説得はされなかったが、やりきれない――『カーストーアメリカに渦巻く不満の根源―』(イザベル・ウィルカーソン)(7)

本書はインドのカーストと、ナチスのユダヤ人迫害と、アフリカ系アメリカ人の人種差別を、同列に並べて論じている。アメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)差別は、単なる差別というよりは、あとの2つ、カーストとユダヤ人迫害に匹敵するものだ。その2つと比べることによって、アメリカの人種差別が、世界で類を見ないほどになっていることが分かる。

秋元由紀は、「訳者あとがき」でこう記す。

「よく知られている二〇一四年のマイケル・ブラウンさんの射殺事件や二〇二〇年のジョージ・フロイドさんの窒息死事件など、丸腰のアフリカ系アメリカ人が正当な理由なく警官に殺され、多くの場合その警官が起訴さえされない事件が大きく取り上げられるようになったことを通じ、米国でも、アフリカ系アメリカ人が直面しているのは単なる突発的な差別的行為ではなく、社会の隅々にまで浸透しているレイシズムであるという認識が、アフリカ系アメリカ人以外の人のあいだにもかなり広まった。」
 
そういうことはあるかもしれない。こうして本にすることによって、あらためてアメリカ全体で起こっていることに、愕然と気づくということがあるかもしれない。黒人が警官に射殺されたり、馬乗りになって窒息させられることは、「単なる突発的な差別的行為」ではないことがよく分かるから。
 
しかしそういうことを、インドのカーストやユダヤ人の殲滅と、同列に論じることは、私には強い違和感がある。
 
それを同列におくことは、むしろその由来と、それぞれの特殊な成り立ちを、無視するものではないか。

1冊の書評としては長くなるので、これ以上は書かないが、この3つの中ではインドのカーストが、もっとも複雑で分からないものである。差別の構造が現に今あるのに、それがよく分からない、とはどういうことか。

少し前にこのブログで取り上げた、『インド―グローバル・サウスの超大国―』でも、インドのカーストについては、日本人には複雑で分からないから、触れない方がいいだろう、という結論だった(それがいいかどうかは分からない、と私は思うが)。

もう一つ、この本の編集について、言っておきたいことがある。
 
これはほとんど編集をしていない本である。仮に編集者が読んで難しいと思っても、それを著者と議論することなく、原則として著者の原稿どおり、としてすませてある本だ。
 
例えばこういうところ。著者がデトロイトに着いて、シャトルバスに乗るとき、2人の麻薬取調官に、付きまとわれる場面だ。

「わたしに起きたことは、ほぼどんな人でも最悪の面が引き出されてしまう乗り物で旅するときに人が被りうるもっともひどい出来事とは到底言えない。」
 
こういう文章を、そのまま残してあるのだから、バッカじゃないか。よほどじっくり読めばわかるが、大部の本を読んでいるときは、時間がかかり、不愉快である。こういうものが、全体の約1割ある。
 
編集者は、ここはこういうことですね、と大意を要約したのち、すっきり言い換えないといけない。
 
もう一つは、いくつかの語彙については、訳注をつけてほしい。これはどのくらい付けるかで、編集者が、どの程度の読者を狙っているかが分かって面白い。
 
この本に関して言えば、編集者は具体的な読者を思い浮かべていない。

例を挙げる。

「バラモンスプレイニング」「マンスプレイニング」「ホワイトスプレイニング」、あるいは「フレンチツイスト」、あるいは「レッドライニング」「制限約款」。いずれもコンピュータで簡単に分かるが、本を読んでいるときに、コンピュータで検索はしない。こういうところが、あちこちに散見する。
 
え、「フレンチツイスト」くらい分かるだろうって。このヘアスタイルの女性が、岩波の本の読者になるとは、ちょっと考えられないので。
 
よく「あとがき」に、お世話になった人は多いが、文章の最終責任は著者一人にある、と書いてある。そういうことを言わせるためには、編集者の十全の努力がいるのだ。これは編集者が、著者に書かせている言葉なのだ。

そういうことを含めて、本文、目次、装幀、紙質、装本の、全体の最終責任は、編集者が執るべきものなのだ。

(『カーストーアメリカに渦巻く不満の根源―』イザベル・ウィルカーソン、
 秋元由紀・訳、岩波書店、2022年9月6日初刷)