「私芸術」を見よ!――『尼人〔あまじん〕』(松田修)(2)

この本の前半は、松田修の、芸術とは関係のない、私生活の話である。

「かんなみ新地」で、ロシア人の娼婦を相手に、初体験をした話。
 
刺青を彫りに、高校の仲間と行ったのだが、あんまり痛くて、蜘蛛の入れ墨が中途半端に終わったこと(これは今も、どうしようもなくダサくて、妻に「アメンボ」の入れ墨と馬鹿にされる)。
 
その高校は、遊びが過ぎて、出るのに4年かかった。

また警察に2度捕まったが、「おかん」が、弁護人の依頼やら面会やら、走り回ってくれたおかげで、少年院へは行かずに、鑑別所送りになったこと、など。
 
それぞれ面白いけれど、いったい東京藝大で芸術をやる話は、どこへ行ってしまったのさ。

いささかうんざりしつつ、そう思っていると、後半になって、やっとその話が出てくる。

そうしてその「芸術」の話は、前半の松田修のハチャメチャな生活と、しっかりリンクしているのだ。
 
はじめに、松田修の「芸術上のマニフェスト」を上げる。

「僕は芸術が、その時代その時代にある現実を、残す役割を担っていると考えている。100年後、1000年後の人に、美しく楽しい現実だけではなくて、そのときそのときにあった、ある意味どぎつい現実も、残さなくてはいけないと思っている。」
 
松田が、この本の前半を使って、延々「尼」について書いてきたことが、この段階でなんとなくわかる。
 
ここから、もう少し踏み込んだところまで行く。

「僕が残したいのは、どぎつい現実でふざけまくる、『尼人の現実』だったりするのだ。マジメに見つめすぎると狂うか死ぬかの現実で、ふざける隙を見つけるのが僕の芸術だ。たくさんの人に賛同を得られなくとも、誰かひとりの救いになれば、その現実、その芸術は残ると、僕は信じている。」
 
ここまでくると、何のことやらわからなくなるので、本に即して具体的に見ていこう。
 
松田修は高校を、1年ダブって卒業したのち、東京へ出てきた。そのころ住んでいたのは、東高円寺の10畳くらいのワンルームで、男ばかり5,6人がたむろしていた。
 
松田は消費者金融頼みの生活をしたのち、いろんなバイトを転々とし、最後はトラック運転手の仕事に落ち着く。
 
そのころ、たむろしている男の1人が、こんなことをしていては人間が駄目になる。俺は美容師になると言って、鉄の意志で努力を始めた。

すると驚いたことに、それは他の男たちに伝染して、「おれ、法律家になるわ」「おれ、沖縄行って農家やるわ」といった具合、ついに夢や希望がなければ人間じゃない、という空気になってきた。
 
松田修は、とりあえず自分は、映画監督になると宣言した。すると映画監督になるなら、美術が分からなければダメだ、という人がいて、それではというので、美術の予備校に通うことにした。
 
そうして予備校に通って1ヵ月経つころには、周りに影響されて、俺は画家になる、と宗旨替えをした。

「それから何年もこの予備校に通い、何回も受験し、失敗するたびに、辞めると伝えた運送会社に戻って金を貯める生活が待っているのだが、当時始めたばかりの僕には想像できなかったことだ。とにかく流され流され、僕はこうして『うっかり』芸術の入り口の入り口にたどり着いたのだった。
 これが、尼崎の出屋敷駅周辺の出身者のなかで、『現代アート』『現代美術』などの言葉を史上初めて口から出したとされる、オゥサム・マトゥーダ(1979~)の始まりだ。」
 
本人は茶化して書いているが、なぜ美術の方に吸い寄せられたかは、たぶん本人にも分からないだろう。
 
半年間トラックの運転手をやり、あとの半年で、予備校へ行って美術の勉強をする。
 
しかしそれでも、トラックの運転手をやっているときにも、デッサン画やクロッキーは、毎日制作した。美術が天職だった、と言わざるを得ない。
 
こうして何年も浪人したのち、東京藝術大学に合格するのは、23歳のときだった。

「私芸術」を見よ!――『尼人〔あまじん〕』(松田修)(1)

東京新聞の夕刊に、1ページを使ってインタビューが載っていた。松田修という知らない芸術家で、その人が本を書いたのだ。
 
それを田中晶子が買ってきて、読み終わったので、僕も読んだ。田中晶子の感想は、本は面白いけれども、作品そのものはあまり食指が動かない、というものだった。
 
そうすると俄然、興味が湧いてくるじゃないですか。

『尼人』は、兵庫県の尼崎出身者の意。本の半分は尼崎、通称「尼」がどんなところかを、これでもかこれでもか、というくらい書きつける。
 
僕は中学・高校を、兵庫の加古川で過ごした。しかし尼崎は、ほとんど知らない。

評判の著しく悪いところと知るだけで、そんなところには、近付きたくないし、また中学・高校を過ごしたといえば、真面目な学生には、そんなところに立ち寄る暇はない。
 
松田修の家は、父親がまったく働かない人で、母親つまり「おかん」が、スナック「太平洋」を経営して、なんとか回したのだ。
 
スナック「太平洋」は、「想像を超えてくるクソオンボロスナックだ。僕が知る限りでは、お客さんもオジイだらけのオンボロで、スナックというより場末の老人ホームだった。〔中略〕まあとにかく、『太平洋の売り』は、自らキャラづけしたという『マイク・タイソン似のブス』ことおかんのしゃべりのみだった。」
 
またこんなこともあった。
 
松田修が小学生のとき、スナックのドアを開けると、「おかん」が、知らない「オッチャン」と、キスしていたことがある。
 
著者はどうしていいか分からず、悪罵を投げつける以外に、手がなかった。

「何しとんじゃクソババァ! 誰やねんそのオッサン! キタねんじゃ帰れクソ!」

「おかん」はそのとき30歳そこそこ、まだ十分若い。子供の態度が気にさわったのか、あるいはちょっとバツが悪かったのか。

「イキがんなボケェ! おかあさん今体張って金をかせいどんじゃカスゥ! 文句あんなら今着てるもん全部脱いで出てけアホォ!」
 
そういう家庭環境である。
 
ほかにも、超貧困時代には、家族で薄切りハムを分け合って、食べたこともある。
 
コロナ禍で、スナック「太平洋」が無くなったとき、松田修は、「おかん」と自分が知る尼崎を、「芸術作品」として世に残したいと、強く思った。
 
そこでまず、「おかん」にインタビューして、ビデオ撮影を試みた。場所はスナック「太平洋」の跡地だった。

「おかん」はさすが関西人、カメラに臆することなく、ぺらぺらぺらと非常によくしゃべる。

「青線と呼ばれる『かんなみ新地』近くで育ったこと。母(僕にとっては祖母)や友達も水商売をやっていて、自然にホステスになったこと。働かないことが自慢の、最初の夫(僕の父)が大変だったこと。娘が欲しかったのに、三人産んで全員息子だったこと。離婚の事。〔中略〕スナック太平洋のこと。三人産んで将来孤独になるとは思いもしなかったこと。長男が東京で詐欺師、次男が統合失調症、三男のことはシャレにならんからしゃべりたくないってこと。」
 
長男の松田修は、浪人を繰り返したのち、東京藝大を出て、今は芸術作品を作っている。これはつまり、「東京芸大」も「芸術作品」も、尼崎の「かんなみ新地」界隈の語彙にはないわけだから、そういうものを売って生活している長男は、ずばり詐欺師としか思えない。「おかん」は、後の男2人についても、あまりしゃべりたくないようである。
 
このビデオは、いろんな加工を施して、芸術作品《奴隷の椅子》となった。そしてこれは、コレクターが買ってくれた。

『仁義なき戦い』とどう違うのか?――『映画の奈落 完結編―北陸代理戦争事件―』(伊藤彰彦)(3)

『仁義なき戦い』は、最終的には5部作で完結している。第3部の『代理戦争』、第4部の『頂上作戦』を最後に、笠原和夫は下りてしまい、第5部は高田宏治が脚本を書いた。監督の深作欣二と主演の菅原文太は、そのままである。
 
高田宏治はこういうふうに考えた。

「笠原さんの脚本〔ホン〕はいつもみごとに話が並列的に進む。大きな流れそのものを主役にしているところがある。ぼくは一人の個人を主役にして、上昇志向と意地があり、ど根性を見せる奴を徹底して共感をもって書こうと思った。」
 
だから菅原文太は背景に退き、若い北大路欣也が主役を演じている。
 
その第5部『完結篇』は、しかし批評はさんざんだった、と著者は記す。
 
けれども批評とは裏腹に、『仁義なき戦い 完結篇』は、1974年6月29日に公開されると、前4作を超える大ヒットで、4週間のロングランになる。

「封切日の深夜、新宿東映では『「仁義なき戦い」完結記念オールナイト』が開かれた。しかし入場できない観客の列が映画館を十重二十重に取り巻き、そのうち館内に『入場させろ!』というシュプレヒコールが湧きおこり、急遽映画館との間で団交が開かれ、映画館側が機動隊に出動を要請する事態にまでなった。また、舞台挨拶には菅原文太や金子信雄が登場し、彼らがひと言話すたびに館内は揺れ、どよめき、拍手の嵐が起こった」(斯波司・青山栄『やくざ映画とその時代』から引用)。
 
僕はこの映画を、封切りでは見ていないが、新宿東映の「完結記念オールナイト」の夜の喧騒は想像がつく。本当に行ってみたかったな。
 
高田宏治は、笠原和夫の4部作より客が入り、留飲を下げた。
 
しかし彼は、時が経つにつれ、疑心暗鬼になって行く。

「『自分の手柄やない……客が拍手喝采したのは深作さんと笠原さんが造形した四部作の残影や』としだいに苦々しさがこみ上げてくる。
『笠原さんがやってない、自分にできることは一体何なんだ……』」
 
そこで、高田宏冶は『北陸代理戦争』を書く。

この映画は、大手新聞各紙は黙殺したが、『日刊ゲンダイ』だけは褒めた。このところ落ち目の東映実録ものとしては、「マイナスのカードをすべて手中に集めることで、一挙にプラスに転化した」というのだ。
 
そして最後に、こんなことが書いてあった。

「その〔豪雪という〕風土の申し子のような野川由美子と高橋洋子の姉妹が、まさに気質の激しい女ぶりを見せて、錦上花をそえるのだ。最近の東映にしては珍しくも、〈女〉を描き切ってみごとなのだ」(政)。

(政)の署名は松田政男。

『北陸代理戦争』から、のちに高田宏治が脚本を書く『極道の妻〔おんな〕たち』までは、一本の筋が引かれている。

『極道の妻たち』は、岩下志麻・主演の映画のシリーズが終わっても、高田の脚本で、Vシネマで撮られ続けた。高田宏治は全盛期、年収は8000万を数えた。
 
しかし僕には、『極道の妻たち』はまったくつまらなかった。こんなもので、現代の女性の、何が描けているというのか。

いや、『仁義なき戦い』の前の、鶴田浩二や高倉健の任侠ものもつまらなかった。つまらないというよりは、1,2本見ただけで、以後関心の持ちようがなかった。

『仁義なき戦い』4部作だけが、面白かったのだ。それも『代理戦争』と『頂上作戦』が、特に面白かった。

「この二作は、第一作の〝野良犬たち〟が権謀術数に長けた大幹部に成長、腹のさぐり合い、電話でのかけ引きをしているうち、かつての自分たちのような若者らが跳ね上がり犬死する諧謔的な群像劇で、笠原和夫の緻密な構成と広島弁が冴えわたった。」
 
この映画のことを思い浮かべると必ず、声を潜めた電話と、人目を憚るヒソヒソ話の場面が浮かんでくる。そしてちょこまかと忙しく動くが、何のために働いているかが分からないチンピラたち。
 
僕は筑摩書房で働いているとき、これではまるで、『仁義なき戦い』のチンピラのようだと、しばしば思った。次の会社では、平社員たちを束ねる東京事務所所長、つまり『代理戦争』『頂上作戦』の「大幹部」のようだと思った。
 
もちろん書籍を編集して出すということは、いずれの場合もはっきりしており、それは立派な目的であった。しかしその過程が、特に数字の面で、姑息なことの多い「仁義なき戦い」に、よく似ていたのである。

「『キネマ旬報』では七三年、七四年ベスト・テンに第一作、第三作〔『代理戦争』〕、第四作〔『頂上作戦』〕の三本が選ばれ、七三年には読者選出日本映画監督賞が深作欣二に、脚本賞が笠原和夫に、男優賞が菅原文太にあたえられる。」
 
東映のやくざ映画が、こんなふうに称揚されたことは、なかったはずだ。

戦後のやくざを克明にたどってみれば、それは戦後史の隠れた部分、あるいは正史の陰画であったはずである。それを徹底してカリカチュアライズしたものが、『仁義なき戦い』だった。
 
僕は、トランスビューを作って社長になるまで、どこか虚しく滑稽に『仁義なき戦い』を演じているつもりから、抜けられなかった。

(『映画の奈落 完結編―北陸代理戦争事件―』伊藤彰彦、
 講談社+α文庫、2016年4月20日初刷)

『仁義なき戦い』とどう違うのか?――『映画の奈落 完結編―北陸代理戦争事件―』(伊藤彰彦)(2)

伊藤彰彦の取材に対し、高田宏治が、脚本を書くときの姿勢について、語っている。

「奈落に落ちる覚悟でつくらなければ、観客はついて来えへん、見物がのぞきたがるような奈落に突き進み、それをすくいとって見せなければ映画は当たらへん、奈落の淵に足をかけた映画だけが現実社会の常識や道義を吹っ飛ばすんや。〔中略〕時代の流れを作る、力のある映画は、そのタイトロープを渡らないと生まれない……」
 
ここから、「映画の奈落」というタイトルが生まれた。
 
しかし先走って言っておくと、高田宏治は、時代を作った『仁義なき戦い』の脚本を書いた笠原和夫に挑むかたちで、『北陸代理戦争』を書いたのだが、それは失敗だった。

「高田宏治は『奈落に堕ちる覚悟で』脚本を書いた。しかし、それは『見物がのぞきたがるような奈落』にならず、興行的に惨敗し、『奈落の淵に足をかけた』やくざの足下の薄氷を割った……」
 
興行的に惨敗だったこの映画は、身内にはどんなふうに評価されているのだろうか。
 
高田宏治が深作欣二と会ったとき、当たらなくて残念だというと、深作は、俺たちはぎりぎりまでやって、素晴らしい作品を残した、それをうまく宣伝し、当たるところまで持っていけなかったのは、会社が悪い、と言った。

この深作の姿勢は見事だ。
 
著者の伊藤彰彦は、もちろんこの映画を高く評価している。
 
僕はどう見たか。

このころ僕は筑摩書房にいて、春先は1週間、高校の国語教科書の応援で、他の部署でも出張があった。僕は北陸三県、石川・富山・福井が担当であった。筑摩の国語教科書を使って下さいと言って、各高校の国語の先生を訪問するのである。
 
富山に行ったときのことである。その日は奮発して、夜は寿司を食った。そこそこうまい割には、高くない。前年の先輩に聞いて、そういう情報は抜かりなかった。
 
その店で、やくざと知り合いになった。普通なら絶対に仲良くしないのだが、出張の旅先ということで、羽を伸ばしたかったのだろう。ちなみにやくざと知り合いになったのは、あとにも先にも、その一回限りである。
 
寿司屋のあと、スナックを二軒か三軒回った。カラオケも散々唄った。
 
そのやくざは、出身は神戸だと言い、いまも山口組の末端の組にいるといった。それで一時期、加古川にいた僕と、話が合ったのだ。北陸侵攻作戦のとき富山に来て、そのまま居ついた。「神戸も魚はうまいけど、富山はもっとうまい」と、にこにこして言った。

そのとき『北陸代理戦争』を見たか、と聞かれたのだ。僕は見ていないといった。

お互い、すっかり酔っぱらって、別れ際に「俺は富山のトラで通ってる」と言ったので、「今日はごちそうさま、今度は僕がおごるからね。さよなら、トラさん」と言って別れた。

もちろんそれ以来、会うことはなかった。
 
それからだいぶたって、ビデオになった『北陸代理戦争』を見た。深作監督らしくスピーディーで、ぐんぐん迫ってくる感じはあったが、まあ面白いけれど、それだけだった。

これが最初は、菅原文太主演で、『新仁義なき戦い』の一本として撮られる予定だとは、考えもしなかった。画面の色調が、やたら暗くて、文太が出て来ても、はまるところはないように思えた。

『仁義なき戦い』とどう違うのか?――『映画の奈落 完結編―北陸代理戦争事件―』(伊藤彰彦)(1)

講談社+α文庫は面白い。最初に、清武英利の『しんがり―山一證券 最後の12人―』をこの文庫で読み、その巻末の目録を見ていると、養老さんの推薦していた『ワイルド・スワン』(上・下)がある。で、読むと大変面白い。
 
さらに目録を見ると、なんと『映画の奈落 完結編―北陸代理戦争事件―』が出ているではないか。著者の伊藤彰彦については、まったく知らない。
 
僕は、深作欣二監督・笠原和夫脚本・菅原文太主演の『仁義なき戦い』(四部作)を、戦後、もっともすぐれた映画だと思っている。
 
1973年1月から74年1月にかけて、全四部作が公開されると、そのあと延々と二番館、三番館、名画座で、繰り返し懸けられ、大学から20代にかけては、繰り返しこれを見た。
 
わずか1年間に公開された『仁義なき戦い』四作品が、それから何年にもわたって、延々見続けられたのは、この映画が、やくざ映画を超えて、不思議な魅力があったからだ。
 
そのことが『映画の奈落 完結編』を読むと、逆によくわかる。

『映画の奈落』は、国書刊行会から出たときも、気になっていたのだが、『北陸代理戦争』は、菅原文太が出てなくて、深作欣二は監督だが、脚本は笠原和夫ではない。

国書刊行会の本は恐ろしく高い。それで迷ったあげく、やめた記憶がある。それが講談社+α文庫で読めるのである。
 
まずはカバー裏の惹句から。

「公開直後、主人公のモデルとなった組長が映画と同じシチュエーションで殺害された、実録やくざ映画の極北『北陸代理戦争』(深作欣二監督、高田宏治脚本、1977年東映京都作品)をめぐる男たちの、壮絶な生きざまの数々を浮き彫りにした迫真のドキュメント! 完結編として大幅に増補、『北陸代理戦争』の主演・松方弘樹氏のインタビューを収録。」
 
つまりこの映画は、現実と映画が交差、連動した結果、進行中のやくざの抗争に影響を与え、モデルになった組長が射殺された。そういう事件を起こしたという意味では、稀有な映画と言えよう。
 
この本の軸になるのは、一つは巨大組織、山口組が、北陸に攻め上がってくるのを、地元のやくざが食い止める話であり、もう一つは、高田宏治が、『仁義なき戦い』の笠原和夫に、脚本で挑んだことである。
 
そもそもこの映画は、『仁義なき戦い』のあと、『新仁義なき戦い』のシリーズの一本として、構想された。
 
脚本の笠原和夫は、『仁義なき戦い』(四部作)の後はやっていないから、この映画は、深作欣二監督・高田宏治脚本・菅原文太主演で進行するはずだった。
 
ところが菅原文太が、体の不調で、どうしても降りたいという。これは表向きの理由で、やくざ映画はもううんざりだ、という文太の主張があったという。

主演はそこで、松方弘樹に回る。この段階で『新仁義なき戦い』というタイトルは、菅原文太が出ていない以上、使えない。
 
それでも東映の「実録やくざ路線」は、変わらなかった。この路線で、変わらず客は入るだろう、と東映は考えていたのだ。
 
僕はこの本を読んで、『仁義なき戦い』(四部作)が、なぜそれほどまでに、観客の心をとらえたのかが、分かったような気がする。少なくとも、「実録やくざ路線」という、東映が考えた「内容」は、僕や観客にしてみたら、「形式」にほかならなかったのである。

中国は難しい――『ワイルド・スワン』(上・下)(ユン・チアン)(4)

『ワイルド・スワン』は面白いから、飛ぶように読めるが、読み終わってみれば、実に多くのことを考えさせる。
 
たとえば周恩来という人物。彼は毛沢東に協力して、文化大革命を進めたのだ、しかし、とユン・チアンは言う。

「周恩来は、毛沢東の忠実な下僕だったのだ。しかし周恩来がそういう立場を選んだのは、たとえば内戦のような、文化大革命よりもっと重大な破局を避けるためだったのだろう。毛沢東と正面切って対決しようとすれば、ほんとうに内戦にいたる危険性があった。周恩来が中国という国の機能をまがりなりにも維持していたことが毛沢東の手による浩劫〔ハオチエ〕(大厄災)を可能ならしめたという側面はあるが、一方で、周恩来がいたからこそ中国は完全に崩壊せずにすんだとも言える。」
 
なんとも微妙で、複雑な書き方だ。私などには、批評のしようがない。

というか、ここを正確に読み取って、評価できる人は少ないのではないか。おそらく周恩来という人物については、今も評価は、定まってはいないのだろう。
 
1976年、毛沢東が死んだ。そこでユン・チアンは、「毛沢東の思想と政策」を総括する。

「毛沢東は、人間のもっとも醜い本性を引き出して大きく育てた。そうやって、倫理も正義もない憎悪だけの社会を作り上げた。」
 
まったくの全否定である。ほとんどヒトラーと、変わるところがない。

「毛沢東主義のもうひとつの特徴は、無知の礼賛だ。毛沢東は、中国社会の大勢を占める無学の民にとって一握りの知識階級が格好のえじきになることを、ちゃんと計算していた。毛沢東は正規の学校教育を憎み、教育を受けた人間を憎んでいた。」
 
これは乱世の英雄が、平時には身の置きどころがなくなって、優秀な官僚を憎み、民衆の憎悪を焚き付けて、煽り立てたものだ。
 
しかも毛沢東のときには、終わりのない「階級闘争」があり、先が見えなくなっていた。
 
これは世界中に広がり、日本でも、最後は連合赤軍の内輪の殺し合いで終わった。
 
毛沢東については、またこういうこともある。

「〔毛沢東は〕建築、美術、音楽など自分に理解できない分野には、まるっきり価値を認めなかった。そして結局、中国の文化遺産をほとんど破壊してしまった。毛沢東は残忍な社会を作りあげただけでなく、輝かしい過去の文化遺産まで否定し破壊して、醜いだけの中国を残していったのである。」
 
以上がユン・チアンの、「毛沢東の政策と思想」の総括である。
 
これがどれほどの説特性を持つか、私には分からない。天安門の広場には、今も毛沢東の巨大な肖像画が掛かっている。ユン・チアンの、憤怒と苦い反省にもかかわらず、中国では今も、毛沢東は建国の父である。
 
中国はしかし大きく変わった。1978年末に中国共産党は、毛沢東の「階級闘争」を正式に廃棄した。
 
1980年には初めて、私営企業の設立が認められた。海外とのコミュニケーションも、当たり前にできるようになった。中国国内で投函された手紙は、1週間でロンドンに届く、とユン・チアンは言う。

「世界じゅうどこからでも、成都の家にいる母にダイヤル直通で電話がつながる。テレビをつければ、政府の宣伝と並んで、外国の通信社が配信したニュースが(多少篩〔ふるい〕にかけられてはいるものの)毎日見られる。東欧やソ連で起こった動乱や革命を含めて、いまでは世界の主要なニュースが中国国内に報道されるようになった。」
 
素晴らしいことだ。しかし問題は、「多少篩にかけられてはいるものの」、という箇所である。これは篩の質は違うが、日本でも同じことが起きている。
 
1989年、ユン・チアンはこの本を書くために、いろんなところを訪ね歩いた。そうして驚いたことは、成都から北京の天安門広場まで、どこへ行っても反政府デモに出会ったことだ。

「何百万という群衆がほとんど身の危険を感じるようすもなくデモに参加するのを見て、中国の社会からここまで恐怖が忘れさられたのかと、衝撃さえ受けた。」
 
これはつい先日も起こったことだ。コロナを封じ込めるために、中国政府が強権を発動して、家からほとんど出られなくしたのに対し、各地の都市で大規模なデモが起こり、政府は意見を、180度変えざるを得なかった。
 
これには本当に驚いた。日本では、デモによって政府が意見を変えることは、ないからだ。
 
中国は戦後だけでも、劇的に変わっている。私はそういうことが、なかなかイメージできなかった。
 
しかしそれでもなお、ユン・チアンの『ワイルド・スワン』は、中国国内では禁書である。こういうことを、どう考えればいいのか。私は読み終わって、考え込んでしまう。

(『ワイルド・スワン』(上・下)ユン・チアン、土屋京子・訳、
 講談社+α文庫、共に2017年11月20日初刷)

中国は難しい――『ワイルド・スワン』(上・下)(ユン・チアン)(3)

実際、「文化大革命」では、中国共産党のために地下活動員として働いた人々が、何十万人も、「裏切者のスパイ」呼ばわりされた。その結果、自己批判し、殴る蹴るの暴行を受け、拷問にかけられたりした。

「のちの公式統計によれば、四川省に隣接する雲南省では一万四千人以上の死者が出ている。北京がある河北省では、八万四千人が拷問され、数千人が死亡した。」
 
私が大学に入った年は、まだ中国は「文化大革命」真っ盛りだった。ベトナム戦争を継続するアメリカも、一国社会主義のために大粛清を行なったソ連も、真っ平ごめんで、中国だけは、若者が信頼できる国だった。
 
中国では「粛清」という名の処刑をせずに、本人が自己批判すれば、農村へ「下放」し、肉体労働を通じて「思想改造」をし、社会主義国家の建設に努力する。そういう国であると、私たち学生は認識していた。

これは学生だけでなく、中国の専門家と称する人たちも、というか、そういう人たちが、中国はそういう国である、と真面目に語っていた。
 
ユン・チアンはあるとき、中国の旧友を訪ねた西欧人の手記を読んだ。

「大学の教授をしている中国人の旧友は、批闘大会で批判されるのは良いことだ、僻地に下放されるのもよい経験だ、思想改造の機会が与えられるのはまことにありがたい限りだ、と明るい笑顔で語ったという。中国の人々は西欧人が苦痛と思うような体験をよろこんで受けいれている、毛沢東はまさに中国の人民を『新しい人間』につくりかえたのである」。
 
ユン・チアンはこれを読んで、あきれてものが言えなかった。中国人の教授にではない、それをそのまま、能天気に書き記す西欧人に、である。

「不平不満がひとことも出ないときこそ抑圧がいちばんひどいのだということが、どうしてこの外国人にはわからないのだろう? 犠牲者が笑顔を作っているときこそまさに抑圧が頂点に達しているのだということが、どうしてわからないのか。」
 
これはたぶん無理である。そういう偽りの顔をした経験がなければ、無理である。
 
ユン・チアンも、あとになって気づいている。

「そのころの私は、体制の目をおそれて芝居をするという身の処し方がそもそも西欧人の概念にはないこと、したがって中国人の本音が西欧人にはなかなか読みとれないのだということを、知らなかった。」
 
これは西欧人はもちろん、中国に肩入れしていた日本人も、ころっと騙されたに違いない。
 
ユン・チアンは、初めは呆れ、そのうちにハッと気づく。

「海外各紙の掲載記事を集めた『参考消息』という新聞の一面には、ほとんど一日おきに毛沢東や文化大革命を称賛する外国の記事が転載された。はじめのうちは腹が立ったが、そのうちに、中国の外にはこんなにも寛容な社会があるのだと気づいた。体制とは異なる意見が許される社会、ときにはとんでもない意見でさえ許される社会。これこそ、私が望んでいる社会だった。」
 
ユン・チアンは、実現すべき社会を、かなり正確に見据えている。
 
しかし同時に、西側の世界では、毛沢東と文化大革命を、礼賛する記事ばかりというのが、本当に考えさせられる。
 
そういう中で、1967年の初めに、川端康成、三島由紀夫、石川淳、安倍公房の4人が、「学問・芸術の自由」のために文化大革命を批判する、という声明を出した。
 
この4人は、文学者という以外、まったく重なることのない人たちである。それがこういう声明を出したのだ。

これはもちろん、新聞をはじめジャーナリズムの世界で、徹底的にたたかれた(と思う)。私たち学生も、やはり文学者は、現実の社会情勢には疎いな、という見方しかできなかった。
 
同じく67年には、ジャン=リュック・ゴダールの『中国女』が制作・公開された。文化大革命が、フランスの青年に影響を与えたことを、描いた映画である。もちろん毛沢東を称揚している。

中国は難しい――『ワイルド・スワン』(上・下)(ユン・チアン)(2)

とはいえ、毛沢東と紅衛兵の関係については、よく分からないところが多い。

実際に残虐な行為を働いたのは、「紅衛兵のごく一部にすぎない」と、ユン・チアンは言う。

「紅衛兵は末端まで統制のとれた組織ではなく、すべての支部が残虐な行為への参加を強要したわけではなかった。事実、毛沢東本人は紅衛兵に人を殺せとは一度も命じていない。〔中略〕紅衛兵の残虐なふるまいを、すべて毛沢東のせいにすることはできない。
 とはいえ、毛沢東が老獪なやり方で暴力をあおった事実は否定しがたい。」
 
毛沢東が中心にいたことは間違いない。しかし、それだけを原因にすることは、できないという。
 
しかもここに挙げたのは、ユン・チアン個人の見方である。6億人以上といわれる国で、どこまで正確なことが言えるのか。途方に暮れざるを得ない。
 
しかし社会全体が、狂っていたことも事実だ。
 
著者の住む成都〔チョンツー〕では、交通がガタガタになった。

「『赤』信号が『止まれ』を意味するという規則は反革命的で到底受けいれがたい、ということになったのである。『赤』は『進め』でなくてはならない。しかも、『右側』通行というのもおかしい。というわけで、私たち紅衛兵は町へくりだして警官を押しのけ、交通整理に当たった。私も四つ辻に立って、自転車に左側を通行するよう呼びかけた。」
 
お笑いコントのようなことが、起こっていたのだ。

これが人に向かうときは、恐ろしい。

「人民の大半が、多かれ少なかれこの狂気に加担した。だれかに脅迫されて、あるいは大勢順応でいくのが利口だと計算して、あるいは毛沢東への忠誠心から、さらには私怨を晴らすために、さもなければ欲求不満のはけ口として。理由はさまざまだった。」
 
ここは立ち止まって、もう少し考えたい。その結果は、最後のところで述べる。
 
著者の母は、「成都東城区のリーダー」の1人だというだけで、徹底的に批判された。あるときは、割れたガラスの上にひざまずかされ、祖母が毛抜きと針で、母の膝から、ガラスのかけらを抜き取った。
 
冬の雨の日には、母たちは1時間半も、ひざまずいた姿勢でいた。演壇の上で母たちは、濡れた衣服を真冬の風が吹きつけ、骨まで凍りつきそうだった。母は、体が二つ折りになるほど無理な格好で、体中の震えに耐えていた。
 
そのうちに、腰と首の痛みが耐え難くなり、頭を少しだけ上げようとした。その瞬間、後頭部を殴られて、床に打ち倒された。聴衆はやんやの喝采だった。
 
またこういうときもあった。

「母は幾度か、白い円錐形の紙帽子をかぶせられ、首に重いプラカードをぶら下げた格好で、町を行進させられた。プラカードには『夏徳鴻〔シャ・トーホン〕』という母の名前の上に、辱めと死をあらわす大きなバツ印がひいてあった。二、三歩進むたびに、晒しものにされている母たち役人は道にひざまずき、見物している群衆に向かって叩頭〔こうとう〕させられた。〔中略〕もっとちゃんと叩頭しろ!と叫ぶ見物人もいた。そうすると、母たちはもういちど石の舗道に額を強く打ちつけて、大きな音をたてなくてはならなかった。」
 
ユン・チアンの母は、しかし耐えた。このような艱難刻苦は一生の間、ひっきりなしに襲ってきたからだ。
 
しかしもちろん、耐えきれなくて、自殺していった人も大勢いる。
 
父は共産党の序列からいうと、母よりもだいぶ上だった。だから暴行の度合いも、熾烈だった。

「父は宣伝部に着くなり小さな部屋につれこまれて、見たことのない五、六人の大男から殴る蹴るの暴行を受けた。男たちは下半身、とくに性器を痛めつけた。鼻と口からむりやり水を飲ませ、腹を上からどかどか踏みつけた。水と血と糞便が体内から押し出され、父は気を失った。」
 
毛沢東は、それまで自分でも尽力してきたはずの中国共産党を解体し、毛沢東だけを支持する国家体制に、作り替えたかったのだ。
 
ユン・チアンは、そういう言葉は使っていないが、これは毛沢東を個人崇拝する、新しい「王朝」といってよいと思う。

中国は難しい――『ワイルド・スワン』(上・下)(ユン・チアン)(1)

ユン・チアンのこれも、養老孟司さんの書評集、『本が虫』に取り上げてある。

「これは面白い。読み出したら、やめられない」と、冒頭に書いてあるのに、肝心のその本を手にするまでに、ちょうど30年かかっている。これには、私の方に理由がある。
 
書評を、もう少し読んでみる。

「強く印象づけられることがある。文化大革命が、なぜああなったのか、ということである。六億とも十億ともいわれる人たちが、なぜああなるのか。」
 
それで私は、読む気がしなくなったのだ。

「大躍進の時期には、ほとんど正気では考えられないことが起こる。大きなブタが育ったといい、それをトラックに載せてくるが、じつはそれがハリボテだったという。そんなことは当時の狂気のほんの一例に過ぎない。そうした『希望的観測』によって、農民がいわば仕事を放棄し、大飢饉が起こる。」
 
大飢饉から文化大革命に至る筋道は、毛沢東が描いた。何百万人も死者が出た、その元凶は、毛沢東の個人崇拝にある。
 
そういうことが、あらかじめ分かっているのに、この本を読む気はしない。
 
しかし養老さんの、「これは面白い。読み出したら、やめられない」、という言葉を信じて、今回は読んでみることにする。
 
なお「ワイルド・スワン」とは、著者の名前の「鴻」(おおとり)から取ったもので、「野生の白鳥」の意。素晴らしいタイトルである。
 
上下2巻、清朝末期から1970年代末までの、女三代にわたる、1000ページを超える大河ノンフィクションを読み終わると、さすがに呆然となる。

祖母、母、著者の、どの一人を取り上げても、普通の日本人の、十人分の一生が詰まっている。
 
この本が世界で800万部以上売れ、日本では1997年末の時点で、230万部が読まれたというのも、なるほどと納得される。
 
女三代とは言うものの、20世紀全般を貫く中国の激変ぶりは、あまりにも凄まじい。

祖母と母の歴史は、見てきたことのように描いてあるが、これはもちろん、母の語ったことを中心に、それを史料を用い、肉付けしたものだろう。
 
中国のような巨大な国になると、当事者が、起こったことをそのまま書いたって、そういう場合もあると、一例として片付けられてしまうだろう。
 
そしてそれは、読む方が常にバランスをとって読むためには、必須のものなのだ。
 
だから祖母と母の歴史は、それが、伝聞が主体であることを含めて、そういうものとして読んだ方がよい。
 
ということを前提にして、しかしとにかく凄まじく面白い。物語は微に入り細を穿って、ユン・チアンが天性の物語作家であることを、十二分に読者に教えてくれる。
 
物語の後半は、作者が実地に体験したことである。ここでも、それは6億分の1の体験だろう、というかもしれないけど、とにかく体験したことではある。そしてこれが、まことに凄まじい。

「当時、中国は毛沢東の暴政下にあり、作家の大多数が次々に政治迫害を受け、塗炭の苦しみを舐めていたのです。多くの作家が批判の対象にされました。強制収容所へ送られた作家や自殺に追いこまれた作家もいました。一九六六年から七七年にかけて、『文化大革命』という偽りの名で呼ばれた大粛清の中で、一般家庭にあった書物はほとんどが焼き捨てられました。」(「二〇〇七年新版によせて」)
 
当時、日本では「文化大革命」が、どういうふうに受け取られていたか。いま思い返しても、それは信じられないくらいだ。
 
そして今でも、毛沢東の「文化大革命」は、優れた革命思想であったと、本気で信じている人が、いくらもいるだろう。

新しい出発点――『街とその不確かな壁』(村上春樹)(3)

「私」と「彼女」は、コーヒーショップが閉店した後、ガルシア=マルケスについて話をする。話題になっているのは、『コレラの時代の愛』だ。

「彼女」は、好きなところを朗読する。そして、マルケスの物語の中では、現実と非現実、生きているものと死んだものが、当たり前のように、ひとつに入り混じっている、と言う。
 
それに対し「私」は、そういうのを「マジック・リアリズムというんだ」と言うと、「彼女」はこう答える。

「そうね。でも思うんだけど、そういう物語のあり方は批評的な基準では、マジック・リアリズムみたいになるかもしれないけれど、ガルシア=マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいた世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていただけじゃないのかな。」
 
ここは村上春樹の、あえて言えば楽屋裏のネタばらしともいえる。いや、そういう言い方は良くないな。ここは、「マルケスさん」と同じく、自分の書くものが、世界文学に連なるものだと言っている。
 
ちなみに「彼女」と「私」は、親密でいい感じになるのだが、そのまま進んでも、寝ることはしない。「彼女」の方に、体の不具合があって、そうはならないのだ。しかし親密なつきあいは、どちらも、それを願っている。

このあたり、村上春樹は、時代の変化、男女の位相の変転に、じつに敏感だと思う。確かに、20年前、30年前に比べて、男と女は、同衾しづらくなっているのだ。
 
もう一つ、「図書館」の問題がある。本当に『村上春樹と超個性的な図書館』(仮)というのが、あってもいいくらいだ。
 
この作品では、司書の「添田さん」が、館長の「子易さん」に代わって、熱弁をふるう。

「子易さんが私費を投じてこの図書館を設立されたのは、まず第一に、自分が理想として思い描く図書館を所有し、運営することが、昔からのひそかな夢だったからです。居心地の良い特別な場所をこしらへ、数多くの本を集め、たくさんの人々に自由に手に取って読んでもらうこと、それが子易さんにとっての理想の小世界でした。いや、小宇宙と言うべきなのでしょうか。」
 
これは「子易さん」に名を借りて、村上春樹の思いを語ったものだと思う。

そうしてこれは当然、「早稲田大学国際文学館」、通称「村上春樹ライブラリー」を、すぐに思い浮かばせる。
 
村上さんはとうとう、時空を超える「木のトンネル」を貫通させ、実際の「超個性的な図書館」を、作ってしまったのだ。
 
第三部は、「不確かな壁に囲まれた街」の話だ。それ以外の「こちらの世界」の話はない。

そこで「私」は、かつて「影」と、別れ別れになったのだ。「影」は「こちらの世界」に来る一方、「影」を持たない「私」は、「壁に囲まれた街」に残ったのだ。
 
第三部で驚くべきは、よくよく考えたあげく、「私」がもう一度、「影」と一緒になろうとしていることだ。それは、ただ、そう望めばよいという。

「夢読み」の仕事を、「私」から引き継ごうという少年は、静かに告げる。

「この部屋のこの短いロウソクが消える前にそう心に望み、そのまま一息で炎を吹き消せばいいのです。力強いひと吹きで。そうすれば次の瞬間、あなたはもう外の世界に移っています。〔中略〕そしてあなたの分身が、そのあなたの勇気ある落下を、外の世界でしっかり受け止めてくれることを、心の底から信じればいいのです」。
 
こうして「私」は、ふたたび「影」と一緒になることだろう。
 
村上さんは、第一部を書いて、これでこの仕事は完了した、と思ったのだが、どうも「喉に刺さった魚の小骨のよう」(「あとがき」)で、第二部、第三部を書かなければ、落ち着きが悪いと思ったのだ。
 
第一部だけで終わっていたならば、村上春樹は、そこまでだったろう。

「勇気ある落下」を経て、「影」と一緒になることで、「真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある」(「あとがき」)ということを、示すことができたのではないか。
 
それは、まだ見ぬ、次に描かれる物語の神髄を、保障するものではないか。
 
なお『街とその不確かな壁』は、それ自体が、入り組んだ何本かの物語を含んでいるが、今回そのことには触れられなかった。これについては、また別の機会に書きたい。

(『街とその不確かな壁』村上春樹、新潮社、2023年4月10日初刷)