瑕瑾と言えばいえるのがもう一つだけある。
津田青楓は1900年(明治33年)12月に徴兵されている。このとき日本は戦争をしておらず、青楓は看護手として日課をこなしていた。
そこにこんな記述がある。
「青楓はその時間〔=午後のんびり過ごす時間〕に『文章倶楽部』などの雑誌を読んだり、与謝野晶子の歌集などを読むことにした。正岡子規と晶子のご亭主鉄幹との論争についても知ることができた。」
子規と鉄幹の「論争」については、これ以上述べていない。
ここは確かに、子規と鉄幹の主導権争いで、正確に記すのは煩わしい。しかし青楓が「論争についても知ることができた」という内容を、読者が知ることができないのは、やはりもどかしい。編集者と話し合って、文章を変えるところだろう。
1903年12月、青楓は除隊となる。ところが1904年(明治37年)2月10日、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まる。
青楓は戦時招集令により3月16日に入隊し、4月11日には満州に上陸している。この戦争は悲惨だった。
後に回想して、絵の勉強をしたいときに、「戦争にあけくれて、いたづらに年をとつてしまつた。人一倍勉強してこの六年を取り返してやりたい。さう思ふと一日も早く除隊になつてなんとか盛りかへさなければならん。そんなことばかり考へられて軍国主義を呪つた。」(『老画家の一生・上巻』)
青楓は1932年、『婦人之友』12月号のアンケートに「世界からなくしたいもの」として、一言「戦争」とだけ答えている。
その後、青楓は結婚し、そしてフランスに留学する。と簡単に書いたが、フランス留学は、とんでもないことではないだろうか。
もちろん名家の出ではないから資金はない。そこで「農商務省海外実業練習生」というものに合格できるよう、いろんな伝手を頼るのだが、そういうことをしようとすることが、まったく凡人ではない。
首尾よく「練習生」に合格するが、農商務省から出る金では、よほど切り詰めた生活をしなければならない。この辺は、ロンドンの漱石を彷彿とさせる。
青楓は後に、こんなふうに語っている。
「彼は極度の勉強で基礎的な仕事だけはやり遂げた。その代り、その代償のやうに彼はホームシックに悩まされつづけた。その結果、彼は思想まで消極的になつた。人間は名誉心と利慾がついて廻るが、それに引き廻されないやうなところで生活ができれば幸福になれると思つた。」(『老画家の一生・上巻』)
この回想について、大塚さんは、「これはその後の青楓のキャリアに深く根づいている価値観ではないかと思う」と書いている。青楓の幸福感が、どんなものであるかがよくわかるし、後に親交を結ぶことになる漱石の、「小さくなって、懐手して暮らしたい」とも、相通じるところがあると思う。
なお青楓はフランスへは、安井曾太郎と一緒に留学している。安井は自費留学である。青楓、27歳、安井曾太郎、20歳。
この安井曾太郎と一緒の留学について、大塚さんは興味ある一行を書き記している。
「その後の青楓は、自らの画家としてのありようを、安井という一つの定規を当てながら確定しようと努めてきた、と私には思えてならないのである。」
これは大塚さんの思いが、いろいろに推測できるところだ。そしてもう少し語ってほしかったと思う。