シングルマザーたちが、600戸以上空き家になった公営団地の、一部を占拠するのを見て、警察がやってくる。
しかし若いマザーたちの、平和的な占拠活動を見て回ると、黙って帰っていった。
これは新聞記者の史奈子には、考えられないことだった。だってはっきり違法行為だから。
黒人女性のギャビーがこう語る。
「警察官だってある意味ではストリートの労働者だし、実はあたしたちの側にいるんだ。いまこの周辺で起きていることを見て、何かが狂ってると思わない人間はいない。その点では立場を超えて気持ちは同じだよ」。
イギリスでは警官も究極、個人の意思で仕事をする、と言いたそうだが、この辺は僕には眉唾である。モデルとされた占拠事件では、どうなっていたのか。
しかし公団住宅が、大量に空き家のまま放置されて、貧しい人たち、たとえばシングルマザーたちがロンドンに住めないというのは、まったくおかしい。
これは公団住宅をきれいにして、国が民間に払い下げて、商売しようという魂胆なのだ。
これを英語でジェントリフィケーション(gentrification)と言う。
正確な意味は、「都市において、低所得の人々が住んでいた地域が再開発され、お洒落で小ぎれいな町に生まれ変わること。『都市の高級化』とも呼ばれ、住宅価格や家賃の高騰を招き、もとから住んでいた貧しい人々の追い出しに繫がる。」
政府が貧しい人たちを犠牲にして、公共施設を払い下げて利益にするのは、民主主義の原則から行けば、多数の人々がそれを望んでいるから、ということにならないだろうか。
貧しい者は切り捨てる、ということか。そして貧しいものは、少数にとどまっているから、選挙で敗れてしまうのか。
ブレイディみかこの書くものは面白いけれど、いつもそういうところで引っかかる。英国の緊縮財政は、選挙民の意思ではないのか。
シングルマザーを援助しようと、昔、運動家だった人たちも集まってくる。その一人、ロブは、その懐かしい空間の隅で、もの思いにふける。
「瞳を閉じると、仲間たちが笑う声や議論する声が聞こえてくるような気がした。誰もが若くて、尖っていて、美しかった。みんな二十代で、世界や未来は自分の手のひらの中にあると信じていた。」
ここはなかなか納得できないところだ。「誰もが若くて、尖っていて、美しかった」のところは、「誰もが若くて、尖っていて、醜悪だった」に変えれば、ぴったりくる。
もちろん僕は、大学紛争の最盛期を体験していない。その頃は、姫路の高校三年生で、受験勉強をしていた。
大学にとおって、さあ、学生生活が始まるぞ、というとき、新学期の最初から3か月の全学ストに入った。名目は学費値上げ反対か、ベトナム戦争反対だった。
ストを打つ学生の言い分は、理屈の通ったものだった、机上の空論としては。そういうことである。
学費値上げも、ベトナム戦争も、東京の一大学がストで反対を叫んでも、どうにもならない。そういうことは分かっていて、しかし何かやらずにはおられなかったんだろう。
ブレイディみかこが、いつの時代のことを取り上げて、こういうふうに謳い上げるのかは分からない。ひょっとすると、1968年のフランス五月革命の頃は、そういう希望があったのかもしれない。それがヨーロツパ中に波及して、一時は「世界や未来は自分の手のひらの中にあると信じ」られたかもしれない。
しかし、だとしても、ブレイディみかこの書きぶりは、あまりに能天気ではないか。
しかしこの本は、そういうところもあるにはあるが、全体としてはよくできている。
ジェイドやギャビーやシンディは結局、別に住むところを自治体から提供される。
しかしもちろん運動は、それで終わることはない。だいたい皆で占拠活動をしたのに、論客の女性には手厚いことをしておきながら、おとなしい女性には、そこから洩れてる人もいた。
社会に目覚めたジェイドたちは、継続的な運動を目指すのである。
ブレイディみかこがこの小説で、日本人に何を言いたいかは、はっきりしている。日本人は政治に対し、もっと活発に意見を言いなさい、政治運動をしなさい、ということだ。
そうしなければ、とんでもないところに、連れていかれてしまうよ、というのがブレイディみかこの言い分である。昨今の情勢を見ると、たしかに半分は、その方向に足を踏み出している。
(『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』
ブレイディみかこ、筑摩書房、2023年8月5日初刷)