こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(5)

もう一つ、漱石の青楓宛ての手紙を引用する(大正3年3月29日付)。

「世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことに此頃の春の光は甚だ好いのです。私は夫〔それ〕をたよりに生きてゐます。」
 
ほとんど魂の声ともいうべき言葉である。漱石からこういう手紙をもらった人が、何人いるだろうか。
 
次に挙げるのは1927年に発表した、青楓の「漱石の書」というエッセイで、大塚さんが引用をまとめたものに従う。

「自分は漱石さんの書に尊敬は払つてゐるが、それ程うまいとは思つたことがない」。「実際漱石さんの書は、良寛ほどの奔放自在にして枯淡に徹したものでもなければ、寂厳〔じゃくごん〕ほど天真にして力強いものでもない。」。「〔中略〕只一言、その態度が素裸体であるからと言ふ丈けのことである。/素裸体と云ふのは天真爛漫にして、自己をありのまゝに表現して現在以上に見せようとする、さむしい虚栄心を持たぬことである。」
 
書のみならず、漱石自身の本質に肉薄している。「さむしい虚栄心を持たぬこと」とは、みごとに的を射抜いた言葉だ。
 
1916年(大正5年)12月9日、夏目漱石が亡くなる。

青楓は最後の著書、『春秋九十五年』でこのように書いた。

「……私は先生にいろいろお世話になつたので何となく生みの親爺のやうな気がしてゐた。先生の臨終の枕元でお弟子たちが順々に筆に水をつけて口びるを濡らしてゐた。私の番になつた時声をあげて泣いてしまつた。泣けて泣けて仕方がなかつた。親に別れる以上に悲しかつた。」
 
門人それぞれに、別れの実情や心持ちは違うだろう。青楓にとっては、一切の条件をつけぬかたちの、漱石との別れだった。
 
この後、青楓は寺田寅彦と急速に親しくなる。青楓にとって寺田寅彦は、ほとんど唯一の絵の理解者ともなる。
 
寺田寅彦は、漱石のことを、偉い文学者にならずとも、文豪にならずともよかった、先生は先生のままでよかったのだ、と書いている。
 
青楓と寅彦は、漱石を同じ水準で理解し、共感していたのだ。
 
漱石はあらゆる文学賞を断り続けた。雑誌の読者賞まで断ったくらいだ。また文学博士にしてやるというのを、徹頭徹尾、喧嘩ごしで断ったのは有名な話だ。
 
しかしその漱石にしてからが、100年経つうちに、「文豪」として祭り上げられてしまった。難しいものだ。
 
例えば今で言えば大江健三郎。とにかくまずノーベル文学賞、これが飾られていれば、みんなヘヘーッとお辞儀をする。まるで水戸黄門の印籠である。

もはや大江の個別の作品については、誰も何も言わない。誰か大江健三郎を地べたに引きずりおろして、率直極まりない批評をしないものか。当の作家が、没してもなおそれを望んでいる、と思うのだが。
 
以後、青楓は最初の妻と離婚し、しばらくして再婚する。はじめの妻は、青楓と3人の子供をおいて、手芸や洋裁の勉強のためにパリに留学する。
 
100年以上も前に、夫と子供をおいてパリに留学する女性は、この人ひとりではないか。

夫婦は貫目が大事、という車谷長吉の言にならえば、実にお似合いの夫婦と思うのだが、正式に離婚してしまう。どちらも精一杯張り合うと、深刻な亀裂になるのかもしれない。難しいものだ。
 
この辺りも、苦悩する青楓像として、かなり書き込んであるが、いまは私生活の方は省略して、河上肇との出会いに焦点を絞ろう。