さて、問題の『カースト』である。
読み始める前は、ここで言う「カースト」は、アメリカにおける差別の比喩だと思っていた。読み始めてみると、アメリカの黒人差別は、比喩ではなく「カースト」そのものである、というのがイザベル・ウィルカーソンの主張であった。
彼女はそれを証明しようとして、孤軍奮闘する。
いや、発売たちまちベストセラーというから、「孤軍」ではないのかもしれない。もちろん読者は黒人、というよりも、著者にならって正確に言えば、「アフリカ系アメリカ人」が主であったろう。
そんなことはない。それ以外の白人や黄色人種もけっこう読んでいる、となれば、「カースト制」が打ち破られる日も近いかと思うが、この本を読む限り、そう言うことはありそうもない。
著者はここで、インドのカーストと、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害と、アフリカ系アメリカ人の人種差別を、同列に置いて論じている。
私は、これはさすがに無理だと思ったが、しかしA5判450ページの本の厚みがあれば、腕力のある著者なら、私を説き伏せることなど朝飯前であろう、とも思う。
だから著者の理屈に屈しないよう、頑張ってかたくなな読書の姿勢をとったのである。
しかし結論から言うと、著者は冷静に議論を進めるのではなく、いったん原稿に取りかかれば、悲しみ、悲憤、恐怖、怒り、そのほかの感情を押し殺すのが、精いっぱいだったようだ。
まずは2016年の大統領選挙から見ていこう(なおこの本では、オバマやトランプといった大統領は、なぜか固有名詞では語られない。これがどういう効果を持つのかは、私には分からない)
2016年の選挙速報の後、ある人々は、自分の思っていることを言いやすくなったと感じた。むかし失われた社会秩序が、戻ってきたと感じたのだ。
「昔ながらの秩序、先祖たちの時代の閉鎖的なヒエラルキーに戻るという感覚は、まもなく憎悪犯罪や集団暴力の波となって国中に広がり、大きく報じられた。大統領就任式の直後、カンザス州で白人の男がインド系のエンジニアを射殺した。男はそのエンジニアと、同じくインド系の別の同僚に向かって『俺の国から出て行け』と言いながら撃った。」
こういう感覚、「俺の国から出て行け」と言いながら発砲する感覚は、日本人には無縁だろう。
「翌月、身だしなみのよい白人の陸軍退役軍人が、黒人を殺すことを使命としてボルティモアからバスでニューヨークに行き、タイムズスクエアで六十九歳の男性のあとをつけて剣で刺し殺した。この退役軍人は、ニューヨーク州でテロリズム容疑で起訴された最初の白人至上主義者となる。」
翌2017年はアメリカ近現代史上、集団暴力による死者の数が、もっとも多くなった。
「ラスヴェガスでの事件で最多の死者が出たのに続き、国中の公立学校、駐車場、街頭、大規模店で銃乱射事件が起きた。二〇一八年の秋、ピッツバーグのシナゴーグで礼拝していたユダヤ人一一人が殺され、米国国内で起きた反ユダヤ主義の犯罪としては最悪のものになった。」
まだまだ、こういう例はいっぱいある。
問題は、なぜトランプが大統領になったとたん、こういう犯罪、黒人や有色人種を殺したり、銃を乱射して無差別に人を殺す犯罪が増えたのか、である。
大統領が変わったからと言って、凶悪な犯罪が大量に噴き上げてくる、ということは、通常はありそうにない。
そこで、イザベル・ウィルカーソンは考えた。これはよくある人種差別ではない、アメリカ建国の前から存在する、カースト制が発動したのだ。
並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(4)
木村大作は『極道の妻たち 三代目姐』(降籏康男監督、89年)を皮切りに、同シリーズを計7本担当している。
最初の『三代目姐』は三田佳子主演、2作目以降は岩下志麻で、その関係で初回からキャメラマンをやった。降旗康男は、以後は撮っていない。
僕はこの映画は、シリーズのどれも見ていない。テレビでもやっているから、しばらくは見ていても、つまらなくて消してしまう。
そのこととは別に、キャメラマンとして、女性について面白い観察をしている。
「女優さんには、それぞれクセがあるね。一般的に言えるのは、精神状態がよくないと目の黒目が動くんだよ。そういうときには『この辺を見てくれないかな』と指示することで、少し気分を変えるようにする。俳優にとって目線というのはすごく大事なんだよ。」
誰でも、どんなときも、目線というのは大事なものだけれど、とりわけ女優にとってはそういうものだろう。木村大作は、特に女を綺麗に撮るというので、吉永小百合、岩下志麻、十朱幸代など、女優に人気があったのだ。
『あ・うん』は向田邦子の原作で、高倉健の主演。ここでは藤純子が富司純子〔ふじすみこ〕として、17年ぶりに映画に出演するのが話題になった。しかも相手は高倉健、誰だって「緋牡丹博徒」シリーズを思い出す。
木村大作は相当気を使ったという。富司純子が衣装合わせをしたときの話。
「役は水田の妻・たみで、いつも和服を着ている。だから反物だけで、いろんな色のものを100反ぐらい並べたんだよ。富司さんはパッと座って反物全体をじっと見回してから、『何もありませんね』とぴしゃりと一言。凄かったよ、歌舞伎役者みたいな言い方で決まっていた。誰も何も言えない空気になってしまったから……。」
衣装合わせは、藤色系が好きだというので、何とか間に合わせたけれど、それからも高倉健と同等に渡り合うことができ、その品格、佇まい、厳しさは、富司純子だけのものだった。
僕はこれもテレビで見ている。面白いけれども、それだけのものだった。しかし映画は映画館で見る以外に、批評してはいけないと思う。
向田邦子の原作は、読んだけれども覚えていない。だいたい向田邦子のものは、当時は「人間通」などとと呼ばれる人から、名人級だと持ち上げられもしたが、今になってみれば、小市民の哀歓以外の何ものでもなく、しかもかすかに男に媚びている(これはとても嫌だ)。たしかに作文としては、上手なものだと思うけれど。
『おもちゃ』を撮っているときに、深作欣二監督が木村大作に語ったことは、忘れられない。この映画の設定は、売春防止法が施行される昭和33年頃である。
「ところが、時子は、現代の大阪の街を走って行くわけだよ。深作さんは『大ちゃん、時代が違っていてもビビることはない』って、そのままの大阪で撮ったんだ。少しも昔風の感じには作っていない。深作さんはその理由を『それだと大阪という街が持つ活力がなくなってしまう。だから背景は現代の大阪でいいんだ』と言うんだ。街のエネルギーを重視して、そういう選択をする、その発想は本当にすごいと思ったね。」
『おもちゃ』なんて、聞くも初めての映画だが、背景は現代の大阪でいいというあたり、深作欣二の映画に在る、街と人を含めた活力の源泉を見る思いがする。
残りは飛ばして、いよいよ『劔岳 点の記』である。これも新田次郎の原作で、この映画は木村大作が監督・脚本・撮影を兼ねている。
この部分は読んだことは読んだけど、百聞は一見に如かずで、NETFLIXで見た。139分の映画で、さすがに木村大作渾身の映画で、見た後しばらくは何も言えなかった。
主演の浅野忠信は、木村監督が色を付けそこねていて、まったく影の薄い、主役という以外に言いようのないものだが、部下の松田龍平と、マタギの香川照之が、抜群に良かった。松田龍平は、松田優作よりも良かったし(親父は一本調子の役しかできない)、香川照之も不祥事で蟄居なんかしてないで、詫びるべきところにお金を払って詫びを入れ、早く映画に出て来なさい。この映画を観れば、誰でもそう思うはずだ。
しかし映画を観た後、素晴らしい傑作だけれども、ほんのちょっと教科書風なところが気になった。
前回も言ったみたいに、映画は映画館で見たものが映画なので、NETFLIXで、しかもあろうことか雄大な風景そのものが、見ようによっては主役なのだから、この映画をいま僕が批評するということは、もってのほかなんだけれども、でもちょっともの足りない。
それでNETFLIXで、続けて『仁義なき戦い』を観た。冒頭からこちらの血が騒ぎ、体が熱くなる。やっぱり映画はこれでなくっちゃ。
しかし、しばらく観ていると、だんだん冷めてくる。もちろんつまらなくはない。十分に面白い。でも、全体が古いのだ。『劔岳 点の記』に比べると、新しさという点では、まったく問題にならない。あらためて『劔岳 点の記』の良さを、思い知らされた。
なおこの本は奥付を見ると、2009年6月20日に出ている。それは『劔岳 点の記』の公開の日である。金澤誠はピタリとその日に合わせている。会ったことはない人だけれど、素晴らしい編集者だと思う。
(『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』
木村大作・金澤誠、キネマ旬報社、2009年6月20日初刷)
最初の『三代目姐』は三田佳子主演、2作目以降は岩下志麻で、その関係で初回からキャメラマンをやった。降旗康男は、以後は撮っていない。
僕はこの映画は、シリーズのどれも見ていない。テレビでもやっているから、しばらくは見ていても、つまらなくて消してしまう。
そのこととは別に、キャメラマンとして、女性について面白い観察をしている。
「女優さんには、それぞれクセがあるね。一般的に言えるのは、精神状態がよくないと目の黒目が動くんだよ。そういうときには『この辺を見てくれないかな』と指示することで、少し気分を変えるようにする。俳優にとって目線というのはすごく大事なんだよ。」
誰でも、どんなときも、目線というのは大事なものだけれど、とりわけ女優にとってはそういうものだろう。木村大作は、特に女を綺麗に撮るというので、吉永小百合、岩下志麻、十朱幸代など、女優に人気があったのだ。
『あ・うん』は向田邦子の原作で、高倉健の主演。ここでは藤純子が富司純子〔ふじすみこ〕として、17年ぶりに映画に出演するのが話題になった。しかも相手は高倉健、誰だって「緋牡丹博徒」シリーズを思い出す。
木村大作は相当気を使ったという。富司純子が衣装合わせをしたときの話。
「役は水田の妻・たみで、いつも和服を着ている。だから反物だけで、いろんな色のものを100反ぐらい並べたんだよ。富司さんはパッと座って反物全体をじっと見回してから、『何もありませんね』とぴしゃりと一言。凄かったよ、歌舞伎役者みたいな言い方で決まっていた。誰も何も言えない空気になってしまったから……。」
衣装合わせは、藤色系が好きだというので、何とか間に合わせたけれど、それからも高倉健と同等に渡り合うことができ、その品格、佇まい、厳しさは、富司純子だけのものだった。
僕はこれもテレビで見ている。面白いけれども、それだけのものだった。しかし映画は映画館で見る以外に、批評してはいけないと思う。
向田邦子の原作は、読んだけれども覚えていない。だいたい向田邦子のものは、当時は「人間通」などとと呼ばれる人から、名人級だと持ち上げられもしたが、今になってみれば、小市民の哀歓以外の何ものでもなく、しかもかすかに男に媚びている(これはとても嫌だ)。たしかに作文としては、上手なものだと思うけれど。
『おもちゃ』を撮っているときに、深作欣二監督が木村大作に語ったことは、忘れられない。この映画の設定は、売春防止法が施行される昭和33年頃である。
「ところが、時子は、現代の大阪の街を走って行くわけだよ。深作さんは『大ちゃん、時代が違っていてもビビることはない』って、そのままの大阪で撮ったんだ。少しも昔風の感じには作っていない。深作さんはその理由を『それだと大阪という街が持つ活力がなくなってしまう。だから背景は現代の大阪でいいんだ』と言うんだ。街のエネルギーを重視して、そういう選択をする、その発想は本当にすごいと思ったね。」
『おもちゃ』なんて、聞くも初めての映画だが、背景は現代の大阪でいいというあたり、深作欣二の映画に在る、街と人を含めた活力の源泉を見る思いがする。
残りは飛ばして、いよいよ『劔岳 点の記』である。これも新田次郎の原作で、この映画は木村大作が監督・脚本・撮影を兼ねている。
この部分は読んだことは読んだけど、百聞は一見に如かずで、NETFLIXで見た。139分の映画で、さすがに木村大作渾身の映画で、見た後しばらくは何も言えなかった。
主演の浅野忠信は、木村監督が色を付けそこねていて、まったく影の薄い、主役という以外に言いようのないものだが、部下の松田龍平と、マタギの香川照之が、抜群に良かった。松田龍平は、松田優作よりも良かったし(親父は一本調子の役しかできない)、香川照之も不祥事で蟄居なんかしてないで、詫びるべきところにお金を払って詫びを入れ、早く映画に出て来なさい。この映画を観れば、誰でもそう思うはずだ。
しかし映画を観た後、素晴らしい傑作だけれども、ほんのちょっと教科書風なところが気になった。
前回も言ったみたいに、映画は映画館で見たものが映画なので、NETFLIXで、しかもあろうことか雄大な風景そのものが、見ようによっては主役なのだから、この映画をいま僕が批評するということは、もってのほかなんだけれども、でもちょっともの足りない。
それでNETFLIXで、続けて『仁義なき戦い』を観た。冒頭からこちらの血が騒ぎ、体が熱くなる。やっぱり映画はこれでなくっちゃ。
しかし、しばらく観ていると、だんだん冷めてくる。もちろんつまらなくはない。十分に面白い。でも、全体が古いのだ。『劔岳 点の記』に比べると、新しさという点では、まったく問題にならない。あらためて『劔岳 点の記』の良さを、思い知らされた。
なおこの本は奥付を見ると、2009年6月20日に出ている。それは『劔岳 点の記』の公開の日である。金澤誠はピタリとその日に合わせている。会ったことはない人だけれど、素晴らしい編集者だと思う。
(『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』
木村大作・金澤誠、キネマ旬報社、2009年6月20日初刷)
並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(3)
『火宅の人』では、深作欣二監督のデフォルメした演出で、1シーンで13発の雷を鳴らしているところがある。木村大作も、これは面白いと思った。
「映画におけるリアリティというのは、実際の10倍やらないと出ないんだ。その場にあるものを、ただそのまま撮っているのは日常であって、映画でそれをやっても面白くないというのが深作さんだよね。それは、黒澤明さんも今村昌平さんも同じで、すごい監督はみんなそういうところがあるよ。」
「すごい監督」に、黒澤明、今村昌平が挙げられているのに注意。この二人と何本も組んだ、録音技師・紅谷愃一のすごさが思い起こされる。
『火宅の人』は、深作欣二が脚本も書いた。
「自分でも手応えがあったと思う。ある意味、深作さんの人生を描いているような内容でもあるからね(笑)。」
そうか、そう言うことか。僕は、檀一雄の原作のあまりの下らなさに、映画を観るのをやめたが、そういうことであれば、一度ぜひ見てみたい。
『華の乱』は、タイトルは聞いたことがあるけど、記憶には残ってない。1988公開だから、会社が倒産して、僕はメシが食えずにいた頃だった。いや、京都の法蔵館の東京事務所に移籍したころだったかもしれない。身辺追い込まれている感じがあって、それどころではなかった。
『華の乱』は吉永小百合の与謝野晶子、緒形拳の与謝野鉄幹、松坂慶子の松井須磨子、そして与謝野晶子と恋愛関係になる有島武郎役に、松田優作の配役である。
ここでは木村大作と松田優作に、絡み合う因縁の話があるが、それよりもキャメラマンから見た、人種の話が面白い。人種と言っても、もちろん差別に関わる話ではない。
深作はこのとき、フランス映画『ブロンテ姉妹』のように撮ってくれといった。
「日本の監督は、よく外国映画の名前を出して『こんな調子でやってくれ』と言うよ。日本人ははだがイエロー。アメリカ映画なら白人と黒人ですよ。そうすると洋画はイエロー過多の色調になる。白人が白人の顔色で出てくる映画なんてないよ。黒人だってイエローか赤みを出さないと、あの黒は出ない。それと同じ調子を日本映画をやったら、どうなると思う? 映画の色調の基準は、肌の色なんだから。それをイエロー過多でやったら、目も当てられないよ。」
難しい内容で、助詞も変なところがある。ここは金澤さん、ちょっと混乱しているなと思うが、しかしキャメラマンとしては、もっとも重要なことを語ってると思う。
続けて、人の顔を例に挙げて言う。
「面白いもので夏八木勲さんは外国人系なんですよ、肌の色が。緒形拳さんは日本人系。不思議なのは、肌自体が白っぽいとか黄色っぽいということではなくて、にじみ出てくるものが違うんだね。キャメラを覗いていると分かる。だから『洋画っぽい調子は無理なんです』と言ったら、深作さんも分かってくれたよ。」
話の道筋はもう一つよく分からない。しかし芯に到達すると、こういうことなんだなあ、ということは分かる。分かるような気がする。
この映画で、木村大作はキャメラマンとして、監督の深作欣二の内面まで把握しようとしている。
「俺は深作さんと4本やったけど、この映画のときが一番悩んでいたな。『火宅の人』なんかは、まるで自分のことみたいだからよくわかるんだよ。恋とか愛の場面はいいんだけど、ピクニックに行く場面は悩んで結局1週間かかっている。」
この映画、ますます見たくなってきたぞ。
「映画におけるリアリティというのは、実際の10倍やらないと出ないんだ。その場にあるものを、ただそのまま撮っているのは日常であって、映画でそれをやっても面白くないというのが深作さんだよね。それは、黒澤明さんも今村昌平さんも同じで、すごい監督はみんなそういうところがあるよ。」
「すごい監督」に、黒澤明、今村昌平が挙げられているのに注意。この二人と何本も組んだ、録音技師・紅谷愃一のすごさが思い起こされる。
『火宅の人』は、深作欣二が脚本も書いた。
「自分でも手応えがあったと思う。ある意味、深作さんの人生を描いているような内容でもあるからね(笑)。」
そうか、そう言うことか。僕は、檀一雄の原作のあまりの下らなさに、映画を観るのをやめたが、そういうことであれば、一度ぜひ見てみたい。
『華の乱』は、タイトルは聞いたことがあるけど、記憶には残ってない。1988公開だから、会社が倒産して、僕はメシが食えずにいた頃だった。いや、京都の法蔵館の東京事務所に移籍したころだったかもしれない。身辺追い込まれている感じがあって、それどころではなかった。
『華の乱』は吉永小百合の与謝野晶子、緒形拳の与謝野鉄幹、松坂慶子の松井須磨子、そして与謝野晶子と恋愛関係になる有島武郎役に、松田優作の配役である。
ここでは木村大作と松田優作に、絡み合う因縁の話があるが、それよりもキャメラマンから見た、人種の話が面白い。人種と言っても、もちろん差別に関わる話ではない。
深作はこのとき、フランス映画『ブロンテ姉妹』のように撮ってくれといった。
「日本の監督は、よく外国映画の名前を出して『こんな調子でやってくれ』と言うよ。日本人ははだがイエロー。アメリカ映画なら白人と黒人ですよ。そうすると洋画はイエロー過多の色調になる。白人が白人の顔色で出てくる映画なんてないよ。黒人だってイエローか赤みを出さないと、あの黒は出ない。それと同じ調子を日本映画をやったら、どうなると思う? 映画の色調の基準は、肌の色なんだから。それをイエロー過多でやったら、目も当てられないよ。」
難しい内容で、助詞も変なところがある。ここは金澤さん、ちょっと混乱しているなと思うが、しかしキャメラマンとしては、もっとも重要なことを語ってると思う。
続けて、人の顔を例に挙げて言う。
「面白いもので夏八木勲さんは外国人系なんですよ、肌の色が。緒形拳さんは日本人系。不思議なのは、肌自体が白っぽいとか黄色っぽいということではなくて、にじみ出てくるものが違うんだね。キャメラを覗いていると分かる。だから『洋画っぽい調子は無理なんです』と言ったら、深作さんも分かってくれたよ。」
話の道筋はもう一つよく分からない。しかし芯に到達すると、こういうことなんだなあ、ということは分かる。分かるような気がする。
この映画で、木村大作はキャメラマンとして、監督の深作欣二の内面まで把握しようとしている。
「俺は深作さんと4本やったけど、この映画のときが一番悩んでいたな。『火宅の人』なんかは、まるで自分のことみたいだからよくわかるんだよ。恋とか愛の場面はいいんだけど、ピクニックに行く場面は悩んで結局1週間かかっている。」
この映画、ますます見たくなってきたぞ。
並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(2)
『八甲田山』は、新田次郎の『八甲田山 死の彷徨』が原作である。その『八甲田山』で木村大作が、回想シーンについて、興味深いことを述べている。
「橋本〔忍〕さんは回想シーンが好きだよね。製作とシナリオを担当した『砂の器』(74年)でも、クライマックスのところで親子が旅をする長い回想シーンが入る。あれで観客は感動したわけだから。でも、俺は回想シーンが好きではない。」
話はこれだけ。あとは続かないので、木村大作がなぜ、回想シーンが好きではないのかは、分からない。
僕もどちらかと言えば、回想シーンは好きではない。特に『砂の器』は回想シーンが、これでもかと入ってくるため、再見するのは遠慮したい。感動の押し売りは逆効果だ。
もう一つ、回想シーンが好きではないのは、たいていは事情を語ったり、謎解きに当てられるからだ。
これが黒澤の『羅生門』のように、回想と見せて、作品をぐいぐい前に推していくものであれば、事情はまったく異なる。
『八甲田山』は、ともかく木村大作にとっては、エポック・メーキングな作品であった。
「今見直すと、技術的には目を覆いたくなるようなところがたくさんある。でも、もう一度ああいう撮影をしろと言われても絶対にやれない。」
エポック・メーキングな作品というのは、そう言うものだ。とはいっても、これだけでは何も分からない。続く会話はこうだ。
「あの現場では、人と人とが闘うことでしか成り立たないことが山ほどあったから。それを経験したことで、映画には技術を凝らしてやっていくという方法論もあるんだろうけど、俺は違う道を歩みながら映画を作っていきたいということになってしまった。そういう意味でも、俺のその後を決定付けた作品なんですよ。」
技術的には目を覆うような、けれどもそれだから、かえって真実が剝き出しになっている作品。そういうものを撮ってしまったら、もうそこからは引き返せない。『八甲田山』は、そういう作品だった。
角川映画『復活の日』では、深作欣二監督と組み、そして丁々発止やり合った。
「深作さんとは意地の張り合いだったことはあるな。深作さんは、キャメラを覗きたい監督。でも俺は絶対に覗かせないキャメラマン。身長は俺のほうが頭一つ高いから、何かの台に乗らないと監督は覗けない。俺は監督が乗れそうな台を、助手に指示して排除しておくんだから。深作さんはロングショットを嫌う人だから、サイズに関してはよく論争したよ。」
ここで思わず深作の、一連の『仁義なき戦い』を思い浮かべる。そういえばあの中で、ロングショットは広島の原爆ドーム以外にはなかった。
次の『駅 STATION』も高倉健・主演である。木村大作と高倉健の絆は、ますます濃くなる。
「健さんは、その場面に出ている俳優に感動するとか、そういうことが芝居に影響するね。『あの人には感じるよ』という言い方をするんだ。そう感じると若手でも応援するし、健さん自身もノッてくる。逆に『大ちゃん、あいつには何も感じないんだよな』と健さんが言った俳優がいると、本当は二人一緒に撮らなくてはいけない場面でも別々に撮るね。」
ふーん、そういうものなんだ。
『駅 STATION』は降旗康夫の監督だった。木村大作にとっては、初めて組む監督である。
「降旗さんはほとんどこだわらないよ。それで、『やったことの全責任は自分が取ります』というタイプの人で、『変わったからと言って何ほどのものだよ。たかが映画じゃないか』という境地にいる人だと、俺は思うんだ。だから、このときにも俺がキャメラをやることには何も言わなかった。」
紅谷愃一の『音が語る、日本映画の黄金時代』でも、降旗康夫にページを割いているが、ここまで大人然〔たいじんぜん〕としては、出てこなかったと思う。木村大作は降旗康夫を、無条件に敬服していると思う。
「『たかが映画じゃないか』という境地」というのが、素直な尊敬の感情が溢れるのを、よく表わしている。
「橋本〔忍〕さんは回想シーンが好きだよね。製作とシナリオを担当した『砂の器』(74年)でも、クライマックスのところで親子が旅をする長い回想シーンが入る。あれで観客は感動したわけだから。でも、俺は回想シーンが好きではない。」
話はこれだけ。あとは続かないので、木村大作がなぜ、回想シーンが好きではないのかは、分からない。
僕もどちらかと言えば、回想シーンは好きではない。特に『砂の器』は回想シーンが、これでもかと入ってくるため、再見するのは遠慮したい。感動の押し売りは逆効果だ。
もう一つ、回想シーンが好きではないのは、たいていは事情を語ったり、謎解きに当てられるからだ。
これが黒澤の『羅生門』のように、回想と見せて、作品をぐいぐい前に推していくものであれば、事情はまったく異なる。
『八甲田山』は、ともかく木村大作にとっては、エポック・メーキングな作品であった。
「今見直すと、技術的には目を覆いたくなるようなところがたくさんある。でも、もう一度ああいう撮影をしろと言われても絶対にやれない。」
エポック・メーキングな作品というのは、そう言うものだ。とはいっても、これだけでは何も分からない。続く会話はこうだ。
「あの現場では、人と人とが闘うことでしか成り立たないことが山ほどあったから。それを経験したことで、映画には技術を凝らしてやっていくという方法論もあるんだろうけど、俺は違う道を歩みながら映画を作っていきたいということになってしまった。そういう意味でも、俺のその後を決定付けた作品なんですよ。」
技術的には目を覆うような、けれどもそれだから、かえって真実が剝き出しになっている作品。そういうものを撮ってしまったら、もうそこからは引き返せない。『八甲田山』は、そういう作品だった。
角川映画『復活の日』では、深作欣二監督と組み、そして丁々発止やり合った。
「深作さんとは意地の張り合いだったことはあるな。深作さんは、キャメラを覗きたい監督。でも俺は絶対に覗かせないキャメラマン。身長は俺のほうが頭一つ高いから、何かの台に乗らないと監督は覗けない。俺は監督が乗れそうな台を、助手に指示して排除しておくんだから。深作さんはロングショットを嫌う人だから、サイズに関してはよく論争したよ。」
ここで思わず深作の、一連の『仁義なき戦い』を思い浮かべる。そういえばあの中で、ロングショットは広島の原爆ドーム以外にはなかった。
次の『駅 STATION』も高倉健・主演である。木村大作と高倉健の絆は、ますます濃くなる。
「健さんは、その場面に出ている俳優に感動するとか、そういうことが芝居に影響するね。『あの人には感じるよ』という言い方をするんだ。そう感じると若手でも応援するし、健さん自身もノッてくる。逆に『大ちゃん、あいつには何も感じないんだよな』と健さんが言った俳優がいると、本当は二人一緒に撮らなくてはいけない場面でも別々に撮るね。」
ふーん、そういうものなんだ。
『駅 STATION』は降旗康夫の監督だった。木村大作にとっては、初めて組む監督である。
「降旗さんはほとんどこだわらないよ。それで、『やったことの全責任は自分が取ります』というタイプの人で、『変わったからと言って何ほどのものだよ。たかが映画じゃないか』という境地にいる人だと、俺は思うんだ。だから、このときにも俺がキャメラをやることには何も言わなかった。」
紅谷愃一の『音が語る、日本映画の黄金時代』でも、降旗康夫にページを割いているが、ここまで大人然〔たいじんぜん〕としては、出てこなかったと思う。木村大作は降旗康夫を、無条件に敬服していると思う。
「『たかが映画じゃないか』という境地」というのが、素直な尊敬の感情が溢れるのを、よく表わしている。
並みのキャメラマンじゃない――『誰かが行かねば、道はできない―木村大作と映画の映像―』(木村大作・金澤誠)(1)
映画キャメラマン、木村大作の聞き書きである。聞き手は金澤誠。
そう、金澤誠は『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』で、録音技師・紅谷愃一を取材して原稿にし、さらに驚くべき詳細な脚注を付した人である。
その緻密な本作りに唸らされたので、木村大作のも読んでみることにした。
木村大作の映画は、僕が知っているのを挙げると、『日本沈没』『八甲田山』『復活の日』『駅 STATION』『海峡』『居酒屋兆治』『火宅の人』『あ・うん』『誘拐』『鉄道員』などがあって、監督作品に『劔岳 点の記』がある。
まず「はじめに」でこう言う。映画監督が芝居を担当する演出家だとすれば、木村大作は芝居をする場を作る「撮影〝現場〟監督」である。
「ロケ地の選定、キャメラアングルと撮影の狙いに即した美術セットの建て込み、俳優が画的に生える衣裳の見立て。さらには最も効率的な予算の使い方に至るまで、映画作りのすべてに自分のエネルギーを投入する。そういう事前の準備をすることで、撮影現場には最高のセッテイングが用意されることになる。」
なるほど、並みのキャメラマンとは違うということか。
木村大作は1958年4月に東宝に入社して、5月には黒澤明組の『隠し砦の三悪人』に就いている。といつても、研修期間に教わったのは、キャメラの担ぎ方くらいだった。
その他の黒澤映画で、助手で入ったものは、『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『どですかでん』などである。助手と言っても、『隠し砦の三悪人』のときはいちばん下っ端で、『どですかでん』のときはチーフ助手だった。
うーん、それにしても入社した翌月から、すごいことになっている。
当時は森繁の「社長」ものや、加山雄三の「若大将」ものが全盛だったけど、木村大作はまったくやっていない。
ほかは、岡本喜八組は『独立愚連隊』から、成瀬巳喜男は遺作の『乱れ雲』1本だけ就いている。
「成瀬さんはカチンコの部分を外してそのまま繫げば、映画ができたというぐらい、余分なものを撮らないんだ。黒澤さんも成瀬さんを尊敬していたよね。」
こういうこぼれ話的なところに、面白さがひそんでいる。もっとも、黒澤が成瀬巳喜男を尊敬していたというのは、僕が知らないだけで、有名な話かもしれない。
木村大作がキャメラマンとして就いた映画の話も、個別に面白いが、それよりも、もう一段深い話が、より面白い。
たとえば『八甲田山』を撮って学んだこと。
「大体キャメラマンがいいと思って撮ったところよりも、失敗したと思ったシーンのほうが評価の高いことがよくある。そういう経験をしていくと、つくづく技術って何なんだろうと思うよ。」
あるいは高倉健が、「今日確かに、自分は雪の八甲田で(神田大尉に)会いました」といったきり、そのあと台本1ページ分くらいのセリフが、言えずにいたこと。
神田大尉(北大路欣也)は棺の中にあって、開けたとき初めて高倉健と再会したのだ。高倉健はあとが続かなくて、ただ涙を流していた。
そのままフイルムを廻し切ったところで、森谷司郎監督が「OK」と言い、続けて木村大作も「OK」と言った。
橋本忍の脚本は、高倉健の神田大尉に対する、自分の気持ちを語っていた。しかし高倉健は、「雪の八甲田で会いました」という1行のセリフと、あふれる涙だけでそれを表現してしまった。
「そういう現場を通り抜けて来て、いろんな俳優を見ていると、演じることの技術って何なんだろうと思うよ。俺は建さんのような人が、本当の意味での俳優だと思っている。」
ここまでくると、高倉健の評価は別にして、演技とは何か、は本当に難しいものだと思う。
そう、金澤誠は『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』で、録音技師・紅谷愃一を取材して原稿にし、さらに驚くべき詳細な脚注を付した人である。
その緻密な本作りに唸らされたので、木村大作のも読んでみることにした。
木村大作の映画は、僕が知っているのを挙げると、『日本沈没』『八甲田山』『復活の日』『駅 STATION』『海峡』『居酒屋兆治』『火宅の人』『あ・うん』『誘拐』『鉄道員』などがあって、監督作品に『劔岳 点の記』がある。
まず「はじめに」でこう言う。映画監督が芝居を担当する演出家だとすれば、木村大作は芝居をする場を作る「撮影〝現場〟監督」である。
「ロケ地の選定、キャメラアングルと撮影の狙いに即した美術セットの建て込み、俳優が画的に生える衣裳の見立て。さらには最も効率的な予算の使い方に至るまで、映画作りのすべてに自分のエネルギーを投入する。そういう事前の準備をすることで、撮影現場には最高のセッテイングが用意されることになる。」
なるほど、並みのキャメラマンとは違うということか。
木村大作は1958年4月に東宝に入社して、5月には黒澤明組の『隠し砦の三悪人』に就いている。といつても、研修期間に教わったのは、キャメラの担ぎ方くらいだった。
その他の黒澤映画で、助手で入ったものは、『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『どですかでん』などである。助手と言っても、『隠し砦の三悪人』のときはいちばん下っ端で、『どですかでん』のときはチーフ助手だった。
うーん、それにしても入社した翌月から、すごいことになっている。
当時は森繁の「社長」ものや、加山雄三の「若大将」ものが全盛だったけど、木村大作はまったくやっていない。
ほかは、岡本喜八組は『独立愚連隊』から、成瀬巳喜男は遺作の『乱れ雲』1本だけ就いている。
「成瀬さんはカチンコの部分を外してそのまま繫げば、映画ができたというぐらい、余分なものを撮らないんだ。黒澤さんも成瀬さんを尊敬していたよね。」
こういうこぼれ話的なところに、面白さがひそんでいる。もっとも、黒澤が成瀬巳喜男を尊敬していたというのは、僕が知らないだけで、有名な話かもしれない。
木村大作がキャメラマンとして就いた映画の話も、個別に面白いが、それよりも、もう一段深い話が、より面白い。
たとえば『八甲田山』を撮って学んだこと。
「大体キャメラマンがいいと思って撮ったところよりも、失敗したと思ったシーンのほうが評価の高いことがよくある。そういう経験をしていくと、つくづく技術って何なんだろうと思うよ。」
あるいは高倉健が、「今日確かに、自分は雪の八甲田で(神田大尉に)会いました」といったきり、そのあと台本1ページ分くらいのセリフが、言えずにいたこと。
神田大尉(北大路欣也)は棺の中にあって、開けたとき初めて高倉健と再会したのだ。高倉健はあとが続かなくて、ただ涙を流していた。
そのままフイルムを廻し切ったところで、森谷司郎監督が「OK」と言い、続けて木村大作も「OK」と言った。
橋本忍の脚本は、高倉健の神田大尉に対する、自分の気持ちを語っていた。しかし高倉健は、「雪の八甲田で会いました」という1行のセリフと、あふれる涙だけでそれを表現してしまった。
「そういう現場を通り抜けて来て、いろんな俳優を見ていると、演じることの技術って何なんだろうと思うよ。俺は建さんのような人が、本当の意味での俳優だと思っている。」
ここまでくると、高倉健の評価は別にして、演技とは何か、は本当に難しいものだと思う。
唸るほど上手い――『悪逆』(黒川博行)(2)
黒川博行の、形式的には新しい小説とはいっても、刑事のコンビが出てくれば、言葉の掛け合いが出てこないはずはない。
若い舘野雄介とベテランの玉川伸一の、丁々発止の会話。
「奥さんに話しかけるんですか」
「箸、ビール、飯、漬け物〔つけもん〕……。話しかけるがな」
「それは玉さん、会話とちがいます。飯、風呂、寝る、といっしょですわ」
「言葉は短きをもって良しとする。刑事〔でか〕の第一条や」
「夫婦仲、いいんですか」
「わるうはないやろ。空気みたいなもんや」
「もし、奥さんが出て行ったらどうします」
「んなこと、考えたこともない」
「もし、出て行ったら、です」
「即、認知症やな。ボーッと口あけて、その辺を徘徊する」
「そら、奥さんのことが好きなんです」
「あたりまえや。よめはんとわしは恋愛結婚やぞ」
引用が長くなって恐縮だが、このくらいないと、黒川博行の大阪弁の味は分からない。
もう一カ所、「明徳」という貸金業の看板を掲げている徳永という男と、玉川の会話。
「徳永さんよ、あんたの知り合いに外国人ギャングはおるか」
「いきなり、なんや。んなもん、おるわけないやろ」
「ほな、明徳の客に外国人ギャングは」
「あのな、ギャングに金貸して、どない回収するんや。トカレフで撃たれるがな」
いつもの刑事コンビの漫才や、容疑者との掛け合いに比べれば、今回はその回数がぐっと少ないし、笑いの程度も抑えている。そのぶん、犯人との闘争に力点を入れている。
こういう、隅々まで張りつめた気配と自在の按配が、プロ作家、黒川博行の腕の見せどころである。
帳場すなわち特別捜査本部の、費用に関する言及もある。警察ものでは、いろんなところで描かれてもいいのに、僕は初めて見た。
「特別捜査本部は最大四十日間で解体されるのが慣例とされている。本来は二十日間、さらに二十日間延長できて四十日。特捜本部事件の捜査費は大阪府からではなく国費が使われるため、その日数になる。捜査本部が解体されれば一課は退き、あとは箕面北署の事件になるが、警視庁の判断で帳場は継続され、捜査員の超過勤務費、車両費、出張費等の捜査費は国費と府費でまかなわれる――。」
なるほどそうかと納得されるが、人によっては、そんなことどうでもいいやんか、となるかもしれない。でもこういうところは、建物の基礎工事と同じで、ツメをしっかりしてある方が、面白いと思う。
箱崎は、最初に過払い金マフィアを殺して、金塊を強奪したのだが、その金塊を売り捌いたところから足がつく。
しかし箱崎は、まだ平気である。殺人事件と金塊を、直接繫ぐものはないからだ。
それでも捜査の網は、刻一刻と絞られてくる。
終わりの80ページくらいは、まったく目が離せない。本を持つ手が汗ばんでくる。読む方の僕の動悸が、じかに聞こえてくる。
最後に箱崎は、成田発マニラ行きの飛行機に乗る。
「出国審査は緊張した。係官は箱崎を一瞥し、パスポートに眼を落とす。査証欄に出国スタンプが押されたときは思わずあたまを下げた――。」
しかし――。
なおフィリピンは、日本と協定を結んでいないので、犯罪人は一度そこに逃げ込めば、逃亡者天国だという。
しかしこのところ、ルフィとかキムといった大物が(どこが「大物」だかよく分からないが)、フィリピンから日本に強制送還されている。これはどういうことなのか。最後の最後に大きな疑問が残った。
(『悪逆』黒川博行、朝日新聞出版、2023年10月30日初刷)
若い舘野雄介とベテランの玉川伸一の、丁々発止の会話。
「奥さんに話しかけるんですか」
「箸、ビール、飯、漬け物〔つけもん〕……。話しかけるがな」
「それは玉さん、会話とちがいます。飯、風呂、寝る、といっしょですわ」
「言葉は短きをもって良しとする。刑事〔でか〕の第一条や」
「夫婦仲、いいんですか」
「わるうはないやろ。空気みたいなもんや」
「もし、奥さんが出て行ったらどうします」
「んなこと、考えたこともない」
「もし、出て行ったら、です」
「即、認知症やな。ボーッと口あけて、その辺を徘徊する」
「そら、奥さんのことが好きなんです」
「あたりまえや。よめはんとわしは恋愛結婚やぞ」
引用が長くなって恐縮だが、このくらいないと、黒川博行の大阪弁の味は分からない。
もう一カ所、「明徳」という貸金業の看板を掲げている徳永という男と、玉川の会話。
「徳永さんよ、あんたの知り合いに外国人ギャングはおるか」
「いきなり、なんや。んなもん、おるわけないやろ」
「ほな、明徳の客に外国人ギャングは」
「あのな、ギャングに金貸して、どない回収するんや。トカレフで撃たれるがな」
いつもの刑事コンビの漫才や、容疑者との掛け合いに比べれば、今回はその回数がぐっと少ないし、笑いの程度も抑えている。そのぶん、犯人との闘争に力点を入れている。
こういう、隅々まで張りつめた気配と自在の按配が、プロ作家、黒川博行の腕の見せどころである。
帳場すなわち特別捜査本部の、費用に関する言及もある。警察ものでは、いろんなところで描かれてもいいのに、僕は初めて見た。
「特別捜査本部は最大四十日間で解体されるのが慣例とされている。本来は二十日間、さらに二十日間延長できて四十日。特捜本部事件の捜査費は大阪府からではなく国費が使われるため、その日数になる。捜査本部が解体されれば一課は退き、あとは箕面北署の事件になるが、警視庁の判断で帳場は継続され、捜査員の超過勤務費、車両費、出張費等の捜査費は国費と府費でまかなわれる――。」
なるほどそうかと納得されるが、人によっては、そんなことどうでもいいやんか、となるかもしれない。でもこういうところは、建物の基礎工事と同じで、ツメをしっかりしてある方が、面白いと思う。
箱崎は、最初に過払い金マフィアを殺して、金塊を強奪したのだが、その金塊を売り捌いたところから足がつく。
しかし箱崎は、まだ平気である。殺人事件と金塊を、直接繫ぐものはないからだ。
それでも捜査の網は、刻一刻と絞られてくる。
終わりの80ページくらいは、まったく目が離せない。本を持つ手が汗ばんでくる。読む方の僕の動悸が、じかに聞こえてくる。
最後に箱崎は、成田発マニラ行きの飛行機に乗る。
「出国審査は緊張した。係官は箱崎を一瞥し、パスポートに眼を落とす。査証欄に出国スタンプが押されたときは思わずあたまを下げた――。」
しかし――。
なおフィリピンは、日本と協定を結んでいないので、犯罪人は一度そこに逃げ込めば、逃亡者天国だという。
しかしこのところ、ルフィとかキムといった大物が(どこが「大物」だかよく分からないが)、フィリピンから日本に強制送還されている。これはどういうことなのか。最後の最後に大きな疑問が残った。
(『悪逆』黒川博行、朝日新聞出版、2023年10月30日初刷)
唸るほど上手い――『悪逆』(黒川博行)(1)
これは警察小説の王道であるが、同時に犯人の方も一人称で描いていて、いわば全体が共鳴装置になっている。これは黒川博行の小説としては珍しい。
刑事と犯人の、両方から描く場合には、読者の思い入れが、どちらかに偏らないことが難しいのだ。つまり読者は、刑事にも犯人にも等分に、肩入れする必要がある。作者はそれを、微妙なつり合いで成し遂げているのだ。
登場人物は、刑事の側が、大阪府警察本部の舘野雄介と、箕面北署の玉川伸一、つまり府警と所轄署のコンビである。これは殺人事件など凶悪事件が起きたとき、こういう組み合わせで捜査にあたる。
舘野雄介は府警のエリートだが、そんなふうに描かれてはいない。箕面北署の玉川伸一は、酸いも甘いも嚙み分けたベテランで、読書家でもある。黒川博行の小説では、コンビの片方は常に読書家なのだ。
刑事側の叙述は、舘野雄介から見たものだが、舘野の1人称ではなく、3人称である。
それに対する犯人は、総合探偵社WBの社長、箱崎雅彦。こちらの叙述は1人称である。
刑事の3人称と、殺人犯の1人称が、交互に共鳴して抜群の効果を上げている。
殺される面々は、過払い金マフィア、マルチ商法の親玉、カルト教団の宗務総長、そして撃たれて生死を彷徨う別のカルトの教祖。つまり殺られても当然といった面々である。
読者が、殺人犯の1人称を不快に思わないのは、こういうところにも仕掛けがある。
先に挙げた中で、僕は「過払い金マフィア」というのは、知らなかった。
「過払い金」というのは、消費者金融の客が、利息制限法の上限金利を超えて、金融業者に支払った利息である。2006年1月に最高裁が、グレーゾーンの金利を無効としたことにより、消費者金融の顧客が、過払い金の返還を請求するようになった。
このとき以降、「過払い金バブル」が発生し、請求業者は返還額の20%から30%もピンハネするようになった。
この請求業者が問題である。1999年から司法制度改革により弁護士が急増し、その後、弁護士の広告解禁と、司法書士の広告自由化により、大量の広告を打つ弁護士事務所や司法書士事務所が乱立した。
そうか、「むかしちょっと借りたんだけど、過払い金の請求をしたら、こんなに戻ってきちゃった」という、弁護士事務所のコマーシャルは、これだったのか。でも底辺のどぶさらいのような仕事だが、これはこれでまっとうな仕事ではある。
しかしここに登場する男は、消費者金融から回収した過払い金、推定20億から30億を、依頼者に一銭も返さずに、偽装破産した。とんでもない奴なのだ。
あとのワルたちは、よく知っているだろう。
今回の犯人は、みごとに警察の裏をかく。
「外国人の仕業かな」
「そうに決まっとるわ。中国人ギャングや。向こうでチーム組んで観光ビザで日本に来て、日本の情報屋からネタもろて盗みに入る。稼ぐだけ稼いだら、とっとと国に帰りよる。せやから、めちゃくちゃするんや」
巷の噂は、もっぱらそういうところに落ち着く。犯人の箱崎が、そういうふうに仕組んでいるのだ。
警察のことは、あらかじめすべて分かっている。なぜなら箱崎は、元エースと呼ばれた警察官だったから。
刑事と犯人の、両方から描く場合には、読者の思い入れが、どちらかに偏らないことが難しいのだ。つまり読者は、刑事にも犯人にも等分に、肩入れする必要がある。作者はそれを、微妙なつり合いで成し遂げているのだ。
登場人物は、刑事の側が、大阪府警察本部の舘野雄介と、箕面北署の玉川伸一、つまり府警と所轄署のコンビである。これは殺人事件など凶悪事件が起きたとき、こういう組み合わせで捜査にあたる。
舘野雄介は府警のエリートだが、そんなふうに描かれてはいない。箕面北署の玉川伸一は、酸いも甘いも嚙み分けたベテランで、読書家でもある。黒川博行の小説では、コンビの片方は常に読書家なのだ。
刑事側の叙述は、舘野雄介から見たものだが、舘野の1人称ではなく、3人称である。
それに対する犯人は、総合探偵社WBの社長、箱崎雅彦。こちらの叙述は1人称である。
刑事の3人称と、殺人犯の1人称が、交互に共鳴して抜群の効果を上げている。
殺される面々は、過払い金マフィア、マルチ商法の親玉、カルト教団の宗務総長、そして撃たれて生死を彷徨う別のカルトの教祖。つまり殺られても当然といった面々である。
読者が、殺人犯の1人称を不快に思わないのは、こういうところにも仕掛けがある。
先に挙げた中で、僕は「過払い金マフィア」というのは、知らなかった。
「過払い金」というのは、消費者金融の客が、利息制限法の上限金利を超えて、金融業者に支払った利息である。2006年1月に最高裁が、グレーゾーンの金利を無効としたことにより、消費者金融の顧客が、過払い金の返還を請求するようになった。
このとき以降、「過払い金バブル」が発生し、請求業者は返還額の20%から30%もピンハネするようになった。
この請求業者が問題である。1999年から司法制度改革により弁護士が急増し、その後、弁護士の広告解禁と、司法書士の広告自由化により、大量の広告を打つ弁護士事務所や司法書士事務所が乱立した。
そうか、「むかしちょっと借りたんだけど、過払い金の請求をしたら、こんなに戻ってきちゃった」という、弁護士事務所のコマーシャルは、これだったのか。でも底辺のどぶさらいのような仕事だが、これはこれでまっとうな仕事ではある。
しかしここに登場する男は、消費者金融から回収した過払い金、推定20億から30億を、依頼者に一銭も返さずに、偽装破産した。とんでもない奴なのだ。
あとのワルたちは、よく知っているだろう。
今回の犯人は、みごとに警察の裏をかく。
「外国人の仕業かな」
「そうに決まっとるわ。中国人ギャングや。向こうでチーム組んで観光ビザで日本に来て、日本の情報屋からネタもろて盗みに入る。稼ぐだけ稼いだら、とっとと国に帰りよる。せやから、めちゃくちゃするんや」
巷の噂は、もっぱらそういうところに落ち着く。犯人の箱崎が、そういうふうに仕組んでいるのだ。
警察のことは、あらかじめすべて分かっている。なぜなら箱崎は、元エースと呼ばれた警察官だったから。
未だ不定形――『インド―グローバル・サウスの超大国―』(近藤正規)(6)
「第6章 インドの中立外交」と「第7章 日印関係」は、中公新書にしては、よく書いたと思う。普通は本の寿命を考えると、さわりだけにするか、あるいはまったく書かないものだ。
インドの外交など一朝一夕で変わるだろう。特に中国との関係は、相手がごり押ししてくるから、武力衝突も、これまでにもあったし、これからもあるだろう。
この辺は著者と編集者で、どういう話し合いをしたのだろう。非常に興味がある。
「日印関係」も時々刻々変わっていく。これも当然のことだ。
たぶん第6章、第7章は、著者が書きたかったことだろうが、本の寿命は、この章があるため、極端に短くなった。
なおこの本のサブタイトル、「グローバル・サウスの超大国」は付け焼刃だと、著者自身が言っている。国際会議があるたびに、「インドはグローバル・サウスの盟主である」と言っても、諸外国の関心を、それほどは呼ばない。
これはモディ首相が、慌てて付け加えたらしい。対外国というよりは、国内向けではないかな。
この章の最後に著者は、こういうことを付け加えている。
「2024年にはG20の議長国がブラジルに移ることになるが、インドが現在と同じように『グローバル・サウス』の代表として第三勢力の立場を強めていくのかどうかを判断するのは、現時点では時期尚早と考えられる。」
副題には付したけれど、怪しいという。まことに正直なものだ。
最初は「インド株って何だろう」という、邪まな興味から手に取った本だが、相手が大きすぎて、新書の範囲では覆いきれなかったようだ。しかし何が問題になっているか、という点はだいたい分かった。分かったような気がする。
14億の民が、大気汚染と飲料水に苦しんでいるときに、この国の株で財産をこしらえる気には、とてもなれない。
もちろん真逆の姿勢もある。わずかばかりでも出資することで、インドの近代化を少しでも推進したい、という立場もある。ただ私は、そう言う気にはなれない、ということだ。
それとは別に、新NISAについて疑問がある。これは誰でも持つ疑問だと思うが、不思議なことに、公けには誰も言わない。
それはこういうことだ。新NISAで株や投資信託を買っても、それで儲けた分については、税金が全くかからない。これは国民の格差を広げることにならないか。
もちろん損をすることもあるのだから、それは自己責任である。しかし戦後70余年を経てみると、リーマンショックのようなことはあるが、それも含めて長い目で見れば、資本は自己増殖していて、その富は、額に汗して働くよりも大きい。
持っているものはますます増え、余剰のない者はいつまでもそこにとどまる。現在の段階でも、中間層は瘦せ細ってきたが、結果としてそれが、より極端になっていくのではないか。
もう一つの疑問は、新NISAで儲かった場合、政治家・役人が、なぜ税金を取らないかである。株にかかる通常の20%では、新NISAの意味がなかろうが、たとえ10%あるいは5%でも、取ろうとしないのはなぜか。
どんなところからでも、商行為があれば税金を取ろうとするが、新NISAに限っては大盤振る舞い、というより底が抜けている。
上限1800万は呼び水、これで日本人が投資に熱を上げてくれれば、というつもりなのか。政治家あるいは財務省の、腹の中が分からない。
誰か、『ようやくわかった、新NISAのからくり』という本を、書いてはくれないか。
(『インド―グローバル・サウスの超大国―』
近藤正規、中公新書、2023年9月25日初刷)
インドの外交など一朝一夕で変わるだろう。特に中国との関係は、相手がごり押ししてくるから、武力衝突も、これまでにもあったし、これからもあるだろう。
この辺は著者と編集者で、どういう話し合いをしたのだろう。非常に興味がある。
「日印関係」も時々刻々変わっていく。これも当然のことだ。
たぶん第6章、第7章は、著者が書きたかったことだろうが、本の寿命は、この章があるため、極端に短くなった。
なおこの本のサブタイトル、「グローバル・サウスの超大国」は付け焼刃だと、著者自身が言っている。国際会議があるたびに、「インドはグローバル・サウスの盟主である」と言っても、諸外国の関心を、それほどは呼ばない。
これはモディ首相が、慌てて付け加えたらしい。対外国というよりは、国内向けではないかな。
この章の最後に著者は、こういうことを付け加えている。
「2024年にはG20の議長国がブラジルに移ることになるが、インドが現在と同じように『グローバル・サウス』の代表として第三勢力の立場を強めていくのかどうかを判断するのは、現時点では時期尚早と考えられる。」
副題には付したけれど、怪しいという。まことに正直なものだ。
最初は「インド株って何だろう」という、邪まな興味から手に取った本だが、相手が大きすぎて、新書の範囲では覆いきれなかったようだ。しかし何が問題になっているか、という点はだいたい分かった。分かったような気がする。
14億の民が、大気汚染と飲料水に苦しんでいるときに、この国の株で財産をこしらえる気には、とてもなれない。
もちろん真逆の姿勢もある。わずかばかりでも出資することで、インドの近代化を少しでも推進したい、という立場もある。ただ私は、そう言う気にはなれない、ということだ。
それとは別に、新NISAについて疑問がある。これは誰でも持つ疑問だと思うが、不思議なことに、公けには誰も言わない。
それはこういうことだ。新NISAで株や投資信託を買っても、それで儲けた分については、税金が全くかからない。これは国民の格差を広げることにならないか。
もちろん損をすることもあるのだから、それは自己責任である。しかし戦後70余年を経てみると、リーマンショックのようなことはあるが、それも含めて長い目で見れば、資本は自己増殖していて、その富は、額に汗して働くよりも大きい。
持っているものはますます増え、余剰のない者はいつまでもそこにとどまる。現在の段階でも、中間層は瘦せ細ってきたが、結果としてそれが、より極端になっていくのではないか。
もう一つの疑問は、新NISAで儲かった場合、政治家・役人が、なぜ税金を取らないかである。株にかかる通常の20%では、新NISAの意味がなかろうが、たとえ10%あるいは5%でも、取ろうとしないのはなぜか。
どんなところからでも、商行為があれば税金を取ろうとするが、新NISAに限っては大盤振る舞い、というより底が抜けている。
上限1800万は呼び水、これで日本人が投資に熱を上げてくれれば、というつもりなのか。政治家あるいは財務省の、腹の中が分からない。
誰か、『ようやくわかった、新NISAのからくり』という本を、書いてはくれないか。
(『インド―グローバル・サウスの超大国―』
近藤正規、中公新書、2023年9月25日初刷)
未だ不定形――『インド―グローバル・サウスの超大国―』(近藤正規)(5)
「第5章 成長の陰に」は、ここまでインドが、いろいろな面で発展してきた話をしたけれど、一皮めくれば、やっぱりインドはなあ、という話題に満ちている。それを箇条書きにしていく。
国民の8割は健康保険に入っていない。医療保険に入るだけの金銭的余裕がない。このことと、国民の中では中産階級が厚い、という話は矛盾してないのだろうか?
貧困層の多くは農村に居住している。労働人口の46%が農業に従事しているが、GDPに占める農業の比率は16%に過ぎない。インドの農業の生産性は、きわめて低い。
男女間の格差も、言いようもなくひどい。2011年の統計では、男性1000人に対し女性943人で、これだけ較差のある国は世界的にも珍しい。もちろんその背景にあるのは、伝統的な男子選好である。
理由の1つには、結婚の際に新婦側の家族から、新郎側に金品を贈る、「ダウリー制度」と呼ばれるものがあり、女の子が生まれた家では、誕生したその日から、結婚に備えて貯蓄に励むことになるという。当然そんなことは嫌だと思う夫婦が、女性の出生率を低下させている。
「ダウリー制度」を外側から、あほらしいとバカにしても、現にそこにあるものだからしょうがない。
女性への性暴力も、深刻な社会問題になってきた。2021年の政府統計では、年間3万1677件のレイプ事件が起きている。これは1日当たり87件、1時間当たり3人以上の被害者が出ている。しかしもちろん、これは公に報告されたもので、ぞっとする話だが、氷山のごく一角に過ぎない。
レイプ被害の9割が、家族や知り合いによるのは、世界共通である。ただインドの場合、カーストの低い層の女性が標的になりやすい。
インドでは選挙における女性の投票は、「一家の大黒柱」である男性の指示に従うことが多く、その意味で政治家が、ジェンダー問題で票を得ることは難しい。
女性差別は書いていて、あほらしさと憤懣が溜まってくる。むかむかしてくる。
インド社会の根深い問題には、汚職の蔓延もある。政治家や官僚の汚職、脱税、脱税などによる「ブラック・エコノミー」は、一国の経済の中で大きな比重を占めている。
とはいってもGDPに占める比率は、算定が難しい。「16%という説、ネルー大学アルン・クマール教授の50%説、元インド中央捜査局のラールによる100%説など様々である。」
100%って何、どういうこと? この辺はどう考えたらいいのか分からない。
要するに「発展途上国」では、何をするにもワイロが必要だという話だ。運転免許証の取得から結婚届、土地の所有権登録、学校の入学、就職まで、なんでもワイロである。
政府補助金も頻繁に横領されている。「インドの補助金は15%しか届かない」という、ラジブ・ガンディー元首相の発言は、いまだによく引かれる。
インドの大気汚染はすごいことになっている。スイスのIQエアーの調べでは(これが何であるかは知らない)、世界の大気汚染で「最も深刻」な15都市のうち13都市が、また「かなり深刻」な30都市のうち22都市が、インドにある。
大気汚染のため、肺疾患、心筋梗塞などに罹る人も多い。デリーでは2019年に大気汚染で亡くなった人は、1万7500人に上った。いわゆる日本の、一昔前の「公害」ですね。
次も同じで、水質汚染も深刻である。上下水道の整備が遅れていて、肝炎や下痢などで多くの子供の命が奪われている。工業廃水を管理する規制が働いていないため、都心部では下水の7割が、未処理のまま排出され、健康被害を及ぼしている。
そして「聖なる川」ガンジスも、汚染が激しい。ガンジス川は、「その水がすべての罪を洗い流す」と信じる人々の、沐浴の場になっている。その水は、全人口の4割の飲料水や調理用水として利用される。
しかしガンジス川に流れる水の、約8割が汚染されている。また川岸には工場や農場が並び、汚水や化学物質を垂れ流している。
あーあ、インド、私は住みたくないな。
しかしそういうこととは別に、出版の企画としては、十分成り立ちそうな気もする。
日本の大手企業でも、駐在している人は多いだろう。単身赴任が多いにしても、一家で住んでいる人もいるはずだ。主婦の目で見たインドというのは、面白くなりそうな気がする。いや、別に主婦でなくとも女性であれば、文章がそこそこ書ける人なら大丈夫だ。
大事なのは、日常の中で落差が大きいということだ。日本とインドの落差、インドの中での落差。当事者として、それは大きければ大きいほど面白い。
堀田善衞『インドで考えたこと』、椎名誠『インドでわしも考えた』……、そろそろ次が出てもいいころだ。それも旅行者としてでなく、インドに暮らしてみた、という視点で。
国民の8割は健康保険に入っていない。医療保険に入るだけの金銭的余裕がない。このことと、国民の中では中産階級が厚い、という話は矛盾してないのだろうか?
貧困層の多くは農村に居住している。労働人口の46%が農業に従事しているが、GDPに占める農業の比率は16%に過ぎない。インドの農業の生産性は、きわめて低い。
男女間の格差も、言いようもなくひどい。2011年の統計では、男性1000人に対し女性943人で、これだけ較差のある国は世界的にも珍しい。もちろんその背景にあるのは、伝統的な男子選好である。
理由の1つには、結婚の際に新婦側の家族から、新郎側に金品を贈る、「ダウリー制度」と呼ばれるものがあり、女の子が生まれた家では、誕生したその日から、結婚に備えて貯蓄に励むことになるという。当然そんなことは嫌だと思う夫婦が、女性の出生率を低下させている。
「ダウリー制度」を外側から、あほらしいとバカにしても、現にそこにあるものだからしょうがない。
女性への性暴力も、深刻な社会問題になってきた。2021年の政府統計では、年間3万1677件のレイプ事件が起きている。これは1日当たり87件、1時間当たり3人以上の被害者が出ている。しかしもちろん、これは公に報告されたもので、ぞっとする話だが、氷山のごく一角に過ぎない。
レイプ被害の9割が、家族や知り合いによるのは、世界共通である。ただインドの場合、カーストの低い層の女性が標的になりやすい。
インドでは選挙における女性の投票は、「一家の大黒柱」である男性の指示に従うことが多く、その意味で政治家が、ジェンダー問題で票を得ることは難しい。
女性差別は書いていて、あほらしさと憤懣が溜まってくる。むかむかしてくる。
インド社会の根深い問題には、汚職の蔓延もある。政治家や官僚の汚職、脱税、脱税などによる「ブラック・エコノミー」は、一国の経済の中で大きな比重を占めている。
とはいってもGDPに占める比率は、算定が難しい。「16%という説、ネルー大学アルン・クマール教授の50%説、元インド中央捜査局のラールによる100%説など様々である。」
100%って何、どういうこと? この辺はどう考えたらいいのか分からない。
要するに「発展途上国」では、何をするにもワイロが必要だという話だ。運転免許証の取得から結婚届、土地の所有権登録、学校の入学、就職まで、なんでもワイロである。
政府補助金も頻繁に横領されている。「インドの補助金は15%しか届かない」という、ラジブ・ガンディー元首相の発言は、いまだによく引かれる。
インドの大気汚染はすごいことになっている。スイスのIQエアーの調べでは(これが何であるかは知らない)、世界の大気汚染で「最も深刻」な15都市のうち13都市が、また「かなり深刻」な30都市のうち22都市が、インドにある。
大気汚染のため、肺疾患、心筋梗塞などに罹る人も多い。デリーでは2019年に大気汚染で亡くなった人は、1万7500人に上った。いわゆる日本の、一昔前の「公害」ですね。
次も同じで、水質汚染も深刻である。上下水道の整備が遅れていて、肝炎や下痢などで多くの子供の命が奪われている。工業廃水を管理する規制が働いていないため、都心部では下水の7割が、未処理のまま排出され、健康被害を及ぼしている。
そして「聖なる川」ガンジスも、汚染が激しい。ガンジス川は、「その水がすべての罪を洗い流す」と信じる人々の、沐浴の場になっている。その水は、全人口の4割の飲料水や調理用水として利用される。
しかしガンジス川に流れる水の、約8割が汚染されている。また川岸には工場や農場が並び、汚水や化学物質を垂れ流している。
あーあ、インド、私は住みたくないな。
しかしそういうこととは別に、出版の企画としては、十分成り立ちそうな気もする。
日本の大手企業でも、駐在している人は多いだろう。単身赴任が多いにしても、一家で住んでいる人もいるはずだ。主婦の目で見たインドというのは、面白くなりそうな気がする。いや、別に主婦でなくとも女性であれば、文章がそこそこ書ける人なら大丈夫だ。
大事なのは、日常の中で落差が大きいということだ。日本とインドの落差、インドの中での落差。当事者として、それは大きければ大きいほど面白い。
堀田善衞『インドで考えたこと』、椎名誠『インドでわしも考えた』……、そろそろ次が出てもいいころだ。それも旅行者としてでなく、インドに暮らしてみた、という視点で。
未だ不定形――『インド―グローバル・サウスの超大国―』(近藤正規)(4)
「第3章 経済の担い手」では、「IT産業の飛躍」が面白い。
インドでIT産業が発展した理由について、著者はいくつか挙げているが、その土台は分かるような、分からないような話だ。
「その昔ゼロが発見されたのも、天才数学者ラマヌジャンを生んだのもインドであったことからわかるように、インド人は観念的なことに秀でていて、大量生産よりも一品生産を得意とし、自由でフレキシブルな仕事文化を好む。こういった才能がIT産業で一気に開花した。」
ゼロの発見とラマヌジャンはすごいと思うけれど、それをもってインド人の才能が、「IT産業で一気に開花した」は、ちょっと無理ではないだろうか。
それよりもアメリカのIT業界で、インド人が大勢働いており、彼らが米国のIT産業をインドに輸入したことが、決め手になったのではないか。
ここで若者の意識は決定的に変わった。インドにいてもITエンジニアになれば、所得や社会的地位は、他の業界を大きく上回る。
「『数学と英語を勉強して一流大学へ進学してITを学ぶことが、豊かになる第一の道だ』とばかり、中産階級の若い世代の間の勉強意欲が高まった」のである。
IT産業の興隆は、米国との関係強化にもつながった。今やインドの人材なしには、米国のIT産業は成り立たなくなっている。グーグルやマイクロソフトのトップも、インド系である。
IT産業に続いて、医薬品、バイオ産業、自動車業界などが活気があるが、いずれも一言でいえば、世界的に見て人件費が安く大量生産が効く、というところに尽きている。
また次の章ではこうも述べる。「地場のIT大手は基本的に欧米の下請業務に特化しているし、医薬品メーカーも後発薬の開発が主体であるため、新薬開発には積極的でない。」
やっぱりまだインド国内では、多方面でエリートが活躍するには、時間がかかりそうだ。
インドでもっとも強いのは、ダイヤモンド加工業である。私は全然知らなかったが、日本で流通するダイヤモンドの大半は、インドで加工されたものだという。「東京の御徒町では、多くのインド人宝石商が店舗を構えている。」
カット・研磨したダイヤモンドの輸出先は、1位・米国、2位・日本で、輸出の半分を占める。そして3位は国内消費向け、つまりインド国内である。
「中低品質のダイヤモンド加工においてインドの競合国は見当たらず、今後も成長が続くと予想されている。」中低品質というところがミソですなあ。
ダイヤモンドを愛でる人には、まったく付き合いがないので、ただただ「へえー」と恐れ入って聞くしかない。
次の「第4章 人口大国」では、「世界で活躍する印僑」が興味をひく。
「印僑〔いんきょう〕」という言葉の定義は曖昧だが、通常は19世紀以降、インドからの海外移民を指すことが多い。
1947年のインド独立以降も、移民は増えている。初めに言ったが、中東諸国などへ単純労働者として行く場合と、米国に知的労働者として渡る場合とに、大きく分かれている。
世界中に広がる「印僑」の成功者は、米国が圧倒的に多い。彼らは一様にインドの大学を出た後、米国に渡ってキャリアを築いている。
人に焦点を当てれば、米国のカマラ・ハリス副大統領は、インド人の内分泌学者を母親に持つ。また英国のリシ・スナク首相は、インド系の両親を持ち、本人はオックスフォード大学、スタンフォード大学から、ゴールドマン・サックスなどを経て政界入りし、42歳で首相に上り詰めた。お隣のアイルランド首相、パラッカーもインド系である。
日本には約4万人のインド人が住んでいるが、「印僑」の存在感は、欧米に比べればずっと小さい。
「とはいえ、最近では特に首都圏を中心にインド人のIT技術者の姿が目立ってきている。ソフトバンクやSBI新生銀行の幹部にはインド系が多く、メルカリや楽天もインドの優秀な人材を採用して登用に務めている。」
知らなかったなあ。日本も少しずつ開けているのだ。
インドでIT産業が発展した理由について、著者はいくつか挙げているが、その土台は分かるような、分からないような話だ。
「その昔ゼロが発見されたのも、天才数学者ラマヌジャンを生んだのもインドであったことからわかるように、インド人は観念的なことに秀でていて、大量生産よりも一品生産を得意とし、自由でフレキシブルな仕事文化を好む。こういった才能がIT産業で一気に開花した。」
ゼロの発見とラマヌジャンはすごいと思うけれど、それをもってインド人の才能が、「IT産業で一気に開花した」は、ちょっと無理ではないだろうか。
それよりもアメリカのIT業界で、インド人が大勢働いており、彼らが米国のIT産業をインドに輸入したことが、決め手になったのではないか。
ここで若者の意識は決定的に変わった。インドにいてもITエンジニアになれば、所得や社会的地位は、他の業界を大きく上回る。
「『数学と英語を勉強して一流大学へ進学してITを学ぶことが、豊かになる第一の道だ』とばかり、中産階級の若い世代の間の勉強意欲が高まった」のである。
IT産業の興隆は、米国との関係強化にもつながった。今やインドの人材なしには、米国のIT産業は成り立たなくなっている。グーグルやマイクロソフトのトップも、インド系である。
IT産業に続いて、医薬品、バイオ産業、自動車業界などが活気があるが、いずれも一言でいえば、世界的に見て人件費が安く大量生産が効く、というところに尽きている。
また次の章ではこうも述べる。「地場のIT大手は基本的に欧米の下請業務に特化しているし、医薬品メーカーも後発薬の開発が主体であるため、新薬開発には積極的でない。」
やっぱりまだインド国内では、多方面でエリートが活躍するには、時間がかかりそうだ。
インドでもっとも強いのは、ダイヤモンド加工業である。私は全然知らなかったが、日本で流通するダイヤモンドの大半は、インドで加工されたものだという。「東京の御徒町では、多くのインド人宝石商が店舗を構えている。」
カット・研磨したダイヤモンドの輸出先は、1位・米国、2位・日本で、輸出の半分を占める。そして3位は国内消費向け、つまりインド国内である。
「中低品質のダイヤモンド加工においてインドの競合国は見当たらず、今後も成長が続くと予想されている。」中低品質というところがミソですなあ。
ダイヤモンドを愛でる人には、まったく付き合いがないので、ただただ「へえー」と恐れ入って聞くしかない。
次の「第4章 人口大国」では、「世界で活躍する印僑」が興味をひく。
「印僑〔いんきょう〕」という言葉の定義は曖昧だが、通常は19世紀以降、インドからの海外移民を指すことが多い。
1947年のインド独立以降も、移民は増えている。初めに言ったが、中東諸国などへ単純労働者として行く場合と、米国に知的労働者として渡る場合とに、大きく分かれている。
世界中に広がる「印僑」の成功者は、米国が圧倒的に多い。彼らは一様にインドの大学を出た後、米国に渡ってキャリアを築いている。
人に焦点を当てれば、米国のカマラ・ハリス副大統領は、インド人の内分泌学者を母親に持つ。また英国のリシ・スナク首相は、インド系の両親を持ち、本人はオックスフォード大学、スタンフォード大学から、ゴールドマン・サックスなどを経て政界入りし、42歳で首相に上り詰めた。お隣のアイルランド首相、パラッカーもインド系である。
日本には約4万人のインド人が住んでいるが、「印僑」の存在感は、欧米に比べればずっと小さい。
「とはいえ、最近では特に首都圏を中心にインド人のIT技術者の姿が目立ってきている。ソフトバンクやSBI新生銀行の幹部にはインド系が多く、メルカリや楽天もインドの優秀な人材を採用して登用に務めている。」
知らなかったなあ。日本も少しずつ開けているのだ。