次は、本の題名になっている「飛ばないトカゲ」である。
Donihueらは、ハリケーンの本場、カリブ海の小島で、アノールトカゲの一種、サザンバハマズアノールを観測した。
たまたま2つのハリケーンが続けて上陸したので、「ハリケーンによる影響や回復について調べるまたとない機会だ」と考えたのである。
つまり「飛ばないトカゲ」というのは、「ハリケーンでは飛ばないトカゲ」、という意味なのだ。
「生き残り個体の体は小さく、体の大きさに比べて指先のパッドが大きく、前肢が長く、逆に後肢が短いことがわかった。この形態は枝にしがみつく能力と関係があるのかもしれないと考え、サザン四七匹に風を当て、観察した(図・動画)。」
トカゲがしがみついている図と、章タイトルの下にQRコードが載っていて、ケータイでトカゲがしがみついているのが分かる。本の世界も変わったものだ。
そうして得た結論は、次のようである。
「指先のパッドが大きく、前肢が長く後肢が短く、体サイズが小さい個体は、強風に耐えられる形態なのかもしれず、ハリケーンという極端な気象が自然淘汰を起こした初めての証拠かもしれない。」
「証拠かもしれない」と、断定口調ではなく、仮説にとどめておくのがいい。
末尾の一段は、考えさせる。
「『唯一生き残ることができるのは変化できる者である』とか、誰かが進化論の誤用をまき散らして開き直っているのを横目で見つつ、私はトカゲを見つめて考えたい。形態の多様性と環境要因(今回はハリケーン)との相互作用がもたらす変化。これこそが自然淘汰だなあ、と改めて思う。」
自然淘汰の意味は、そういうことなのだ。
次の「お尻に目」は面白い。
トラやライオンやヒョウは、待ち伏せタイプの狩り、つまり背後から獲物を襲う。そこでJordanらは、農場のウシのお尻に、目と、クロス(×印)と、何もしてないもの、3種類を用意して、ライオンとヒョウに襲わせた(3種のウシの、お尻の図版が出ている)。
実験の行程が細かく出ているが、使ったウシの数がすごい。およそ2000頭である。
「その結果、目を描かれたウシは一頭も襲われなかった。クロスを描かれたウシは四頭ライオンに襲われ、処理なしのウシはライオンに一四頭、ヒョウに一頭襲われた。目を描かれたウシはクロスや処理なしのウシよりも有意に襲われにくかったのだ。さらに、クロスを描かれたウシは処理なしのウシよりも有意に襲われなかった。」
この「有意に」というのがよくわからなくて、意味深である。どのくらいの割合であれば、「有意に」というのが使えるのだろうか。
それはともかく、背後から獲物を襲う動物に対して、後ろに目があるとどうなるか、と考えはするけども、実際に確かめてみるのは、さすが自然科学者だ。
しかしながら、この「お尻に目」を、どういうふうに考えるかが問題だ。
「奇妙に目立つクロスや目がお尻にあることで、ライオンは狩りをやめたのではないか、さらにそれが目模様ならば、『獲物に見つかった=狩りをやめる』と『だませた』ことでそのウシは襲われなかったのではないかと、Jordanらは考えている。」
ウシのお尻に目があった、あるはずのないところにあった、それでびっくりしてウシを襲わなかった、と考えるか、後ろにある目で、襲いかかる動物を、本当に見た、と考えるか。
これは目を模造品とするか、本物の目とするかで、まったく違った結論になる。結局、ライオンに聞いてみなければ分からないことだ。
最後にオチが付いている。
夫が買ってきた漫画、『ゴールデンカムイ』に、「おばけ川」という民話が出てくる。
「『化け物が出るという川のほとりで、男は魚を焼いていた。遠くで音がして足音が近づいてきたので、服を脱ぎ、尻に焚き火の炭で大きな目を描き、化け物の来るほうに尻を向けて股下からのぞいた。すると化け物は逃げていった』という話だった。〔中略〕ちょうど今回の論文を紹介しようと思っていたところだったので驚いた。」
これは図版として、漫画の1コマが載っている。もちろん尻まくりして、尻に目球を描いてあるところだ。
かくも豊かな疑問――『飛ばないトカゲ―ようこそ! サイエンスの「森」へ―』(小林洋美)(2)
なにしろ3ページに1テーマだから、それを次々に紹介すればいいのだが、文章があまりに凝縮され過ぎていて、その要約が難しい。
たとえば「雨のにおい」と題するエッセイ。
「『雨のにおいは何のにおい?』という問いは、アリストテレスの頃からあった。さらに、『雨のにおいはどうやって空中にただようのか』も謎なのだ。」
実に魅力的な問いである。
Joungら科学者たちは、土の上に水滴を落とし、それを高速度カメラで600回も撮影し、ある仮説を得た。
「水滴が土に落ちて、ぺしゃんこになってから中央が盛り上がる。すると土と水滴の境界に気泡ができる。水が土に吸収されると、土の小孔に閉じ込められていた空気が排出されて気泡が大きくなり、それが水滴の表面に到達すると、破裂してエアロゾルが飛び散ることがわかった。」
図版もついている。水滴が地面に着地してから、エアロゾルが分散するまでが、時間の経過を追って図になっている。
「さらに、土壌の物質や細菌はエアロゾルに内包されて飛び、この細菌は一時間も生きていたという。雨が降ると土のにおい成分や細菌がエアロゾルになって空中に舞う。これが雨のにおいなのだとJoungらは考えている。」
いちおう謎は解けた、と見える。
しかし本物の科学者は、追及の手を緩めない。
雨のにおいは複雑で、単品ではない。代表的なのが、カビに似たコロニーを作る放線菌のストレプトマイセス属である。
「『カビくさい!』というあのにおいで、雨が降ると空中にただようが、『なぜこんなにおいを出すのか』がこれまた謎なのだ。」
これはもっともなようでいて、まっとうな疑問ではない。雨上がりのカビ臭いにおいとは、人間にとってそう思うだけで、他の生物にとっては、なんでもないものかもしれない。それは分からない。
しかし西洋の自然科学者は、神になり代わって考えるのだ。ひょっとすると、このにおいに惹きつけられる生物が、いるのかもしれない、と。
そこでストレプトマイセス属を餌にして罠を仕掛けると、なんと小型の節足動物であるトビムシが捕まったのだ。
「ストレプトマイセス属が生成するストレプトマイシンやカナマイシンなどの抗生物質は、動物によっては毒として働くが、トビムシは解毒できるらしく、ストレプトマイセス属を食べるのだ。トビムシがストレプトマイセス属のコロニーの一部を食べると、トビムシの体に芽胞がつく。さらに芽胞はトビムシに食べられても消化されず、どこか排泄された場所で新たなコロニーになる。」
雨のカビ臭いにおいには、ちゃんと目的があり、それを立派に果たしている菌がいるのだ。もっともトビムシが、人間と同じように、あの雨のカビ臭いにおいを、感じているかどうかは分からない。
「ストレプトマイセス属は、トビムシをにおいでおびき寄せ、乗り物にする。エアロゾルにも乗って遠くに飛んでいく。トビムシで地上を、エアロゾルで空中を移動する菌なのだ。」
だからと言って、「トビムシをにおいでおびき寄せ」るのかどうかは、分からない。
それにしても、自然はどこまでも精緻なものだ。
たとえば「雨のにおい」と題するエッセイ。
「『雨のにおいは何のにおい?』という問いは、アリストテレスの頃からあった。さらに、『雨のにおいはどうやって空中にただようのか』も謎なのだ。」
実に魅力的な問いである。
Joungら科学者たちは、土の上に水滴を落とし、それを高速度カメラで600回も撮影し、ある仮説を得た。
「水滴が土に落ちて、ぺしゃんこになってから中央が盛り上がる。すると土と水滴の境界に気泡ができる。水が土に吸収されると、土の小孔に閉じ込められていた空気が排出されて気泡が大きくなり、それが水滴の表面に到達すると、破裂してエアロゾルが飛び散ることがわかった。」
図版もついている。水滴が地面に着地してから、エアロゾルが分散するまでが、時間の経過を追って図になっている。
「さらに、土壌の物質や細菌はエアロゾルに内包されて飛び、この細菌は一時間も生きていたという。雨が降ると土のにおい成分や細菌がエアロゾルになって空中に舞う。これが雨のにおいなのだとJoungらは考えている。」
いちおう謎は解けた、と見える。
しかし本物の科学者は、追及の手を緩めない。
雨のにおいは複雑で、単品ではない。代表的なのが、カビに似たコロニーを作る放線菌のストレプトマイセス属である。
「『カビくさい!』というあのにおいで、雨が降ると空中にただようが、『なぜこんなにおいを出すのか』がこれまた謎なのだ。」
これはもっともなようでいて、まっとうな疑問ではない。雨上がりのカビ臭いにおいとは、人間にとってそう思うだけで、他の生物にとっては、なんでもないものかもしれない。それは分からない。
しかし西洋の自然科学者は、神になり代わって考えるのだ。ひょっとすると、このにおいに惹きつけられる生物が、いるのかもしれない、と。
そこでストレプトマイセス属を餌にして罠を仕掛けると、なんと小型の節足動物であるトビムシが捕まったのだ。
「ストレプトマイセス属が生成するストレプトマイシンやカナマイシンなどの抗生物質は、動物によっては毒として働くが、トビムシは解毒できるらしく、ストレプトマイセス属を食べるのだ。トビムシがストレプトマイセス属のコロニーの一部を食べると、トビムシの体に芽胞がつく。さらに芽胞はトビムシに食べられても消化されず、どこか排泄された場所で新たなコロニーになる。」
雨のカビ臭いにおいには、ちゃんと目的があり、それを立派に果たしている菌がいるのだ。もっともトビムシが、人間と同じように、あの雨のカビ臭いにおいを、感じているかどうかは分からない。
「ストレプトマイセス属は、トビムシをにおいでおびき寄せ、乗り物にする。エアロゾルにも乗って遠くに飛んでいく。トビムシで地上を、エアロゾルで空中を移動する菌なのだ。」
だからと言って、「トビムシをにおいでおびき寄せ」るのかどうかは、分からない。
それにしても、自然はどこまでも精緻なものだ。
かくも豊かな疑問――『飛ばないトカゲ―ようこそ! サイエンスの「森」へ―』(小林洋美)(1)
女性が書く自然科学の本は面白い。郡司芽久の『キリン解剖記』も、田島木綿子の『海獣学者、クジラを解剖する。』も、今思い返してもわくわくする読書体験だった。
今度は『飛ばないトカゲ』である。もともとトカゲは飛ばないから、何を言っているのか分からない。そこがまた面白いところだ。
と思っていたら、これはトカゲの本ではなくて、自然科学の、ほんとに短いエッセイを集めた本だった。サブタイトルの「ようこそ! サイエンスの『森』へ」が、本の構成をそのまま語っている。
がっかりだなあ。でも定価2750円もする本だから、読まないわけにはいかない。
そう思って読んでいくと、なんと、これはこれでめちゃくちゃ面白いのだ。
最初に書いておくと、挿画・題字・本文イラストは、漫画家のとり・みきが描いている。編集者も、これが面白さ満載であることを伝えたくて、読者に直接わからせるべく、とり・みきを起用したのだ。あるいは著者から出た意見かもしれない。
この本は二部からなっていて、Ⅰ部は「論文の森の『イグ!』」、Ⅱ部は「続・モアイの白目」という題である。
「イグ!」は、イグ・ノーベル賞のイグで、要するに「イグ・ノーベル賞を取りそうな論文」をエッセイのタネにして、東大出版会のPR誌『UP』で紹介したものである。
なぜそんなことをしたかというと、著者の小林洋美は、『眼科ケア』という雑誌に、「モアイの白目」というタイトルで連載を持っており、それを書籍化して東大出版会から出したところ、それが好評だったので、『UP』でも同じ形式で始めたのだ。
すると第Ⅱ部の「続・モアイの白目」は、もうわかるだろう。『眼科ケア』で引き続き連載しているものを収録したのだ。
まず最初は「シマシマ作戦」。シマウマのシマは何のためにあるのか。
「研究者たちはシマウマの縞模様に一五〇年以上も前から魅了され、その機能について議論し続けてきたのだから。白黒の縞模様は天敵の目をくらますのだ、社会的なやりとりに使われるのだ、白色と黒色部分の温度差により気流が生じ体温が下がるのだ、虫に刺されにくいのだ、と。」
ここを読んで、私は考え込んでしまった。150年以上も前から、というのは、たぶんその頃から、シマウマの縞模様は何のため、という論文が現われたのだろう。
考えてみれば、暇なことだ。自然科学の人は、150年以上も前から、こんなことを考えていたのだ。
と同時に、シマウマの縞模様は何のためにあるのだろうと、その目的を考えずにはおかない、ということが面白い。
これは、神様が目的があって作った、とする考え方であろう。だいたいシマウマが、自分でデザインして作ったのではない以上、誰かが目的があって、作ったに違いないのだ。
そういう考え方があるとして、一方に、何も考えない、つまりシマシマの動物はいっぱいいたのだけども、全部滅びてシマウマだけが残った、とする考え方もある。ここでは神は、必ずしも出てこなければならないということはない。
自然科学は西洋のものだから、神を前提にして、色々な目的を、ああでもない、こうでもない、と考えずにはおかない。
そして150年以上の研究から、どうやらこれは、「虫に刺されにくい」という可能性が、いちばん有力だとわかってきた。
「シマウマの体毛は短く薄く、毛部分の厚みは二ミリに満たない。一方、ツェツェバエやアブの針の長さは三ミリ以上あるので、シマウマは簡単に刺されてしまいそうなのだが、シマウマは他の哺乳類よりも病気にならないし、ツェツェバエの体液からもシマウマの血液は発見されにくいのだ。これはシマシマ効果かもしれない。」
そういう研究が2010年代に出た。
すると別の研究者らが、それを受けて、こういう実験をした。
「アブ対策として黒ウシに白色塗料で島を描いたのだ。塗料のにおいが影響する可能性もあるので、別の黒ウシには黒色塗料で縞を書いた。すると、白色塗料で縞模様になった黒ウシにアブがとまった回数は、何もしていない黒ウシや黒色塗料の黒ウシの半分以下だったのだ。シマシマ効果、すごいなあ。」
そしてシマシマに塗った、牛の図版まで出ている。
面白いですねえ。しかもこれが、3ページのエッセイに収まっている。見事というほかない。
今度は『飛ばないトカゲ』である。もともとトカゲは飛ばないから、何を言っているのか分からない。そこがまた面白いところだ。
と思っていたら、これはトカゲの本ではなくて、自然科学の、ほんとに短いエッセイを集めた本だった。サブタイトルの「ようこそ! サイエンスの『森』へ」が、本の構成をそのまま語っている。
がっかりだなあ。でも定価2750円もする本だから、読まないわけにはいかない。
そう思って読んでいくと、なんと、これはこれでめちゃくちゃ面白いのだ。
最初に書いておくと、挿画・題字・本文イラストは、漫画家のとり・みきが描いている。編集者も、これが面白さ満載であることを伝えたくて、読者に直接わからせるべく、とり・みきを起用したのだ。あるいは著者から出た意見かもしれない。
この本は二部からなっていて、Ⅰ部は「論文の森の『イグ!』」、Ⅱ部は「続・モアイの白目」という題である。
「イグ!」は、イグ・ノーベル賞のイグで、要するに「イグ・ノーベル賞を取りそうな論文」をエッセイのタネにして、東大出版会のPR誌『UP』で紹介したものである。
なぜそんなことをしたかというと、著者の小林洋美は、『眼科ケア』という雑誌に、「モアイの白目」というタイトルで連載を持っており、それを書籍化して東大出版会から出したところ、それが好評だったので、『UP』でも同じ形式で始めたのだ。
すると第Ⅱ部の「続・モアイの白目」は、もうわかるだろう。『眼科ケア』で引き続き連載しているものを収録したのだ。
まず最初は「シマシマ作戦」。シマウマのシマは何のためにあるのか。
「研究者たちはシマウマの縞模様に一五〇年以上も前から魅了され、その機能について議論し続けてきたのだから。白黒の縞模様は天敵の目をくらますのだ、社会的なやりとりに使われるのだ、白色と黒色部分の温度差により気流が生じ体温が下がるのだ、虫に刺されにくいのだ、と。」
ここを読んで、私は考え込んでしまった。150年以上も前から、というのは、たぶんその頃から、シマウマの縞模様は何のため、という論文が現われたのだろう。
考えてみれば、暇なことだ。自然科学の人は、150年以上も前から、こんなことを考えていたのだ。
と同時に、シマウマの縞模様は何のためにあるのだろうと、その目的を考えずにはおかない、ということが面白い。
これは、神様が目的があって作った、とする考え方であろう。だいたいシマウマが、自分でデザインして作ったのではない以上、誰かが目的があって、作ったに違いないのだ。
そういう考え方があるとして、一方に、何も考えない、つまりシマシマの動物はいっぱいいたのだけども、全部滅びてシマウマだけが残った、とする考え方もある。ここでは神は、必ずしも出てこなければならないということはない。
自然科学は西洋のものだから、神を前提にして、色々な目的を、ああでもない、こうでもない、と考えずにはおかない。
そして150年以上の研究から、どうやらこれは、「虫に刺されにくい」という可能性が、いちばん有力だとわかってきた。
「シマウマの体毛は短く薄く、毛部分の厚みは二ミリに満たない。一方、ツェツェバエやアブの針の長さは三ミリ以上あるので、シマウマは簡単に刺されてしまいそうなのだが、シマウマは他の哺乳類よりも病気にならないし、ツェツェバエの体液からもシマウマの血液は発見されにくいのだ。これはシマシマ効果かもしれない。」
そういう研究が2010年代に出た。
すると別の研究者らが、それを受けて、こういう実験をした。
「アブ対策として黒ウシに白色塗料で島を描いたのだ。塗料のにおいが影響する可能性もあるので、別の黒ウシには黒色塗料で縞を書いた。すると、白色塗料で縞模様になった黒ウシにアブがとまった回数は、何もしていない黒ウシや黒色塗料の黒ウシの半分以下だったのだ。シマシマ効果、すごいなあ。」
そしてシマシマに塗った、牛の図版まで出ている。
面白いですねえ。しかもこれが、3ページのエッセイに収まっている。見事というほかない。
またも教科書のような小説――『歌われなかった海賊へ』(逢坂冬馬)(3)
ヴェルナーは気づいていた。街の人は、延長した線路の先にある強制収容所については、見て見ぬ振りをしているのだ。
「誰もがあの貨物列車を見ている。けれど彼らの共通認識として、彼らはあれを見ていないことになっている。貨物列車を見たとしてもそこから突き出た腕は、見ていないことになっている。あのレールの先には、操車場があるのだと、皆が信じていることになっている。」
貨物列車から突き出た腕は、抹殺されることになるユダヤ人のものだ。
小説の後半に、印象的な軍人が出てくる。祖国のために死ぬことが最高の死だ、と信じるシェーラー少尉。その男が、顔を輝かせて語る。
「戦争というものは、人間の本質であり、人間が生み出した大いなる営みだ。偉大なる事業だ。飛行機が初めて飛んでから僅かに四十年で、我が国はジェット機という偉大なる兵器を生み出し、今や無人の飛行爆弾と宇宙まで届くロケットが、ロンドンに反撃を加えている。このように、戦争があればこそ科学技術は進展し、人間を孤独から救うのだ。およそ生きる人間は全て死ぬ。それならば、全ての人間に帰属を与え、進化を促す、戦争に感謝しようではないか」。
戦争の末期、負けとわかった段階で、それを認めたくない人は、空疎な言葉を重ねて、自らが死ぬことに、意義を見出す。完全な倒錯だが、大勢が狂っているときには、それが通る。
日本で言えば、大西滝治郎中将の発明した、特攻隊(神風特別攻撃隊)がそれである。
著者の逢坂冬馬は、シェーラー少尉を描いて、明らかに日本の特攻隊を示唆している、と私は思う。
「こいつは本気で言っているのだな、とヴェルナーは思った。ことシェーラー少尉に関して言えば、戦争がなければ生きがいのない人生を送っていたのだろう。」
日本の特攻隊について、そういうふうに言うのは、右翼や右寄りの人間がうるさい。しかし著者は、それを是とするものではないことは、言っておきたい。そう言うことだと思う。
さらにもう一人、アマーリエ・ホルンガッハーという女教師がいる。彼女はふとしたことから、ヴェルナーが、エーデルヴァイス海賊団を名乗っていることを知る。
「『ヴェルナー、自分が反体制的な人間だと考えているのなら、それを表に出すのは、もう少しあとでもいいと思うのよ。私がそうであるように、どのみちもうすぐ、この戦争は負けて終わる』
ヴェルナーは吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
シェーラー少尉とは別種のおぞましさをまとった大人の姿だった。」
利口に立ち回るホルンガッハー先生に、ヴェルナーは、これ以上はない悪態をつく。しかしそうしたところで、何が変わるだろう。
「ホルンガッハー先生程度の迎合主義者は無数にいるし、戦後も彼女は生き残るのだろう、という確信があった。自分の被った仮面を付け替え、戦時下に明かせなかった本心なるものを用意し、そうして彼女は戦後における『いい人』となるのだ。多分、何の疑問も抱かずに。
だがこの国、この地域、この村において、あのレールの先、そしてあまたある虐殺の現場を支えているのは、そういう人たちなのではないか。」
これは、戦争中の大人を見る見方としては、大変厳しいものだ。ホルンガッハー先生は、いかにも嫌な女教師として描かれているが、たぶん日本においても、大勢の人間がこのように生きていたのだろう。
しかもそれは、どちらかと言えば、上質とは言わないまでも、ましな人間だったのだろう。それを嫌な人間として描くことができたのは、10代の、まだ穢れていない主人公を通したからなのだ。
ヴェルナーたちは、強制収容所の機能を麻痺させるために、鉄道を破壊することに成功する。そのクライマックスへの筆の運びは、見事なものだ。
しかしそのクライマックスも、表の歴史としては封印される。ヴェルナーは、こみ上げてくる苦いものを、飲み下さざるを得ない。
逢坂冬馬はさらに末尾で、こういうことを書き記す。
「第二次大戦下に経営され、今もドイツに多少なりとも名残を示す企業があるならば、そのうちにナチ・ドイツによってもたらされた大量虐殺と強制労働という、邪悪な国家的事業の恩恵を受けなかったものを探すことは非常に困難なのだ。そしてその企業の発展や生産物を通じてある種の恩恵を受けた者の数は、文字通り無数と言える。」
そういう条件で、日本の財閥系企業、それに準ずる企業を、即座に数え上げることができる。
(『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬、早川書房、2023年10月25日初刷)
「誰もがあの貨物列車を見ている。けれど彼らの共通認識として、彼らはあれを見ていないことになっている。貨物列車を見たとしてもそこから突き出た腕は、見ていないことになっている。あのレールの先には、操車場があるのだと、皆が信じていることになっている。」
貨物列車から突き出た腕は、抹殺されることになるユダヤ人のものだ。
小説の後半に、印象的な軍人が出てくる。祖国のために死ぬことが最高の死だ、と信じるシェーラー少尉。その男が、顔を輝かせて語る。
「戦争というものは、人間の本質であり、人間が生み出した大いなる営みだ。偉大なる事業だ。飛行機が初めて飛んでから僅かに四十年で、我が国はジェット機という偉大なる兵器を生み出し、今や無人の飛行爆弾と宇宙まで届くロケットが、ロンドンに反撃を加えている。このように、戦争があればこそ科学技術は進展し、人間を孤独から救うのだ。およそ生きる人間は全て死ぬ。それならば、全ての人間に帰属を与え、進化を促す、戦争に感謝しようではないか」。
戦争の末期、負けとわかった段階で、それを認めたくない人は、空疎な言葉を重ねて、自らが死ぬことに、意義を見出す。完全な倒錯だが、大勢が狂っているときには、それが通る。
日本で言えば、大西滝治郎中将の発明した、特攻隊(神風特別攻撃隊)がそれである。
著者の逢坂冬馬は、シェーラー少尉を描いて、明らかに日本の特攻隊を示唆している、と私は思う。
「こいつは本気で言っているのだな、とヴェルナーは思った。ことシェーラー少尉に関して言えば、戦争がなければ生きがいのない人生を送っていたのだろう。」
日本の特攻隊について、そういうふうに言うのは、右翼や右寄りの人間がうるさい。しかし著者は、それを是とするものではないことは、言っておきたい。そう言うことだと思う。
さらにもう一人、アマーリエ・ホルンガッハーという女教師がいる。彼女はふとしたことから、ヴェルナーが、エーデルヴァイス海賊団を名乗っていることを知る。
「『ヴェルナー、自分が反体制的な人間だと考えているのなら、それを表に出すのは、もう少しあとでもいいと思うのよ。私がそうであるように、どのみちもうすぐ、この戦争は負けて終わる』
ヴェルナーは吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
シェーラー少尉とは別種のおぞましさをまとった大人の姿だった。」
利口に立ち回るホルンガッハー先生に、ヴェルナーは、これ以上はない悪態をつく。しかしそうしたところで、何が変わるだろう。
「ホルンガッハー先生程度の迎合主義者は無数にいるし、戦後も彼女は生き残るのだろう、という確信があった。自分の被った仮面を付け替え、戦時下に明かせなかった本心なるものを用意し、そうして彼女は戦後における『いい人』となるのだ。多分、何の疑問も抱かずに。
だがこの国、この地域、この村において、あのレールの先、そしてあまたある虐殺の現場を支えているのは、そういう人たちなのではないか。」
これは、戦争中の大人を見る見方としては、大変厳しいものだ。ホルンガッハー先生は、いかにも嫌な女教師として描かれているが、たぶん日本においても、大勢の人間がこのように生きていたのだろう。
しかもそれは、どちらかと言えば、上質とは言わないまでも、ましな人間だったのだろう。それを嫌な人間として描くことができたのは、10代の、まだ穢れていない主人公を通したからなのだ。
ヴェルナーたちは、強制収容所の機能を麻痺させるために、鉄道を破壊することに成功する。そのクライマックスへの筆の運びは、見事なものだ。
しかしそのクライマックスも、表の歴史としては封印される。ヴェルナーは、こみ上げてくる苦いものを、飲み下さざるを得ない。
逢坂冬馬はさらに末尾で、こういうことを書き記す。
「第二次大戦下に経営され、今もドイツに多少なりとも名残を示す企業があるならば、そのうちにナチ・ドイツによってもたらされた大量虐殺と強制労働という、邪悪な国家的事業の恩恵を受けなかったものを探すことは非常に困難なのだ。そしてその企業の発展や生産物を通じてある種の恩恵を受けた者の数は、文字通り無数と言える。」
そういう条件で、日本の財閥系企業、それに準ずる企業を、即座に数え上げることができる。
(『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬、早川書房、2023年10月25日初刷)
またも教科書のような小説――『歌われなかった海賊へ』(逢坂冬馬)(2)
時は1944年のドイツ。ヴェルナー・シュトックハウゼンに、若いレオンハルトが言う。
「ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は高邁な理想を持たない。ただ自分たちの好きなようにいきる。ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は助け合わない。何が起きても自分で責任を取る」。
ただし、と若い女性、エルフリーデが、笑いながら付け加える。
「それでも、私たちは組織だよ」。
そういう、組織の弊害をできるだけ取り去った組織が、戦争状態にあるとき、稀に存在しうる。
1930年代後半、スペイン市民戦争のときの、カタロニアにおけるPOUMがそうだった。「マルクス主義統一労働者党」と名前は厳めしいが、アナーキストの集団だった。
ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』には、POUMの印象的な場面がある。
軍隊だから、命令を出す方と、命じられる方がある。このとき、命令される方が納得しない限り、命令は遂行されない。実に非効率だが、闘う者全員が、納得して闘っていた。
ジョージ・オーウェルは、このアナーキストの軍隊に感動している。
当然、内からはスペインのフランコ総統の軍隊、外からはソ連の一国社会主義者、スターリンによって、アナーキストの革命は潰された。
もちろん戦争のときには、非人間的な組織が圧倒的に増える。ドイツのナチ政権、ロシアのスターリン体制、日本の天皇制下の軍隊……、ろくなもんじゃない。
ともかく、エーデルヴァイス海賊団は、ナチ党に熾烈な戦いを挑んだ。
「活動は散発的で、同じ場所を続けて狙わず、忘れた頃に不意を突いておこなうのが鉄則だった。ナチ党が呼ぶところの『少年徒党集団』に対する弾圧は全国的に熾烈を極め、ケルンでは同じ『エーデルヴァイス海賊団』を名乗るグループの数名が裁判を経ずに縛り首になったが、これまでがそうだったように、弾圧が強化されるたびに、ナチスを憎む少年たちは自分たちの活動に熱中していった。」
こういうのは、どのように考えればいいのだろう。日本では、ついぞお目にかかることのなかった、ティーンエージャーによる抵抗運動。ドイツではそれが盛んだったと言うけれど、それをどの程度のものとしてよいか、正直雲を摑むような話だ。
事態はここから急激に動く。片田舎の町に、鉄道を延長する話があり、普通の人が乗らないその鉄道が、どういうものであるかが分からないのだ。
「終点駅の先に何があるのか、という疑問だけではない。周囲に目を配ると、皆、作業の合間の休息を堪能していた。不況にあえいでいた地域住民たち。その表情が活気付いていた。〔中略〕だが、外国人捕虜たちは、その休息を与えられることもなく、枕木の加工作業を続けていた。」
ヴェルナーが、嫌な感じがすると言ったとき、延長された線路の先には、強制収容所がまっていた。
この町の人たちも、終点の先にあるものは、何となくわかっていた。ただ景気が良くなれば、それ以上のことは頭から追い払い、見ないことにしたのだ。
それは戦後に意味を持つことになる。私たちは、捕虜を抹殺する強制収容所のことなど、知らなかったのだ、と。
「ナチスは収容所に入れる人たちに色のついた下向き三角形を与えることで、彼らを記号のように扱っていた。犯罪者は黒、共産主義者は赤、宗教的異端は紫、そして同性愛者はピンク。もしもその者がユダヤ人であれば、上向きの黄色い三角形が重ねられ、ダビデの星の形となる。」
ナチスは徹底的に人を差別した。もちろんナチスだけではない、アメリカも、他のヨーロッパの国々も、日本も、皆そうである。
「ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は高邁な理想を持たない。ただ自分たちの好きなようにいきる。ひとつ、エーデルヴァイス海賊団は助け合わない。何が起きても自分で責任を取る」。
ただし、と若い女性、エルフリーデが、笑いながら付け加える。
「それでも、私たちは組織だよ」。
そういう、組織の弊害をできるだけ取り去った組織が、戦争状態にあるとき、稀に存在しうる。
1930年代後半、スペイン市民戦争のときの、カタロニアにおけるPOUMがそうだった。「マルクス主義統一労働者党」と名前は厳めしいが、アナーキストの集団だった。
ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』には、POUMの印象的な場面がある。
軍隊だから、命令を出す方と、命じられる方がある。このとき、命令される方が納得しない限り、命令は遂行されない。実に非効率だが、闘う者全員が、納得して闘っていた。
ジョージ・オーウェルは、このアナーキストの軍隊に感動している。
当然、内からはスペインのフランコ総統の軍隊、外からはソ連の一国社会主義者、スターリンによって、アナーキストの革命は潰された。
もちろん戦争のときには、非人間的な組織が圧倒的に増える。ドイツのナチ政権、ロシアのスターリン体制、日本の天皇制下の軍隊……、ろくなもんじゃない。
ともかく、エーデルヴァイス海賊団は、ナチ党に熾烈な戦いを挑んだ。
「活動は散発的で、同じ場所を続けて狙わず、忘れた頃に不意を突いておこなうのが鉄則だった。ナチ党が呼ぶところの『少年徒党集団』に対する弾圧は全国的に熾烈を極め、ケルンでは同じ『エーデルヴァイス海賊団』を名乗るグループの数名が裁判を経ずに縛り首になったが、これまでがそうだったように、弾圧が強化されるたびに、ナチスを憎む少年たちは自分たちの活動に熱中していった。」
こういうのは、どのように考えればいいのだろう。日本では、ついぞお目にかかることのなかった、ティーンエージャーによる抵抗運動。ドイツではそれが盛んだったと言うけれど、それをどの程度のものとしてよいか、正直雲を摑むような話だ。
事態はここから急激に動く。片田舎の町に、鉄道を延長する話があり、普通の人が乗らないその鉄道が、どういうものであるかが分からないのだ。
「終点駅の先に何があるのか、という疑問だけではない。周囲に目を配ると、皆、作業の合間の休息を堪能していた。不況にあえいでいた地域住民たち。その表情が活気付いていた。〔中略〕だが、外国人捕虜たちは、その休息を与えられることもなく、枕木の加工作業を続けていた。」
ヴェルナーが、嫌な感じがすると言ったとき、延長された線路の先には、強制収容所がまっていた。
この町の人たちも、終点の先にあるものは、何となくわかっていた。ただ景気が良くなれば、それ以上のことは頭から追い払い、見ないことにしたのだ。
それは戦後に意味を持つことになる。私たちは、捕虜を抹殺する強制収容所のことなど、知らなかったのだ、と。
「ナチスは収容所に入れる人たちに色のついた下向き三角形を与えることで、彼らを記号のように扱っていた。犯罪者は黒、共産主義者は赤、宗教的異端は紫、そして同性愛者はピンク。もしもその者がユダヤ人であれば、上向きの黄色い三角形が重ねられ、ダビデの星の形となる。」
ナチスは徹底的に人を差別した。もちろんナチスだけではない、アメリカも、他のヨーロッパの国々も、日本も、皆そうである。
またも教科書のような小説――『歌われなかった海賊へ』(逢坂冬馬)(1)
このところ、「教科書ふう」というのが頭につく小説を、たて続けに読んだ。
ブレイディみかこ『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』、丸山正樹『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』、そうして逢坂冬馬のこの作品である。
どれも力作で面白い。しかし小説は、本当はこういうことではいけないはずだ。そこを「教科書ふう」にしているのは、時代のせいもある。そのことは最後に書く。
逢坂冬馬と言えば、『同志少女よ、敵を撃て』が、2022年の話題をさらった。これは2度読んだが、実に鮮烈な印象を持った。
その後、ロシアとウクライナが、戦争を起こしたので、この小説は一種、予言の書のように読まれることになった。もちろんロシアとウクライナの戦争は書いてない。しかし両国の微妙な関係については、突っ込んで書いてある。
そしてこんどは、ナチの時代のドイツである。
この本を読んでから、ネットで調べると、「エーデルヴァイス海賊団」というのは実際にあって、たびたびナチに戦いを挑んだという。
反ナチスを唱えた、白バラの抵抗運動は、みすずの本などで知っていたが、「エーデルヴァイス海賊団」というのは初耳だった。
ただしこの小説については、終わりに断り書きが付してある。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは必ずしも一致しません」。
「必ずしも」一致しないという言葉が、微妙と言えば微妙である。
全体の構造は回想形式になっていて、現代からナチの時代を振り返る、というものである。
ナチの時代と現代では、1人の人間が、同じように生きていくことはできない。過去を照らせば、大半の人間は隠そうとしても、どうしようもなく矛盾が顕われる。そのため、ナチの時代を生きてきた人間は、濃い陰翳を纏うことになる。
私は遠いところで、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』が、こだましているのを聞いた。
回想形式と現代が入れ子になっている場合には、もちろん回想が主たる旋律を奏でる。
回想時点の主役は、16歳のヴェルナー・シュトックハウゼン。彼の父親はゲシュタポに捕えられ、不当な裁判で死刑を宣告され、ギロチンに架けられた。
父親は軽いジョークのつもりで、ヒトラーとヒムラーを「最大の極悪人」と言い表わしていた。これが「公然たる防衛力の破壊」、すなわち自国の軍隊を攻撃するのと同じだと、強引に解釈されて、その罪は死に値する、と判決が下ったのだ。
ヴェルナーの周りには、そういう訳ありの若い男女が集まってくる。
そうしてナチに対して、さまざまな抵抗運動をするのだが、作者はそこで、現代日本人への切迫した警鐘を打ち鳴らしている。
ブレイディみかこ『リスペクト―R・E・S・P・E・C・T―』、丸山正樹『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』、そうして逢坂冬馬のこの作品である。
どれも力作で面白い。しかし小説は、本当はこういうことではいけないはずだ。そこを「教科書ふう」にしているのは、時代のせいもある。そのことは最後に書く。
逢坂冬馬と言えば、『同志少女よ、敵を撃て』が、2022年の話題をさらった。これは2度読んだが、実に鮮烈な印象を持った。
その後、ロシアとウクライナが、戦争を起こしたので、この小説は一種、予言の書のように読まれることになった。もちろんロシアとウクライナの戦争は書いてない。しかし両国の微妙な関係については、突っ込んで書いてある。
そしてこんどは、ナチの時代のドイツである。
この本を読んでから、ネットで調べると、「エーデルヴァイス海賊団」というのは実際にあって、たびたびナチに戦いを挑んだという。
反ナチスを唱えた、白バラの抵抗運動は、みすずの本などで知っていたが、「エーデルヴァイス海賊団」というのは初耳だった。
ただしこの小説については、終わりに断り書きが付してある。
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは必ずしも一致しません」。
「必ずしも」一致しないという言葉が、微妙と言えば微妙である。
全体の構造は回想形式になっていて、現代からナチの時代を振り返る、というものである。
ナチの時代と現代では、1人の人間が、同じように生きていくことはできない。過去を照らせば、大半の人間は隠そうとしても、どうしようもなく矛盾が顕われる。そのため、ナチの時代を生きてきた人間は、濃い陰翳を纏うことになる。
私は遠いところで、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』が、こだましているのを聞いた。
回想形式と現代が入れ子になっている場合には、もちろん回想が主たる旋律を奏でる。
回想時点の主役は、16歳のヴェルナー・シュトックハウゼン。彼の父親はゲシュタポに捕えられ、不当な裁判で死刑を宣告され、ギロチンに架けられた。
父親は軽いジョークのつもりで、ヒトラーとヒムラーを「最大の極悪人」と言い表わしていた。これが「公然たる防衛力の破壊」、すなわち自国の軍隊を攻撃するのと同じだと、強引に解釈されて、その罪は死に値する、と判決が下ったのだ。
ヴェルナーの周りには、そういう訳ありの若い男女が集まってくる。
そうしてナチに対して、さまざまな抵抗運動をするのだが、作者はそこで、現代日本人への切迫した警鐘を打ち鳴らしている。
アサッテの言語論、または隔靴掻痒――『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』(今井むつみ・秋田喜美)(3)
本書の叙述がときによろけるので、著者たちも体勢を立て直すべく、もう一度根本に返って、問題を設定し直している。
「最初は歩くことはもとより、立つこともできなかった子どもが、どのような方法をもって言語という高い山を登りきることができるのだろう? その秘密に迫ることが、記号接地問題、そして言語習得の謎を解き明かすことなのである。」
問題設定の方法は、堂々たるものだ。
ただしこの中で、「記号接地問題」だけが浮いている。本当にこれが問題なのだろうか。というのはそのあとで、AIについてこんなことを述べているからだ。
「2010にジェフリー・ヒントンにより深層学習(Deep Learning)のアルゴリズムが提案されたことを契機に飛躍的に発展し、今では多くの分野で実用されるようになった。」
それまでは、「身体と外界の相互作用によって知識を創るという発想は持たない」とされてきたAIが、ここに至って飛躍的な発展を遂げた(らしい)。
この文章を読んでも、言葉が上滑りしていて、よく分からない。
昔はこういうときは、読者より本の方が偉いとされたものだが、そのうちにネットの言葉が飛び交うようになり、本と区別がつかなくなり、その神通力は見事に消えた。
いまでは読者の方から、また訳の分からないことを言って、とたちまち敬遠される。
しかしこれはこれで、難しいものを読む場合に、読者の力が退化していくのだ。なかなかうまくは行かないものだ。
しかしこの後の内容は、非常によくわかる。
「現在(2023年4月)ChatGPTというというAIアプリが大いに世間を賑わせている。文字ベースで質問やリクエストをすると、即座に答えを返してくれる。多言語対応で、質問やリクエストを日本語ですれば日本語で、英語ですれば英語で答えが返ってくる。」
試しに、著者・今井むつみの本の冒頭を、英語訳するようにリクエストしてみよう。その例文(もちろん日本語である)と、AIアプリによる英語訳が載せてある。
その英訳を見て、著者はこう思う。
「文法の誤りはなく、自然な英文が返ってきた。英作文のテストならほぼ満点をつけるレベルである。〔中略〕記号接地をしていないのに、『記号から記号の漂流』でこれほど見事な翻訳をする。」
ただただ絶賛である。しかし、それなら「記号接地」は要らないのではないか、という言葉までは出てこない。
「今のニューラルネット型AIは記号接地をせずに学習をすることができ、人間の創造性は実現できないにしろ、普通の人間よりもずっと大量の知識を蓄え、知識を使って説明を行い、問題を解決できる。」
問題は「人間の創造性は実現できないにしろ」、というところ。本当にそう言えるのか、かなり怪しくなっている。
この後、後半では「アブダクション推理論」というのが出てくる。
人間は知識を使って、さらに知識を積み重ねることができる。これは人間以外の動物にはできないことだ。この点をもって、ただ人間だけが言葉を持てるのである、ということだが、これは古いことを、新しく言い換えているだけだ。
まず知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、果たして人間以外にできないものだろうか。
言葉で通じる動物がいないので、そう思っているが、そういうことでいいのだろうか。人間にある五感以上の第六感、第七感……というものはない、としていいのかどうか。
もちろん、こういうことを議論しても、ラチは明かない。だって五感より上は、人間にはないのだから。
しかし、人間にはないから考えるだけ無駄だ、といって、議論そのものを切り捨ててもいいとは思えない。数学で、三次元以上は人間の頭で空想はできないが、数式では可能だ、という例もある。
それにしても、私には分からない。地球上にこれだけ人類があふれ返り、他の動物、植物を圧迫しているときに、なお人間は火器を用いて、あちこちで戦争している。「知識を使って、さらに知識を積み重ね」た結果が、これだ。
もう一つは、やはりAIである。ChatGPTは、知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、できるのではないか。その果てにあるものを、想像しておいた方がいいのではないか。
著者たちが、いかにも新しいもののようにして、じつは古いことを議論しているときに、事態はもう、抜き差しならないところまで来ているような気がする。
(『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』今井むつみ・秋田喜美、
中公新書、2023年5月25日初刷、8月30日第5刷)
「最初は歩くことはもとより、立つこともできなかった子どもが、どのような方法をもって言語という高い山を登りきることができるのだろう? その秘密に迫ることが、記号接地問題、そして言語習得の謎を解き明かすことなのである。」
問題設定の方法は、堂々たるものだ。
ただしこの中で、「記号接地問題」だけが浮いている。本当にこれが問題なのだろうか。というのはそのあとで、AIについてこんなことを述べているからだ。
「2010にジェフリー・ヒントンにより深層学習(Deep Learning)のアルゴリズムが提案されたことを契機に飛躍的に発展し、今では多くの分野で実用されるようになった。」
それまでは、「身体と外界の相互作用によって知識を創るという発想は持たない」とされてきたAIが、ここに至って飛躍的な発展を遂げた(らしい)。
この文章を読んでも、言葉が上滑りしていて、よく分からない。
昔はこういうときは、読者より本の方が偉いとされたものだが、そのうちにネットの言葉が飛び交うようになり、本と区別がつかなくなり、その神通力は見事に消えた。
いまでは読者の方から、また訳の分からないことを言って、とたちまち敬遠される。
しかしこれはこれで、難しいものを読む場合に、読者の力が退化していくのだ。なかなかうまくは行かないものだ。
しかしこの後の内容は、非常によくわかる。
「現在(2023年4月)ChatGPTというというAIアプリが大いに世間を賑わせている。文字ベースで質問やリクエストをすると、即座に答えを返してくれる。多言語対応で、質問やリクエストを日本語ですれば日本語で、英語ですれば英語で答えが返ってくる。」
試しに、著者・今井むつみの本の冒頭を、英語訳するようにリクエストしてみよう。その例文(もちろん日本語である)と、AIアプリによる英語訳が載せてある。
その英訳を見て、著者はこう思う。
「文法の誤りはなく、自然な英文が返ってきた。英作文のテストならほぼ満点をつけるレベルである。〔中略〕記号接地をしていないのに、『記号から記号の漂流』でこれほど見事な翻訳をする。」
ただただ絶賛である。しかし、それなら「記号接地」は要らないのではないか、という言葉までは出てこない。
「今のニューラルネット型AIは記号接地をせずに学習をすることができ、人間の創造性は実現できないにしろ、普通の人間よりもずっと大量の知識を蓄え、知識を使って説明を行い、問題を解決できる。」
問題は「人間の創造性は実現できないにしろ」、というところ。本当にそう言えるのか、かなり怪しくなっている。
この後、後半では「アブダクション推理論」というのが出てくる。
人間は知識を使って、さらに知識を積み重ねることができる。これは人間以外の動物にはできないことだ。この点をもって、ただ人間だけが言葉を持てるのである、ということだが、これは古いことを、新しく言い換えているだけだ。
まず知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、果たして人間以外にできないものだろうか。
言葉で通じる動物がいないので、そう思っているが、そういうことでいいのだろうか。人間にある五感以上の第六感、第七感……というものはない、としていいのかどうか。
もちろん、こういうことを議論しても、ラチは明かない。だって五感より上は、人間にはないのだから。
しかし、人間にはないから考えるだけ無駄だ、といって、議論そのものを切り捨ててもいいとは思えない。数学で、三次元以上は人間の頭で空想はできないが、数式では可能だ、という例もある。
それにしても、私には分からない。地球上にこれだけ人類があふれ返り、他の動物、植物を圧迫しているときに、なお人間は火器を用いて、あちこちで戦争している。「知識を使って、さらに知識を積み重ね」た結果が、これだ。
もう一つは、やはりAIである。ChatGPTは、知識を使って、さらに知識を積み重ねることが、できるのではないか。その果てにあるものを、想像しておいた方がいいのではないか。
著者たちが、いかにも新しいもののようにして、じつは古いことを議論しているときに、事態はもう、抜き差しならないところまで来ているような気がする。
(『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』今井むつみ・秋田喜美、
中公新書、2023年5月25日初刷、8月30日第5刷)
アサッテの言語論、または隔靴掻痒――『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』(今井むつみ・秋田喜美)(2)
この本は、メインタイトルの『言語の本質』よりも、サブタイトルの「ことばはどう生まれ、進化したか」が、本筋になっている。それを「言語の本質」というのは、誇大広告という気もする。
そこでの本質論は、「オノマトペ」と「アブダクション推論」というのが、2本の柱である(それもどうかなあ、というのが、本を読む前の私の印象である)。
オノマトペは、現在では擬音語だけではなく、擬態語や擬情語(「わくわく」などの内的な感覚・感情を表わす語)にも使われる。
これが、ことばが生まれるときの、最初の形ではないか、というのが、著者たちの仮説である。
ここでちょっと待てよ、と私は思う。「言語の起原」については、世界中でいつまでたっても百家争鳴、結論が出ないものだから、言語の起原を探るのは止めよう、ということになったのではないか。
そうしてその後、言語の内的な構造を探る、ソシュール以下の言語学が、出てきたのではなかったか。
それとも言語学の潮流が変わって、再び言語の起原を探るというのが、主流になったのだろうか。
その辺りは、簡単でいいので、説明が欲しい。
第2章で、「他言語のオノマトペは理解可能か」という項目がある。英語が母語の人間は、たとえば以下のオノマトペが分からない。
「『シャナリシャナリ』は着物姿、『カツカツ』はハイヒールと強く結びつくために女性性を喚起するのであろう。これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため、英語話者が想像できなかったのは無理もない。」
著者たちは、平気でこういうことを書きつける。自分の言っていることが、どういうことかが、まったく分かっていない。
「これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため」、というが、文化に深く根差していない言葉があるんだろうか。
その中で、分かるオノマトペもあれば、分からないのもある、ということではないか。
第3章「オノマトペは言語か」でも、著者たちは、オノマトペを言語とすることに力みかえっているが、かなり滑稽である。
オノマトペなどつまらない、という言語学者もいるようだが、そんなことは言語学者ではない私たちにとっては、どうでもいいことだ。とりあえずこの本を読むときに、オノマトペを言語として読んでいけばいいことだ。
それにしてもこの著者たちは、不用意な言葉を書きつけ過ぎる。たとえばこういうところ。
「書きことばよりも会話や育児場面でオノマトペが多く使われることを思うと、オノマトペはとくにコミュニケーション性の高いことばと言えるかもしれない。
コミュニケーションを目的とするというのは、多くの言語のオノマトペが共有する特徴である。」
まったく正気と思えない言い草だ。コミュニケーションを目的とするのは、言語一般に言えることであって、特に「多くの言語のオノマトペが共有する特徴」ではない。
「育児場面でオノマトペが多く使われる」のは、「オノマトペがコミュニケーション性の高いことば」なのではなく、育児という場面においては、一方の主役が幼児のためである。
そういう当たり前のことが分からないとは、再び言うが、本当にずさんだ。
そこでの本質論は、「オノマトペ」と「アブダクション推論」というのが、2本の柱である(それもどうかなあ、というのが、本を読む前の私の印象である)。
オノマトペは、現在では擬音語だけではなく、擬態語や擬情語(「わくわく」などの内的な感覚・感情を表わす語)にも使われる。
これが、ことばが生まれるときの、最初の形ではないか、というのが、著者たちの仮説である。
ここでちょっと待てよ、と私は思う。「言語の起原」については、世界中でいつまでたっても百家争鳴、結論が出ないものだから、言語の起原を探るのは止めよう、ということになったのではないか。
そうしてその後、言語の内的な構造を探る、ソシュール以下の言語学が、出てきたのではなかったか。
それとも言語学の潮流が変わって、再び言語の起原を探るというのが、主流になったのだろうか。
その辺りは、簡単でいいので、説明が欲しい。
第2章で、「他言語のオノマトペは理解可能か」という項目がある。英語が母語の人間は、たとえば以下のオノマトペが分からない。
「『シャナリシャナリ』は着物姿、『カツカツ』はハイヒールと強く結びつくために女性性を喚起するのであろう。これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため、英語話者が想像できなかったのは無理もない。」
著者たちは、平気でこういうことを書きつける。自分の言っていることが、どういうことかが、まったく分かっていない。
「これらの音象徴は日本文化に深く根差した感覚であるため」、というが、文化に深く根差していない言葉があるんだろうか。
その中で、分かるオノマトペもあれば、分からないのもある、ということではないか。
第3章「オノマトペは言語か」でも、著者たちは、オノマトペを言語とすることに力みかえっているが、かなり滑稽である。
オノマトペなどつまらない、という言語学者もいるようだが、そんなことは言語学者ではない私たちにとっては、どうでもいいことだ。とりあえずこの本を読むときに、オノマトペを言語として読んでいけばいいことだ。
それにしてもこの著者たちは、不用意な言葉を書きつけ過ぎる。たとえばこういうところ。
「書きことばよりも会話や育児場面でオノマトペが多く使われることを思うと、オノマトペはとくにコミュニケーション性の高いことばと言えるかもしれない。
コミュニケーションを目的とするというのは、多くの言語のオノマトペが共有する特徴である。」
まったく正気と思えない言い草だ。コミュニケーションを目的とするのは、言語一般に言えることであって、特に「多くの言語のオノマトペが共有する特徴」ではない。
「育児場面でオノマトペが多く使われる」のは、「オノマトペがコミュニケーション性の高いことば」なのではなく、育児という場面においては、一方の主役が幼児のためである。
そういう当たり前のことが分からないとは、再び言うが、本当にずさんだ。
アサッテの言語論、または隔靴掻痒――『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』(今井むつみ・秋田喜美)(1)
久しぶりに八幡山の書店に寄ったので、本を何冊か買った。そのうちの1冊。
いまごろ『言語の本質』という題で、中公新書で本を著すというのは、よほどの碩学か、あまりに鋭すぎる新鋭か、それとも、まったくのドン・キホーテか。
そう思って、興味津々で読み進んだ。
まず「はじめに」のところで、「記号接地問題」というのが出てくる。これはもともと、人工知能(AI)の問題として考えられたものである。
「『〇〇』を『甘酸っぱい』『おいしい』という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは〇〇を『知った』と言えるのだろうか?
この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を『記号から記号へのメリーコーランド』と言った。記号を別の記号で表現するだけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、丸ごとの対象について身体的な経験を持たなければならない。」
こういうのをどう考えればいいんだろう。AIと結び付けていなければ、年寄りの言う、どんなことも経験しなければ分からない、というのと、まったく一緒ではないか。
この問題が新たに浮上してきたのは、言うまでもなく、AIが絡んでいるからだ。
そういうふうに見れば、AIは「記号から記号へのメリーゴーランド」と言って、それで済ませていることはできないはずだ。
だからこれは、「AIと言葉」というタイトルで、一書をものすべきである。
しかしそういうこととは別に、「記号接地問題」は、従来からある問題を焼き直して提出している。
「ロボットならカメラを搭載することができる。カメラから視覚イメージを得ることはできる。しかし私たちが対象について知っているのは、視覚イメージだけではない。触覚も、食べ物なら味覚も、対象のふるまい方や行動パターンも知っている。このような身体に根差した(接地した)経験がないとき、人工知能は〇〇を『知っている』と言えるのだろうか?」
正統に問題を提出しているつもりだが、これは問題の立て方を間違えている。
「身体に根差した(接地した)経験がないとき」、本を読んだり、人の話を聞いたりしても、対象をよく知っているとは言えないだろう。しかしだからと言って、本を読んだり、人の話を聞いたりすることは、無駄だからやめろとは誰も言わない。
人間には、そのために想像力があるのだ。
ではここで、「記号接地問題」として事新しく出てくる訳は、どこにあるのだろう。
言うまでもなく、一方の主体がAIであるからだ。
現在の人工知能は、実によくできている。対話すれば丁々発止、なんでも知っている。
この何でも知っている、というところが問題なのだ。主体はAI、つまり人間から見れば、意志をもった主体ではない(今のところは)。言ってみれば、「スカイネット」はまだ起動していない。
そういう主体なき主体、空虚な主体、主体モドキが、自在にことばを操るのを、どう考えればいいのだろう。
道筋としては、こういうふうに考えなければいけない。
しかしこのまま進んでは、この本からどんどん外れてしまう。ひとまず著者たちの言うことを聞こう。
いまごろ『言語の本質』という題で、中公新書で本を著すというのは、よほどの碩学か、あまりに鋭すぎる新鋭か、それとも、まったくのドン・キホーテか。
そう思って、興味津々で読み進んだ。
まず「はじめに」のところで、「記号接地問題」というのが出てくる。これはもともと、人工知能(AI)の問題として考えられたものである。
「『〇〇』を『甘酸っぱい』『おいしい』という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは〇〇を『知った』と言えるのだろうか?
この問題を最初に提唱した認知科学者スティーブン・ハルナッドは、この状態を『記号から記号へのメリーコーランド』と言った。記号を別の記号で表現するだけでは、いつまで経ってもことばの対象についての理解は得られない。ことばの意味を本当に理解するためには、丸ごとの対象について身体的な経験を持たなければならない。」
こういうのをどう考えればいいんだろう。AIと結び付けていなければ、年寄りの言う、どんなことも経験しなければ分からない、というのと、まったく一緒ではないか。
この問題が新たに浮上してきたのは、言うまでもなく、AIが絡んでいるからだ。
そういうふうに見れば、AIは「記号から記号へのメリーゴーランド」と言って、それで済ませていることはできないはずだ。
だからこれは、「AIと言葉」というタイトルで、一書をものすべきである。
しかしそういうこととは別に、「記号接地問題」は、従来からある問題を焼き直して提出している。
「ロボットならカメラを搭載することができる。カメラから視覚イメージを得ることはできる。しかし私たちが対象について知っているのは、視覚イメージだけではない。触覚も、食べ物なら味覚も、対象のふるまい方や行動パターンも知っている。このような身体に根差した(接地した)経験がないとき、人工知能は〇〇を『知っている』と言えるのだろうか?」
正統に問題を提出しているつもりだが、これは問題の立て方を間違えている。
「身体に根差した(接地した)経験がないとき」、本を読んだり、人の話を聞いたりしても、対象をよく知っているとは言えないだろう。しかしだからと言って、本を読んだり、人の話を聞いたりすることは、無駄だからやめろとは誰も言わない。
人間には、そのために想像力があるのだ。
ではここで、「記号接地問題」として事新しく出てくる訳は、どこにあるのだろう。
言うまでもなく、一方の主体がAIであるからだ。
現在の人工知能は、実によくできている。対話すれば丁々発止、なんでも知っている。
この何でも知っている、というところが問題なのだ。主体はAI、つまり人間から見れば、意志をもった主体ではない(今のところは)。言ってみれば、「スカイネット」はまだ起動していない。
そういう主体なき主体、空虚な主体、主体モドキが、自在にことばを操るのを、どう考えればいいのだろう。
道筋としては、こういうふうに考えなければいけない。
しかしこのまま進んでは、この本からどんどん外れてしまう。ひとまず著者たちの言うことを聞こう。
教科書ふうミステリーの秀作――『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』(丸山正樹)(2)
最初に異議を唱えたのは、中途失聴者や難聴者たちだった。
ろう者の言語が「日本手話」のみであるならば、日本語と同じ文法を持つ、「日本語(対応)手話」は排除されてしまう。
その言語を用いる中途失聴者や難聴者は、突きつめて言えば、「ろう者ではない」と定義されることになってしまう。
これは難しい。ろう者が誇りを持つことは、大事なことである。しかし、そのために「日本手話」のみを際立たせると、それ以外の方法の模索、たとえば聴覚口話法や、ろう児の日本語習得の機会が、失われてしまうのではないか。
これはいま僕が考えても、どうしようもない。生身のろう者を、一人も知らないからだ。
ろう者同士のこの争いが、ミステリーの背景になっていると聞けば、観念的で鬱陶しいと思われるだろうが、そんなことは全然ない。
なお事件をめぐる途中で、優生保護のようなことが、ろう者に関しても行われていた、という話が出てくる。
荒井尚人に向かって、登場人物の一人がこう言う(〈 )で括ったのは手話による会話〉。
〈俺たちの若い頃には結構あったことだったんだ。『聴こえる』親が成人したろうの子どもに、『盲腸の検査』とかいって結婚前に不妊手術を受けさせたりすることは〉
〈それは、つまり……〉
〈あの頃はまだ、『ろうは遺伝する』って思われてたからな。少なくとも、そう思っている人はまだ多かった〉
こういう話を知ると、ろう者は障害者じゃない、という方に力が入り、「日本手話」は日本語とは違う文法を持っており、両方を駆使するろう者は、バイリンガルな存在だ、という方に加担したくなってしまう。
しかしそれは、たぶん絵に描いた餅で、そういうふうに上手くは行かないのだろう。
荒井尚人は最後に、自分の使命を悟る。つまりコーダであること自覚して、生きるようになる。
「彼らの言葉を、彼らの思いを正確に通訳できる人間がいて、それでようやく法の下の平等が実現するのだ。彼らの沈黙の声を皆に聴こえるように届けること。それこそが、自分がなすべきことなのだ。」
「あとがき」に、著者がこういう小説を書いた理由が、述べられている。
「私はもう二十年近く、頸椎損傷という重い障害を負った妻と生活を共にしている。その関係で様々な障害を持つ方々と交流する機会があり、彼らと接するうちに『何らかの障害を持った人を主人公にした小説は書けないだろうか』と思うようになった。」
そういうことだが、しかし障害の現場、ここでは「ろう者」を中心にして、よく書いたと思う。
障害の現場は、必ず利害が対立し、感情的にも、すんなりとはいかないどころか、しばしばむき出しで対立する。
さらには、「ろう者」や「手話」をめぐる対立が、刻々変化している。
「本作の手話チェックをお願いした全日本ろうあ連盟の方からは『現在、法律で手話が「言語」として正式に認められつつある。近い将来、単なる「手話」ではなく「手話言語」と呼ばれるようになるだろう』と教えていただいた。『だから私たちは手話に種類があるとは考えない。日本語に種類がないのと同じように』とも。」
ここは正直、分かりにくい。だって日本語には、種類があるでしょう。方言もあれば、男言葉と女言葉の違いもある。それが全部、日本語となって、豊かな日本語文化圏をつくっているのではないか。
「手話」または「手話言語」に関しては、外から見ている限りは、よく分からないところが多い。そういうミステリーとは違うものを取り入れて、読者が付いていける作品を完成させたのは、立派なものだと思う。
(『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』丸山正樹、
文春文庫、2015年8月10日初刷、2020年6月30日第12刷)
ろう者の言語が「日本手話」のみであるならば、日本語と同じ文法を持つ、「日本語(対応)手話」は排除されてしまう。
その言語を用いる中途失聴者や難聴者は、突きつめて言えば、「ろう者ではない」と定義されることになってしまう。
これは難しい。ろう者が誇りを持つことは、大事なことである。しかし、そのために「日本手話」のみを際立たせると、それ以外の方法の模索、たとえば聴覚口話法や、ろう児の日本語習得の機会が、失われてしまうのではないか。
これはいま僕が考えても、どうしようもない。生身のろう者を、一人も知らないからだ。
ろう者同士のこの争いが、ミステリーの背景になっていると聞けば、観念的で鬱陶しいと思われるだろうが、そんなことは全然ない。
なお事件をめぐる途中で、優生保護のようなことが、ろう者に関しても行われていた、という話が出てくる。
荒井尚人に向かって、登場人物の一人がこう言う(〈 )で括ったのは手話による会話〉。
〈俺たちの若い頃には結構あったことだったんだ。『聴こえる』親が成人したろうの子どもに、『盲腸の検査』とかいって結婚前に不妊手術を受けさせたりすることは〉
〈それは、つまり……〉
〈あの頃はまだ、『ろうは遺伝する』って思われてたからな。少なくとも、そう思っている人はまだ多かった〉
こういう話を知ると、ろう者は障害者じゃない、という方に力が入り、「日本手話」は日本語とは違う文法を持っており、両方を駆使するろう者は、バイリンガルな存在だ、という方に加担したくなってしまう。
しかしそれは、たぶん絵に描いた餅で、そういうふうに上手くは行かないのだろう。
荒井尚人は最後に、自分の使命を悟る。つまりコーダであること自覚して、生きるようになる。
「彼らの言葉を、彼らの思いを正確に通訳できる人間がいて、それでようやく法の下の平等が実現するのだ。彼らの沈黙の声を皆に聴こえるように届けること。それこそが、自分がなすべきことなのだ。」
「あとがき」に、著者がこういう小説を書いた理由が、述べられている。
「私はもう二十年近く、頸椎損傷という重い障害を負った妻と生活を共にしている。その関係で様々な障害を持つ方々と交流する機会があり、彼らと接するうちに『何らかの障害を持った人を主人公にした小説は書けないだろうか』と思うようになった。」
そういうことだが、しかし障害の現場、ここでは「ろう者」を中心にして、よく書いたと思う。
障害の現場は、必ず利害が対立し、感情的にも、すんなりとはいかないどころか、しばしばむき出しで対立する。
さらには、「ろう者」や「手話」をめぐる対立が、刻々変化している。
「本作の手話チェックをお願いした全日本ろうあ連盟の方からは『現在、法律で手話が「言語」として正式に認められつつある。近い将来、単なる「手話」ではなく「手話言語」と呼ばれるようになるだろう』と教えていただいた。『だから私たちは手話に種類があるとは考えない。日本語に種類がないのと同じように』とも。」
ここは正直、分かりにくい。だって日本語には、種類があるでしょう。方言もあれば、男言葉と女言葉の違いもある。それが全部、日本語となって、豊かな日本語文化圏をつくっているのではないか。
「手話」または「手話言語」に関しては、外から見ている限りは、よく分からないところが多い。そういうミステリーとは違うものを取り入れて、読者が付いていける作品を完成させたのは、立派なものだと思う。
(『デフ・ヴォイス―法廷の手話通訳士―』丸山正樹、
文春文庫、2015年8月10日初刷、2020年6月30日第12刷)