教科書ふうミステリーの秀作――『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』(丸山正樹)(2)

最初に異議を唱えたのは、中途失聴者や難聴者たちだった。
 
ろう者の言語が「日本手話」のみであるならば、日本語と同じ文法を持つ、「日本語(対応)手話」は排除されてしまう。
 
その言語を用いる中途失聴者や難聴者は、突きつめて言えば、「ろう者ではない」と定義されることになってしまう。
 
これは難しい。ろう者が誇りを持つことは、大事なことである。しかし、そのために「日本手話」のみを際立たせると、それ以外の方法の模索、たとえば聴覚口話法や、ろう児の日本語習得の機会が、失われてしまうのではないか。
 
これはいま僕が考えても、どうしようもない。生身のろう者を、一人も知らないからだ。
 
ろう者同士のこの争いが、ミステリーの背景になっていると聞けば、観念的で鬱陶しいと思われるだろうが、そんなことは全然ない。
 
なお事件をめぐる途中で、優生保護のようなことが、ろう者に関しても行われていた、という話が出てくる。
 
荒井尚人に向かって、登場人物の一人がこう言う(〈 )で括ったのは手話による会話〉。

〈俺たちの若い頃には結構あったことだったんだ。『聴こえる』親が成人したろうの子どもに、『盲腸の検査』とかいって結婚前に不妊手術を受けさせたりすることは〉
〈それは、つまり……〉
〈あの頃はまだ、『ろうは遺伝する』って思われてたからな。少なくとも、そう思っている人はまだ多かった〉
 
こういう話を知ると、ろう者は障害者じゃない、という方に力が入り、「日本手話」は日本語とは違う文法を持っており、両方を駆使するろう者は、バイリンガルな存在だ、という方に加担したくなってしまう。
 
しかしそれは、たぶん絵に描いた餅で、そういうふうに上手くは行かないのだろう。
 
荒井尚人は最後に、自分の使命を悟る。つまりコーダであること自覚して、生きるようになる。

「彼らの言葉を、彼らの思いを正確に通訳できる人間がいて、それでようやく法の下の平等が実現するのだ。彼らの沈黙の声を皆に聴こえるように届けること。それこそが、自分がなすべきことなのだ。」

「あとがき」に、著者がこういう小説を書いた理由が、述べられている。

「私はもう二十年近く、頸椎損傷という重い障害を負った妻と生活を共にしている。その関係で様々な障害を持つ方々と交流する機会があり、彼らと接するうちに『何らかの障害を持った人を主人公にした小説は書けないだろうか』と思うようになった。」
 
そういうことだが、しかし障害の現場、ここでは「ろう者」を中心にして、よく書いたと思う。
 
障害の現場は、必ず利害が対立し、感情的にも、すんなりとはいかないどころか、しばしばむき出しで対立する。
 
さらには、「ろう者」や「手話」をめぐる対立が、刻々変化している。

「本作の手話チェックをお願いした全日本ろうあ連盟の方からは『現在、法律で手話が「言語」として正式に認められつつある。近い将来、単なる「手話」ではなく「手話言語」と呼ばれるようになるだろう』と教えていただいた。『だから私たちは手話に種類があるとは考えない。日本語に種類がないのと同じように』とも。」
 
ここは正直、分かりにくい。だって日本語には、種類があるでしょう。方言もあれば、男言葉と女言葉の違いもある。それが全部、日本語となって、豊かな日本語文化圏をつくっているのではないか。

「手話」または「手話言語」に関しては、外から見ている限りは、よく分からないところが多い。そういうミステリーとは違うものを取り入れて、読者が付いていける作品を完成させたのは、立派なものだと思う。

(『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』丸山正樹、
 文春文庫、2015年8月10日初刷、2020年6月30日第12刷)