こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(6)

青楓は大震災後、京都に戻って河上肇を訪ねた。河上肇はベストセラーの『貧乏物語』や、死後に刊行された『自叙伝』で有名な、京都帝国大学の教授である。マルクス主義経済学を研究し、後に共産主義の実践活動に入った。

河上肇の弟が、青楓と近いところの画家だった。青楓と河上は、初対面にもかかわらず、たちまち胸襟を開いて語り合う。

夏目漱石の次は河上肇、どちらもあけすけで、腹の底を見せ合っている。いよいよ青楓とは、いったい何者か。夏目漱石や河上肇と、人間の水準が同じであるということか。

その才能も底が知れない。このころ短歌雑誌『日光』が創刊され、同人に北原白秋、土岐善麿、前田夕暮などがいて、津田青楓も同人の一人に数えられていた。

「著名な歌人に伍して青楓も歌人として認められたことが分る。図案家、画家(洋画、日本画)、小説家、歌人と、青楓の才能は多様な展開を見せ始めていた。」
 
しかもそれだけではなく、その才能は驚くほど多面的だった。
 
日本人は古来から現代にいたるまで、「この道一筋、余計なものは削ぎ落とす」、が気に入っていて、真に多面的な才能は手に余るのか、評価することが難しい。
 
ここで青楓の河上肇評を載せておく。

「博士との交友に於て人間性は慇懃で謙遜で真摯で人間的魅力がどこかに蔵されてゐる。/博士の個性をつらぬくものは観念論的な世界への感情的追慕の情であり、理知的には唯物論的な世界への跪拝である。」(「河上博士の人間性」)
 
河上肇に対しても、自分を下に於いて仰ぎ見るところはまったくない。時代を画する才能とも、対等に付き合っている。
 
1933年7月19日、青楓のもとを刑事が訪れる。マルクス主義者、河上肇と付き合っていたからである。
 
このとき青楓は、制作中の《犠牲者(拷問)》が心配だった。これは、この本の口絵に出ていて、一度見たら忘れられない。

「そいつは余り生々しく、警察の連中を刺激すること百パーセントといふ作品なんだ。/一人の青年が梁に吊りさげられて、首をうなだれ、だらりと下げた二本の脚は荒縄がグルグル巻きつけられ、ズボンはぼろぼろにひきさかれて、そこから露出した肌からは血がべつとり流れ、股のさけ目からは陰部がはみ出し、そこに血痕が附着してゐる。一見拷問の残忍性を物語る酸鼻に堪へないやうなものだつた。」
 
小林多喜二の拷問による死を、著者自らが解説している。このときは、官憲の目をかわした。
 
しかしその一方で、青楓は同じ時期に、大量のヌードを描いている。口絵に採られた《出雲崎の女》のほか、本文中の挿図として、《裸婦〔トランプ〕》、《片足を上げる裸婦》、《浮世絵のある裸婦》、《裸婦》など豊満な女体を、これでもかというくらい描いている。
 
大塚さんは言う、津田は「正当に再評価されるべきであろう」と。
 
けれども明治以降ここまで、美術作品と作家を批評する言葉を、私たちは持たないできた。小林秀雄の美術批評の言葉は、外に向かって開かれてはいない。
 
大塚さんは、津田青楓の生涯を総括して、こんなふうに述べる。ここからが問題のところだ。

「小学校しか出ていない青楓が、がっしりと組み立てられた学歴社会=立身出世観の中で、自らの才覚だけを頼りに明治・大正・昭和を生き抜いてきた事実は、どんなに強調されても強調しすぎではない。」
 
そして、さらにこう述べる。

「小学校卒の学歴しか持たない青楓が、近代日本の立身出世主義の風土の中で、自らの才覚のみを頼りに一〇〇歳近くまで生き抜いた事実こそ、私たちがモデルとすべきものではないであろうか。」
 
私は、この青楓評にはまったく反対である。
 
青楓の生涯は永い。戦後、「転向」の問題があり、それの流れで、青楓による日本画の革新がなされた。

98年の人生で成し遂げたことを見れば、青楓とはある意味、怪物である。その怪物性がはっきり出ているのが、夏目漱石や河上肇との付き合い方である。
 
唐突だが、私はここで、司修さんのことを思い浮かべる。
 
ほとんど学校へは行かなかった司さんは、美術品としての絵画の他に、挿絵を描き、絵本を作った。
 
作家としては、川端康成賞、毎日芸術賞、大佛次郎賞など、数々の賞を取り、芥川賞の候補にもなった。
 
装幀家というジャンルを超えて、野間宏、大江健三郎、武田泰淳、水上勉、古井由吉、河合隼雄、網野義彦たちと、いわば共同作業をする。
 
津田青楓とはまったく違うが、しかし司さんを見ていると、学歴なんて関係がない、ということがよくわかる。司さんが付き合う人も、学歴を超越してしまった人々だ。
 
おそらく津田青楓も、学歴や立身出世主義とは無縁のところで、生きていたのだ。

夏目漱石や河上肇は、学歴社会を通り抜けてはきたが、通り過ぎてしまえば、まったくつまらぬ世界だと、引導を渡したに違いないのだ。そうして青楓に出会ったのだ。
 
そういう人と互角に付き合う青楓は、ここに全貌がはじめて記されたのであって、これは私たちがモデルにすべきものではないし、また絶対にできない。

その特異な精神と事績については、これから、深いところの辿り直しが始まるのだと思う。

(『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』
 大塚信一、作品社、2023年12月10日初刷)