またも教科書のような小説――『歌われなかった海賊へ』(逢坂冬馬)(1)

このところ、「教科書ふう」というのが頭につく小説を、たて続けに読んだ。

ブレイディみかこ『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』、丸山正樹『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』、そうして逢坂冬馬のこの作品である。
 
どれも力作で面白い。しかし小説は、本当はこういうことではいけないはずだ。そこを「教科書ふう」にしているのは、時代のせいもある。そのことは最後に書く。
 
逢坂冬馬と言えば、『同志少女よ、敵を撃て』が、2022年の話題をさらった。これは2度読んだが、実に鮮烈な印象を持った。
 
その後、ロシアとウクライナが、戦争を起こしたので、この小説は一種、予言の書のように読まれることになった。もちろんロシアとウクライナの戦争は書いてない。しかし両国の微妙な関係については、突っ込んで書いてある。
 
そしてこんどは、ナチの時代のドイツである。
 
この本を読んでから、ネットで調べると、「エーデルヴァイス海賊団」というのは実際にあって、たびたびナチに戦いを挑んだという。
 
反ナチスを唱えた、白バラの抵抗運動は、みすずの本などで知っていたが、「エーデルヴァイス海賊団」というのは初耳だった。
 
ただしこの小説については、終わりに断り書きが付してある。

「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは必ずしも一致しません」。

「必ずしも」一致しないという言葉が、微妙と言えば微妙である。
 
全体の構造は回想形式になっていて、現代からナチの時代を振り返る、というものである。

ナチの時代と現代では、1人の人間が、同じように生きていくことはできない。過去を照らせば、大半の人間は隠そうとしても、どうしようもなく矛盾が顕われる。そのため、ナチの時代を生きてきた人間は、濃い陰翳を纏うことになる。

私は遠いところで、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』が、こだましているのを聞いた。
 
回想形式と現代が入れ子になっている場合には、もちろん回想が主たる旋律を奏でる。
 
回想時点の主役は、16歳のヴェルナー・シュトックハウゼン。彼の父親はゲシュタポに捕えられ、不当な裁判で死刑を宣告され、ギロチンに架けられた。
 
父親は軽いジョークのつもりで、ヒトラーとヒムラーを「最大の極悪人」と言い表わしていた。これが「公然たる防衛力の破壊」、すなわち自国の軍隊を攻撃するのと同じだと、強引に解釈されて、その罪は死に値する、と判決が下ったのだ。
 
ヴェルナーの周りには、そういう訳ありの若い男女が集まってくる。

そうしてナチに対して、さまざまな抵抗運動をするのだが、作者はそこで、現代日本人への切迫した警鐘を打ち鳴らしている。