上を、エアロゾルで空中を移動する菌なのだ。」
 
だからと言って、「トビムシをにおいでおびき寄せ」るのかどうかは、分からない。
 
それにしても、自然はどこまでも精緻なものだ。