こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(4)

「第四章 漱石との親交」は、この本のハイライトである。漱石が津田青楓について語ると、それは生き生きしてくるのだ。つまり漱石を鏡にして青楓を見ると、その人となりが鮮やかに蘇るのだ。
 
漱石は誰に対しても遠慮がない。そして相手も、そういう人でないと、漱石は我慢できないようなのだ。
 
大正元年12月2日の、青楓宛ての漱石の手紙である。

「うんと面白い画をかいて見せてください。あなたの詩をよみました。(劇と詩)あれは駄目ですね。あんなものを書いちや駄目です。(劇と詩)のやうな雑誌へ出すにしても駄目ですよ さよなら」

『劇と詩』は、読売新聞記者の人見東明が出したものという。
 
漱石はその雑誌もかってないが、そこに載せた青楓の詩についても、全否定である(しかしここでは、青楓が詩を書いたことも覚えておきたい)。
 
大塚さんは2人の関係を、こんなふうに評する。

「漱石は好悪の判断がはっきりしている。だめなものはだめなのだ。一方青楓も、批評を求められれば、遠慮なくづけづけと指摘した。本音で話し合える関係を、二人とも楽しんでいたように思われる。」
 
漱石と本音で話し合える関係、と簡単に言うけれども、これはある意味、奇蹟的なことではないか。

芥川龍之介が漱石と面会したとき、緊張に包まれていたことを、思い出さずにはいられない。これが普通なのだ。

考えてみると、遠慮会釈なしに漱石と会っていたのは、寺田寅彦くらいではないか。しかしこちらは、五高の学生のときからだから、漱石の懐に飛び込んでいった、と言った方がいいかもしれない。
 
そうすると、漱石に対する青楓の位置が、きわめて特異なことが分かるだろう。
 
これは、帝大出が多く集まった「木曜会」など問題にしない、青楓の個性をよく物語っている。
 
そしてじつは漱石においても、学歴は最終的に問題にならない。帝国大学を辞めて、朝日新聞に入ったことを考えればわかる。新聞の地位は、このとき驚くほど低い。
 
漱石との交流を書いた青楓のエッセイに、「漱石山房訪問日記(大正二年)」がある。大塚さんの引用を、さらにピックアップする。大塚さんは、「青楓と漱石の独特の関係が分って興味深い」と書いている。

「朝、漱石先生を訪問す。病中の画二十枚ばかりを見せられる。〔中略〕水彩画ともつかず日本画ともつかず、へんてこな画。(五月二十三日)

夜先生を訪問、半折に始めてかゝれた画を見せられ批評を乞はれる。余無遠慮に批評す。(六月十二日)

先生より手紙来たり行く。〔中略〕神田風月堂にて西洋料理をおごつて貰ふ。江戸川終点で電車を下り余の家迄来てもらつて余の画の批評して貰ふ。先生皆感心せず。(七月二十一日)

朝夏目さんへお皿を貰ひにゆく。〔中略〕余の宅へ同行す。此間描いた三十号大の静物をみせる。大体に於て気に入る。構図に就いて文句あり。二時間程遊んで車にのつて帰らる。」
 
漱石は青楓と居て、愉しいのだ。忌憚がないという点で、2人の関係はまったく独特である。
 
漱石の装幀は、初め橋口五葉がした。『吾輩ハ猫デアル』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などである。
 
橋口五葉は、アール・ヌーヴォーなどヨーロッパ絵画の影響を受けた新進の画家で、漱石によって発見された。
 
そして漱石の自装本『こころ』があり、その後を青楓が続けて装幀した。そのころ人気のあった縮刷本の装幀も、多数引き受けている。『鶉籠 虞美人草』『夢十夜』『三四郎』『行人』『彼岸過迄』など。最初から青楓に依頼したのは、『道草』『明暗』などである。
 
津田青楓もまた、漱石によって見出された装幀家なのである。