新NISA、どうする?――『投資なんか、おやめなさい』(荻原博子)(2)

保険の話はまだまだ続いて面白い。
 
生命保険会社で一番いいのは、保険料が一番安い会社だという。
 
死亡保障・医療保障のみの保険料は、本来全部の会社が、同じでないとおかしい。なぜなら入院したり、死亡したりする確率は、日本人ならみな同じはずである。それなら、使っている統計は同じはずだから。
 
ところが保険料に差が出るのは、会社でかかる経費が違うからである。よって保険料の安い会社が一番いいのである。
 
なんでもこういうふうに説明してくれると、頭の中が非常にクリアになる。

「第2章 日銀の『マイナス金利』が、家計の資産を破壊する」は、この本の中では唯一、ちょっと面白い章だ。
 
まずマイナス金利で、銀行に預けることをやめた結果、「タンス預金」が増え、さらにマイナンバーカードの導入で、それがますます増えることになった。
 
マイナンバーの導入で、銀行口座が把握されるかもしれない、と恐れた人たちが、現金を家に隠そうとしたのである。
 
企業の内部留保もアベノミクスでどんどんたまり、しかし従業員の給料には、ほとんど回らなかった。もっぱら内部留保として貯め込み、あるいは株主への配当金になったのである。
 
と、ここまではよくある話である。さあ、ここからだ。
 
日銀はデフレを解消するために、お金をジャブジャブ刷った。ところが銀行は、企業に資金の需要がないので(内部留保で溜め込んでいるから)、どうしようもなく、それを2つの方法で処理した。
 
ひとつは、日銀の中にある「当座預金口座」に預けて、金利0.1%の利ザヤを稼ぐこと。「当座預金口座」とは、日銀の中にある、銀行が金を預ける口座で、このころは銀行預金の金利が0.01%だったので、0.09%の利ザヤを稼ぐことができた。
 
あまりにもみみっちいというなかれ。単位が何兆円ということになれば、利益は莫大である。
 
もう一つは、「国債」を買うという方法である。2015年には10年もの国債の金利は、0.3~0.4%であった。つまりこれでも、利ザヤは稼げる。

「日銀が『異次元の金融緩和』として出したお金のほとんどは、貸し出しにまわされずに、ただただ『当座預金口座』にブタ積みにされてきたという異常な状況になってしまいました。」
 
ここでは「ブタ積み」という言葉が、僕には珍しい。

「ブタ積み」=日銀がお金を刷っても刷っても、市中に出回ることなく、日銀の「当座預金口座」の残高のみが積み上がっていくこと、という経済学の用語があるのだろうか。

 
まさかねえ、と思って、パソコンで調べると、何とありましたよ。「市中銀行が法定準備預金額を超えて、日本銀行に預け入れている金のこと」。日銀もけっこうヤクザな商売だ、ということが分かります。
 
ともかく日銀は、これ以上タンス預金、ではなくて、「当座預金口座」のお金が増えないように、ここにマイナス金利を付けたのだ。
 
つまり「これ以上お金を当座預金口座に預けたら、預けたお金に0.1%の金利をつけるのではなく、逆に0.1%の手数料をとる」と宣言したのである。
 
そうすると銀行は、「当座預金口座」に預けられなくて、今度は一斉に国債を買いに走った。そこで国債の価格は暴騰し、利率が下がってしまった。

そして10年国債の金利は、史上初めてマイナスとなり、マイナス0.035%をつけた金利は、ついに0.3%に近づいたのである。

こうして銀行は、「行くも地獄、戻るも地獄」という状況に、追いやられてしまったのだ。
 
市民の暮らしと仕事に、まったく想像力が働かないというのが、日銀の黒田東彦ご一党さんの正体である。はっきり言って、日銀と銀行の関係は、吉本新喜劇だ。真剣に考えてる人が多いだろうから、笑っちゃいけないけれど、しかし笑うしかない。そうとしか言いようがない。
 
他の章は、「こんな投資はやめなさい」という前に、最初からやる気がしない。
 
そこで新NISAだ。どうしたものか。

(『投資なんか、おやめなさい』荻原博子
 新潮新書、2017年9月20日初刷、10月25日第4刷)

新NISA、どうする?――『投資なんか、おやめなさい』(荻原博子)(1)

来年からNISAをしようと思っている。大半の元サラリーマンと一緒で、僕たち夫婦も、公的な年金だけでは全然足りない。

そのNISAだが、来年から制度が変わって、恒久的なものになる。そうなると、持てる者と持てない者との差が、ますます激しくなっていく。格差はいっそう顕著になる。

日本はこんなことでいいのか、という大所高所に立った(というほどではないが)正論は、まったく聞こえてこない。

それはそれで不気味な感じもするが、とにかく投資に税金がかからないというのは、画期的な話である。

いったい誰が、どういうふうに音頭を取って、そういうことにしたのだろう。自民党の安倍派・二階派の、税金をちょろまかす、後ろめたいキックバックと同じことが、来年からのNISAでは、無税で堂々とまかり通るというのだ。

というわけで、その気になって、ネットの記事など読み続けていると、たちまちすごく儲かるような気がしてくる。
 
毎日毎日、その手の記事を読んでいると、投資した翌年には、直ぐにも億万長者になりそうだ。
 
そういうことで、浮かれていてはいけないから、頭から冷水を浴びるような本を読んでみる。
 
ただしこの本は、NISAが実施される少し前の刊行だから、そのつもりで読んでみる。NISAがあろうとなかろうと、原則は変わらないはずだからだ。
 
そう思って読んでみるが、うーん、本当につまらない。いや荻原博子の本の書き方が悪いのではなくて、書かれてる対象がどうにもつまらないのだ。
 
章タイトルを並べてみよう。

第1章 あなたは、騙されていませんか?

第2章 日銀の「マイナス金利」が、家計の資産を破壊する

第3章 こんなクズ商品には手を出すな

第4章 なぜ「個人年金」はダメか

第5章 投資の「常識」を疑おう

 
ろくなもんじゃない「商品」が、これでもかこれでもかと目白押しで、いささかゲンナリしてしまう。
 
これは荻原博子の本だというので、中は読まずに買った。奥付を見れば、発売ひと月で4刷まで行っている。
 
どんな人が買ったのか。たぶん僕と同じく、おっかなびっくり投資を始めようと思い、しかしその前に、用心するところはないかどうか、と荻原博子に頼ったに違いないのだ。
 
この本自体は全体として、本当につまらない。
 
でもところどころ、いいこと書いてあるなあ、というページがある。たとえば医療保険の場合。

「医療保障は、会社の健康保険や国民健康保険に加入していれば、保険でかなりの金額が出ます。入院で100万円かかっても、3割負担なので30万円。ですが、高額療養費制度があるので、自己負担は一般的な収入の方は月に8万円台。半年入院しても50万円にならないので、生命保険はお守り代わりに入っておく程度でいい人が多いでしょう。」
 
冷静に考えれば、特に長期入院していた僕は、これくらいのことは見通せるはずなのだが、オリックスの若い兄ちゃんが、一生懸命しゃべっているのを見れば、ついつい「備えあれば憂いなし」の考えに傾いて、では入ろうとなってしまうのだ。

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(6)

青楓は大震災後、京都に戻って河上肇を訪ねた。河上肇はベストセラーの『貧乏物語』や、死後に刊行された『自叙伝』で有名な、京都帝国大学の教授である。マルクス主義経済学を研究し、後に共産主義の実践活動に入った。

河上肇の弟が、青楓と近いところの画家だった。青楓と河上は、初対面にもかかわらず、たちまち胸襟を開いて語り合う。

夏目漱石の次は河上肇、どちらもあけすけで、腹の底を見せ合っている。いよいよ青楓とは、いったい何者か。夏目漱石や河上肇と、人間の水準が同じであるということか。

その才能も底が知れない。このころ短歌雑誌『日光』が創刊され、同人に北原白秋、土岐善麿、前田夕暮などがいて、津田青楓も同人の一人に数えられていた。

「著名な歌人に伍して青楓も歌人として認められたことが分る。図案家、画家(洋画、日本画)、小説家、歌人と、青楓の才能は多様な展開を見せ始めていた。」
 
しかもそれだけではなく、その才能は驚くほど多面的だった。
 
日本人は古来から現代にいたるまで、「この道一筋、余計なものは削ぎ落とす」、が気に入っていて、真に多面的な才能は手に余るのか、評価することが難しい。
 
ここで青楓の河上肇評を載せておく。

「博士との交友に於て人間性は慇懃で謙遜で真摯で人間的魅力がどこかに蔵されてゐる。/博士の個性をつらぬくものは観念論的な世界への感情的追慕の情であり、理知的には唯物論的な世界への跪拝である。」(「河上博士の人間性」)
 
河上肇に対しても、自分を下に於いて仰ぎ見るところはまったくない。時代を画する才能とも、対等に付き合っている。
 
1933年7月19日、青楓のもとを刑事が訪れる。マルクス主義者、河上肇と付き合っていたからである。
 
このとき青楓は、制作中の《犠牲者(拷問)》が心配だった。これは、この本の口絵に出ていて、一度見たら忘れられない。

「そいつは余り生々しく、警察の連中を刺激すること百パーセントといふ作品なんだ。/一人の青年が梁に吊りさげられて、首をうなだれ、だらりと下げた二本の脚は荒縄がグルグル巻きつけられ、ズボンはぼろぼろにひきさかれて、そこから露出した肌からは血がべつとり流れ、股のさけ目からは陰部がはみ出し、そこに血痕が附着してゐる。一見拷問の残忍性を物語る酸鼻に堪へないやうなものだつた。」
 
小林多喜二の拷問による死を、著者自らが解説している。このときは、官憲の目をかわした。
 
しかしその一方で、青楓は同じ時期に、大量のヌードを描いている。口絵に採られた《出雲崎の女》のほか、本文中の挿図として、《裸婦〔トランプ〕》、《片足を上げる裸婦》、《浮世絵のある裸婦》、《裸婦》など豊満な女体を、これでもかというくらい描いている。
 
大塚さんは言う、津田は「正当に再評価されるべきであろう」と。
 
けれども明治以降ここまで、美術作品と作家を批評する言葉を、私たちは持たないできた。小林秀雄の美術批評の言葉は、外に向かって開かれてはいない。
 
大塚さんは、津田青楓の生涯を総括して、こんなふうに述べる。ここからが問題のところだ。

「小学校しか出ていない青楓が、がっしりと組み立てられた学歴社会=立身出世観の中で、自らの才覚だけを頼りに明治・大正・昭和を生き抜いてきた事実は、どんなに強調されても強調しすぎではない。」
 
そして、さらにこう述べる。

「小学校卒の学歴しか持たない青楓が、近代日本の立身出世主義の風土の中で、自らの才覚のみを頼りに一〇〇歳近くまで生き抜いた事実こそ、私たちがモデルとすべきものではないであろうか。」
 
私は、この青楓評にはまったく反対である。
 
青楓の生涯は永い。戦後、「転向」の問題があり、それの流れで、青楓による日本画の革新がなされた。

98年の人生で成し遂げたことを見れば、青楓とはある意味、怪物である。その怪物性がはっきり出ているのが、夏目漱石や河上肇との付き合い方である。
 
唐突だが、私はここで、司修さんのことを思い浮かべる。
 
ほとんど学校へは行かなかった司さんは、美術品としての絵画の他に、挿絵を描き、絵本を作った。
 
作家としては、川端康成賞、毎日芸術賞、大佛次郎賞など、数々の賞を取り、芥川賞の候補にもなった。
 
装幀家というジャンルを超えて、野間宏、大江健三郎、武田泰淳、水上勉、古井由吉、河合隼雄、網野義彦たちと、いわば共同作業をする。
 
津田青楓とはまったく違うが、しかし司さんを見ていると、学歴なんて関係がない、ということがよくわかる。司さんが付き合う人も、学歴を超越してしまった人々だ。
 
おそらく津田青楓も、学歴や立身出世主義とは無縁のところで、生きていたのだ。

夏目漱石や河上肇は、学歴社会を通り抜けてはきたが、通り過ぎてしまえば、まったくつまらぬ世界だと、引導を渡したに違いないのだ。そうして青楓に出会ったのだ。
 
そういう人と互角に付き合う青楓は、ここに全貌がはじめて記されたのであって、これは私たちがモデルにすべきものではないし、また絶対にできない。

その特異な精神と事績については、これから、深いところの辿り直しが始まるのだと思う。

(『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』
 大塚信一、作品社、2023年12月10日初刷)

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(5)

もう一つ、漱石の青楓宛ての手紙を引用する(大正3年3月29日付)。

「世の中にすきな人は段々なくなります、さうして天と地と草と木が美しく見えてきます。ことに此頃の春の光は甚だ好いのです。私は夫〔それ〕をたよりに生きてゐます。」
 
ほとんど魂の声ともいうべき言葉である。漱石からこういう手紙をもらった人が、何人いるだろうか。
 
次に挙げるのは1927年に発表した、青楓の「漱石の書」というエッセイで、大塚さんが引用をまとめたものに従う。

「自分は漱石さんの書に尊敬は払つてゐるが、それ程うまいとは思つたことがない」。「実際漱石さんの書は、良寛ほどの奔放自在にして枯淡に徹したものでもなければ、寂厳〔じゃくごん〕ほど天真にして力強いものでもない。」。「〔中略〕只一言、その態度が素裸体であるからと言ふ丈けのことである。/素裸体と云ふのは天真爛漫にして、自己をありのまゝに表現して現在以上に見せようとする、さむしい虚栄心を持たぬことである。」
 
書のみならず、漱石自身の本質に肉薄している。「さむしい虚栄心を持たぬこと」とは、みごとに的を射抜いた言葉だ。
 
1916年(大正5年)12月9日、夏目漱石が亡くなる。

青楓は最後の著書、『春秋九十五年』でこのように書いた。

「……私は先生にいろいろお世話になつたので何となく生みの親爺のやうな気がしてゐた。先生の臨終の枕元でお弟子たちが順々に筆に水をつけて口びるを濡らしてゐた。私の番になつた時声をあげて泣いてしまつた。泣けて泣けて仕方がなかつた。親に別れる以上に悲しかつた。」
 
門人それぞれに、別れの実情や心持ちは違うだろう。青楓にとっては、一切の条件をつけぬかたちの、漱石との別れだった。
 
この後、青楓は寺田寅彦と急速に親しくなる。青楓にとって寺田寅彦は、ほとんど唯一の絵の理解者ともなる。
 
寺田寅彦は、漱石のことを、偉い文学者にならずとも、文豪にならずともよかった、先生は先生のままでよかったのだ、と書いている。
 
青楓と寅彦は、漱石を同じ水準で理解し、共感していたのだ。
 
漱石はあらゆる文学賞を断り続けた。雑誌の読者賞まで断ったくらいだ。また文学博士にしてやるというのを、徹頭徹尾、喧嘩ごしで断ったのは有名な話だ。
 
しかしその漱石にしてからが、100年経つうちに、「文豪」として祭り上げられてしまった。難しいものだ。
 
例えば今で言えば大江健三郎。とにかくまずノーベル文学賞、これが飾られていれば、みんなヘヘーッとお辞儀をする。まるで水戸黄門の印籠である。

もはや大江の個別の作品については、誰も何も言わない。誰か大江健三郎を地べたに引きずりおろして、率直極まりない批評をしないものか。当の作家が、没してもなおそれを望んでいる、と思うのだが。
 
以後、青楓は最初の妻と離婚し、しばらくして再婚する。はじめの妻は、青楓と3人の子供をおいて、手芸や洋裁の勉強のためにパリに留学する。
 
100年以上も前に、夫と子供をおいてパリに留学する女性は、この人ひとりではないか。

夫婦は貫目が大事、という車谷長吉の言にならえば、実にお似合いの夫婦と思うのだが、正式に離婚してしまう。どちらも精一杯張り合うと、深刻な亀裂になるのかもしれない。難しいものだ。
 
この辺りも、苦悩する青楓像として、かなり書き込んであるが、いまは私生活の方は省略して、河上肇との出会いに焦点を絞ろう。

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(4)

「第四章 漱石との親交」は、この本のハイライトである。漱石が津田青楓について語ると、それは生き生きしてくるのだ。つまり漱石を鏡にして青楓を見ると、その人となりが鮮やかに蘇るのだ。
 
漱石は誰に対しても遠慮がない。そして相手も、そういう人でないと、漱石は我慢できないようなのだ。
 
大正元年12月2日の、青楓宛ての漱石の手紙である。

「うんと面白い画をかいて見せてください。あなたの詩をよみました。(劇と詩)あれは駄目ですね。あんなものを書いちや駄目です。(劇と詩)のやうな雑誌へ出すにしても駄目ですよ さよなら」

『劇と詩』は、読売新聞記者の人見東明が出したものという。
 
漱石はその雑誌もかってないが、そこに載せた青楓の詩についても、全否定である(しかしここでは、青楓が詩を書いたことも覚えておきたい)。
 
大塚さんは2人の関係を、こんなふうに評する。

「漱石は好悪の判断がはっきりしている。だめなものはだめなのだ。一方青楓も、批評を求められれば、遠慮なくづけづけと指摘した。本音で話し合える関係を、二人とも楽しんでいたように思われる。」
 
漱石と本音で話し合える関係、と簡単に言うけれども、これはある意味、奇蹟的なことではないか。

芥川龍之介が漱石と面会したとき、緊張に包まれていたことを、思い出さずにはいられない。これが普通なのだ。

考えてみると、遠慮会釈なしに漱石と会っていたのは、寺田寅彦くらいではないか。しかしこちらは、五高の学生のときからだから、漱石の懐に飛び込んでいった、と言った方がいいかもしれない。
 
そうすると、漱石に対する青楓の位置が、きわめて特異なことが分かるだろう。
 
これは、帝大出が多く集まった「木曜会」など問題にしない、青楓の個性をよく物語っている。
 
そしてじつは漱石においても、学歴は最終的に問題にならない。帝国大学を辞めて、朝日新聞に入ったことを考えればわかる。新聞の地位は、このとき驚くほど低い。
 
漱石との交流を書いた青楓のエッセイに、「漱石山房訪問日記(大正二年)」がある。大塚さんの引用を、さらにピックアップする。大塚さんは、「青楓と漱石の独特の関係が分って興味深い」と書いている。

「朝、漱石先生を訪問す。病中の画二十枚ばかりを見せられる。〔中略〕水彩画ともつかず日本画ともつかず、へんてこな画。(五月二十三日)

夜先生を訪問、半折に始めてかゝれた画を見せられ批評を乞はれる。余無遠慮に批評す。(六月十二日)

先生より手紙来たり行く。〔中略〕神田風月堂にて西洋料理をおごつて貰ふ。江戸川終点で電車を下り余の家迄来てもらつて余の画の批評して貰ふ。先生皆感心せず。(七月二十一日)

朝夏目さんへお皿を貰ひにゆく。〔中略〕余の宅へ同行す。此間描いた三十号大の静物をみせる。大体に於て気に入る。構図に就いて文句あり。二時間程遊んで車にのつて帰らる。」
 
漱石は青楓と居て、愉しいのだ。忌憚がないという点で、2人の関係はまったく独特である。
 
漱石の装幀は、初め橋口五葉がした。『吾輩ハ猫デアル』『虞美人草』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などである。
 
橋口五葉は、アール・ヌーヴォーなどヨーロッパ絵画の影響を受けた新進の画家で、漱石によって発見された。
 
そして漱石の自装本『こころ』があり、その後を青楓が続けて装幀した。そのころ人気のあった縮刷本の装幀も、多数引き受けている。『鶉籠 虞美人草』『夢十夜』『三四郎』『行人』『彼岸過迄』など。最初から青楓に依頼したのは、『道草』『明暗』などである。
 
津田青楓もまた、漱石によって見出された装幀家なのである。

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(3)

瑕瑾と言えばいえるのがもう一つだけある。

津田青楓は1900年(明治33年)12月に徴兵されている。このとき日本は戦争をしておらず、青楓は看護手として日課をこなしていた。
 
そこにこんな記述がある。

「青楓はその時間〔=午後のんびり過ごす時間〕に『文章倶楽部』などの雑誌を読んだり、与謝野晶子の歌集などを読むことにした。正岡子規と晶子のご亭主鉄幹との論争についても知ることができた。」
 
子規と鉄幹の「論争」については、これ以上述べていない。

ここは確かに、子規と鉄幹の主導権争いで、正確に記すのは煩わしい。しかし青楓が「論争についても知ることができた」という内容を、読者が知ることができないのは、やはりもどかしい。編集者と話し合って、文章を変えるところだろう。
 
1903年12月、青楓は除隊となる。ところが1904年(明治37年)2月10日、日本はロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まる。
 
青楓は戦時招集令により3月16日に入隊し、4月11日には満州に上陸している。この戦争は悲惨だった。
 
後に回想して、絵の勉強をしたいときに、「戦争にあけくれて、いたづらに年をとつてしまつた。人一倍勉強してこの六年を取り返してやりたい。さう思ふと一日も早く除隊になつてなんとか盛りかへさなければならん。そんなことばかり考へられて軍国主義を呪つた。」(『老画家の一生・上巻』)
 
青楓は1932年、『婦人之友』12月号のアンケートに「世界からなくしたいもの」として、一言「戦争」とだけ答えている。
 
その後、青楓は結婚し、そしてフランスに留学する。と簡単に書いたが、フランス留学は、とんでもないことではないだろうか。
 
もちろん名家の出ではないから資金はない。そこで「農商務省海外実業練習生」というものに合格できるよう、いろんな伝手を頼るのだが、そういうことをしようとすることが、まったく凡人ではない。
 
首尾よく「練習生」に合格するが、農商務省から出る金では、よほど切り詰めた生活をしなければならない。この辺は、ロンドンの漱石を彷彿とさせる。
 
青楓は後に、こんなふうに語っている。

「彼は極度の勉強で基礎的な仕事だけはやり遂げた。その代り、その代償のやうに彼はホームシックに悩まされつづけた。その結果、彼は思想まで消極的になつた。人間は名誉心と利慾がついて廻るが、それに引き廻されないやうなところで生活ができれば幸福になれると思つた。」(『老画家の一生・上巻』)
 
この回想について、大塚さんは、「これはその後の青楓のキャリアに深く根づいている価値観ではないかと思う」と書いている。青楓の幸福感が、どんなものであるかがよくわかるし、後に親交を結ぶことになる漱石の、「小さくなって、懐手して暮らしたい」とも、相通じるところがあると思う。
 
なお青楓はフランスへは、安井曾太郎と一緒に留学している。安井は自費留学である。青楓、27歳、安井曾太郎、20歳。
 
この安井曾太郎と一緒の留学について、大塚さんは興味ある一行を書き記している。

「その後の青楓は、自らの画家としてのありようを、安井という一つの定規を当てながら確定しようと努めてきた、と私には思えてならないのである。」
 
これは大塚さんの思いが、いろいろに推測できるところだ。そしてもう少し語ってほしかったと思う。

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(2)

津田青楓〔せいふう〕は、夏目漱石の『道草』『明暗』の装幀をした人、として記憶されている。私はそれ以外のことは、全く知らなかった。
 
この本の最初に青楓の絵が、カラー口絵で出ている。3ページで6点。《出雲崎の女》(1923)という裸婦の絵や、《犠牲者》(1933)という、小林多喜二が吊るし上げられ、真っ黒になってリンチされている絵は、およそ100年前にも関わらず、昨日描かれたかのように、圧倒的な迫力で見る者に迫ってくる。

津田青楓とはいったい何者か。
 
大塚さんはプロローグでこう書く。

「洋画・日本画・書の作家で、図案家・装幀家であり、俳人・歌人・随筆家でもある。著作の数は二〇を超える。初期のフランス留学中には、雑誌『ホトトギス』に小説を発表して小宮豊隆にほめられた。青楓は実に多面的な芸術家なのである。」
 
問題はその多面的が、それぞれどこまで届いているかである。
 
なおプロローグの最後に、こんなことが書かれている。

「私は、津田青楓という一人の芸術家の生き方を辿ることによって、日本近代の光と影に新しい景色を加えることができれば、と願っている。それは同時に、豊かではない家に生まれ、学歴もなく、徴兵や逮捕という国家による強制の犠牲になりつつも、自らの芸術的才覚だけを頼りに明治・大正・昭和を生き抜いた、自立した一人の市民の姿を浮彫りすることになるだろう。」
 
そういう狙いを秘めて、大塚さんは書き下ろしに挑んだのだ。
 
なおプロローグの最後の文章、「日本の近代に本当に必要だったのは、このような普通人の存在だったのではなかろうか」は、私がこの本を読み終えて抱いた思いとは、まったく違っている。そのことは最後に書くことする。
 
津田青楓は1880年(明治13年)に生まれ、1978年(昭和53年)に死んだ。享年97。生まれたのは京都、小学校を出るとすぐ丁稚奉公に出された。
 
その店は、出奔したりしてやめてしまうが、その後、16歳のとき、初めての図案集『宮古錦』を出している。

図案集を出して自活の道が開けた、と淡々と書かれているが、これは驚くべきことではないのだろうか。図案集というものが、どういうものか分からないので、何とも落ち着きようがないが、10代半ばの出版は、やはり驚愕すべきことではないか。
 
なお青楓が店を辞めた後、2歳年上の兄が、一緒に仕事をしようと言ってくれたが、その申し出を受けることはできなかった、「ありがたいとは思ったが、兄の性格をよく知っていたからだ」とあるが、肝心のその内容が書いてない。兄のどういう性格が問題であったのか、そのことが分からないと、読者にとっては隔靴掻痒である。
 
青楓は図案集を出して、食っていけることは分かったが、絵の勉強を本格的に始めたかった。そこで、歴史画が専門の谷口香嶠〔こうきょう〕に入門した。
 
ここで少し引っかかることが書かれている。
 
香嶠先生の家には、「お母さん」と称する人がいたが、先生とはまるで似ていない人で、青楓は好きになれなかった。その次が疑問の箇所である。

「後年ある雑誌に、先生の出生の秘密とそれに関わる〝お母さん〟の役割が書かれていた。それを読んだ青楓は、ますます先生を懐しんだ。」
 
これでは興味を掻き立てるばかりで、読者は悶々とするほかはない。「先生の出生の秘密とそれに関わる〝お母さん〟の役割」とはどんなものか。もしそれが、簡単に書けないものであるなら、「お母さん」の段落は取るべきであろう。
 
以上2点は、全体を読んだ上での瑕瑾である。編集者がフォローしなければいけないところだ。

こんな芸術家がいたのだ!――『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』(大塚信一)(1)

この本は著者の大塚信一氏から頂いた。直接頂くとお礼の気持ちもあって、舌鋒が鈍りがちになるが、そこは曲げずに厳しく書評したい。
 
大塚信一さんは、岩波書店の社長をされた後、『理想の出版を求めて』と題する本で、ご自身の仕事を振り返られた。
 
それは私が編集担当で、トランスビューから出版した。
 
どうしてそういうことになったか、というと、その4年ほど前に、やはりトランスビューから鷲尾賢也さんの『編集とはどのような仕事なのか』を出していただき、その書評を大塚さんにお願いしたのだ。
 
講談社の元重役である鷲尾さんの本を、岩波の元社長である大塚さんが書評する。しかも2人とも、世間的に偉そうな肩書を取れば、残る生身は「編集者そのもの」、人文出版の好敵手として互いに認め合った中なのだ。
 
大塚さんの書評は『図書新聞』を舞台に実現したが、その仕掛け人は、元小沢書店社長でこのときは図書新聞顧問の、長谷川郁夫さんだった。長谷川さんはこのとき、徹底して表に出ることを避けられたので、お2人にはそのことは言わなかったのだが。
 
書評が出た後で、大塚さん、鷲尾さんと食事をした。どちらも丁々発止、私はただ聞いているだけで、素晴らしい食事会だった。
 
それから2年ほどたったとき、岩波のSさんと会う機会があり、酒の入った席だったので、いろいろと駄法螺を吐いた。
 
そこで、大塚さんと親しかったSさんに、大塚さんはけしからん、岩波の社長まで務めた人が、日本の出版界が右往左往しているときに、沈黙を守るとは何事か、と調子に乗って吹きまくった。
 
トランスビューなんて吹けば飛ぶような会社で、どんなに吹いても、大塚さん自身は、耳に入ったとしても、相手にされないだろうと思ったのだ。
 
それから何カ月かが過ぎて、突然電話が来た。

「大塚ですが」という話の内容は、驚くべきものだった。「君に、大塚は何をしていると言われたから、一冊書いてみたよ。読んでくれますか。」
 
本当に宝くじに当たったようなものだった。本の企画は黙っていてはできない、編集者が必死で原稿取りをやらない限り、実現しないものだ、と鷲尾さんの『編集とはどのような仕事なのか』に書いてある。まったくその通りだ。
 
大塚さんの電話は、一生にただ一度、神様が頭を撫でてくれたのだ、と思わずにはおられない。
 
こうして『理想の出版を求めて―一編集者の回想1963-2003―』が出て、それが好評だったので、その後も立て続けにトランスビューから、大塚さんの仕事が世に出た。

『山口昌男の手紙―文化人類学者と編集者の四十年―』

『哲学者・中村雄二郎の仕事―〈道化的モラリスト〉の生き方と冒険―』

『河合隼雄―心理療法家の誕生―』

『河合隼雄 物語を生きる』

『松下圭一―日本を変える 市民自治と分権の思想―』
 
どれも実に行き届いた本だ。当たり前である。著者は名うての、超一流の編集者なのだ。他に何を望むべきだろう。
 
私はせいぜい小見出しをつけるくらいで、ひたすら楽しんで仕事をしていた。
 
その後、『反抗と祈りの日本画―中村正義の世界―』と『長谷川利行の絵―芸術家と時代―』が出たが、私は愚かにも、大塚さんが美術の世界を扱うのは、いわば余技に類すると思っていた。それほど大塚さんは、私の前では、まず編集者として立っていたのだ。
 
こんど『津田青楓―近代日本を生き抜いた画家―』を読んで、ここに全く新しい著者がいることを思い知った。馬鹿だった。大塚さんを見る眼は、ガラリと変わらざるを得なかった。

山田太一が死んだ――『飛ぶ夢をしばらく見ない』(山田太一)(2)

『飛ぶ夢をしばらく見ない』は、女が会うたびに若返っていく、ということを除けば、他はシリアスな話だ。
 
そう思いつつ読んだが、しかし女の若返りも含めて、じつはすべてがシリアスな話だとすれば、どうか。
 
何を言っているのか、分からないと思う。では、具体的に考えてみよう。
 
山田太一は助監督のころから、将来妻になる女性と付き合っていた。

書くものには、そういう女性との色っぽい話は、ほとんどないが、『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』には、20代の失敗談として、その女性との話が出てくる。
 
木下恵介監督の下についたとき、夜、ロケ地を抜け出して、その女性と一晩を過ごし、こっそり帰ってきたのだ。

それは先輩の助監督に見つかって、叱責を食らうが、木下恵介監督は不問に付す。そういう失敗談のエッセイなのだ。

山田太一とその女性は、結婚する前から惚れ合って、身も心も結ばれていた。
 
そして時は流れて、50歳をいくらか超えたとき、ある夜、ふと妻の寝顔を見る。その顔を見たとき、山田太一は驚く。30歳を出たばかりの顔に、戻っているのだ。
 
起きてからの会話。

「君は寝ている顔がきれいだね」
「どういうこと?」
「とても50歳には見えない。せいぜい30歳すぎにしか見えない」
「それは、ありがとう。でもそう言われても、素直に喜ぶ気にはなれないわね。なんか突拍子もなくて」
「でも、本当だよ。君が起きてなくて、眠っているのは残念だ」
「はいはい。それよりも、今日の予定の確認はしたの」
 
山田太一は本当のことを言っているのだが、妻はなかなか本気と取らない。
 
それから数カ月たって、また徹夜明けに妻の顔を見る。何と今度は、20歳すぎに見える。
 
しばらくその顔を見ていると、妻は突然、目をつぶったまま、にっこり笑った。夢を見ているのだ。
 
何だか奇蹟のような瞬間で、ああ、この顔にさわりたい、いっそキスしたい、と思う。
 
しかし、妻の寝顔が20歳すぎの顔だったので、それに触ってキスをした、などと言っては、いかに妻とはいえ、不審者を見る目になるだろう。認知症のはじまりか、と。これ以後は、寝室を別にするとも言い出しかねない。
 
山田太一は、寝顔に触りたいという衝動を必死にこらえ、その顔を見ていたにちがいない。
 
そのとき、天啓が下ったのだ。この女の得も言われぬ美しさは、自分一人のものだ。妻自身にさえも分かっていない。しかしそれを、逆転させる手がある。それが、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を執筆することだった。
 
そしてまた、第二の天啓がやってくる。女が30代から20代へと若返っていくなら、その先はどうなる。こうして最後は、幼女になって人ごみに紛れて消える、という決定的な場面を得たのだ。

(『飛ぶ夢をしばらく見ない』山田太一、
 新潮社、1985年11月20日初刷、1986年8月15日第8刷)

山田太一が死んだ――『飛ぶ夢をしばらく見ない』(山田太一)(1)

山田太一のエッセイ集『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』を読みながら、山田太一の全集ができないものか、できたら面白い、とブログに書いた。
 
それから少し経って、山田太一が死んだ。11月29日のことだ。
 
山田太一の全集といえば、『飛ぶ夢をしばらく見ない』が、諸作品の中心に来ることになる。私はそう思っている。
 
とはいえ37年前に読んだ本で、よく覚えているつもりだが、念のためにもう一度読んでおこう、と思って読みだしたのが、11月29日だった。
 
こんなことってあるんだ。もちろん、しょっちゅうではないにせよ、あることはある。それは当然だ。
 
山田太一が、この世におさらばするときに、ふと見れば夜中に、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を開いているのが見える。一声掛けとこうか、となるんじゃないか? ならないか。
 
とにかく私は、そういうふうに感じた。
 
これは1人称の「私」が、1人の女、それも徐々に若返っていく女と、付き合う話だ。
 
そういうと、ファンタジーだと思う人が出て来そうだが、厳密にはそうではない。67歳から徐々に若返っていく女、以外のところは、徹底してリアリズムなのだ。
 
37年前に読んだときは、ただ圧倒されて、強烈なファンタジーとしてしか覚えていなかった。
 
今度読んだときは、女が妖精のようである以外は、徹底したリアリズムで、これはこれで圧倒された。
 
そのリアリズムは、そぎ落とした、彫刻のような文章で、しかしレーモン・ラディゲのように、静止した文体ではない。彫刻刀で言葉を彫って、それが動き始めるのだ。
 
一つ、例を引く。

冒頭、「私」が入院している病院で、女がひょんなことから同室になる。2人の間はカーテンで仕切られていて、顔を見ることはできない。

「しかし、女の声は明るかった。私もつられておしゃべりになる。
『今日の私は、何処〔どこ〕か気取ったところがあって、こともあろうに詩を誦んだり』
『いけません?』
『きっと、あとで声が出るでしょう』
『どうして?』
『羞ずかしくて』
『何故いけないかしら?』
『似合わない』
『そうかしら? お声だけ聞いていると、ちっともそうな風には思えないわ』」
 
カーテンで仕切られたまま、2人はとめどなく話し、とうとう言葉だけで性交してしまう。「私」は、ティシューの中に射精した。
 
翌日、看護婦が、間にあるカーテンを乱暴に剝ぎ、女は白髪の老婆であることが分かる。

「私」にはどうしようもない、行き場のないやりきれなさだけが残る。
 
しばらくして、女は会社に電話を架けてくる。「私」は、会うつもりはない。なにしろ70歳くらいの老婆だから。
 
けれども女は突然、現れる。すでに老婆ではなく、ふくよかな中年女として。「私」はそこで初めて、生身の女を愛〔いつく〕しみ、性行為に没頭する。
 
その後、何度か、女は「私」の前に現われるが、そのたびに若返り、その度に心行くまで性行為を愉しむ。
 
最後に「私」の前に現われたときは、4,5歳の幼女だった。しかしもちろん、中身は67歳の老婆なのだ。
 
女が童女であれば、直接の性交はできない。「私」はひたすら性器を舐め、女はどこまでも、そういうことをさせて満足する。
 
そして最後、幼女は人ごみに紛れて消えていく。
 
やはり中心は、一編のファンタジーなのだが、今回読み終わったときには、なぜこういう作品を書いたのか、ということが疑問として強烈に残った。
 
それがいつまでも頭を去らず、そして4,5日たつうちに、正解の尻尾らしきものを捉まえた。