いやあ、面白い! だが――『異常〈アノマリー〉』(エルヴェ・ル・テリエ)(5)

おなじ006便が二度現われたという、驚愕の事態を受けて、マクガイア空軍基地には、確率論研究者、位相幾何学研究者、数学者や、国家軍事指揮センター将軍、FBI心理作戦部特別捜査官、国家安全保障局(NSA)デジタル監視責任者などが、大勢の兵士を引き連れて、「重複者〈ダブル〉」、つまり瓜二つの乗客たちを会わせるべく、準備をしている。
 
同時にこの件に関しては、最高権力者の大統領に伝え、かたちだけは裁可を仰がなくてはならない。

エルヴェ・ル・テリエが『異常〈アノマリー〉』を書いたのは2020年、小説の舞台は2021年で、つまり近未来である。

アメリカの大統領は、このときは2017年に選ばれたトランプだが、2021年には誰がなっているか分からない。この段階ではトランプの再選もありえた。
 
だからここでは大統領の名前は言わず、場合によっては、そういうがさつな人物、トランプを想像させている。
 
空軍基地の将軍が、モニターで大統領と話しているが、大統領には内容が分からない。

「『べらぼうに大きな数を持ち出すのはやめてくれ。さっぱり分からん』大統領が言う。『政府の多くの人間もそうだ。数字をはしょって説明を続けろ』」

「この仮定にたてば……」と将軍は言う。
 
大統領はいよいよ分からない。

「『マトリックス』みたいなものか?」
 
そのうち大統領は無言になる。
 
006便には中国人も、20名ばかり乗っている。大統領にとっては厄介なことだが、習近平国家主席に電話して、プリンストンの科学顧問から、あり得ないことが起きたことを話してもらう。
 
習近平は驚愕し、解せない、といった反応を繰り返す。そしてこの件に関しては、我が国の関係機関に処理させる、と言って電話を切る。
 
そのあと党幹部の集まる会議室で、習近平は状況を整理して言う。それこそが、驚くような話である。

「つまり、彼らも同じ厄災に見舞われているということだ。北京から深圳〔シンセン〕へ向かった一月の便が四月にわれわれを陥れたのと同じ厄災に。アメリカ人は東海岸にある基地に二百四十三人を勾留している。」
 
このとき私は、『異常〈アノマリー〉』という意味が、少し分かった。つまり、理論の枠組みでは、説明することはできないが、しかし経験的に観測できる規則性だということ。
 
これは本のどこかに、「アノマリー(Anomaly)」の解説がある方がよかったと思う。
 
そして大統領は、いやいやながらフランスのマクロン大統領にも、ことの次第を知らせる(大統領は、あの生意気な小僧とはソリが合わない)。
 
夜9時55分、パリ、エリゼ宮から。マクロンがカメラの前に立ち、プロンプター上に原稿が提示される。

「――親愛なるフランス国民のみなさん。
 ――〔中略〕今この瞬間、ワシントンではアメリカの大統領が、ベルリンではドイツの首相が、モスクワではロシアの大統領が、そして世界のほかの多くの国でそれぞれの国家元首がわたしと同じように国民に向けてメッセージを発しています。」
 
世界中に、爆弾のような情報がもたらされる。それを正式にやるのが、アメリカの大統領ではなく、フランスのマクロンであるのが可笑しい。

「――じつは先週の木曜日に異常な出来事が発生しました。メディアやSNSで流れている噂の一部は事実です。いまからことの次第をお話しします。先の木曜日、アメリカ合衆国の東海岸沖の上空から飛行機が一機、出現し……。」
 
なお、この本の終わり近くに、3機目のエールフランス006便が、まったく同じ人たちを乗せて出現した、とある。アメリカの大統領は、問題の飛行機を撃墜せよと指令を出した。いつまでも、こういうことにかかずりあってはいられない、と。

「アノマリー(Anomaly)」だから、こういうこともあるかもしれないが、しかしこれは蛇足だ、と私は思う。
 
それよりもここまで来れば、『異常』という小説は方向を変えて、もう一つスケールアップした方がよい、とは思わないだろうか。

いやあ、面白い! だが――『異常〈アノマリー〉』(エルヴェ・ル・テリエ)(4)

006便の乗客の話は、あと2人で終わりだ。しかしその2人、というか合計4人の話は、気が重い。近親相姦と、殺人の話だからだ。
 
7歳のソフィアは、母親と兄と一緒に、ニューヨーク行きの006便に乗る。父親は遅れて来ることになっている。
 
父親はアメリカの軍人で、アフガニスタンで何度も死ぬような目に合っている。そこで異常を来たしたらしい。
 
ソフィアたちはニューヨーク行きを変更され、マクガイア空軍基地で、心理作戦担当の中尉から質問を受ける。
 
紙に何でも描いていいと言われたソフィアは、いろんな色のペンがあるにもかかわらず、黒一色で父親を描く。
 
そしてその横に自分を描くが、それはぐしゃぐしゃで何だか分からない。ただ、そこに口唇を添えているのが分かる。
 
このあと、ソフィア・ジューンとソフィア・マーチが出会い、お互いがそっくりなのを見て驚く。

でも2人は、すぐに仲良くなる。この年ではまだ、利害が対立するようなことは、起こらないからだ。

そして2人は、秘密の事柄について話し出す。

「〔父親は〕妻と息子がいなくなるたびに、娘を浴室に連れていき、風呂に入れと命じた。ソフィアは裸になってバスタブに入るのがきらいだ。父親も裸になり、一緒に入ろうとするからだ。父親は娘の身体を石鹸で洗う。あちこちなでまわしながら、長々と時間をかけて。パパ、あたし、きれいだよ、もういいってば。よし、きれいになったな、さあ、今度はおまえがパパを洗う番だ、ママには内緒だぞ、ふたりだけの秘密だぞ。」

別の部屋で2人を盗聴していた係官とカウンセラーは、7歳の子が近親相姦させられるところを、確かに耳にする。この唾棄すべき父親は、10年から24年の刑になるだろう。

ニューヨークの「エド・サリヴァン・シアター」では、女優のアドリアナ・ベッカーが、ステージの上で緊張して、司会者の質問を受けている。
 
そこへもう1人の女優、アドリアナ・ベッカー・ジューンが現われる。満員の会場は、ただ息をのむばかりだ。
 
番組制作部が用意して、アドリアナ・ジューンが赤いセーターを、アドリアナ・ジューンが青を着ている。2人はさまざまな質問に答え、聴衆は圧倒されている。
 
最後に2人は、ステージを締めくくるために、優雅な人魚のように、「イパネマの娘」を完璧なデュオで歌う。
 
そのときシアターのまわりでは、救世主キリストの十字架を掲げた車が、ぞろぞろと連なり、その狂信者の中にジェイコブ・エヴァンスがいる。

「ジェイコブは、神とインスタグラムとフェイスブックの力を借りて、〝忌まわしき者ども〟のひとりが今宵、世界の面前にわが身を誇示しようとしている事実を知る。彼はこの褐色の神の娘の画像を、嫌悪と怒りをたぎらせながらにらみつける。そしてこの娘が、〝大いなる嘘〟と〝堕落者による裏切り〟を体現する存在にほかならないと確信する。」
 
2人のアドリアナが、車に乗ってシアターを出てくると、ちょうどそこにいたジェイコブは、ウィンドウ越しに銃の引き金を引く。彼の周囲で悲鳴が上がるが、彼はかまわず銃を撃つ。それは1人のアドリアナの頭を吹き飛ばし、もう1人の身体をハチの巣にする。そして彼は、がっくりと膝をつく。

アメリカでは、いかにもありそうなことだ、と私は思う。
 
乗客は、まさか200人以上(ダブルで考えれば400人以上)を、すべて描くわけにはいかないので、こんなところだが、これを迎えるほう、つまりは取り調べるほうも、国家安全保障局責任者、FBI特別捜査官から、アメリカ大統領、フランスのマクロン大統領、中国の習近平国家主席まで、ずらりと大物を揃えている。

いやあ、面白い! だが――『異常〈アノマリー〉』(エルヴェ・ル・テリエ)(3)

ここからは駆け足で。まず癌患者デイヴィッドの話。

末期癌患者の話は、ただでさえ重苦しいのに、違う006便に乗った、もう一人のデイヴィッドが、3か月ずれて、またも危篤になるのである。妻や兄弟のことを考えると、ただ暗澹となる。妻はこれを、地獄に耐えるリハーサルだと思う。

ジョアンナはアフリカ系アメリカ人で、若く有能な弁護士。売上高300億ドルの、巨大製薬会社の社長の顧問弁護士を、迷いながら務めている。
 
この会社が売り出した殺虫剤、「ヘプタクロラン」は、種々の試験で検証されることなく売り出されたが、実はこの分子は発癌性が高く、かつ内分泌攪乱物質であることが判明している。
 
どうしてジョアンナが、良心の呵責に苦しみながら、きな臭い製薬会社の顧問弁護士を務めているかというと、彼女には妹がいて、莫大な治療費のかかる不治の病に苦しんでいるのだ。
 
一方、ジョアンナは、新聞社のイラストレーター、アビィを愛するようになり、3月10日、006便でヨーロッパから帰った後、4月初めに結婚することにする。そして結婚式の直前、妊娠していることがわかる。
 
6月にもう一人の、妊娠していないジョアンナが現れて、事態は緊迫したものになる。ジョアンナ・マーチ〈三月〉は、ジョアンナ・ジューン〈六月〉と、苦しい心の対話を続けることになる。
 
黒人の歌手、スリムボーイは、本名フェミ・アフメド・カデュナ、黒人解放のスターを自己流にカバーして歌っていたが、ロンドンの一部で名前を知られるのみだった。
 
2021年にパリとニューヨークで、ライブを開催したが、大成功を収めるには至らなかった。
 
スリムボーイは、パリからニューヨークへ向かう、あの猛烈な乱気流の最後の1時間、つまり死を覚悟したあとで、「ヤバ・ガールズ」のアイディアを得た。

「それは彼が子ども時代を過ごしたヤバ地区と〝針とハサミ〟の使い手である若い女性たちへの愛をシンプルな言葉で語る歌だった。彼はその歌に、市場で首飾りを売っていた彼の母親、彼のために毎日祈り、先日他界した母への幼かった頃の感謝の気持ちをこめ、胸に沁みる甘く切ないメロディーで彩った。」

ビデオクリップは、ヤバ地区を舞台に、たった2日間で撮影され、すぐにネットにアップされた。この曲は、すぐさま全世界を駆け巡った。
 
そして6月になって、もう一人のスリムボーイが登場する。2人は同じように音楽を愛した。
 
スリムボーイ・ジューンが、曲のメロディラインを歌い出すと、スリムボーイ・マーチが副旋律をつけて、即興でハーモニーを奏でる。そのときマーチが、抜群のアイディアを思いつく。
 
スリムボーイは、双子だったことにすればいい。小さいころ生き別れた双子が、「ヤバ・ガールズ」の世界的なヒットで、ついに会うことができたのだ。もう一人もまた、才能に溢れたミュージシャンだ。

こうしてスリムボーイは、スリムメンになったのである。

いやあ、面白い! だが――『異常〈アノマリー〉』(エルヴェ・ル・テリエ)(2)

次はヴィクトル・ミゼル、43歳、小説家。彼は「いかにもパリっぽい文学賞」を受賞したが、売れ行きが数千部を超えることはなかった。
 
ミゼルは食べていくために、英語のミステリーの翻訳もやっている。そのうちエンタメ系スリラー小説の1つが、アメリカの仏米団体から、翻訳賞を授けられる。彼は授賞式に出るために、3月初めに渡米する。つまりエールフランス006便の搭乗客となる。
 
飛行機が乱気流に巻き込まれていく描写は、このときが最もリアルである。

「彼を乗せた飛行機は、超弩級乱気流に巻き込まれる。永遠にも思えるあいだ、嵐は機体をあらゆる方向にねじくりまわす。機長は乗客を落ち着かせようとアナウンスするが、乗客の誰ひとり、そしてミゼルはほかの人に輪をかけて、飛行機が海に墜落してバラバラになると信じて疑わない。長い長い数分間、彼は身体が揺さぶられないように椅子にしがみつき、筋肉に力をこめてひたすら耐える。」
 
耐えた状態で内的独白があるが、ふたたび乱気流に巻き込まれる。

「けれども機体はふたたびエアポケットに落ち、そのとき突然、彼のなかでなにかが壊れる。彼は目を閉じ、身体を保持しようともせず、四方八方に揺さぶられるがままになる。激しいストレスにさらされたせいであらがうことをやめて死を受け入れる。」
 
このフライトのひと月ほど後、ヴィクトル・ミゼルは遺稿を残して、バルコニーから身を投げる。遺稿は、編集者の手腕もあって、凄まじい勢いでベストセラーになる。

そのタイトルは『異常〈アノマリー〉』。それは本書の章扉の、エピグラフの中に出てきて、そして本書の書名にもなっている。つまり『異常』は、入れ子構造になっているのだ。
 
6月にエールフランス006便から降りた、もう1人のミゼルは、自分が書いたというその作品を、あまり評価しない。こちらのミゼルは、「死を受け入れる」ところまでは行っていないのだ。

しかし編集者が差し出す、ベストセラーの恩恵だけは享受する。だって、それは自分が書いたとされるものだから。
 
この挿話も、一編の長編小説で読みたい。ギュっと凝縮されていて、著者が生き返ったのち(べつに生き返ってはいないのだが)、編集者が書店のサイン会で、歓喜のうちに駆け回るさまなど、何度読んでもおかしい。
 
映像編集者のリュシーと建築家のアンドレの、燃え上がる愛と、それが覚めていく過程は、まさにフランス恋愛小説の王道を行っている。
 
恋や愛の燃え上がり方よりも、冷めていく方が、作家の腕が試されるのだ。

「彼女がアンドレに伝えたいのは、彼女の柔らかい肌、すらりと細い脚、血の気のない唇、彼らが彼女の美と呼ぶもの、さらには彼女と付き合うことで味わえるはずの愉悦に心を躍らせて彼女を欲しがり、彼女のなかにそうした要素しか見ようとしない例の男たちすべてに、彼女がうんざりしているということだ。」
 
アンドレはリュシーの心と同じくらい、肉体にも執着している。リュシーにはそれが、耐えられないのだ。
 
その微妙に行き違った距離を保ちながら、2人はエールフランス006便の乗客になる。
 
さらにリュシーは、12歳の男の子を持つシングルマザーで、2021年6月24日以降は、それがシングルマザーズになってしまう。
 
2人のリュシーは、絶対に子供の前では、同時に姿をさらしてはいけなくて、そのために派手にやり合うことになる。そしてその姿をさらす。
 
子供は初めびっくりするが、驚くべきことに、子供の柔軟性をもって、ほどなく2人の母を受け入れる。
 
これは、アンドレとの恋愛譚とはまた違った、読み応えのある話であり、こちらの方も、じっくり物語ってくれれば、有り難いなと思ってしまう。

いやあ、面白い! だが――『異常〈アノマリー〉』(エルヴェ・ル・テリエ)(1)

まずタイトルについて、ウイキペディアとその周辺から簡単に引いておく。

「アノマリー(Anomaly)」とは、経済におけるポートフォリオ理論や、株式に関する理論の枠組みでは、説明することはできないが、しかし経験的に観測できるマーケットの規則性のことをいう。
 
マーケットとは縁がないので、これだけでは何のことやらわからないが、『異常』全体を読み終わってみれば、漠然と納得はいく。つまりこれは、規則性のある「異常」なのだ。
 
この本は、2020年夏にフランスで刊行され、2021年12月現在で110万部を突破した、と「訳者あとがき」に書いてある。
 
ちなみに訳者は加藤かおり、知らない人だが、訳文を読む限りは非常にうまい。特に主人公が複数になる場合、その訳し分けは、繊細な技術が必要である。その意味でこの訳文には、舌を巻くほかはない。
 
フランスでも稀なベストセラーだが、同時にこの本は、ゴンクール賞を受賞している。これはフランスの代表的な文学賞で、この受賞作で100万部に達したのは、マルグリット・デュラスの『愛人〈ラマン〉』以来という。
 
内容を見ていこう。
 
2021年3月10日、パリ発ニューヨーク行のエールフランス006便が、途中、猛烈な乱気流に巻き込まれ、危うく飛行機事故で全員の命を失いそうになるが、奇蹟的に脱出することができる。
 
その3か月後の6月24日、まったく同じパリ発エールフランス006便が、乱気流を奇蹟的に抜け出て、ニューヨークに到着するはずだった。
 
しかしアメリカの国防軍は、それをニューヨークではなく、ニュージャージー州のマクガイア空軍基地に、秘密裏に誘導着陸させる。そこには驚愕の秘密があったのだ。
 
6月に現われたエールフランス006便は、3月にニューヨークに着いた006便と、全く同じもの、つまりパイロットも乗客も、すべて同じだったのだ。
 
だからこの作品のテーマは、古典的な「分身」(本書では「重複者〔ダブル〕」と記される)であり、それがどのように描かれるかが、最大の読ませどころになる。
 
その意味で、この日本語訳の本作りは、少々ピントはずれである。この本の編集者は、乗客も乗務員も、まったく同じ飛行機が、時期をたがえて出現するところに、最大の驚きがある、と読者の気持ちを読んだのだろう。
 
だから帯に、粗筋を前もって読むな、と言い、「訳者あとがき」の途中で、「これより先で、物語の展開に触れています。」と、ネタばれであることを心配している。
 
そんなことは、実はどうでもよい。ネタばれというが、本書の骨格は、一昔前のSFによくあったもので、訳者が言うように、「分身」は古典的なテーマなのだ。
 
では、なぜそれが、100万部を超えるベストセラーになったのか。その秘密を解くことが、新しい本を読むことではないか。
 
冒頭の部分、最初の主役はブレイク。

「人を殺すのは、たいしたことじゃない。必要なのは、観察し、監視し、熟考することだ。それもたっぷりと。そしてここぞという瞬間に、無を穿つ。そう、それだ、無を穿つ。」
 
ブレイクは殺し屋なのである。
 
生い立ちを記し、初めての依頼による人殺しを経験し、徐々にそれに馴れていく。プロ中のプロになったブレイクは、アメリカでの仕事が入り、ニューヨークに行くことになる。
 
こうして、エールフランス006便の乗客になるわけだが、これが複数の主人公の1人とはもったいない。ブレイクを単独の主人公にして、もっともっと読みたい。そう思わせる技が、著者のエルヴェ・ル・テリエにはある。
 
そしてそのあと続々と、魅力ある主人公たちが出てくるのだ。

このエッセイ集も面白い――『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』(山田太一)(4)

第Ⅰ部は折に触れた、まさに雑文なのだが、その中で俳優が2人、取り上げられている。
 
1人は、そのタイトルもずばり「笠智衆さん」で、冒頭の1行はこうなっている。

「笠智衆さんほど敬愛する俳優さんはいない。」
 
山田太一のドラマでは、「沿線地図」「ながらえば」「夕暮れて」「冬構え」「今朝の秋」「春までの祭」と、けっこうたくさん出ている(このうち見たのは「今朝の秋」で、これは傑作だった)。
 
しかし山田太一は最初、笠智衆が出てくれるということが、なかなか信じられなかった。

「小津作品、木下作品の数々の名作中の人物たる笠さんが小生如きの作品に出て下さるとは、というような無限におそれ入りたい気分になった。」
 
山田太一の市井の人たる所以は、こういうところに現われている。
 
そうしてこのエッセイにおける、回想の名シーンが出てくる。

「新参の助監督のころ、ある正月映画に笠さんが出ていらっしゃって、出番待ちの笠さんを呼びに行ったことがあった。笠さんは佐分利信さんとステージの外の石油缶の焚火にあたっていらっしゃって、それはもうお二人とも実に『絵』になっていて、声をかけてこわしてしまうのが嫌になった。」
 
ほとんど映画の一場面のようだ。
 
もう1人は、「遠い星の人――この女〔ひと〕に魅せられて」で、八千草薫のことを書いている。
 
これは、早稲田で同級だった寺山修司も、同じくらいのぼせ上っていた。

「そのうち彼〔=寺山修司〕が『年賀状出したら、返事が来たよ』といって葉書を見せるのである。『なんだ印刷じゃないか』と思ったが、当然のことながら宛名は印刷ではない。『この筆跡はきっとマネージャーだな。代筆だ。あのスターがじきじき筆を持つもんか』とケチをつけながら嫉妬で胸が痛んだことであった。」
 
まったくのミーハーである。

しかし遂に八千草薫を、ドラマに起用することができるようになった。「岸辺のアルバム」である。
 
ところがなんと八千草薫は、このヒロインを断ってきたのだ。まあ浮気する役だから、気持ちは分かる。押しも押されもせぬ大女優が、浮気なんて(僕は見ていないのだが、ここまで国民ドラマになっていると、粗筋は知っている)。
 
山田太一は悲しかった。もうこれは直に会って、出てください、と訴えるしかないと思った。
 
そして渋谷のホテルの、コーヒーショップで待っていたのだが、彼女はなかなか来てくれない。

「その人は、やっと来た。ゆったりした白いカーディガンで、小走りに『すみません』とたちまちぼくの目の前で、美しい指で、後れ毛をチラとととのえたりなさっているのであった。
 あとは夢中である。とにかく、しゃべりにしゃべって、八千草さんは呆れたように黙って聞いてらっしゃって、とうとうご承諾いただいたのであった。」
 
このドラマの評判はすさまじく、見ていない僕まで、人がうわさするので、見たような気になった。
 
山田太一の八千草薫に対する態度は、仕事上のことだとスムーズに行くのだが、そこを離れると、もういけない。仕事が終わると、ふたたび「手の届かない、遠い星の世界の人」のように思えるのである。
 
たぶん八千草薫は、山田太一のようなミーハーを前に(それは大勢いるだろう)、中年になっても可愛いなと、半分おかしくてしょうがなかったと思う。そしてそれは、心はずむ時間だったのではないか。

第Ⅱ部は、先にも述べたように、自作を紹介している。「岸辺のアルバム」「男たちの旅路」「沿線地図」「獅子の時代」「早春スケッチブック」「ふぞろいの林檎たち」「丘の上の向日葵」などなど。
 
自作の取り上げ方は、どれも面白いのだが、僕はもとのドラマを見ていない。だからここには紹介しない。

(『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』
 山田太一、河出文庫、2015年12月20日初刷)

このエッセイ集も面白い――『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』(山田太一)(3)

「映画からテレビへ」は、山田太一が、松竹をやめる経緯を書いたものだ。

『月日の残像』でも、その辺りのことは触れられていたが、こちらのほうが、具体を語って面白い。そして生々しい。
 
いわゆる「松竹ヌーヴェル・バーグ」が、大島渚の「青春残酷物語」で幕を開けたのは、昭和35年である。
 
山田太一は松竹に入り、助監督になって2年目だから、「松竹ヌーヴェル・バーグ」に、直接の関係はほとんどないのだが、それでも若い先輩が、次々に映画を撮り始めたことは、興奮させる出来事だった。
 
しかしその運動も、実に短かった。

「熱気はその年の十月で終わった。やはり大島さんの『日本の夜と霧』の突然の上映中止で、同時に若い監督たちの勝手にはさせないという会社の姿勢が打ち出され、目の前に厚い壁がたてられたような気持ちになった。」
 
翌年の正月映画は「あんみつ姫の武者修行」、「旗本愚連隊」、続けて「番頭はんと丁稚どん」。
 
なんか信じられませんなあ。むしろ会社が、松竹のブランドに泥を塗り、それをドブに捨てているではないか。誰が見てもそう思うだろう。
 
その頃、山田太一は何をしていたかというと、岩下志麻主演のメロドラマ、「あの波の果てまで」の助監督についていた。
 
僕にはよくわからないが、こういう作品は軽蔑されるらしい。山田太一は、将来を悲観して言う。

「将来こういう作品の監督として起用されたら、自分はどうするだろうなどと余計な心配をした。きっと断らずにそこそこ達者に撮ってしまうのではないか、そしてメロドラマの監督として世に出て、かつての友人からは嘲笑されながら、職人監督として会社から便利がられる。車と家くらいは持てるかもしれない。」
 
こういうところの想像力は、変な話だが、グンとのびていて、この先も面白い。

「俳優たちは二次的な仕事として内心鼻をつまみながらやってくる。しかし、興行的には中ヒットを維持し、地方の映画館へ行くと『やっぱり映画はこういうすれちがいがいいねえ』とおばさんたちが涙を流して見ている。それで、なにが悪い? そういう映画があってなにが悪い?」。
 
映画会社にいるだけあって、とてもリアルな想像だ。いっそ「職人監督の悲哀」というテーマで、ドラマ化すれば面白い。
 
ここまで想像すれば、今にも辞めそうな勢いだが、そこから4年間いて、昭和40年、30歳で退職している。
 
ではその4年間は、どうしていたのか。
 
吉田喜重の紹介で、木下惠介監督の組に入ったのである。九州・阿蘇で、「永遠の人」をロケしている木下組に、途中からついたのである。
 
これが山田太一の人生の転機になった。

「気楽な小さな組を渡り歩いていた私は、たっぷり予算のある『巨匠』の組の丁寧な仕事振りに圧倒された。教えられることが、いくらでもあった。」
 
その一つが、シナリオの口述筆記である。これは木下監督の驚くべき才能であった、と山田太一は言う。

「考えている間は当然あるが、口になさった台詞が訂正されることは、ほとんどなかった。これはもう天才的としかいいようがない。このようにして脚本が書けたら、どんなにいいだろうと、後年真似しようとしたが、到底凡才のなしうることではなかった。」
 
こうして30歳で退職するまで、木下惠介のシナリオの口述筆記を続けた。
 
木下惠介は、松竹専属の監督としては「香華」が最後になり、それは山田太一が助監督でついた、最後の作品であった。
 
これ以後、木下惠介は、テレビドラマの世界に積極的に関わり、山田太一も「鞄もち」として、木下とともにテレビに関わっていく。
 
こう見てくるとその経路は、木下惠介が敷いたもの以外の、なにものでもない。山田太一が、テレビドラマに極度に自覚的なのは、木下惠介という物差しを、自分の中に深く秘めているからなのだ。

このエッセイ集も面白い――『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』(山田太一)(2)

次の「枝葉の魅力」も、同じくテレビドラマ論だ。
 
これは1980年に発表されたものだが、このときすでにテレビドラマの視聴率は下がっていた。
 
山田太一は、それには二つ、原因があるという。
 
一つはドラマの進行速度が、画一化していること。刑事ものも、歴史ものも、ホームドラマも、学園ものも、いずれにも共通した現象である。
 
速度を速めるものは、「枝葉を切って出来るだけ早く」物語が進行しないと、チャンネルを変えられる、という恐怖感である。

「しかし、私見によれば、テレビドラマの魅力のひとつは『枝葉』や『モタモタした進行』にあるのであり、演劇も映画もとりあげない『深い意味をつけようもないつまらぬ細部を拾って行く』ところにある。」
 
うーん、これはどうだろう。山田太一が書けば、「深い意味をつけようもないつまらぬ細部」は、実は微細な、しかし重要な意味を持っているんじゃないか。
 
まあこの辺は、にわかには首肯しかねる。
 
しかし、と山田太一は言う。

「速度の多様化を許すプロデューサーは、いないとはいわないが、ごく少数である。そして彼らの、その点における『冒険』は、到底周囲に支持されているとはいえない。」
 
出版においても同じこと、真に面白い本を出している出版社は、極めてわずかだ。

その価値を知っていて、実現する編集者は、どこの出版社においても、逆風を受けている。
 
しかし出版とテレビでは、関わっている人数が違うし、かかる費用も桁外れに違う。テレビでそういう正論が言えるのは、山田太一だけではないか。だから彼のドラマは、他のドラマとは全く違ったのではないか。
 
原因の二つ目は、テレビ局の入社試験が難しく、頭のいい人がプロデューサーやディレクターになっている、ということだ。

「しかも、彼らは無理解なのではない。ライターの『無意識』『暗部』『曖昧』を個人的には、よく理解しているし、面白さも分かっている。しかし、そうしたものを、『大衆』は受け入れない、というのが基本姿勢である。」
 
これはもう山田太一にとっては、いわゆるどん詰まりではないかな。こういうふうになってくると、テレビドラマというフィールドを変えてみるしか、方法はないんじゃないか。そういう気がする。
 
結びの一文は、悲痛だ。

「私はテレビドラマが好きなのだが、時折なんともいえぬ閉塞感にとらわれ、奇声をあげて走り出したくなってしまう。」
 
ここまで追い詰められても、なお矜持を曲げないで書くからこそ、名作が生まれるとも言えるが、しかし悲痛だ。
 
テレビに携わっている人で、「なんともいえぬ閉塞感にとらわれ、奇声をあげて走り出したくな」る人が、いったい何人いるのだろうか。
 
僕は突然、覚醒する。そうか、『山田太一全集』こそ、この時代に必要とされるものなのだ。テレビドラマのシナリオを、奇声をあげて走り出したくなるのを押さえて執筆し、それでもなお抑えきれずに、小説を書く。

その小説は、『飛ぶ夢をしばらく見ない』にせよ、『異人たちとの夏』にせよ、『遠くの声を捜して』にせよ、いずれも現代文学の最先端を行くものだ。ただシナリオ作家が本業という頭があるから、かえって膨大な山田太一の全貌を、捉えそこねているのだ。
 
だから「全集」ではなくて、『山田太一著作集』というのが、ふさわしいのかもしれない。膨大なシナリオ、小説、エッセイから、選ぶことによって、だれも見たことのない山田太一の相貌を、見せることができるような気がする。

このエッセイ集も面白い――『その時あの時の今―私記テレビドラマ50年―』(山田太一)(1)

口のリハビリのために、毎日朗読する本の中に、山田太一の『月日の残像』が入っている。9年前からだから、もう7,8回朗読している。
 
何度読んでも、文章の深い味わいと、対象に迫る乾いた粘着質、とでもいうべきものがたまらない。
 
しかも何度朗読していても、必ず新しい発見がある。それはこのブログにも書いた。
 
山田太一はドラマや小説だけでなく、エッセイも素晴らしい。それでほかのエッセイも読んでみたくなり、河出文庫の「山田太一エッセイ・コレクション」を選んだ。
 
巻頭の「日常をシナリオ化するということ」が、もうテレビドラマの本質論に入る。

「二人の男女が知り合って、結婚するまでを二十六時間かけて物語るというようなもの。そういうものを書いていると、ああ、これはテレビドラマ以外の何ものでもないな、という思いが浮かんでくることがよくあるのです。」
 
そうか、見ようによっては、一つの結婚話でそれだけ贅沢な時間を使うことは、映画ではあり得ないわけだ。
 
山田太一は、そういうテレビドラマでは、人物描写の方法は、映画とは違うという。映画は、かなりはっきり、性格設定をする必要がある。しかし、テレビドラマではそうはいかない。

「人間が持っている曖昧さみたいなものを、人物につけ加えていかないと、どうも嘘っぽくなるのです。書いている時はそうでもなくても、放映されたものを茶の間で家族と見ていたりすると、ああ決めつけてるなあ、と思う。もっと曖昧だといいなあ、と思う。」
 
山田太一は、その底に、こんな思いを秘めていたのか。
 
もう少し読んでみる。

「で、映画ほど鮮やかな性格描写ができなくなる。鮮やかな性格描写を嘘っぽくしてしまうようなものが、長いテレビドラマにはあるのです。したがって、それぞれの人物が、少しずつ曖昧さを持ちはじめる。ある人間を憎んで憎んでこりかたまっている人間などというものの存在が危なくなってくる。勿論その憎しみはあるのだが、憎しみが存在となっているような人物ではなくなる。」
 
これはちょっと見には、山田太一が言うと、ふむふむと納得しそうだが、よく考えてみてほしい。初めにかっちりした性格描写があって、それが回を追うごとに、怪しくなっていくのだ。ふつうは、煮え切らないドラマだなあとか、脚本家か演出家の視点がぶれていて、どうにも続きを見る気がなくなる、というふうにならないだろうか。
 
しかし山田太一のドラマは、そうではない。
 
実は、この本の3分の2を占める「Ⅱ 自作再見」のうち、僕が見た山田太一のドラマは、ごくわずかしかない。
 
特に、テレビドラマらしい、と山田太一が言う連続ドラマ、「岸辺のアルバム」や「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」などは、僕はまったく見ていない。
 
中学・高校は往復2時間かかり、勉強が忙しい進学校であったし、大学では寮に入ったから、面白いことは山ほどあり、テレビの食い込む余地はなかった。就職してからも、3か月たって会社が倒産したので、テレビは持てなかった。
 
山田太一ドラマを見たのは、田中晶子と結婚してからだ。
 
結婚してすぐに田中晶子が、これ読んでと言って、『飛ぶ夢をしばらく見ない』を机の上に置いた。
 
一読して驚き、声が出なかった。山田太一という名を、初めて強烈に意識した。それくらい感動したのだ。

「これを読んで、何も感じなかったら、もうどうしようかと思った」と、妻はドキドキしていたらしい。
 
そういう人のテレビドラマ論だから、他の人が望むべくもない高みを指しているんだな、ということは分かる。これから展開していくのは、そういうテレビ論なのだ。

バイオレンスではなく犬か――『少年と犬』(馳星周)

馳星周とくれば『不夜城』、それに続くバイオレンスものも、ほとんど全部読んでいる。
 
どれもそこそこ評判になった。直木賞には『不夜城』を入れて、6回も候補になっている。
 
最初に受賞してれば問題ないのに、色川武大の『怪しい来客簿』のときと同じで、才能に嫉妬した人が過半数いたわけだ。審査員が小説家だと、たまにこういうことが起こる。
 
ちなみに色川武大の場合は、『離婚』で受賞した。これもいい作品だけれど、『怪しい来客簿』と比べれば雲泥の差だ。
 
山口瞳が向田邦子を直木賞に推薦するとき、色川武大の『離婚』のようなことにはさせない、と言ったのは有名な話。
 
横山秀夫の『半落ち』というのもあった。これも、もっともらしい理屈は付けたが、北方謙三、林真理子以下が、嫉妬で直木賞を与えなかった。横山秀夫は以後、直木賞とは絶縁した。
 
急いで言っておくが、僕は林真理子も北方謙三も、好きである。全部ではないが、何本か傑作がある。小説家が小説家に嫉妬するのは、いかにも小説家らしくて、さもありなんと思う。そうでなければ、「大説」ではなく、いぢいぢした「小説」を書くことはできないだろう。
 
そこで馳星周の『少年と犬』、きっと心温まる物語だろうな。バイオレンスでは、どこをどう攻めても、直木賞は取れないから、今度は犬の話だ。しかも少年が絡んでいる。ちょっとあざといんじゃないか。
 
ということで、僕はこの物語を読む気はなかった。

すると3か月に一度、訪問看護にやってくる、Tさんという看護師が、面白かったから読んでみて、と文庫をおいていった。
 
7つの短篇が入っている。試しに最初の「男と犬」を読んでみる。やっぱり馳星周は面白い。
 
というわけで、続けて「泥棒と犬」、「夫婦と犬」、「少女と犬」、「娼婦と犬」、「老人と犬」、そして「少年と犬」を、終わりまで読んだ。
 
まあ、面白いんじゃないかと思って、最後の初出誌の『オール讀物』を見ていると、面白いことに気がついた。
 
これは掲載順に書かれたのではない。最後の「少年と犬」が、最初に書かれているではないか。
 
しかも最初に書かれたこの一篇で、犬は少年を守って命を落とす。
 
こういうのを、どう考えればいいのだろう。著者は、九州・熊本の地震で死んだ犬を、書き終えてから、そう言えばこの犬には、物語が付与できる、と考えたのか。
 
それとも、最初から物語はできていて、いちばん最後の短篇を、しょっぱなに持ってきたのか。

普通そういうことはまずできない、と素人は(つまり僕は)考えがちだが、そんなことはプロの小説家にとっては、お茶の子さいさいのことなのか。
 
もう一つ、「少女と犬」は、単行本のときは書かれてなくて、文庫にする際に入れたものだ。しかし書き下ろしではなく、『オール讀物』に掲載されたのち、文庫に収録された。
 
つまり単行本としては、「少女と犬」は欠けていたのだ。短篇のうち5篇は、主人公が、死への道のりを辿るものだ。
 
単行本は、最後の「少年と犬」を除いて暗すぎる、救いがないと、馳星周は考えたのではないか。あるいは編集者が考えたのか。

「少女と犬」は、東尋坊で自殺しようとする少女を、犬が援ける話だ。この一篇があるおかげで、全体が華やかに、そして陰翳が濃くなる。
 
なんだ直木賞狙いか、と馬鹿にしてすみません。十分に面白かったです。

(『少年と犬』馳星周、文春文庫、2023年4月10日初刷)