アサッテの言語論、または隔靴掻痒――『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』(今井むつみ・秋田喜美)(3)

本書の叙述がときによろけるので、著者たちも体勢を立て直すべく、もう一度根本に返って、問題を設定し直している。

「最初は歩くことはもとより、立つこともできなかった子どもが、どのような方法をもって言語という高い山を登りきることができるのだろう? その秘密に迫ることが、記号接地問題、そして言語習得の謎を解き明かすことなのである。」
 
問題設定の方法は、堂々たるものだ。
 
ただしこの中で、「記号接地問題」だけが浮いている。本当にこれが問題なのだろうか。というのはそのあとで、AIについてこんなことを述べているからだ。

「2010にジェフリー・ヒントンにより深層学習(Deep Learning)のアルゴリズムが提案されたことを契機に飛躍的に発展し、今では多くの分野で実用されるようになった。」
 
それまでは、「身体と外界の相互作用によって知識を創るという発想は持たない」とされてきたAIが、ここに至って飛躍的な発展を遂げた(らしい)。
 
この文章を読んでも、言葉が上滑りしていて、よく分からない。

昔はこういうときは、読者より本の方が偉いとされたものだが、そのうちにネットの言葉が飛び交うようになり、本と区別がつかなくなり、その神通力は見事に消えた。
 
いまでは読者の方から、また訳の分からないことを言って、とたちまち敬遠される。

しかしこれはこれで、難しいものを読む場合に、読者の力が退化していくのだ。なかなかうまくは行かないものだ。
 
しかしこの後の内容は、非常によくわかる。

「現在(2023年4月)ChatGPTというというAIアプリが大いに世間を賑わせている。文字ベースで質問やリクエストをすると、即座に答えを返してくれる。多言語対応で、質問やリクエストを日本語ですれば日本語で、英語ですれば英語で答えが返ってくる。」
 
試しに、著者・今井むつみの本の冒頭を、英語訳するようにリクエストしてみよう。その例文(もちろん日本語である)と、AIアプリによる英語訳が載せてある。
 
その英訳を見て、著者はこう思う。

「文法の誤りはなく、自然な英文が返ってきた。英作文のテストならほぼ満点をつけるレベルである。〔中略〕記号接地をしていないのに、『記号から記号の漂流』でこれほど見事な翻訳をする。」
 
ただただ絶賛である。しかし、それなら「記号接地」は要らないのではないか、という言葉までは出てこない。

「今のニューラルネット型AIは記号接地をせずに学習をすることができ、人間の創造性は実現できないにしろ、普通の人間よりもずっと大量の知識を蓄え、知識を使って説明を行い、問題を解決できる。」
 
問題は「人間の創造性は実現できないにしろ」、というところ。本当にそう言えるのか、かなり怪しくなっている。
 
この後、後半では「アブダクション推理論」というのが出てくる。
 
人間は知識を使って、さらに知識を積み重ねることができる。これは人間以外の動物にはできないことだ。この点をもって、ただ人間だけが言葉を持てるのである、ということだが、これは古いことを、新しく言い換えているだけだ。
 
まず知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、果たして人間以外にできないものだろうか。
 
言葉で通じる動物がいないので、そう思っているが、そういうことでいいのだろうか。人間にある五感以上の第六感、第七感……というものはない、としていいのかどうか。
 
もちろん、こういうことを議論しても、ラチは明かない。だって五感より上は、人間にはないのだから。
 
しかし、人間にはないから考えるだけ無駄だ、といって、議論そのものを切り捨ててもいいとは思えない。数学で、三次元以上は人間の頭で空想はできないが、数式では可能だ、という例もある。
 
それにしても、私には分からない。地球上にこれだけ人類があふれ返り、他の動物、植物を圧迫しているときに、なお人間は火器を用いて、あちこちで戦争している。「知識を使って、さらに知識を積み重ね」た結果が、これだ。
 
もう一つは、やはりAIである。ChatGPTは、知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、できるのではないか。その果てにあるものを、想像しておいた方がいいのではないか。
 
著者たちが、いかにも新しいもののようにして、じつは古いことを議論しているときに、事態はもう、抜き差しならないところまで来ているような気がする。

(『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』今井むつみ・秋田喜美、
 中公新書、2023年5月25日初刷、8月30日第5刷)