こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(2)

津田青楓〔せいふう〕は、夏目漱石の『道草』『明暗』の装幀をした人、として記憶されている。私はそれ以外のことは、全く知らなかった。
 
この本の最初に青楓の絵が、カラー口絵で出ている。3ページで6点。《出雲崎の女》(1923)という裸婦の絵や、《犠牲者》(1933)という、小林多喜二が吊るし上げられ、真っ黒になってリンチされている絵は、およそ100年前にも関わらず、昨日描かれたかのように、圧倒的な迫力で見る者に迫ってくる。

津田青楓とはいったい何者か。
 
大塚さんはプロローグでこう書く。

「洋画・日本画・書の作家で、図案家・装幀家であり、俳人・歌人・随筆家でもある。著作の数は二〇を超える。初期のフランス留学中には、雑誌『ホトトギス』に小説を発表して小宮豊隆にほめられた。青楓は実に多面的な芸術家なのである。」
 
問題はその多面的が、それぞれどこまで届いているかである。
 
なおプロローグの最後に、こんなことが書かれている。

「私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。それは同時に、豊かではない家に生まれ、学歴もなく、徴兵や逮捕という国家による強制の犠牲になりつつも、自らの芸術的才覚だけを頼りに明治・大正・昭和を生き抜いた、自立した一人の市民の姿を浮彫りすることになるだろう。」
 
そういう狙いを秘めて、大塚さんは書き下ろしに挑んだのだ。
 
なおプロローグの最後の文章、「日本の近代に本当に必要だったのは、このような普通人の存在だったのではなかろうか」は、私がこの本を読み終えて抱いた思いとは、まったく違っている。そのことは最後に書くことする。
 
津田青楓は1880年(明治13年)に生まれ、1978年(昭和53年)に死んだ。享年97。生まれたのは京都、小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出された。
 
その店は、出奔したりしてやめてしまうが、その後、16歳のとき、初めての図案集『宮古錦』を出している。

図案集を出して自活の道が開けた、と淡々と書かれているが、これは驚くべきことではないのだろうか。図案集というものが、どういうものか分からないので、何とも落ち着きようがないが、10代半ばの出版は、やはり驚愕すべきことではないか。
 
なお青楓が店を辞めた後、2歳年上の兄が、一緒に仕事をしようと言ってくれたが、その申し出を受けることはできなかった、「ありがたいとは思ったが、兄の性格をよく知っていたからだ」とあるが、肝心のその内容が書いてない。兄のどういう性格が問題であったのか、そのことが分からないと、読者にとっては隔靴掻痒である。
 
青楓は図案集を出して、食っていけることは分かったが、絵の勉強を本格的に始めたかった。そこで、歴史画が専門の谷口香嶠〔こうきょう〕に入門した。
 
ここで少し引っかかることが書かれている。
 
香嶠先生の家には、「お母さん」と称する人がいたが、先生とはまるで似ていない人で、青楓は好きになれなかった。その次が疑問の箇所である。

「後年ある雑誌に、先生の出生の秘密とそれに関わる〝お母さん〟の役割が書かれていた。それを読んだ青楓は、ますます先生を懐しんだ。」
 
これでは興味を掻き立てるばかりで、読者は悶々とするほかはない。「先生の出生の秘密とそれに関わる〝お母さん〟の役割」とはどんなものか。もしそれが、簡単に書けないものであるなら、「お母さん」の段落は取るべきであろう。
 
以上2点は、全体を読んだ上での瑕瑾である。編集者がフォローしなければいけないところだ。