久しぶりに八幡山の書店に寄ったので、本を何冊か買った。そのうちの1冊。
いまごろ『言語の本質』という題で、中公新書で本を著すというのは、よほどの碩学か、あまりに鋭すぎる新鋭か、それとも、まったくのドン・キホーテか。
そう思って、興味津々で読み進んだ。
まず「はじめに」のところで、「記号接地問題」というのが出てくる。これはもともと、人工知能(AI)の問題として考えられたものである。
「『〇〇』を『甘酸っぱい』『おいしい』という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは〇〇を『知った』と言えるのだろうか?
この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を『記号から記号へのメリーコーランド』と言った。記号を別の記号で表現するだけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、丸ごとの対象について身体的な経験を持たなければならない。」
こういうのをどう考えればいいんだろう。AIと結び付けていなければ、年寄りの言う、どんなことも経験しなければ分からない、というのと、まったく一緒ではないか。
この問題が新たに浮上してきたのは、言うまでもなく、AIが絡んでいるからだ。
そういうふうに見れば、AIは「記号から記号へのメリーゴーランド」と言って、それで済ませていることはできないはずだ。
だからこれは、「AIと言葉」というタイトルで、一書をものすべきである。
しかしそういうこととは別に、「記号接地問題」は、従来からある問題を焼き直して提出している。
「ロボットならカメラを搭載することができる。カメラから視覚イメージを得ることはできる。しかし私たちが対象について知っているのは、視覚イメージだけではない。触覚も、食べ物なら味覚も、対象のふるまい方や行動パターンも知っている。このような身体に根差した(接地した)経験がないとき、人工知能は〇〇を『知っている』と言えるのだろうか?」
正統に問題を提出しているつもりだが、これは問題の立て方を間違えている。
「身体に根差した(接地した)経験がないとき」、本を読んだり、人の話を聞いたりしても、対象をよく知っているとは言えないだろう。しかしだからと言って、本を読んだり、人の話を聞いたりすることは、無駄だからやめろとは誰も言わない。
人間には、そのために想像力があるのだ。
ではここで、「記号接地問題」として事新しく出てくる訳は、どこにあるのだろう。
言うまでもなく、一方の主体がAIであるからだ。
現在の人工知能は、実によくできている。対話すれば丁々発止、なんでも知っている。
この何でも知っている、というところが問題なのだ。主体はAI、つまり人間から見れば、意志をもった主体ではない(今のところは)。言ってみれば、「スカイネット」はまだ起動していない。
そういう主体なき主体、空虚な主体、主体モドキが、自在にことばを操るのを、どう考えればいいのだろう。
道筋としては、こういうふうに考えなければいけない。
しかしこのまま進んでは、この本からどんどん外れてしまう。ひとまず著者たちの言うことを聞こう。