ヴェルナーは気づいていた。街の人は、延長した線路の先にある強制収容所については、見て見ぬ振りをしているのだ。
「誰もがあの貨物列車を見ている。けれど彼らの共通認識として、彼らはあれを見ていないことになっている。貨物列車を見たとしてもそこから突き出た腕は、見ていないことになっている。あのレールの先には、操車場があるのだと、皆が信じていることになっている。」
貨物列車から突き出た腕は、抹殺されることになるユダヤ人のものだ。
小説の後半に、印象的な軍人が出てくる。祖国のために死ぬことが最高の死だ、と信じるシェーラー少尉。その男が、顔を輝かせて語る。
「戦争というものは、人間の本質であり、人間が生み出した大いなる営みだ。偉大なる事業だ。飛行機が初めて飛んでから僅かに四十年で、我が国はジェット機という偉大なる兵器を生み出し、今や無人の飛行爆弾と宇宙まで届くロケットが、ロンドンに反撃を加えている。このように、戦争があればこそ科学技術は進展し、人間を孤独から救うのだ。およそ生きる人間は全て死ぬ。それならば、全ての人間に帰属を与え、進化を促す、戦争に感謝しようではないか」。
戦争の末期、負けとわかった段階で、それを認めたくない人は、空疎な言葉を重ねて、自らが死ぬことに、意義を見出す。完全な倒錯だが、大勢が狂っているときには、それが通る。
日本で言えば、大西滝治郎中将の発明した、特攻隊(神風特別攻撃隊)がそれである。
著者の逢坂冬馬は、シェーラー少尉を描いて、明らかに日本の特攻隊を示唆している、と私は思う。
「こいつは本気で言っているのだな、とヴェルナーは思った。ことシェーラー少尉に関して言えば、戦争がなければ生きがいのない人生を送っていたのだろう。」
日本の特攻隊について、そういうふうに言うのは、右翼や右寄りの人間がうるさい。しかし著者は、それを是とするものではないことは、言っておきたい。そう言うことだと思う。
さらにもう一人、アマーリエ・ホルンガッハーという女教師がいる。彼女はふとしたことから、ヴェルナーが、エーデルヴァイス海賊団を名乗っていることを知る。
「『ヴェルナー、自分が反体制的な人間だと考えているのなら、それを表に出すのは、もう少しあとでもいいと思うのよ。私がそうであるように、どのみちもうすぐ、この戦争は負けて終わる』
ヴェルナーは吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
シェーラー少尉とは別種のおぞましさをまとった大人の姿だった。」
利口に立ち回るホルンガッハー先生に、ヴェルナーは、これ以上はない悪態をつく。しかしそうしたところで、何が変わるだろう。
「ホルンガッハー先生程度の迎合主義者は無数にいるし、戦後も彼女は生き残るのだろう、という確信があった。自分の被った仮面を付け替え、戦時下に明かせなかった本心なるものを用意し、そうして彼女は戦後における『いい人』となるのだ。多分、何の疑問も抱かずに。
だがこの国、この地域、この村において、あのレールの先、そしてあまたある虐殺の現場を支えているのは、そういう人たちなのではないか。」
これは、戦争中の大人を見る見方としては、大変厳しいものだ。ホルンガッハー先生は、いかにも嫌な女教師として描かれているが、たぶん日本においても、大勢の人間がこのように生きていたのだろう。
しかもそれは、どちらかと言えば、上質とは言わないまでも、ましな人間だったのだろう。それを嫌な人間として描くことができたのは、10代の、まだ穢れていない主人公を通したからなのだ。
ヴェルナーたちは、強制収容所の機能を麻痺させるために、鉄道を破壊することに成功する。そのクライマックスへの筆の運びは、見事なものだ。
しかしそのクライマックスも、表の歴史としては封印される。ヴェルナーは、こみ上げてくる苦いものを、飲み下さざるを得ない。
逢坂冬馬はさらに末尾で、こういうことを書き記す。
「第二次大戦下に経営され、今もドイツに多少なりとも名残を示す企業があるならば、そのうちにナチ・ドイツによってもたらされた大量虐殺と強制労働という、邪悪な国家的事業の恩恵を受けなかったものを探すことは非常に困難なのだ。そしてその企業の発展や生産物を通じてある種の恩恵を受けた者の数は、文字通り無数と言える。」
そういう条件で、日本の財閥系企業、それに準ずる企業を、即座に数え上げることができる。
(『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬、早川書房、2023年10月25日初刷)