この本は、メインタイトルの『言語の本質』よりも、サブタイトルの「ことばはどう生まれ、進化したか」が、本筋になっている。それを「言語の本質」というのは、誇大広告という気もする。
そこでの本質論は、「オノマトペ」と「アブダクション推論」というのが、2本の柱である(それもどうかなあ、というのが、本を読む前の私の印象である)。
オノマトペは、現在では擬音語だけではなく、擬態語や擬情語(「わくわく」などの内的な感覚・感情を表わす語)にも使われる。
これが、ことばが生まれるときの、最初の形ではないか、というのが、著者たちの仮説である。
ここでちょっと待てよ、と私は思う。「言語の起原」については、世界中でいつまでたっても百家争鳴、結論が出ないものだから、言語の起原を探るのは止めよう、ということになったのではないか。
そうしてその後、言語の内的な構造を探る、ソシュール以下の言語学が、出てきたのではなかったか。
それとも言語学の潮流が変わって、再び言語の起原を探るというのが、主流になったのだろうか。
その辺りは、簡単でいいので、説明が欲しい。
第2章で、「他言語のオノマトペは理解可能か」という項目がある。英語が母語の人間は、たとえば以下のオノマトペが分からない。
「『シャナリシャナリ』は着物姿、『カツカツ』はハイヒールと強く結びつくために女性性を喚起するのであろう。これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため、英語話者が想像できなかったのは無理もない。」
著者たちは、平気でこういうことを書きつける。自分の言っていることが、どういうことかが、まったく分かっていない。
「これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため」、というが、文化に深く根差していない言葉があるんだろうか。
その中で、分かるオノマトペもあれば、分からないのもある、ということではないか。
第3章「オノマトペは言語か」でも、著者たちは、オノマトペを言語とすることに力みかえっているが、かなり滑稽である。
オノマトペなどつまらない、という言語学者もいるようだが、そんなことは言語学者ではない私たちにとっては、どうでもいいことだ。とりあえずこの本を読むときに、オノマトペを言語として読んでいけばいいことだ。
それにしてもこの著者たちは、不用意な言葉を書きつけ過ぎる。たとえばこういうところ。
「書きことばよりも会話や育児場面でオノマトペが多く使われることを思うと、オノマトペはとくにコミュニケーション性の高いことばと言えるかもしれない。
コミュニケーションを目的とするというのは、多くの言語のオノマトペが共有する特徴である。」
まったく正気と思えない言い草だ。コミュニケーションを目的とするのは、言語一般に言えることであって、特に「多くの言語のオノマトペが共有する特徴」ではない。
「育児場面でオノマトペが多く使われる」のは、「オノマトペがコミュニケーション性の高いことば」なのではなく、育児という場面においては、一方の主役が幼児のためである。
そういう当たり前のことが分からないとは、再び言うが、本当にずさんだ。