「主婦と交番」はこういう話だ。
小学2年生の「美加」が、母親の「なつ美」にこんなことを聞いた。
「ねえ、ママ、交番にはどうして女の人がいないの?」
「なつ美」はもちろん答えられない。どうでもいいような疑問だが、子供が疑問に思ったことは、ちょっと気になる。
駅前で買い物をして、ついでに交番に回った。交番に関心を持ったことは、一度だってない。だからよく見ると、二階建てであることに、「つまらない感心」をしてしまう。
「ちょうど外に向けて笑顔をふりまくように、窓のへりにオレンジ色の警察マスコット、ピーポーくんのぬいぐるみがちょこんと置かれ、折り畳まれたパイプ椅子が何脚かと、機動隊が使う銀色の楯のようなものが、オウム関連らしい手配写真の貼られた灰色の壁際に立てかけられているくらい。」
その「ピーポーくん」が問題を起こす。正確には「ピーポーくん」をめぐって、「美加」が問題を起こす。
その前に、母親の「なつ美」の問題がある。彼女は、夫が単身赴任なので、「美加」と二人暮らしなのだが、今は乗り物に乗れない。なかでも電車に乗れない。
都内の私立高校に通っていたとき、通学時の込み合った電車の中で、ひどいめまいと吐き気に襲われたのだ。
こうして否応なく、「なつ美」の狭いテリトリーができあがる。
そのテリトリーにはたとえば、「美加」から「おじちゃんみたいなおばちゃん」と呼ばれるトランスジェンダーの、仲の良い「よし子さん」が頻繁にやってくる。
「なつ美」は、いま住んでいる杉並区と、買い物に出かける世田谷区の、何か所かの交番を見て回るのが、日課になった。
そしてあるとき「美加」から、警視庁へ行きたいの、という希望が出される。最近の交番には、ピーポーくん(「美加」は頑なに「ピーポくん」と呼ぶ、そして実はこれが正しい)のポスターで、警視庁見学のお誘いが貼ってあるのだ。
しかし「なつ美」は電車に乗れない。パパが帰ってきたら、レンタカーを借りて一緒に行こう、とその場はごまかす。
それからしばらくして、「なつ美」は日課の交番巡りで、奇妙な光景を見てしまう。
「おい、ピーポねえよ、どうしたんだよ、と大きな声で言っているのを聞いてしまった。奥からのそのそとべつの巡査(「下ぶくれ」)が出てきて、え、知らねえよ、そこにあんべ、とどこの訛りだかわからない言葉で答えている。盗まれたんだ、とわかってなつ美は全身がぞくぞくした。なかなか珍しいところを目撃してしまった。交番に泥棒。ああずっと見ていたい。」
しかしそうもいかなくて、「なつ美」は交番巡りをした後、家に帰る。そして珍しく早く帰った「美加」と対面する。
「なつ美は、あいやー、と思わず京劇の人みたいに叫びそうになった。美加は最初から隠すつもりはなかったのか、それともどうせ隠し通せないと腹をくくったのか、どうどうと大きなピーポくんの人形を抱きしめている。」
「美加」は強硬手段に出て、交番の中にあるピーポーくんを、こっそり持って来てしまったのだ。
「なつ美」は「美加」と一緒に、交番へ「ピーポくん」を返しに行き、そして、そんなに警視庁を見たいの、と聞く。
「なつ美」は車を運転できないから、「おじちゃんみたいなおばちゃん」の「よし子さん」に運転してもらって、警視庁を見学する。
その見学の間にも「なつ美」は、エレベーターに乗れなくなって、立ち往生してしまうのだ。
その最後はこういうふうに結んである。
「もしこのままエレベーターにも乗れなくなったら、二十九にもなって本当に最低だなとなつ美は思った。美加はミッフィーの手提げバッグから取り出した『こち亀』最新刊を、また膝の上で広げている。なにもこわくなんかないだろ、と横でよし子さんが暗示でもかけるように言った。」
これは、徹底して写実体で書かれた、みごとな「寓話」だ。
(『夏の約束』藤野千夜、講談社文庫、2003年2月15日初刷)
不思議な視線――『夏の約束』(藤野千夜)(1)
藤野千夜の自伝小説『編集ども集まれ!』が、不思議な面白さで、あとを引くものだったので、続けて何冊か読んでみた。
この本には、「夏の約束」と「主婦と交番」の2点が入っている。どちらも短い。
「夏の約束」は芥川賞受賞作である。しかしどちらかと言えば、「主婦と交番」の方が面白い。
まずカバー裏の惹句を引く。
「ゲイのカップルの会社員マルオと編集者ヒカル。ヒカルと幼なじみの売れない小説家菊江。男から女になったトランスセクシャルな美容師たま代…少しハズれた彼らの日常を温かい視線で描き、芥川賞を受賞した表題作に、交番に婦人警官がいない謎を追う「主婦と交番」を収録した、コミカルで心にしみる作品集。」
最後の「コミカルで心にしみる」は、僕から見れば、やや的を外している。「心にしみる」ではなくて、頭脳の方に訴えてくる。
小説の骨格としては、ゲイ・カップルの「マルオ」と「ヒカル」を中心にした、小さな疑似コミュニティと、それと対立する世間との、対比が描かれる。
「マルオ」は最初、ゲイであることを、ひたすら隠していた。しかしそれはムリだった。
「マルオが一年前に独身寮を出たのは、社内でゲイだと知られたからだった。当然のことながら、男ばかりの独身寮だ。ヘビやサソリのように嫌われて、風呂は一人だけ外湯を命じられたり、晩ご飯にこっそり唾を入れられたり、階段からそっと突き落とされたり、と悪い想像ならいくらでもすることができた。が、さすがにそんな目にあったわけではない。ただ、なんとなく周囲を取り巻く空気がそれまでとは違っている気がして、その空気にあっさりと負けたのだった。」
「マルオ」の会社での仕事は、描かれていない。だから実際には、よくわからない。
「今となれば、空気なんて気のせいだったのかもしれないとは思う。大学を出てから六年間、ひたすら隠しつづけた事実を知られ、過剰に意識してしまっただけという気もする。でも、どちらにしろ、もう過ぎたことだった。社内ではゲイであることを隠す必要はなくなった」。
こうして「マルオ」は最小限、自分の周りだけは、自分がゲイであるという主張を、通せるようにする。
しかし広い世間の方は、そうはいかない。「マルオ」が「ヒカル」と、手をつないで歩いていると、塾から帰る子供たちに、からかいの罵声を投げつけられる。
「すれ違いざまに、すげえ、とか、いつものやつら発見、とか、ホモデブゥ、とか口々に発し、全速力で駅へと続く路地を曲がって行く。四人、五人。どうやら中学受験で有名な進学塾の生徒たちらしい。」
男同士で手をつないでいれば、こういうこともあるだろう。
「『なに、今のガキ』
ヒカルの声にヒステリックな倍音が混じっていたので、まあ、いいじゃん、とマルオは分別くさくなだめた。手をつないだゲイ・カップルが街を歩く以上、その程度のことでいちいち腹は立てていられない。」
それにしても「マルオ」の、自分とまわりを含めた、客観的な視線はどこから来るのか。『編集ども集まれ!』の、自分も含めたあの視線が、ここでも存分に発揮されている。
とはいえ、ここでは「マルオ」の悲惨な学生時代が、回顧されている。
「マルオは自分から宣言したことなど一度もなかったのに、どこに行っても決まってゲイだとバレている。高校生のときには、からだの中にいる悪魔を叩きだしてやる、と空手バカを自認する上級生からサンドバッグ代わりに蹴られつづけたし、大学では、身内が事故にあってAB型の血液の人間を捜しているというクラスメイトに協力を申し出て、お前の血はいらない、ときっぱり断られた。
ただ、男が好きなだけなのに。」
だから今では、男同士で手をつなぐのを、むしろ当たり前のこととして、堂々とそうしているのだ。
というふうに読んできて、しかし僕には、これが芥川賞にふさわしいとは、なかなか思えなかった。「藤野千夜の不思議な視線」以外に、特に見るべきところはない、と僕には思える。
あるいは、その「不思議な視線」が、日本の小説においては稀有なものだ、という判断を下したのか。もし審査をする方が、そう言うつもりで選んだとすれば、実に慧眼な人たちが、過半数いたことになる。
そしてそれは、たとえば次の「主婦と交番」において、十全に発揮されている。
この本には、「夏の約束」と「主婦と交番」の2点が入っている。どちらも短い。
「夏の約束」は芥川賞受賞作である。しかしどちらかと言えば、「主婦と交番」の方が面白い。
まずカバー裏の惹句を引く。
「ゲイのカップルの会社員マルオと編集者ヒカル。ヒカルと幼なじみの売れない小説家菊江。男から女になったトランスセクシャルな美容師たま代…少しハズれた彼らの日常を温かい視線で描き、芥川賞を受賞した表題作に、交番に婦人警官がいない謎を追う「主婦と交番」を収録した、コミカルで心にしみる作品集。」
最後の「コミカルで心にしみる」は、僕から見れば、やや的を外している。「心にしみる」ではなくて、頭脳の方に訴えてくる。
小説の骨格としては、ゲイ・カップルの「マルオ」と「ヒカル」を中心にした、小さな疑似コミュニティと、それと対立する世間との、対比が描かれる。
「マルオ」は最初、ゲイであることを、ひたすら隠していた。しかしそれはムリだった。
「マルオが一年前に独身寮を出たのは、社内でゲイだと知られたからだった。当然のことながら、男ばかりの独身寮だ。ヘビやサソリのように嫌われて、風呂は一人だけ外湯を命じられたり、晩ご飯にこっそり唾を入れられたり、階段からそっと突き落とされたり、と悪い想像ならいくらでもすることができた。が、さすがにそんな目にあったわけではない。ただ、なんとなく周囲を取り巻く空気がそれまでとは違っている気がして、その空気にあっさりと負けたのだった。」
「マルオ」の会社での仕事は、描かれていない。だから実際には、よくわからない。
「今となれば、空気なんて気のせいだったのかもしれないとは思う。大学を出てから六年間、ひたすら隠しつづけた事実を知られ、過剰に意識してしまっただけという気もする。でも、どちらにしろ、もう過ぎたことだった。社内ではゲイであることを隠す必要はなくなった」。
こうして「マルオ」は最小限、自分の周りだけは、自分がゲイであるという主張を、通せるようにする。
しかし広い世間の方は、そうはいかない。「マルオ」が「ヒカル」と、手をつないで歩いていると、塾から帰る子供たちに、からかいの罵声を投げつけられる。
「すれ違いざまに、すげえ、とか、いつものやつら発見、とか、ホモデブゥ、とか口々に発し、全速力で駅へと続く路地を曲がって行く。四人、五人。どうやら中学受験で有名な進学塾の生徒たちらしい。」
男同士で手をつないでいれば、こういうこともあるだろう。
「『なに、今のガキ』
ヒカルの声にヒステリックな倍音が混じっていたので、まあ、いいじゃん、とマルオは分別くさくなだめた。手をつないだゲイ・カップルが街を歩く以上、その程度のことでいちいち腹は立てていられない。」
それにしても「マルオ」の、自分とまわりを含めた、客観的な視線はどこから来るのか。『編集ども集まれ!』の、自分も含めたあの視線が、ここでも存分に発揮されている。
とはいえ、ここでは「マルオ」の悲惨な学生時代が、回顧されている。
「マルオは自分から宣言したことなど一度もなかったのに、どこに行っても決まってゲイだとバレている。高校生のときには、からだの中にいる悪魔を叩きだしてやる、と空手バカを自認する上級生からサンドバッグ代わりに蹴られつづけたし、大学では、身内が事故にあってAB型の血液の人間を捜しているというクラスメイトに協力を申し出て、お前の血はいらない、ときっぱり断られた。
ただ、男が好きなだけなのに。」
だから今では、男同士で手をつなぐのを、むしろ当たり前のこととして、堂々とそうしているのだ。
というふうに読んできて、しかし僕には、これが芥川賞にふさわしいとは、なかなか思えなかった。「藤野千夜の不思議な視線」以外に、特に見るべきところはない、と僕には思える。
あるいは、その「不思議な視線」が、日本の小説においては稀有なものだ、という判断を下したのか。もし審査をする方が、そう言うつもりで選んだとすれば、実に慧眼な人たちが、過半数いたことになる。
そしてそれは、たとえば次の「主婦と交番」において、十全に発揮されている。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(8)
とうとう「花」は、「蘭」と「桃子」を、カード詐欺の仲間に入れる。3人が一体になった一連の詐欺は、昔のアニメに倣って「アタックナンバーワン」と名づけられた。
舞台はATMから、デパートで詐欺に使う盗難カードや紛失カードなど、まとめて「事故カード」と呼ばれるものになる。
このとき「黄美子さん」は、もちろん3人が何をやるかは知っているが、仲間には加わっていない。「ヴィヴィアン」が、黄美子はトロいからダメ、と言ったのだ。
そうかもしれないが、僕には「黄美子さん」が、見ようによっては、聖女のような気がする。
「花」は、「黄美子さん」に導かれてスナック「れもん」をやり、それが火事で焼けた後は、「黄美子さん」の古い知り合いの「ヴィヴィアン」を知り、カード詐欺にはまっていく。
なによりも「花」は、「黄美子さん」と一緒に暮らしたいのだ。だから、黄色が大事だという風水の思想も、信じているのだ。
「アタック」で稼いだ金は、みんなが見ている前で、押し入れのダンボールに入れ、そして蓋を閉じるという流れだった。
「それは、その日の成果を確認しあう儀式であるのはもちろん、なんだか世界のなかでいちばん大きな――可能性そのものにでもじかに触っているかのような、とくべつな興奮がみなぎる時間だった。ダンボールにはみんなが一緒のとき以外にはふれないという暗黙のルールもなんとなくできあがった。」
だから当然、そのルールを破るものが出てくる。しかしそれは、まだ先の話だ。
「アタック」はますます快調だったけれど、「花」の気持ちは、ささくれだつことが多くなっていった。
「この頃にはもう、わたしは自分が『レモン』を再開することはできないということがわかっていた。身分を証するものもなければ銀行口座もない、人には決して言えない稼ぎで生きているわたしに店をひらくことなんかできるわけがない。」
「蘭」や「桃子」、「黄美子さん」は、「れもん」のことなど人任せで、気にもかけていない。「花」の絶望は、いっそう深くなる。
そのとき「ヴィヴィアン」が、「とぶ」というかたちで行方をくらまし、こうして「アタック」チームは崩壊する。
「花」は金を目の前にしながら、何が何だか、だんだん分からなくなっていった。
「わたしたちはなにを集めていたのか。金。金を集めていた。〔中略〕未来、安心、強さ、怖さ、ちから――これまで金をつかみながら考えたいろいろなこと、こうしてひと塊になった金を見ながらいま頭にやってくる言葉のすべてが真実だという気もしたし、すべてが例外なく的外れであるようにも思えた。わからない。今わたしが見つめているこれは、いったいなんなのだ?」
醜い争いのあと、「蘭」と「桃子」は、分け前を持って「黄色い家」を去り、「花」もわずかな金をもって、「黄美子さん」のもとを去る。
『黄色い家』については、東京新聞の「大波小波」が、「(花)」という署名で、優れた書評を載せている。
「主人公の孤独で健気な少女は川上の読者には馴染み深い造形だが、この作品では、人間が堕ちて行く時の圧倒的な速さ、その性愛に似る恍惚とした感覚までを精緻に描き出す。
著者は、デビュー以来、人間が如何に生きるかという真っ当すぎる小説を愚直に書き続けている。そのことが、海外での高い評価を獲得しているのは、荒廃した今世紀の文学の必然であろう。」
川上未映子のこの小説の評価については、これで十全であり、何も言うことはない。
ただ、その後の批評は、実に興味深い。
「遠からず滅びる地球にあって、人類が精神を振り絞って最後の努力を試みたという証のようなものだ。
『黄色い家』は紛れもなく同時代の世界文学であり、私たちはこの『家』すなわち『星』から出られない孤独な囚われ人なのである。」
前提なしの、ものすごい飛躍だが、言っていることは正しい(という気がする)。こういう文章を書く人が、まだいたのだ。
しかし僕は、この小説を読みながら、また別のことも考えていた。少し前にブログに書いた、韓国のカン・ファギルの『別の人』である。
若い女性が、自力で生きていく道を探すという点では、同じなのだが、『別の人』の方が、人間が徹底して孤立しており、殺伐としている。
「花」は違法なことをするけど、それでも底辺にあって、集団で生きていく。『別の人』の場合は、出てくる人間が、だれ一人、意思の疎通ができていない。
女性はすべて、男と交わるときは、強姦または準強姦、それでなければ不同意の性交を強要される。しかし男たちは、そういうつもりはまったくない。つまり女も男も、どうしようもなく救いがない。
だから『黄色い家』の方が救いがある、とはもちろん全然思わない。どちらにも、個別の風土と歴史がある。
ただ、2つのすぐれた小説が、別のことを描いて、しかしどちらもこの先、このまま行けば、照らされる道はないような気がする。
(『黄色い家』川上未映子、中央公論新社、2023年2月25日初刷)
舞台はATMから、デパートで詐欺に使う盗難カードや紛失カードなど、まとめて「事故カード」と呼ばれるものになる。
このとき「黄美子さん」は、もちろん3人が何をやるかは知っているが、仲間には加わっていない。「ヴィヴィアン」が、黄美子はトロいからダメ、と言ったのだ。
そうかもしれないが、僕には「黄美子さん」が、見ようによっては、聖女のような気がする。
「花」は、「黄美子さん」に導かれてスナック「れもん」をやり、それが火事で焼けた後は、「黄美子さん」の古い知り合いの「ヴィヴィアン」を知り、カード詐欺にはまっていく。
なによりも「花」は、「黄美子さん」と一緒に暮らしたいのだ。だから、黄色が大事だという風水の思想も、信じているのだ。
「アタック」で稼いだ金は、みんなが見ている前で、押し入れのダンボールに入れ、そして蓋を閉じるという流れだった。
「それは、その日の成果を確認しあう儀式であるのはもちろん、なんだか世界のなかでいちばん大きな――可能性そのものにでもじかに触っているかのような、とくべつな興奮がみなぎる時間だった。ダンボールにはみんなが一緒のとき以外にはふれないという暗黙のルールもなんとなくできあがった。」
だから当然、そのルールを破るものが出てくる。しかしそれは、まだ先の話だ。
「アタック」はますます快調だったけれど、「花」の気持ちは、ささくれだつことが多くなっていった。
「この頃にはもう、わたしは自分が『レモン』を再開することはできないということがわかっていた。身分を証するものもなければ銀行口座もない、人には決して言えない稼ぎで生きているわたしに店をひらくことなんかできるわけがない。」
「蘭」や「桃子」、「黄美子さん」は、「れもん」のことなど人任せで、気にもかけていない。「花」の絶望は、いっそう深くなる。
そのとき「ヴィヴィアン」が、「とぶ」というかたちで行方をくらまし、こうして「アタック」チームは崩壊する。
「花」は金を目の前にしながら、何が何だか、だんだん分からなくなっていった。
「わたしたちはなにを集めていたのか。金。金を集めていた。〔中略〕未来、安心、強さ、怖さ、ちから――これまで金をつかみながら考えたいろいろなこと、こうしてひと塊になった金を見ながらいま頭にやってくる言葉のすべてが真実だという気もしたし、すべてが例外なく的外れであるようにも思えた。わからない。今わたしが見つめているこれは、いったいなんなのだ?」
醜い争いのあと、「蘭」と「桃子」は、分け前を持って「黄色い家」を去り、「花」もわずかな金をもって、「黄美子さん」のもとを去る。
『黄色い家』については、東京新聞の「大波小波」が、「(花)」という署名で、優れた書評を載せている。
「主人公の孤独で健気な少女は川上の読者には馴染み深い造形だが、この作品では、人間が堕ちて行く時の圧倒的な速さ、その性愛に似る恍惚とした感覚までを精緻に描き出す。
著者は、デビュー以来、人間が如何に生きるかという真っ当すぎる小説を愚直に書き続けている。そのことが、海外での高い評価を獲得しているのは、荒廃した今世紀の文学の必然であろう。」
川上未映子のこの小説の評価については、これで十全であり、何も言うことはない。
ただ、その後の批評は、実に興味深い。
「遠からず滅びる地球にあって、人類が精神を振り絞って最後の努力を試みたという証のようなものだ。
『黄色い家』は紛れもなく同時代の世界文学であり、私たちはこの『家』すなわち『星』から出られない孤独な囚われ人なのである。」
前提なしの、ものすごい飛躍だが、言っていることは正しい(という気がする)。こういう文章を書く人が、まだいたのだ。
しかし僕は、この小説を読みながら、また別のことも考えていた。少し前にブログに書いた、韓国のカン・ファギルの『別の人』である。
若い女性が、自力で生きていく道を探すという点では、同じなのだが、『別の人』の方が、人間が徹底して孤立しており、殺伐としている。
「花」は違法なことをするけど、それでも底辺にあって、集団で生きていく。『別の人』の場合は、出てくる人間が、だれ一人、意思の疎通ができていない。
女性はすべて、男と交わるときは、強姦または準強姦、それでなければ不同意の性交を強要される。しかし男たちは、そういうつもりはまったくない。つまり女も男も、どうしようもなく救いがない。
だから『黄色い家』の方が救いがある、とはもちろん全然思わない。どちらにも、個別の風土と歴史がある。
ただ、2つのすぐれた小説が、別のことを描いて、しかしどちらもこの先、このまま行けば、照らされる道はないような気がする。
(『黄色い家』川上未映子、中央公論新社、2023年2月25日初刷)
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(7)
カード詐欺は、どういう仕組みでやっているのか、と「花」は「ヴィヴィアン」に訊く。
「『力をあわせてだよ』ヴィヴさんはにやりと笑った。『元保険屋、元銀行員、元証券会社、元不動産屋、税理士に会計士、カード会社で審査やってた人間もいるね。それからもちろん色恋屋の、ホステス、愛人、ときどき身内もね〔中略〕。情報を流してくれるやつらがいて、そいつらからデータを買うんだよ。家族構成はもちろん趣味に性格、おおよその資産額、それとそいつがどれくらいのまぬけなのかまでをふくめた――個人情報と暗証番号つき。』」
読んでいるうちに、あの人この人の顔が浮かんできて、ちょっとゾッとする。
しかしこの手の詐欺はもう古い、と「ヴィヴィアン」は言う。金のやり取りをする現場は、徐々にパソコン上になり、情報はそこでのやり取りになる、と。
しかし、と僕は思う。銀行の店舗が消え、ATMの出張所が消えて、自分のパソコン上が現場になっても、今度はそこでの詐欺が増えてくる(ま、これは『黄色い家』の物語とは関係ありませんが)。
「あとは暴対ができたせいで、半端物がこの数年で一気にふえて、すごい勢いで景色が変わってきてる」、と「ヴィヴィアン」は言う。これからはヤクザではなくて、わけの分からないものが出てくる、と。
「たとえばヤクザがやってるヤミ金なんてのは、〔中略〕建前ではまあいちおう、金は貸してたわけよ。でもこれからは、貸してもない金を、貸してもないところから毟りとるやつらがうじゃうじゃ出てくる。いちいちカードなんか偽造しないで、たぶんもっと、ダイレクトに、手軽にね」。
川上未映子が『黄色い家』を執筆していたころは、押し込み強盗はもう、頻発していたんだろうか。
おおかた一般の人たちが啞然とする、ケータイで指示通りに動く白昼強盗。どうして捕まることが分かってるのに、10代の人たちが駆り立てられていくのだろう。
そう思っていたが、この人たちにとっては、違法なことをして捕まっても、浮かび上がることなく底辺にいて捕まらなくても、同じなんだということが、少しずつ分かってきた。
その人たちは、あるとき突然、ヤケを起こしたのではなく、最初からその場所に居続けたのだ。
カード詐欺をなりわいにしている「花」は、追い詰められていた。「黄美子さん」をはじめ「蘭」も「桃子」も、「花」だけが頼りだった。
詐欺を働きながら、どうすればまっとうな道に戻れるんだろう、と「花」は必死で考える。
「つまり今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちは、どうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手に入れたのかということだった。どうやってそっちの世界の人間になれたのかということだった。わたしは誰かに教えてほしかった。」
この後、「花」は、「不安とプレッシャーと興奮で眠れない夜がつづいて、思考回路がおかしくなって母親に電話をかけてしまいそうになることもあつた。」
ギリギリのところで、これはいけないことだ、こんなことをせずに、まともにならなくては、と主人公に言わせるのが、川上未映子の小説の真骨頂なのだ。
「『力をあわせてだよ』ヴィヴさんはにやりと笑った。『元保険屋、元銀行員、元証券会社、元不動産屋、税理士に会計士、カード会社で審査やってた人間もいるね。それからもちろん色恋屋の、ホステス、愛人、ときどき身内もね〔中略〕。情報を流してくれるやつらがいて、そいつらからデータを買うんだよ。家族構成はもちろん趣味に性格、おおよその資産額、それとそいつがどれくらいのまぬけなのかまでをふくめた――個人情報と暗証番号つき。』」
読んでいるうちに、あの人この人の顔が浮かんできて、ちょっとゾッとする。
しかしこの手の詐欺はもう古い、と「ヴィヴィアン」は言う。金のやり取りをする現場は、徐々にパソコン上になり、情報はそこでのやり取りになる、と。
しかし、と僕は思う。銀行の店舗が消え、ATMの出張所が消えて、自分のパソコン上が現場になっても、今度はそこでの詐欺が増えてくる(ま、これは『黄色い家』の物語とは関係ありませんが)。
「あとは暴対ができたせいで、半端物がこの数年で一気にふえて、すごい勢いで景色が変わってきてる」、と「ヴィヴィアン」は言う。これからはヤクザではなくて、わけの分からないものが出てくる、と。
「たとえばヤクザがやってるヤミ金なんてのは、〔中略〕建前ではまあいちおう、金は貸してたわけよ。でもこれからは、貸してもない金を、貸してもないところから毟りとるやつらがうじゃうじゃ出てくる。いちいちカードなんか偽造しないで、たぶんもっと、ダイレクトに、手軽にね」。
川上未映子が『黄色い家』を執筆していたころは、押し込み強盗はもう、頻発していたんだろうか。
おおかた一般の人たちが啞然とする、ケータイで指示通りに動く白昼強盗。どうして捕まることが分かってるのに、10代の人たちが駆り立てられていくのだろう。
そう思っていたが、この人たちにとっては、違法なことをして捕まっても、浮かび上がることなく底辺にいて捕まらなくても、同じなんだということが、少しずつ分かってきた。
その人たちは、あるとき突然、ヤケを起こしたのではなく、最初からその場所に居続けたのだ。
カード詐欺をなりわいにしている「花」は、追い詰められていた。「黄美子さん」をはじめ「蘭」も「桃子」も、「花」だけが頼りだった。
詐欺を働きながら、どうすればまっとうな道に戻れるんだろう、と「花」は必死で考える。
「つまり今日を生きて明日もそのつづきを生きることのできる人たちは、どうやって生活しているのだろう。そういう人たちがまともな仕事についてまともな金を稼いでいることは知っている。でもわたしがわからなかったのは、その人たちがいったいどうやって、そのまともな世界でまともに生きていく資格のようなものを手に入れたのかということだった。どうやってそっちの世界の人間になれたのかということだった。わたしは誰かに教えてほしかった。」
この後、「花」は、「不安とプレッシャーと興奮で眠れない夜がつづいて、思考回路がおかしくなって母親に電話をかけてしまいそうになることもあつた。」
ギリギリのところで、これはいけないことだ、こんなことをせずに、まともにならなくては、と主人公に言わせるのが、川上未映子の小説の真骨頂なのだ。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(6)
「花」が、ATMのカード詐欺をうまくやるにつれて、「ヴィヴィアン」の信頼は増していく。そしてたまには一緒に、食事をするようになった。
そこで「ヴィヴィアン」は、28歳のとき、1回の勝負で、1億円賭けたことがある、そして勝ったという。
「なんつうか、あの瞬間、あそこでは、金は無意味になるんだよ。それもただの無意味じゃなくて、圧倒的な無意味っていうか。あの瞬間だけ、金がこの世の中でいちばん無意味なものになるんだ。おかしいでしょ。だって金はすべてでしょ。それは間違いない。金がすべてで、でも、それと同時に金が無意味になる。金以上のものなんかあるわけないのに、そんなことはわかりきってるのに、でもここにはいま、金以上のものだけかあるんだ。それしかない。手につかんだ札束には、それが満ちてる。もうそれだけをびんびんに感じて――うまく説明できないけど、そういう感覚なんよね。」
28歳で、1億円を賭けて勝った「ヴィヴィアン」が、そのときの感覚を、うまく説明できないと言っているのだから、読者に、というか僕に、分かるわけがない。しかし、いわゆる金の感覚とは違うものだ、ということは分かる。
ということを前提に、金というものを考えてみる。
池田晶子さんとは、お金について、ときどき話し合ったことがある。池田さんは、金のためだけに働く人間を、心底馬鹿にし、軽蔑していた。
それはそのまま、食うために働くのか、働くために食うのか、という問題と、重ね合わせになっている。
池田さんの考えは、よく分かる。僕も、池田さんの考え方に全面的に賛成である。
しかし一方で、大阪の下町に住んでいたころ、そこは一帯が、長屋に毛の生えたようなところで、みんなひどく貧しかった。そしてときどき、夜逃げがあった。仲のいい子が、一晩で消え、消息不明になった。
ということで、金にまつわることを書こうかと思っていたのだが、話が広がり過ぎて収拾がつかなくなりそうなので、今は『黄色い家』とその周辺に限ることにする。
「花」は集金がないときも、ときどき「ヴィヴィアン」と会った。そうして彼女の、金に関する興味深い話を聞いた。
「ある種の金持ちが金持ちなのは、最初からそうだったからだよ。それで、こういう鈍い金持ちは、自分らが鈍い金持ちでいられるための、自分らに都合のいい仕組みをつくりあげて、そのなかでぬくぬくやりつづけるの。親の代から、ばばあやじじいの時代から、自分らがぜったいに損しないように、脅かされることがないように、涼しい顔して甘い汁を吸いつづけることのできる、自分らのためだけの頑丈な仕組みをつくりあげて、それをせっせと強くしてんの。」
金持ちが得をするように、世の中の仕組みを決める、それを決めるのは金持ちだけだ、と「ヴィヴィアン」は言う。
話を具体的に、身近なところから進めよう。2024年から、NISAが新しくなる。投資NISAが2倍の240万に、積立NISAが3倍の120万になる。年間360万、それを毎年5年間、貯蓄できるのだが、そういうことのできるのは金持ちだけである。そしてこれには、なんと税金がかからない。
投資の金であるから、本来は真っ先に税金を取るべきものだ。それがまったく逆である。
こういうことを政府が発表しても、この制度は国民を、持つと持たざる者とに二分するので、絶対に反対だ、という意見は見たことがない。
「ヴィヴィアン」が先に言っていることは、まったく正しい。
さらに次のように言う。
「金持ちが死んだあともずっと金持ちのままで、貧乏人が死んだあともずっと貧乏人のままなのは、金持ちがそれを望んでるからだよ。金をもってるやつが、金をもってるやつのためにルールを作って、貧乏人はそのルールのなかでどんどん搾りとられていく。」
第2次大戦が終わったとき、東大仏文の渡辺一夫教授は、これからは平和な時代が続くことになり、やれやれとみんな思っている、しかし平和が続く時代は実は苦しいものだ、ということを十分肝に銘じる必要がある、そういう意味のことを述べられた。
平和が続くことは、場合によっては、人間が何代にもわたって、よりいっそう固定化することを意味している。これが今の日本のようになる、ということであったのか。
そこで「ヴィヴィアン」は、28歳のとき、1回の勝負で、1億円賭けたことがある、そして勝ったという。
「なんつうか、あの瞬間、あそこでは、金は無意味になるんだよ。それもただの無意味じゃなくて、圧倒的な無意味っていうか。あの瞬間だけ、金がこの世の中でいちばん無意味なものになるんだ。おかしいでしょ。だって金はすべてでしょ。それは間違いない。金がすべてで、でも、それと同時に金が無意味になる。金以上のものなんかあるわけないのに、そんなことはわかりきってるのに、でもここにはいま、金以上のものだけかあるんだ。それしかない。手につかんだ札束には、それが満ちてる。もうそれだけをびんびんに感じて――うまく説明できないけど、そういう感覚なんよね。」
28歳で、1億円を賭けて勝った「ヴィヴィアン」が、そのときの感覚を、うまく説明できないと言っているのだから、読者に、というか僕に、分かるわけがない。しかし、いわゆる金の感覚とは違うものだ、ということは分かる。
ということを前提に、金というものを考えてみる。
池田晶子さんとは、お金について、ときどき話し合ったことがある。池田さんは、金のためだけに働く人間を、心底馬鹿にし、軽蔑していた。
それはそのまま、食うために働くのか、働くために食うのか、という問題と、重ね合わせになっている。
池田さんの考えは、よく分かる。僕も、池田さんの考え方に全面的に賛成である。
しかし一方で、大阪の下町に住んでいたころ、そこは一帯が、長屋に毛の生えたようなところで、みんなひどく貧しかった。そしてときどき、夜逃げがあった。仲のいい子が、一晩で消え、消息不明になった。
ということで、金にまつわることを書こうかと思っていたのだが、話が広がり過ぎて収拾がつかなくなりそうなので、今は『黄色い家』とその周辺に限ることにする。
「花」は集金がないときも、ときどき「ヴィヴィアン」と会った。そうして彼女の、金に関する興味深い話を聞いた。
「ある種の金持ちが金持ちなのは、最初からそうだったからだよ。それで、こういう鈍い金持ちは、自分らが鈍い金持ちでいられるための、自分らに都合のいい仕組みをつくりあげて、そのなかでぬくぬくやりつづけるの。親の代から、ばばあやじじいの時代から、自分らがぜったいに損しないように、脅かされることがないように、涼しい顔して甘い汁を吸いつづけることのできる、自分らのためだけの頑丈な仕組みをつくりあげて、それをせっせと強くしてんの。」
金持ちが得をするように、世の中の仕組みを決める、それを決めるのは金持ちだけだ、と「ヴィヴィアン」は言う。
話を具体的に、身近なところから進めよう。2024年から、NISAが新しくなる。投資NISAが2倍の240万に、積立NISAが3倍の120万になる。年間360万、それを毎年5年間、貯蓄できるのだが、そういうことのできるのは金持ちだけである。そしてこれには、なんと税金がかからない。
投資の金であるから、本来は真っ先に税金を取るべきものだ。それがまったく逆である。
こういうことを政府が発表しても、この制度は国民を、持つと持たざる者とに二分するので、絶対に反対だ、という意見は見たことがない。
「ヴィヴィアン」が先に言っていることは、まったく正しい。
さらに次のように言う。
「金持ちが死んだあともずっと金持ちのままで、貧乏人が死んだあともずっと貧乏人のままなのは、金持ちがそれを望んでるからだよ。金をもってるやつが、金をもってるやつのためにルールを作って、貧乏人はそのルールのなかでどんどん搾りとられていく。」
第2次大戦が終わったとき、東大仏文の渡辺一夫教授は、これからは平和な時代が続くことになり、やれやれとみんな思っている、しかし平和が続く時代は実は苦しいものだ、ということを十分肝に銘じる必要がある、そういう意味のことを述べられた。
平和が続くことは、場合によっては、人間が何代にもわたって、よりいっそう固定化することを意味している。これが今の日本のようになる、ということであったのか。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(5)
「花」は、母親に金を与えて別れた後、「黄美子さん」を相手に、まとまらない自分の考えを、自分に説明するように話し始める。
「わたしだってさ、未成年で家出同然で、まだお酒飲んじゃいけないのに毎日飲んで仕事してるわけだよね。警察が来たときびくびくしたし。今も年齢は隠してるしさ。でもね、わたしからすると、生きていくにはこれしかないっていうか、これ以外になかったっていうか、それは本当なわけだよ。」
自分のやっていることが、正しいとは言えないけれど、しかし間違っているかと言われると、そうとは思えない、それしか方法はなかったという。
「正しくないよ、そりゃ正しくはないけど、でも間違ってるわけじゃない。そう感じるの。未成年だし、その意味で悪いことなのかもしれないけど、でも、人生として間違ったことをしてるのかって訊かれると、そうじゃないっていう気持ちがどうしてもあって。〔中略〕わたしは年をごまかしたりしてるけど、その意味で嘘をついてるってことにもなるんだろうけど、でも――間違っていないと思う。でも、おまえの人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるんだろうって」
「黄美子さん」はもちろん、そんなことは考えない。「おまえの人生どうなんだって」、自分で自分に訊くのをやめれば、それでいいではないかとは言う。
「花」は深い迷いの中におかれる。
そのとき「れもん」が、火事で全焼する。「花」は一瞬にして、生きる伝手を失う。
これからも4人で住み続けるには、どうすればいいか。
「はな」は「映水(ヨンス)」に連絡を取り、「ヴィヴィアン」という女を紹介してもらう。
「ヴィヴィアン」は「映水(ヨンス)」と、こんなふうに話す。
「『――わたしの落ちめの噂きいて、新しいシノギでももってきてくれるのかと思ったら逆とはね』
『いや、逆っていうか、手が足りてないっていうのも聞いたんすよ』
『物は言いようだよねえ』ヴィヴィアンさんはどこか嬉しそうに笑った。『足りないんじゃなくて、なくなったの、なにせ落ちめだから』
『それはどこも一緒すよ』」
「ヴィヴィアン」は、「黄美子さん」や「琴美」とも、古い知り合いだという。
「シノギ」の世渡り。「花」はいよいよ、犯罪に手を染める覚悟をする。頼れるものは、部屋の一郭に設えた、無数の黄色い小物、つまり「風水」だけ。
「ヴィヴィアン」のシノギは、銀行カードの詐欺だった。
「今回あんたにわたすのは三枚でしょ。基本三日あけての、締日は二週間に一回。そのときに、つぎのカードわたすわ」
「はい」
「だから、ひと月で三百万の集金になる計算」
「花」の取り分は10パーセント。「『れもん』で一生懸命働いたなら五日間、もしひとりなら二週間はかかる売り上げ。ファミレスなら朝から晩まで二ヶ月半働いてもらえるお金。十五万円というのが、たった三回とはいえ二週間あんな思いをして得られる金額として充分なものなのか、それとも多いのか、安いのか、正直に言ってわたしにはわからなかった。」
こうして「花」は、犯罪に手を染め、少しずつ緊張もほぐれていく。
「なにより、わたしには目的というか、目標があった。ただあてのない金のために、楽をするためにこんなことをしているわけじゃないという気持ちがあった。金を稼いで自分の家を守ること。そして――そう、金を貯めてもう一度、わたしたちの『れもん』を取りもどすこと。そのために、わたしはこれを始めたのだ。」
最初は目的がはっきりしていた。しかしもちろん、そうはならなかった。金の魔力が、だんだん「花」を侵食していく。
「わたしだってさ、未成年で家出同然で、まだお酒飲んじゃいけないのに毎日飲んで仕事してるわけだよね。警察が来たときびくびくしたし。今も年齢は隠してるしさ。でもね、わたしからすると、生きていくにはこれしかないっていうか、これ以外になかったっていうか、それは本当なわけだよ。」
自分のやっていることが、正しいとは言えないけれど、しかし間違っているかと言われると、そうとは思えない、それしか方法はなかったという。
「正しくないよ、そりゃ正しくはないけど、でも間違ってるわけじゃない。そう感じるの。未成年だし、その意味で悪いことなのかもしれないけど、でも、人生として間違ったことをしてるのかって訊かれると、そうじゃないっていう気持ちがどうしてもあって。〔中略〕わたしは年をごまかしたりしてるけど、その意味で嘘をついてるってことにもなるんだろうけど、でも――間違っていないと思う。でも、おまえの人生どうなんだって訊かれたら、なんて答えられるんだろうって」
「黄美子さん」はもちろん、そんなことは考えない。「おまえの人生どうなんだって」、自分で自分に訊くのをやめれば、それでいいではないかとは言う。
「花」は深い迷いの中におかれる。
そのとき「れもん」が、火事で全焼する。「花」は一瞬にして、生きる伝手を失う。
これからも4人で住み続けるには、どうすればいいか。
「はな」は「映水(ヨンス)」に連絡を取り、「ヴィヴィアン」という女を紹介してもらう。
「ヴィヴィアン」は「映水(ヨンス)」と、こんなふうに話す。
「『――わたしの落ちめの噂きいて、新しいシノギでももってきてくれるのかと思ったら逆とはね』
『いや、逆っていうか、手が足りてないっていうのも聞いたんすよ』
『物は言いようだよねえ』ヴィヴィアンさんはどこか嬉しそうに笑った。『足りないんじゃなくて、なくなったの、なにせ落ちめだから』
『それはどこも一緒すよ』」
「ヴィヴィアン」は、「黄美子さん」や「琴美」とも、古い知り合いだという。
「シノギ」の世渡り。「花」はいよいよ、犯罪に手を染める覚悟をする。頼れるものは、部屋の一郭に設えた、無数の黄色い小物、つまり「風水」だけ。
「ヴィヴィアン」のシノギは、銀行カードの詐欺だった。
「今回あんたにわたすのは三枚でしょ。基本三日あけての、締日は二週間に一回。そのときに、つぎのカードわたすわ」
「はい」
「だから、ひと月で三百万の集金になる計算」
「花」の取り分は10パーセント。「『れもん』で一生懸命働いたなら五日間、もしひとりなら二週間はかかる売り上げ。ファミレスなら朝から晩まで二ヶ月半働いてもらえるお金。十五万円というのが、たった三回とはいえ二週間あんな思いをして得られる金額として充分なものなのか、それとも多いのか、安いのか、正直に言ってわたしにはわからなかった。」
こうして「花」は、犯罪に手を染め、少しずつ緊張もほぐれていく。
「なにより、わたしには目的というか、目標があった。ただあてのない金のために、楽をするためにこんなことをしているわけじゃないという気持ちがあった。金を稼いで自分の家を守ること。そして――そう、金を貯めてもう一度、わたしたちの『れもん』を取りもどすこと。そのために、わたしはこれを始めたのだ。」
最初は目的がはっきりしていた。しかしもちろん、そうはならなかった。金の魔力が、だんだん「花」を侵食していく。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(4)
少し手前に戻って、4人で暮らせる部屋を探しているとき、「花」は、金銭的には家賃を払い続けることはできても、部屋を借りることは難しいだろう、と思っていた。
「花」はまだ、保護者が必要な未成年だったし、その未成年を証明するものすらなかった。「黄美子さん」は大人だったけど、何もないという点では、ほかの3人と同じだった。
そこから「花」の考察が始まる。
「わたしたちは身分証があろうがなかろうがこうして現実に生きてはいるんだけれど、でもなんだか根本的に半分は生きていないというか、存在の仕かたとか思われかたが普通の人たちとは違うというか、そういうことを思い知らされるような日々だった。それが未成年であるということなのかもしれなかったけれど、でも、年齢は関係ないのかもしれなかった。」
そうして気が変になりそうなとき、「ジン爺」に会ったので、首振り人形のように、礼を言うことになったのだ。
16,7の女性が3人集まっていれば、性の問題は大きなはずである。
「花」が、そういえばファミレスの店長はいい人だった、と言うと、「桃子」と「欄」は、その店長は「花」を狙っていたに決まっている、と言う。
「桃子」は「ぜったい、花ちゃんとやりたかったはず!」と、にやにや笑って言った。
「それを聞いた瞬間、わたしの全身には、今の今まで目のまえで楽しそうに笑っていた誰かにいきなり睨みつけられたような戸惑いが走り、同時にものすごく――ものすごくいやな気持ちになった。それは真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけるようなはっきりとした嫌悪感だった。」
こういう生理的な嫌悪感が、どこから湧いてくるのか、僕にはわからない。「生きること」をとことん考えるとき、性を笑って話題にすることは、馴染まないのだろうか。
「さっきの話のいったいなにがこの嫌悪感をかきたてているのか、なにがわたしにこんなダメージを与えているのかを考えてみようとした。店長がどうというわけでもない。桃子にむかついたわけでもない。腹がたったとか、そういうんでもない。それはなんというか、心というか、感情の話じゃないような気がした。もっとじかな感覚であるような気がした。わたしは台所に移動して手を洗った。」
これは「花」にとっては、直接手を洗うような事柄なのだが、しかし僕には分からない。
この本の全体として、性の話を避けようということではない。そうではなくて、「花」が嫌悪感をもって、避けているのだ。
これが「花」個人のことなのか、それとも川上未映子のことなのかは、よくわからない。
住むところも見つかり、スナック「れもん」も順調だが、もちろんそれでは物語にはならない。
あるとき、まったく音沙汰のなかった母親が、突然、三軒茶屋に姿を見せる。
母親は「子宮けいがん」で、しばらく入院していたが、それは幸い治ったという。
「がん」の言葉に動揺する「花」に、母親は金を貸してくれないかと言う。
すでに同情していた「花」は、少しなら貸してもいいと思い、金額を訊く。
母親はピースサインを出す。「花」は、「二万円でいいの?」と尋ねると、「母親はぶんぶんと首をふった。」
「え、二十万?」
「その、それが、ちょっと違うんだよお」
母親は、またも男に失敗して、ホステスの仕事を失い、困っているところを詐欺にあって、200万という借金を背負わされた。それでサラ金に泣きついた。
「花」は最初、笑っているほかなくて、ただ呆けていた。それからしばらく黙って考えた。
「なんだかこの三十分で母親はひとまわりも縮んだように感じられた。男に逃げられて女に騙されて借金をつかまされて、がんになって、これからまたさびれた町のスナックで酔っぱらいを相手に生きていくしかない母親はお金がなくて、もうどこにも誰も頼る人がいなくて、家出中の娘がお金を出してくれるかどうか、おどおどしていた。」
今なら「れもん」の金がある。「花」はスナックのあがりの、ほぼ全額を母親に差し出した。
こうして物語は下降の一途をたどることになる。
「花」はまだ、保護者が必要な未成年だったし、その未成年を証明するものすらなかった。「黄美子さん」は大人だったけど、何もないという点では、ほかの3人と同じだった。
そこから「花」の考察が始まる。
「わたしたちは身分証があろうがなかろうがこうして現実に生きてはいるんだけれど、でもなんだか根本的に半分は生きていないというか、存在の仕かたとか思われかたが普通の人たちとは違うというか、そういうことを思い知らされるような日々だった。それが未成年であるということなのかもしれなかったけれど、でも、年齢は関係ないのかもしれなかった。」
そうして気が変になりそうなとき、「ジン爺」に会ったので、首振り人形のように、礼を言うことになったのだ。
16,7の女性が3人集まっていれば、性の問題は大きなはずである。
「花」が、そういえばファミレスの店長はいい人だった、と言うと、「桃子」と「欄」は、その店長は「花」を狙っていたに決まっている、と言う。
「桃子」は「ぜったい、花ちゃんとやりたかったはず!」と、にやにや笑って言った。
「それを聞いた瞬間、わたしの全身には、今の今まで目のまえで楽しそうに笑っていた誰かにいきなり睨みつけられたような戸惑いが走り、同時にものすごく――ものすごくいやな気持ちになった。それは真っ白なふすまに墨汁をまるまる一本ぶちまけるようなはっきりとした嫌悪感だった。」
こういう生理的な嫌悪感が、どこから湧いてくるのか、僕にはわからない。「生きること」をとことん考えるとき、性を笑って話題にすることは、馴染まないのだろうか。
「さっきの話のいったいなにがこの嫌悪感をかきたてているのか、なにがわたしにこんなダメージを与えているのかを考えてみようとした。店長がどうというわけでもない。桃子にむかついたわけでもない。腹がたったとか、そういうんでもない。それはなんというか、心というか、感情の話じゃないような気がした。もっとじかな感覚であるような気がした。わたしは台所に移動して手を洗った。」
これは「花」にとっては、直接手を洗うような事柄なのだが、しかし僕には分からない。
この本の全体として、性の話を避けようということではない。そうではなくて、「花」が嫌悪感をもって、避けているのだ。
これが「花」個人のことなのか、それとも川上未映子のことなのかは、よくわからない。
住むところも見つかり、スナック「れもん」も順調だが、もちろんそれでは物語にはならない。
あるとき、まったく音沙汰のなかった母親が、突然、三軒茶屋に姿を見せる。
母親は「子宮けいがん」で、しばらく入院していたが、それは幸い治ったという。
「がん」の言葉に動揺する「花」に、母親は金を貸してくれないかと言う。
すでに同情していた「花」は、少しなら貸してもいいと思い、金額を訊く。
母親はピースサインを出す。「花」は、「二万円でいいの?」と尋ねると、「母親はぶんぶんと首をふった。」
「え、二十万?」
「その、それが、ちょっと違うんだよお」
母親は、またも男に失敗して、ホステスの仕事を失い、困っているところを詐欺にあって、200万という借金を背負わされた。それでサラ金に泣きついた。
「花」は最初、笑っているほかなくて、ただ呆けていた。それからしばらく黙って考えた。
「なんだかこの三十分で母親はひとまわりも縮んだように感じられた。男に逃げられて女に騙されて借金をつかまされて、がんになって、これからまたさびれた町のスナックで酔っぱらいを相手に生きていくしかない母親はお金がなくて、もうどこにも誰も頼る人がいなくて、家出中の娘がお金を出してくれるかどうか、おどおどしていた。」
今なら「れもん」の金がある。「花」はスナックのあがりの、ほぼ全額を母親に差し出した。
こうして物語は下降の一途をたどることになる。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(3)
「花」は、まず食べていかなくてはならない。駅前のファミリーレストランで、初めて時給680円の給料をもらったときには、「自分でもびっくりするほど感動した。」
しかしそもそも母親に、金のやりくりをするという感覚はなく、「花」も貯金どころか、銀行口座も持っていなかった。
「花」は高校を出たら、すぐに家を出ていこうと決めていた。ところが家に貯めておいたお金、726,000円を、母親の男に盗まれてしまった。
何もやる気のなくなった「花」の前に、再び「黄美子さん」が現われる。一緒に来るか、と聞かれた「花」は、そのまま家を出た。高校はそれ以来行ってない。
そうして2人は三軒茶屋に、スナック「れもん」を開店するのである。「れもん」は風水の「黄」であり、「黄美子さん」の名前も含んでいる。
「れもん」には、「黄美子さん」の友だちの「アン・ヨンス」、日本名「安映水」や、「そこだけ現実の明るさが違って見える」すごい美人の「琴美さん」、家を出て男と同棲している、「花」と同じ年の「加藤蘭」、家族がバラバラで上手くいってない、1つ年下の「玉森桃子」などが寄ってくる。
この人たちはみな、まっとうな世界をはみ出た物語を持っている。その「まっとうな」世界に、徹底的な疑いを向けることが、川上未映子の方法であり戦略なのだ。
こうして「花」は、「黄美子さん」、「加藤蘭」、「玉森桃子」と、一緒に暮らすことになる。
集まってきた中では「安映水」が、すでに野球賭博に深くかかわっている。「花」は最初、犯罪を犯すような人間は、許せないと思った。
「映水(ヨンス)」はそこで、在日としての自分の物語を述べ、ほかに生き方はなかったと言う。
「父親は町工場で、母親はビルや食堂の清掃作業員として朝から晩まで働いていた。家は貧しく、両親は真面目で勤勉だったのに暮らしはいっこうに楽にならなかった。」
そういうことである。「真面目で勤勉」であれば、暮らしは少しずつでも、楽になっていくものではないか。
それとも、そういう考え方は、高度成長を経験した後で身に付いたものであり、世の中は、そういう予定調和を基底としては、回っていかないものだろうか。
しかしそれなら、そういう世の中は、そもそも生きるに値しないものではないか。
「花」は、「映水(ヨンス)」が、腹を割って話してくれたので、一応は納得する。
「花」は「黄美子さん」と暮らしていたのが、あとの2人とも暮らしていくことになったので、4人の部屋を探さなければならなくなる。
それは何の身分証も持たず、預金通帳さえ持っていない身には、とてつもなくハードルの高いものだった。
そのとき「れもん」を貸してくれた、大家の「ジン爺」が、下馬に1軒持っている、といったのだ。
「誰にも相談できず、うっすら吐き気がするほどひとりで思い詰めていたこの問題の解決の糸口がいま、目の前に現れたのかもしれない――そう思うとわたしの頬はかあっと熱くなり、思わず身をのりだした。
『でもジン爺っ、わたし身分証とかないんです、契約とかそういうの、たぶんぜったい無理な感じで』
『ここ〔=「れもん」〕て、どないやった? どないしてた?』
〔中略〕
『わたしはあとで来たもんで、詳しいことはわからんのです』このチャンスを逃してはならないと気持ちが昂ぶり、ジン爺につられて思わず口調が下手な大阪弁になってしまい、わたしは唇を舐めた。」
ここ、可笑しいね、ちょっと吉本新喜劇、会話の終わりはこうだ。
「わたしは顔面どころか手も足も首も背中も熱くなって、頭をさげて何度も礼を言った。
『あんた、そんな頭うごかしてたら首いわすで。うちも家賃入って、ええがな』ジン爺は水割りをすすった。」
1冊のどこかで笑いを取るのが未映子節。川上未映子と言えば関西弁、ということで挙げておく。
しかしそもそも母親に、金のやりくりをするという感覚はなく、「花」も貯金どころか、銀行口座も持っていなかった。
「花」は高校を出たら、すぐに家を出ていこうと決めていた。ところが家に貯めておいたお金、726,000円を、母親の男に盗まれてしまった。
何もやる気のなくなった「花」の前に、再び「黄美子さん」が現われる。一緒に来るか、と聞かれた「花」は、そのまま家を出た。高校はそれ以来行ってない。
そうして2人は三軒茶屋に、スナック「れもん」を開店するのである。「れもん」は風水の「黄」であり、「黄美子さん」の名前も含んでいる。
「れもん」には、「黄美子さん」の友だちの「アン・ヨンス」、日本名「安映水」や、「そこだけ現実の明るさが違って見える」すごい美人の「琴美さん」、家を出て男と同棲している、「花」と同じ年の「加藤蘭」、家族がバラバラで上手くいってない、1つ年下の「玉森桃子」などが寄ってくる。
この人たちはみな、まっとうな世界をはみ出た物語を持っている。その「まっとうな」世界に、徹底的な疑いを向けることが、川上未映子の方法であり戦略なのだ。
こうして「花」は、「黄美子さん」、「加藤蘭」、「玉森桃子」と、一緒に暮らすことになる。
集まってきた中では「安映水」が、すでに野球賭博に深くかかわっている。「花」は最初、犯罪を犯すような人間は、許せないと思った。
「映水(ヨンス)」はそこで、在日としての自分の物語を述べ、ほかに生き方はなかったと言う。
「父親は町工場で、母親はビルや食堂の清掃作業員として朝から晩まで働いていた。家は貧しく、両親は真面目で勤勉だったのに暮らしはいっこうに楽にならなかった。」
そういうことである。「真面目で勤勉」であれば、暮らしは少しずつでも、楽になっていくものではないか。
それとも、そういう考え方は、高度成長を経験した後で身に付いたものであり、世の中は、そういう予定調和を基底としては、回っていかないものだろうか。
しかしそれなら、そういう世の中は、そもそも生きるに値しないものではないか。
「花」は、「映水(ヨンス)」が、腹を割って話してくれたので、一応は納得する。
「花」は「黄美子さん」と暮らしていたのが、あとの2人とも暮らしていくことになったので、4人の部屋を探さなければならなくなる。
それは何の身分証も持たず、預金通帳さえ持っていない身には、とてつもなくハードルの高いものだった。
そのとき「れもん」を貸してくれた、大家の「ジン爺」が、下馬に1軒持っている、といったのだ。
「誰にも相談できず、うっすら吐き気がするほどひとりで思い詰めていたこの問題の解決の糸口がいま、目の前に現れたのかもしれない――そう思うとわたしの頬はかあっと熱くなり、思わず身をのりだした。
『でもジン爺っ、わたし身分証とかないんです、契約とかそういうの、たぶんぜったい無理な感じで』
『ここ〔=「れもん」〕て、どないやった? どないしてた?』
〔中略〕
『わたしはあとで来たもんで、詳しいことはわからんのです』このチャンスを逃してはならないと気持ちが昂ぶり、ジン爺につられて思わず口調が下手な大阪弁になってしまい、わたしは唇を舐めた。」
ここ、可笑しいね、ちょっと吉本新喜劇、会話の終わりはこうだ。
「わたしは顔面どころか手も足も首も背中も熱くなって、頭をさげて何度も礼を言った。
『あんた、そんな頭うごかしてたら首いわすで。うちも家賃入って、ええがな』ジン爺は水割りをすすった。」
1冊のどこかで笑いを取るのが未映子節。川上未映子と言えば関西弁、ということで挙げておく。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(2)
「伊藤花」は、どんな子供であったか。その性質は、自分で考えることはできるが、勉強ができる子ではない。かといって不良でもない。
「わたしも彼女たちも似たような家庭環境ではあったけれど、わたしは彼女たちのように不良にもなれず、かといって塾に通って勉強をしたり、家族でそろってご飯を食べたりどこかへ行ったりするような子たちとも当然のことながら違っていて、学校のなかでも外でもみんなからそれとなく疎まれ、そしてどことなく憐れまれるような、そんな存在だった。」
つまり周りと切れている孤独者で、それは母親とさえも切れており、また周辺の人だけではなく、親戚・縁者の輪からも、大きな時間の流れからも孤立している。
そういう人間は、現実には存在しない。川上未映子は、そういう架空の存在を、一つの典型として設定したのだ。
なぜそんな人間を設定したのか。
今の日本を見れば、個人が努力することによって道が開けてくるのは、ごく少数、ほとんど稀有な少数にとどまる。
個人が努力するのは、じつは努力できる環境にあるからで、親や、そのまた親の代で、環境はほぼ決まってしまう。努力できるから努力する、しかしその努力は偽物ではないのか。とくに豊かさを享受する場合に、それはまがい物ではないのか。
こうして、その反対側の極で、一つの典型が成り立つ。
個人に属する、諸々の属性を取り去ったとき、この時代に、人はどういうふうに生きていけるか、あるいはいけないか、それを実験してみせる。そういうことではないか。
主人公は、「黄美子さん」と出会って、その世界は不思議な広がりを見せる。
「『黄美子さんは、〔中略〕なにか信じてることってある?』
『うーん』黄美子さんは言った。『風水はちょっとかな』
『風水ってなに?』
『北とか南とか、方向には色があって、それに合わせるといいってやつ。南には緑色、北には白だったかな』」
一見、他愛のない話である。しかし自分の周りで、すべてが切れたところでは、なにかが「背骨」として必要なのだ。
「『それをしたら、どうなるの?』
『運がよくなる』
『それってどんな家でも? 一軒家じゃなくても、狭くても?』
『うん。どんな家でもだと思う』黄美子さんは笑った。『ほかには、玄関と水まわりはきれいにするとか。あと黄色だね。西に黄色を置くと、金運があがる』」
黄色と金がここで結びつく。
「黄美子さん」は明るい人だった。「花」は、「自分のことを暗くて陰気臭い性格だと思っていたけれど」、「黄美子さん」といると、次から次へとお喋りが尽きず、自分が別の自分になったような気がした。
夏の夕方、近所の神社に夜店が出ていた。「黄美子さん」に促されて、出かけることにした。
「昼間の熱がほんのりと残っている夕暮れから、だんだん夜が降りてくる時間の中で、いろいろなものが小さく、強く、輝いていた。水のなかでちろちろとゆれる金魚たちのにじむような赤色とりどりに発光しているスーパーボール、儚い思い出みたいな綿菓子のふくらみに、射的の銃声と湧きあがる歓声。そこらじゅうに満ちている夏の夜の好奇心と活気が、わたしの胸を高鳴らせた。」
こういうところを描くと、川上未映子は、本当に巧いとしか言いようがない。しかし、川上さんが、このような描写をするのは、全編を通してこの一箇所だけだ。
「わたしも彼女たちも似たような家庭環境ではあったけれど、わたしは彼女たちのように不良にもなれず、かといって塾に通って勉強をしたり、家族でそろってご飯を食べたりどこかへ行ったりするような子たちとも当然のことながら違っていて、学校のなかでも外でもみんなからそれとなく疎まれ、そしてどことなく憐れまれるような、そんな存在だった。」
つまり周りと切れている孤独者で、それは母親とさえも切れており、また周辺の人だけではなく、親戚・縁者の輪からも、大きな時間の流れからも孤立している。
そういう人間は、現実には存在しない。川上未映子は、そういう架空の存在を、一つの典型として設定したのだ。
なぜそんな人間を設定したのか。
今の日本を見れば、個人が努力することによって道が開けてくるのは、ごく少数、ほとんど稀有な少数にとどまる。
個人が努力するのは、じつは努力できる環境にあるからで、親や、そのまた親の代で、環境はほぼ決まってしまう。努力できるから努力する、しかしその努力は偽物ではないのか。とくに豊かさを享受する場合に、それはまがい物ではないのか。
こうして、その反対側の極で、一つの典型が成り立つ。
個人に属する、諸々の属性を取り去ったとき、この時代に、人はどういうふうに生きていけるか、あるいはいけないか、それを実験してみせる。そういうことではないか。
主人公は、「黄美子さん」と出会って、その世界は不思議な広がりを見せる。
「『黄美子さんは、〔中略〕なにか信じてることってある?』
『うーん』黄美子さんは言った。『風水はちょっとかな』
『風水ってなに?』
『北とか南とか、方向には色があって、それに合わせるといいってやつ。南には緑色、北には白だったかな』」
一見、他愛のない話である。しかし自分の周りで、すべてが切れたところでは、なにかが「背骨」として必要なのだ。
「『それをしたら、どうなるの?』
『運がよくなる』
『それってどんな家でも? 一軒家じゃなくても、狭くても?』
『うん。どんな家でもだと思う』黄美子さんは笑った。『ほかには、玄関と水まわりはきれいにするとか。あと黄色だね。西に黄色を置くと、金運があがる』」
黄色と金がここで結びつく。
「黄美子さん」は明るい人だった。「花」は、「自分のことを暗くて陰気臭い性格だと思っていたけれど」、「黄美子さん」といると、次から次へとお喋りが尽きず、自分が別の自分になったような気がした。
夏の夕方、近所の神社に夜店が出ていた。「黄美子さん」に促されて、出かけることにした。
「昼間の熱がほんのりと残っている夕暮れから、だんだん夜が降りてくる時間の中で、いろいろなものが小さく、強く、輝いていた。水のなかでちろちろとゆれる金魚たちのにじむような赤色とりどりに発光しているスーパーボール、儚い思い出みたいな綿菓子のふくらみに、射的の銃声と湧きあがる歓声。そこらじゅうに満ちている夏の夜の好奇心と活気が、わたしの胸を高鳴らせた。」
こういうところを描くと、川上未映子は、本当に巧いとしか言いようがない。しかし、川上さんが、このような描写をするのは、全編を通してこの一箇所だけだ。
新しい代表作――『黄色い家』(川上未映子)(1)
川上未映子のこの作品は2度読んだ。最初は出てすぐに読み、それから、しばらくあけて読んだ。1回目は、誤解しつつ読んでいたのだ。
オビの惹句が、誤解のもとだった。
「人はなぜ、/金に狂い、/罪を犯すのか」
というのが大きな文字で、続いて小さな字で、
「孤独な少女の闘いを/圧倒的スピード感と/緻密な筆であぶり出す/ノンストップ・ノワール小説!」
ここを読んで、どういうものか、黒川博行のような小説を、思い浮かべてしまった。川上さんは関西弁が使えるし。
ほかにも小さく、「世界中から/翻訳オファー/殺到!」という文句もあったりして、「ノンストップ・ノワール小説!」が、頭に残ってしまった。
そういうことで、編集者が売りたいのはよくわかるが、そしてクライマックスを描写すれば、そういうことになるのは分かるが、でもそれは、小説の半ばを過ぎたあたりだ。
前半はそういうことで、いつ「ノンストップ・ノワール」が始まるのかと、じりじりして読んだ。
2度目に読んだときは、全体が分かっているので、最初から隅々まで味わって読んだ。そして、実に面白かった。
僕が読む前に、田中晶子が読んで、今年のベストワンだと言っていた。まだ2月のうちである。しかし、そう言いたくなる気持ちは分かる。
2度読んだ僕も言いたい、これはたぶん年度代表本だ、と。
主人公は「伊藤花」。その女性の中学生から、20歳までくらいの話だ。
「伊藤花」は、片親で貧しく、この世の中にはっきりした足がかりを持っていない。
川上未映子は、そういうものとして、現代の主人公を設定している。すべてが八方ふさがりで、何とか生きていくために、同じように足場を築けない年上の人と関わらせるとどうなるか。
恐ろしいのは、この女性の境遇、振る舞いが、この時代においては、一つの典型と見えることだ。
まず境遇。
「わたしと母が住んでいたのは、東村山市のはずれの小さな町の、表通りからは姿の見えない、古くて小さな文化住宅だった。
道路に面した戸建てと戸建てのあいだに、三メートル幅ほどの整備のされていない通路があり、そこを奥に進んで左に折れると共同玄関がある。清風荘、と書かれた文字はかろうじて読めるくらいに古びて黒ずんでおり、それはまるで不吉な洞穴を思わせるような入口で、ワット数の低い電球が数個ぶらさがっているだけの廊下は、どんなによく晴れた昼間でも暗かった。」
僕が大学から会社に入ったころに住んでいたのは、清和荘という名で、「清風荘」ほどうらぶれてはいないけれど、まあ似たようなところだった。その頃、つまり50年前には、そんなところは一杯あった。
ただ若いときはそうでも、定期的に住人は替わっていった。年老いてそこに住みつく場合には、そういう地域は、おおむね限定されていた。
しかしいま、川上未映子が書く「清風荘」は、底辺の1つの典型となっている。
そこでは、ホステス稼業の母親は、家にいたり、男ができて家に帰ってこなかったりする。「伊藤花」は、そういうものとして、母親を受けとめている。
そして中学最後の15歳の夏休み、母親が長く不在の時、それと入れ替わるように、「黄美子さん」がやって来たのだ。
「顔は見えなかったし、母親のパジャマを着てはいたけれど、こちらに背をむけてぐうぐうと寝息をたてて眠りこんでいる女の人が母親ではないことは、すぐにわかった。
わたしは肘で上半身を支えたまま少しだけ後ずさったけれど、すぐになんでもないことだと思い直して、寝に戻った。近所のスナックで働いていた母親が、店の女の子や友達をこんなふうに連れてきて泊まらせたりすることが、それまでにも何度かあったからだった。」
別な人と寝ている、という異常な事態も、川上未映子の筆にかかれば、すんなり納得される。こうして話は転がりだす。
オビの惹句が、誤解のもとだった。
「人はなぜ、/金に狂い、/罪を犯すのか」
というのが大きな文字で、続いて小さな字で、
「孤独な少女の闘いを/圧倒的スピード感と/緻密な筆であぶり出す/ノンストップ・ノワール小説!」
ここを読んで、どういうものか、黒川博行のような小説を、思い浮かべてしまった。川上さんは関西弁が使えるし。
ほかにも小さく、「世界中から/翻訳オファー/殺到!」という文句もあったりして、「ノンストップ・ノワール小説!」が、頭に残ってしまった。
そういうことで、編集者が売りたいのはよくわかるが、そしてクライマックスを描写すれば、そういうことになるのは分かるが、でもそれは、小説の半ばを過ぎたあたりだ。
前半はそういうことで、いつ「ノンストップ・ノワール」が始まるのかと、じりじりして読んだ。
2度目に読んだときは、全体が分かっているので、最初から隅々まで味わって読んだ。そして、実に面白かった。
僕が読む前に、田中晶子が読んで、今年のベストワンだと言っていた。まだ2月のうちである。しかし、そう言いたくなる気持ちは分かる。
2度読んだ僕も言いたい、これはたぶん年度代表本だ、と。
主人公は「伊藤花」。その女性の中学生から、20歳までくらいの話だ。
「伊藤花」は、片親で貧しく、この世の中にはっきりした足がかりを持っていない。
川上未映子は、そういうものとして、現代の主人公を設定している。すべてが八方ふさがりで、何とか生きていくために、同じように足場を築けない年上の人と関わらせるとどうなるか。
恐ろしいのは、この女性の境遇、振る舞いが、この時代においては、一つの典型と見えることだ。
まず境遇。
「わたしと母が住んでいたのは、東村山市のはずれの小さな町の、表通りからは姿の見えない、古くて小さな文化住宅だった。
道路に面した戸建てと戸建てのあいだに、三メートル幅ほどの整備のされていない通路があり、そこを奥に進んで左に折れると共同玄関がある。清風荘、と書かれた文字はかろうじて読めるくらいに古びて黒ずんでおり、それはまるで不吉な洞穴を思わせるような入口で、ワット数の低い電球が数個ぶらさがっているだけの廊下は、どんなによく晴れた昼間でも暗かった。」
僕が大学から会社に入ったころに住んでいたのは、清和荘という名で、「清風荘」ほどうらぶれてはいないけれど、まあ似たようなところだった。その頃、つまり50年前には、そんなところは一杯あった。
ただ若いときはそうでも、定期的に住人は替わっていった。年老いてそこに住みつく場合には、そういう地域は、おおむね限定されていた。
しかしいま、川上未映子が書く「清風荘」は、底辺の1つの典型となっている。
そこでは、ホステス稼業の母親は、家にいたり、男ができて家に帰ってこなかったりする。「伊藤花」は、そういうものとして、母親を受けとめている。
そして中学最後の15歳の夏休み、母親が長く不在の時、それと入れ替わるように、「黄美子さん」がやって来たのだ。
「顔は見えなかったし、母親のパジャマを着てはいたけれど、こちらに背をむけてぐうぐうと寝息をたてて眠りこんでいる女の人が母親ではないことは、すぐにわかった。
わたしは肘で上半身を支えたまま少しだけ後ずさったけれど、すぐになんでもないことだと思い直して、寝に戻った。近所のスナックで働いていた母親が、店の女の子や友達をこんなふうに連れてきて泊まらせたりすることが、それまでにも何度かあったからだった。」
別な人と寝ている、という異常な事態も、川上未映子の筆にかかれば、すんなり納得される。こうして話は転がりだす。