声楽家Pは、左方向の視野に欠陥があった。彼は、自宅を出てから、サックスの診察室に来るまでに、右側にある建物は覚えていたのだが、左側の建物はまったく覚えていなかった。
そして、この左方向の欠如は、全体の記憶力や、想像力にまで及んでいたのである。
もう一つは、夫人の話によれば、服を着替えるときや、風呂に入るときなどは、必ず歌をうたいながらするのだという。
「もし途中でなにか邪魔がはいって中断させられ、糸を見失ってしまうと、〔動作は〕完全に止まってしまうんです。着るものがどれだかわからなくなってしまう。自分のからださえわからなくなってしまうんです。年がら年じゅううたっています。食べるときも歌、着るときも歌、お風呂にはいっていても歌。すべて歌です。うたいながらでなければ、なにもできません。」
ちなみにこの奥さんは、Pのことを深く愛している。
こういうPのことを、どういうふうに考えればいいだろうか。重要なのは「音」である。
「思うに彼の場合は、音楽が心象〔イメージ〕のかわりを果たしていたのだ。自分のからださえ眼では認知できない、だが音楽によってはちゃんとわかっていた。だからこそ、あのようにすいすいとからだが動いたのだ。だが、いったん『内なる音楽』が止まってしまうと、彼はどうしていいかわからず、行動がパタリと止まってしまうのだった。外部世界にたいしたときもおなじだった。」
どんなときでも歌をうたい、そばに深く愛してくれる妻がいれば、幸せな人生を送ることができるのだ。そういうことである。
例によってサックスは、深く突き詰めて考えを述べる。だから僕が紹介したのは、ごく表面的な粗筋である。
こういう調子で、20数本の症例を、紹介するわけにはいかない、残念だが。それではいっそ、本を朗読した方がよいということになる。
しかし次の例だけは紹介したい。パーキンソン病の話である。
マグレガー氏は93歳だったが、どう見ても70過ぎには見えなかった。この人はパーキンソン病で、体が横に倒れそうになりながら、サックスの診察室に入ってきた。
しかし本人には、自分の体がピサの斜塔のようだ、という自覚はない。
サックスは、彼の体をビデオに撮って、再生する。マグレガー氏は、画面に出てくる自分の姿を見て、ひどいショックを受けた。自分では、傾いてる感じはしないのだという。
問題はそこにあるのだ。人間は五感を持っているが、じつはそれ以外にもう一つ、ある感覚を持っている。
「五感と同じように重要であるにもかかわらず、まだよくわからないために、そのすばらしさが十分認められていない感覚、六番目の感覚が存在する。無意識のうちに自動的に発揮されるこの六番目の感覚は、当然いつかは発見されるべきものであった。」
しかし、これが発見されるのは、たいへん遅かった。
これは、「関節や腱の受容体から伝えられる、体幹と手足との相対的位置の認識のこと」で、これが「固有感覚」と名づけられたのは、1890年代になってかららしい。
空間で体をまっすぐに起こして、バランスを保つ、複雑なメカニズムや制御が明らかにされたのは、20世紀になってからのことである。
僕はそんなことは、全然知らなかった。周りの人で、第六感ともいうべきそれを、知っている人はいないんじゃないかなあ。
しかし、まだそれも、全容が解明されたわけではない。
「身体の位置関係を知るのに役だっている内耳、前庭、その他のめだたない受容体や反射機構のありがたさがわかるのは、宇宙時代になって、無重力のきまぐれに悩まされるようになってからだろう。なぜなら、普通の状態にある健康な人間にとっては、そのような受容体や反射機構は意識されないものだからである。」
僕が毎週1回通っているデイサービスには、パーキンソン病の人が2人いる。TさんとⅯさんの男性ふたりで、Tさんはまったく落ち着きがない。
Ⅿさんは、立っていても坐っていても、自然に体が前に倒れてくる。ほとんど倒れそうだ、というきわどいところで、均衡を保っている。そして2人とも、まっすぐ立って歩けない。
僕はたまに、TさんやⅯさんに話しかけられる。でも会話らしい会話は、したことがない。
なんとか会話ができれば、とは思うけど、2人とも、小刻みに手足を震わせているし、発音がはっきりしなくて、早口がどうかも分からないのだ。
僕は曖昧に笑うか、たいていの場合は2人を無視する。そのときⅯさんは、少し寂しそうな顔をする。Tさんは大抵むっとする。それでも2人とも、たまに僕に、話しかけるのをやめない。
僕はこの本を読んだとき、マグレガー氏と対等に話すサックスを、診察しているのだから当たり前だけと、なぜかエライものだと思ったのだった。
(『妻を帽子とまちがえた男』オリヴァー・サックス、
高見幸郎・金沢泰子・訳、早川書房、2009年7月15日初刷)
これもまた脳の冒険か――『妻を帽子とまちがえた男』(オリヴァー・サックス)(1)
『火星の人類学者』が面白かったので、オリヴァー・サックスと言えばこれ、というのを読むことにする。
この本については、因縁というほどではないが、ちょっとした引っ掛かりがある。
僕の持っている早川文庫には、もとの晶文社の単行本が、1992年1月に出たとある。このころ僕は法蔵館にいて、東京事務所の所長をしていた。
1993年7月に、布施英利さんの『死体を探せ!―バーチャル・リアリティ時代の死体―』が出て、大変な評判になった。都内の書店を回っていても、書店の人と話が弾み、注文もどこでも驚くほど取れる。こういうときの書店回りは、たいへん楽しい。
そのとき書店の店頭で、『死体を探せ!』と並んで突出していたのが、『妻を帽子とまちがえた男』である。1年以上前に出ていたので、かなりのロングセラーだ。
晶文社の営業担当者と、書店でよく出くわした。営業の人も、書店員も、『つまぼう(妻帽)』と略して呼んでいる。
部数で言うと全然かなわないのだが、それでも負けるものかと、シャカリキになった。だから、『つまぼう』は面白そうだな、とは思ったが、意地でも読まなかった。今思えば、ただのバカとしか言いようがない。
文庫本のカバー裏の惹句。
「妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人――脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。」
要約すればこの通りだが、本文を読み進めていくと、サックスの文章は、内容に難しいところがあり、専門家と素人読者の境を縫うようで、いろいろと考えさせる。
最初は、タイトルに取られた、男の話である。
Pは声楽家として知られ、音楽学校の教師にもなった。初めてサックスの面接に来たとき、
「彼は私のほうを見ながら話をする。彼の顔はたしかにこちらを向いている。だが問題はそこなのだ。〔中略〕注意をはらっているのは耳であって、眼ではない。彼の眼は、私を注視していない。ふつう相手を見るときのような眼つきではないのだ。その視線は、つぎつぎと移って、私の鼻に向けられたり、右の耳へいったり、顎へおりたり、右の眼にいったりする。私の顔の各部分をじっと見つめるけれど、顔を全体として把握することはしていないし、表情をくみとろうとする様子もなかった。」
こういうのは何だろう。
「彼は下を見つづけていたが、靴を見ていなかった。熱心に見つめているけれど、ちがうところを見ていた。そのうちにやっと、視線が足に定まった。『あれが私の足かな、そうでしょうか?』
私の聞きちがいだろうか? 彼は言いわけしながら、足を手でさわって言った。『これ、私の靴ですよね、ちがいますか?』
『ちがいます、それは足です。靴はあっちです』
『あっそう、あれは足だと思ってた』」
サックスも、さすがに呆然とした。彼はふざけているのか、頭が変なのか、眼が見えないのか。
Pは、面接テストが終了したと思ったのか、帽子を探し始めていた。
「彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。」
これは一度読んだら忘れない、強烈な症例だ。『つまぼう』と呼んで、ベストセラーになるのも分かる。
この本については、因縁というほどではないが、ちょっとした引っ掛かりがある。
僕の持っている早川文庫には、もとの晶文社の単行本が、1992年1月に出たとある。このころ僕は法蔵館にいて、東京事務所の所長をしていた。
1993年7月に、布施英利さんの『死体を探せ!―バーチャル・リアリティ時代の死体―』が出て、大変な評判になった。都内の書店を回っていても、書店の人と話が弾み、注文もどこでも驚くほど取れる。こういうときの書店回りは、たいへん楽しい。
そのとき書店の店頭で、『死体を探せ!』と並んで突出していたのが、『妻を帽子とまちがえた男』である。1年以上前に出ていたので、かなりのロングセラーだ。
晶文社の営業担当者と、書店でよく出くわした。営業の人も、書店員も、『つまぼう(妻帽)』と略して呼んでいる。
部数で言うと全然かなわないのだが、それでも負けるものかと、シャカリキになった。だから、『つまぼう』は面白そうだな、とは思ったが、意地でも読まなかった。今思えば、ただのバカとしか言いようがない。
文庫本のカバー裏の惹句。
「妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人――脳神経科医のサックス博士が出会った奇妙でふしぎな症状を抱える患者たちは、その障害にもかかわらず、人間として精いっぱいに生きていく。そんな患者たちの豊かな世界を愛情こめて描きあげた、24篇の驚きと感動の医学エッセイの傑作、待望の文庫化。」
要約すればこの通りだが、本文を読み進めていくと、サックスの文章は、内容に難しいところがあり、専門家と素人読者の境を縫うようで、いろいろと考えさせる。
最初は、タイトルに取られた、男の話である。
Pは声楽家として知られ、音楽学校の教師にもなった。初めてサックスの面接に来たとき、
「彼は私のほうを見ながら話をする。彼の顔はたしかにこちらを向いている。だが問題はそこなのだ。〔中略〕注意をはらっているのは耳であって、眼ではない。彼の眼は、私を注視していない。ふつう相手を見るときのような眼つきではないのだ。その視線は、つぎつぎと移って、私の鼻に向けられたり、右の耳へいったり、顎へおりたり、右の眼にいったりする。私の顔の各部分をじっと見つめるけれど、顔を全体として把握することはしていないし、表情をくみとろうとする様子もなかった。」
こういうのは何だろう。
「彼は下を見つづけていたが、靴を見ていなかった。熱心に見つめているけれど、ちがうところを見ていた。そのうちにやっと、視線が足に定まった。『あれが私の足かな、そうでしょうか?』
私の聞きちがいだろうか? 彼は言いわけしながら、足を手でさわって言った。『これ、私の靴ですよね、ちがいますか?』
『ちがいます、それは足です。靴はあっちです』
『あっそう、あれは足だと思ってた』」
サックスも、さすがに呆然とした。彼はふざけているのか、頭が変なのか、眼が見えないのか。
Pは、面接テストが終了したと思ったのか、帽子を探し始めていた。
「彼は手をのばし、彼の妻の頭をつかまえ、持ちあげてかぶろうとした。妻を帽子とまちがえていたのだ! 妻のほうでも、こんなことには慣れっこになっている、というふうだった。」
これは一度読んだら忘れない、強烈な症例だ。『つまぼう』と呼んで、ベストセラーになるのも分かる。
脳出血の僕にぴったりだった――『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』(オリヴァー・サックス)(3)
他の症例も、どれも奇抜、奇天烈である。
2人目の青年は、脳腫瘍のために視覚と記憶を失って、1960年代の世界に閉じ込められている。この青年がロックバンド、グレイトフル・デッドの大ファンであることを知ったサックスは、マディソン・スクウェア・ガーデンのコンサートに連れていく。
青年は、みるみる元気になって歌い、感動に震えながら、サックスに、「すごかったね、今日のことは決して忘れないよ。人生で最高の日だった」と言う。
しかし翌朝、コンサートのことを尋ねると、「いや、マディソン・スクウェア・ガーデンには行ったことがないよ」、と答えるのだった。
3人目は、トゥレット症候群の外科医の話。突然、飛び跳ねたり、衝動的にあちこち触ったり、奇矯な言葉を口走ったりする、この外科医は、パニックや激しい怒りの発作と、戦っている。
しかしトゥレット症候群は、手術中は姿を消してしまう。だからこの外科医は、患者たちからも、同僚の医師からも、かわらず愛されている。
サックスが、この外科医の操縦で、自家用飛行機に乗るところは、半分は手に汗握り、半分はひたすら可笑しい。
4人目は、妻の勧めで手術を受け、視力を取り戻した男のこと。これも、見えるようになってよかったねとは、全然ならない。
彼は、「見えている世界」に戸惑い続け、再び視力を失うことで、ようやく安定を取り戻す。これは、にわかには信じられないことだ。
見えない世界で生きてきた人が、突然見えるという「異常な世界」に放り込まれたとき、何が起こるか。それはまさしく、悲劇というほかはない。
僕は、7つの事例の中で、この症例にもっとも驚いた。目が見えるようになったとき、その目が、かつてない苦痛を呼び、悲劇のもとになるとは。これではおちおち、目の手術もしていられない。
その次は、驚異的な記憶力で、アメリカから遠く離れた故郷、イタリアの小さな村を描き続ける、「記憶の画家」の話。画家のフランコは夜も昼も、故郷のポンティット村の幻を見続ける。それがフランコの、存在意義そのものになっている。
しかし何十年ぶりかで、故郷を訪れたフランコにとって、そこは昔の村ではなかった。彼はアイデンティティを失い、すっかり混乱してしまう。彼の驚異的な記憶力によるポンティット村は、文字通り幻だったのだ。
とれも実に面白いが、サックスの叙述は、さらりとしたエッセーではない。それは専門家と非専門家(つまり僕だ)の境を歩くようで、かなり読みごたえがある。
これを、小金井リハビリ病院にいるときの、僕に読ませようとしても、まったく無理だったと思う。
さてそれでは、今の僕はどうか。
現在の僕は、オリヴァー・サックスの科学エッセーは読める。その結果を、こうしてブログに書いている。半身不随ではあるが、精神的な面では、まずまず普通の生活をしている、と表面上は見える。
しかしそうではない。パソコンのキーボードがあるから、漢字仮名交じりで文章は書けるが、ペンを取って自筆で書くと、漢字はかなりうろ覚えなのである。
僕は右手が不自由で、利き手ではない左手で字を書くことは、人から促されて署名はするが、それ以外はほとんどない。だから、人目につかないだけだ。
もう一つ、数字の暗算、というか数字そのものが、ダメである。脳出血になる前は、数字にはめちゃくちゃ強かった。本を作る仕事をしていたので、原価計算、売上、粗利の計算などは、瞬時に答えが出せた。
脳出血から後は、2つの数字を合わせるだけで、答えは怪しいものになる。そういえば、自分の家の番地や、ケータイの番号も、ときどき不明になる。
少し前までは、名前が出てこなかった。テレビドラマの話を、妻としていて、よく主役の人の名前が出てこなかった。
女医の話の、えーと、とか、真田丸の、えーと、という具合である。米倉涼子や堺雅人の名が出てこなければ、けっこう深刻だと思うが、その時はたいして心配はしていなかった。他にもそういう人はワンサといたので、心配していたらきりがなかったのだ。
サックスの症例は、劇的で深刻だが、そのぶん逆転すると、素晴らしい才能になる。
僕の場合は、それに比べればかわいいものだ、だからこういうのを読んで、自分も大丈夫だと自信を持ってほしい、編集者のOさんは、そこを伝えたかったに違いない。
その気遣いは、9年遅れになったけれども、たしかに受け取りましたよ、Oさん。
(『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』オリヴァー・サックス、
吉田利子・訳、早川書房、2001年4月15日初刷、2014年4月15日第6刷)
2人目の青年は、脳腫瘍のために視覚と記憶を失って、1960年代の世界に閉じ込められている。この青年がロックバンド、グレイトフル・デッドの大ファンであることを知ったサックスは、マディソン・スクウェア・ガーデンのコンサートに連れていく。
青年は、みるみる元気になって歌い、感動に震えながら、サックスに、「すごかったね、今日のことは決して忘れないよ。人生で最高の日だった」と言う。
しかし翌朝、コンサートのことを尋ねると、「いや、マディソン・スクウェア・ガーデンには行ったことがないよ」、と答えるのだった。
3人目は、トゥレット症候群の外科医の話。突然、飛び跳ねたり、衝動的にあちこち触ったり、奇矯な言葉を口走ったりする、この外科医は、パニックや激しい怒りの発作と、戦っている。
しかしトゥレット症候群は、手術中は姿を消してしまう。だからこの外科医は、患者たちからも、同僚の医師からも、かわらず愛されている。
サックスが、この外科医の操縦で、自家用飛行機に乗るところは、半分は手に汗握り、半分はひたすら可笑しい。
4人目は、妻の勧めで手術を受け、視力を取り戻した男のこと。これも、見えるようになってよかったねとは、全然ならない。
彼は、「見えている世界」に戸惑い続け、再び視力を失うことで、ようやく安定を取り戻す。これは、にわかには信じられないことだ。
見えない世界で生きてきた人が、突然見えるという「異常な世界」に放り込まれたとき、何が起こるか。それはまさしく、悲劇というほかはない。
僕は、7つの事例の中で、この症例にもっとも驚いた。目が見えるようになったとき、その目が、かつてない苦痛を呼び、悲劇のもとになるとは。これではおちおち、目の手術もしていられない。
その次は、驚異的な記憶力で、アメリカから遠く離れた故郷、イタリアの小さな村を描き続ける、「記憶の画家」の話。画家のフランコは夜も昼も、故郷のポンティット村の幻を見続ける。それがフランコの、存在意義そのものになっている。
しかし何十年ぶりかで、故郷を訪れたフランコにとって、そこは昔の村ではなかった。彼はアイデンティティを失い、すっかり混乱してしまう。彼の驚異的な記憶力によるポンティット村は、文字通り幻だったのだ。
とれも実に面白いが、サックスの叙述は、さらりとしたエッセーではない。それは専門家と非専門家(つまり僕だ)の境を歩くようで、かなり読みごたえがある。
これを、小金井リハビリ病院にいるときの、僕に読ませようとしても、まったく無理だったと思う。
さてそれでは、今の僕はどうか。
現在の僕は、オリヴァー・サックスの科学エッセーは読める。その結果を、こうしてブログに書いている。半身不随ではあるが、精神的な面では、まずまず普通の生活をしている、と表面上は見える。
しかしそうではない。パソコンのキーボードがあるから、漢字仮名交じりで文章は書けるが、ペンを取って自筆で書くと、漢字はかなりうろ覚えなのである。
僕は右手が不自由で、利き手ではない左手で字を書くことは、人から促されて署名はするが、それ以外はほとんどない。だから、人目につかないだけだ。
もう一つ、数字の暗算、というか数字そのものが、ダメである。脳出血になる前は、数字にはめちゃくちゃ強かった。本を作る仕事をしていたので、原価計算、売上、粗利の計算などは、瞬時に答えが出せた。
脳出血から後は、2つの数字を合わせるだけで、答えは怪しいものになる。そういえば、自分の家の番地や、ケータイの番号も、ときどき不明になる。
少し前までは、名前が出てこなかった。テレビドラマの話を、妻としていて、よく主役の人の名前が出てこなかった。
女医の話の、えーと、とか、真田丸の、えーと、という具合である。米倉涼子や堺雅人の名が出てこなければ、けっこう深刻だと思うが、その時はたいして心配はしていなかった。他にもそういう人はワンサといたので、心配していたらきりがなかったのだ。
サックスの症例は、劇的で深刻だが、そのぶん逆転すると、素晴らしい才能になる。
僕の場合は、それに比べればかわいいものだ、だからこういうのを読んで、自分も大丈夫だと自信を持ってほしい、編集者のOさんは、そこを伝えたかったに違いない。
その気遣いは、9年遅れになったけれども、たしかに受け取りましたよ、Oさん。
(『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』オリヴァー・サックス、
吉田利子・訳、早川書房、2001年4月15日初刷、2014年4月15日第6刷)
脳出血の僕にぴったりだった――『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』(オリヴァー・サックス)(2)
『火星の人類学者』というタイトルは、最後に出てくる自閉症の女性、テンプル・グランディンから取られている。
彼女は自閉症であるにもかかわらず、動物学で博士号を取得し、コロラド州立大学で教え、事業を経営している。
テンプルは、人間同士の直感的な触れ合いや、複雑な感情が理解できない。それで何年もかけて、厖大な人間行動のライブラリーを作り上げ、それを基に、人が状況に応じて、どんなふうに振る舞うかを予測している。
彼女は言う。これではまるで、火星で未知の生物を研究している学者だ、「自分は火星の人類学者のような気がする、でも相手が動物なら、心が通い合うし、そんな気はしません」、と。
自閉症の研究は、遅々として進まない。20世紀半ばくらいまでは、知的障害者や精神疾患患者とひとまとめにされ、子供のころから施設に収容されてきた。
自閉症児の特殊な能力に光が当てられ、そのための学校やキャンプが増えたのは、ここ20年あまりに過ぎない、とサックスは言う。
とはいえ、彼がいくつかの施設を訪れてみると、難しいことに変わりはなかった。
「ブランコに乗っている子供のひとりは、空中で地面と水平になるほど高く脅迫的にこぎつづけていた。小さなボールを右手から左手、左手から右手とただやりとりしているだけの子供。身体を回転させながらあたりをぐるぐるぐるぐる回っている子供。積み木を積みあげるのではなく、一直線にただ並べている子供。みんながひとりで反復行動をしていて、だれひとりほんとうに遊んでいる子供も、ほかの子と一緒に遊んでいる子供もいなかった。」
テンプル・グランディンは3歳のとき、施設に収容されそうになった。そこをどうやって切り抜け、生物学者になり、企業経営者になったのか。
テンプルはサックスを前にすると、初対面であるにもかかわらず、前置きも社交辞令もなく、いきなり仕事の話を始めた。
「最初、心理学と動物行動学に興味をもったこと、それがどんなふうに自己観察と自閉症患者としての自分自身の欲求につながったか、さらに彼女のなかの視覚的、工学的部分に結びついて、専攻分野が決まっていったかを語った。専攻分野とは農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、さまざまな種類の動物管理システムである。」
うーむ、さすがはコロラド大学助教授、これだけを読むと圧倒される。
しかしテンプルの話は、流暢なだけではなかった。サックスに口を出させぬ勢いと、「固着性」があった。固着性は、この本の中では説明がないが、激しく執着する、ということだろう。
そして1つの文章、1つの段落を始めると、何が何でも終わりまで行かねばならない、あいまいなまま終わることはできない。
テンプルは、人間は苦手だが、動物のしぐさや気持ちなら、直感的に分かったのだ。
「肉体的あるいは生理的な動物の苦痛や恐怖には共感できるが、ひとの心や見方に対する共感は欠けていると彼女は感じる。」
自閉症とは、たしかに症候群として病理現象扱いされるとしても、見方を変えれば、これは「ある全的なあり方、まったく異なった存在の様態あるいはアイデンティティとして見るべきであり、そこを意識し、誇りをもつ必要がある」。
うーん、そうはいっても、この種の人たちを、隣人として受け入れるまでは、まだ相当かかるだろう。いや、ひょっとすると、無理かもしれない、という気さえする。
テンプル・グランディンの場合は、やはり相当特殊だろう。
「彼女は(単に知的操作、あるいは推論を通してであっても)自分の人生にはなにが欠けているかをよく知っていたが、同じく(直観的に)自分の強みも知っていた。集中力、密度の高い思考、ひとつの目的へのこだわり、頑固さ、それから偽りを知らない率直さ、誠実さである。彼女はこうした強みが自閉症の短所と表裏一体の長所ではないかと考えていた。」
これはサックスも、ほぼ同感である。しかしこれは、自閉症でも、かなり特異なものではないか。
もっとも症候群としての自閉症は、個別に見ていけば、すべて個々別々の特殊な事例なのだが。
彼女は自閉症であるにもかかわらず、動物学で博士号を取得し、コロラド州立大学で教え、事業を経営している。
テンプルは、人間同士の直感的な触れ合いや、複雑な感情が理解できない。それで何年もかけて、厖大な人間行動のライブラリーを作り上げ、それを基に、人が状況に応じて、どんなふうに振る舞うかを予測している。
彼女は言う。これではまるで、火星で未知の生物を研究している学者だ、「自分は火星の人類学者のような気がする、でも相手が動物なら、心が通い合うし、そんな気はしません」、と。
自閉症の研究は、遅々として進まない。20世紀半ばくらいまでは、知的障害者や精神疾患患者とひとまとめにされ、子供のころから施設に収容されてきた。
自閉症児の特殊な能力に光が当てられ、そのための学校やキャンプが増えたのは、ここ20年あまりに過ぎない、とサックスは言う。
とはいえ、彼がいくつかの施設を訪れてみると、難しいことに変わりはなかった。
「ブランコに乗っている子供のひとりは、空中で地面と水平になるほど高く脅迫的にこぎつづけていた。小さなボールを右手から左手、左手から右手とただやりとりしているだけの子供。身体を回転させながらあたりをぐるぐるぐるぐる回っている子供。積み木を積みあげるのではなく、一直線にただ並べている子供。みんながひとりで反復行動をしていて、だれひとりほんとうに遊んでいる子供も、ほかの子と一緒に遊んでいる子供もいなかった。」
テンプル・グランディンは3歳のとき、施設に収容されそうになった。そこをどうやって切り抜け、生物学者になり、企業経営者になったのか。
テンプルはサックスを前にすると、初対面であるにもかかわらず、前置きも社交辞令もなく、いきなり仕事の話を始めた。
「最初、心理学と動物行動学に興味をもったこと、それがどんなふうに自己観察と自閉症患者としての自分自身の欲求につながったか、さらに彼女のなかの視覚的、工学的部分に結びついて、専攻分野が決まっていったかを語った。専攻分野とは農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、さまざまな種類の動物管理システムである。」
うーむ、さすがはコロラド大学助教授、これだけを読むと圧倒される。
しかしテンプルの話は、流暢なだけではなかった。サックスに口を出させぬ勢いと、「固着性」があった。固着性は、この本の中では説明がないが、激しく執着する、ということだろう。
そして1つの文章、1つの段落を始めると、何が何でも終わりまで行かねばならない、あいまいなまま終わることはできない。
テンプルは、人間は苦手だが、動物のしぐさや気持ちなら、直感的に分かったのだ。
「肉体的あるいは生理的な動物の苦痛や恐怖には共感できるが、ひとの心や見方に対する共感は欠けていると彼女は感じる。」
自閉症とは、たしかに症候群として病理現象扱いされるとしても、見方を変えれば、これは「ある全的なあり方、まったく異なった存在の様態あるいはアイデンティティとして見るべきであり、そこを意識し、誇りをもつ必要がある」。
うーん、そうはいっても、この種の人たちを、隣人として受け入れるまでは、まだ相当かかるだろう。いや、ひょっとすると、無理かもしれない、という気さえする。
テンプル・グランディンの場合は、やはり相当特殊だろう。
「彼女は(単に知的操作、あるいは推論を通してであっても)自分の人生にはなにが欠けているかをよく知っていたが、同じく(直観的に)自分の強みも知っていた。集中力、密度の高い思考、ひとつの目的へのこだわり、頑固さ、それから偽りを知らない率直さ、誠実さである。彼女はこうした強みが自閉症の短所と表裏一体の長所ではないかと考えていた。」
これはサックスも、ほぼ同感である。しかしこれは、自閉症でも、かなり特異なものではないか。
もっとも症候群としての自閉症は、個別に見ていけば、すべて個々別々の特殊な事例なのだが。
脳出血の僕にぴったりだった――『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者―』(オリヴァー・サックス)(1)
これは9年前、僕が脳出血で、小金井リハビリ病院に入院しているとき、見舞いにもらった本だ。
元小学館の編集者、Oさんが、これは脳出血の中嶋にぴったり、と思ってくれたのだが、このときの僕は、本がまったく読めなかった。
文字に書いてあることが、脳の中でうまく定着していかない。何となく意味が滲んで見える。これは字面が滲むのではなく、脳の中で意味がぶれる、ということである。
さらに、終わりまできて次のページをめくると、前のページはきれいさっぱり忘れてしまう。それは本当に、あっけにとられるほど、一瞬で忘れてしまうのだ。
そういうわけで、『火星の人類学者』は、Oさんには申し訳ないが、なんだか訳のわからない本だということで、9年も放ってあったのだ。
著者は、『レナードの朝』や『妻を帽子とまちがえた男』のオリヴァー・サックス。これは脳の奇妙な病を、巧みにルポし、論じた、脳神経科医による卓抜なエッセーである。
サックスは、これらの患者が抱える脳の病を、たんなる障害としてはみない。それはアイデンティティと想像力の源泉なのだ(つまり脳出血の中嶋を励ますのに、ぴったりの本だったのだ)。
最初の章は、車を運転していて交通事故にあった、画家のジョナサン・I氏。この人は65年間、正常な色覚を持っていたのに、事故が原因ですべてが「白黒テレビのように」見え、とつぜん「全色盲」になった。
「この急激な変化からみて、網膜の錐体に起こりうる緩慢な障害が原因とは考えられないから、もっと高度なレベル、つまり色を認識する脳の部分に異状が起こったにちがいない。」
そういうわけで、脳神経科医のところに来た。こういう脳の損傷による全色盲、つまり大脳性色盲は、めったに見られない症状なのである。
ジョナサン・I氏は「一日二十四時間、周囲三百六十度、三次元のすべてが灰色だった。〔中略〕『鉛でつくられた』世界で暮らしているようなものだ」と言った。
画家にとっては、いっそう辛いことだった。そして、それだけではなかった。
「その後、彼は『灰色』や『鉛』という言葉でもなお、うまく言い表わせないと気づいた。彼が見ているのは『灰色』とも異なる、通常の経験、通常の言語では表現し得ない知覚の世界だった。」
これは通常は、ただ恐ろしい話だ。
しかしジョナサン・I氏は画家であり、そこにかすかに、将来につながる希望があった。全色盲の回復の見込みがないことを悟ると、最初の絶望は、一種の決意に変わった。
「色のある絵が描けないなら、白と黒で描こう。白と黒の世界でできるだけ生きてみよう。」
こういう前向きな考えが出てくるについては、こんな経験があった。
「彼は車でアトリエに向かっていた。高速道路の向こうから朝日が昇るところだった。真っ赤な朝焼けはすべて黒に変わっている。『太陽はまるで爆弾のように昇ってきました。巨大な核爆発のようでした』彼はのちにそう語った。『あんな日の出を見たひとがいるでしょうか。』」
こうして日の出に触発されて、画家は仕事を再開した。
「彼は新しい世界を築き、自分自身のセンスとアイデンティティを新たにつくりあげようという気になった。」
そして1年ちょっとの実験と模索の果てに、ジョナサン・I氏は創造的再生を果たした。モノクロの絵は大好評で、全く新しい「白と黒の時代」に入ったといわれた。
ジョナサン・I氏は、色の感覚を失ったばかりでなく、色を想像することもなくなった。そうして色の世界や記憶まで、消えていくのと平行して、新しい視覚の世界が、生まれてきたのである。
この過程で脳に起こったことは、じつは全く分からない。「現段階の神経科学ではそうした大脳の『高次』の変化については何もわかっていない。」
ただ、一つの知覚システムが脳から除去されて、新しいシステムが生まれたのではないか、そういう可能性を、脳はもっているらしい。
元小学館の編集者、Oさんが、これは脳出血の中嶋にぴったり、と思ってくれたのだが、このときの僕は、本がまったく読めなかった。
文字に書いてあることが、脳の中でうまく定着していかない。何となく意味が滲んで見える。これは字面が滲むのではなく、脳の中で意味がぶれる、ということである。
さらに、終わりまできて次のページをめくると、前のページはきれいさっぱり忘れてしまう。それは本当に、あっけにとられるほど、一瞬で忘れてしまうのだ。
そういうわけで、『火星の人類学者』は、Oさんには申し訳ないが、なんだか訳のわからない本だということで、9年も放ってあったのだ。
著者は、『レナードの朝』や『妻を帽子とまちがえた男』のオリヴァー・サックス。これは脳の奇妙な病を、巧みにルポし、論じた、脳神経科医による卓抜なエッセーである。
サックスは、これらの患者が抱える脳の病を、たんなる障害としてはみない。それはアイデンティティと想像力の源泉なのだ(つまり脳出血の中嶋を励ますのに、ぴったりの本だったのだ)。
最初の章は、車を運転していて交通事故にあった、画家のジョナサン・I氏。この人は65年間、正常な色覚を持っていたのに、事故が原因ですべてが「白黒テレビのように」見え、とつぜん「全色盲」になった。
「この急激な変化からみて、網膜の錐体に起こりうる緩慢な障害が原因とは考えられないから、もっと高度なレベル、つまり色を認識する脳の部分に異状が起こったにちがいない。」
そういうわけで、脳神経科医のところに来た。こういう脳の損傷による全色盲、つまり大脳性色盲は、めったに見られない症状なのである。
ジョナサン・I氏は「一日二十四時間、周囲三百六十度、三次元のすべてが灰色だった。〔中略〕『鉛でつくられた』世界で暮らしているようなものだ」と言った。
画家にとっては、いっそう辛いことだった。そして、それだけではなかった。
「その後、彼は『灰色』や『鉛』という言葉でもなお、うまく言い表わせないと気づいた。彼が見ているのは『灰色』とも異なる、通常の経験、通常の言語では表現し得ない知覚の世界だった。」
これは通常は、ただ恐ろしい話だ。
しかしジョナサン・I氏は画家であり、そこにかすかに、将来につながる希望があった。全色盲の回復の見込みがないことを悟ると、最初の絶望は、一種の決意に変わった。
「色のある絵が描けないなら、白と黒で描こう。白と黒の世界でできるだけ生きてみよう。」
こういう前向きな考えが出てくるについては、こんな経験があった。
「彼は車でアトリエに向かっていた。高速道路の向こうから朝日が昇るところだった。真っ赤な朝焼けはすべて黒に変わっている。『太陽はまるで爆弾のように昇ってきました。巨大な核爆発のようでした』彼はのちにそう語った。『あんな日の出を見たひとがいるでしょうか。』」
こうして日の出に触発されて、画家は仕事を再開した。
「彼は新しい世界を築き、自分自身のセンスとアイデンティティを新たにつくりあげようという気になった。」
そして1年ちょっとの実験と模索の果てに、ジョナサン・I氏は創造的再生を果たした。モノクロの絵は大好評で、全く新しい「白と黒の時代」に入ったといわれた。
ジョナサン・I氏は、色の感覚を失ったばかりでなく、色を想像することもなくなった。そうして色の世界や記憶まで、消えていくのと平行して、新しい視覚の世界が、生まれてきたのである。
この過程で脳に起こったことは、じつは全く分からない。「現段階の神経科学ではそうした大脳の『高次』の変化については何もわかっていない。」
ただ、一つの知覚システムが脳から除去されて、新しいシステムが生まれたのではないか、そういう可能性を、脳はもっているらしい。
わずか25年前の話――『しんがり―山一證券 最後の12人―』(清武英利)(3)
『しんがり』は、サブタイトルに挙がった「山一證券 最後の12人」の話である。会社が消滅しても、きちんと後始末をつける、一体何がいけなかったのか、原因を、実名を挙げて、とことん追求していく、それは本当に素晴らしいことだ。
しかしその追及によって、何が変わったのか。総会屋の脅しや、裏帳簿による簿外債務は、山一の事例があって、その結果、罰則は強化されたのか。
こういうところ、つまりその後の証券業界の変貌を描いてないので、「最後の12人」のヒーローものとしてしか、読みようがない。
WOWOWの連続ドラマの原作にはいいのだろうが、株をやろうと思っている人間にとっては、まったく役に立たない。
ここからは、『しんがり』とは少し離れて、株を見ていく。
かりに総会屋の脅しや簿外債務が、今は無くなっているとして(とてもそうは思えないけど)、株を買った場合、これは、ときどきは下降線を描くとしても、総じて右肩上がりの曲線を描かなければ、買う意味がない、と考えていいのだろうか。
新NISAをやるとしても、それは投資であって、投資であるからには、時間を伴って増えていかなければ、意味はない、とふつうは考える。
そういうふうに考えるならば、私の父親とつきあいのあった、証券会社の人が言ったみたいに、例えば「官」に近い「民」の会社であれば、定期預金代わりに持っていて、安心なのだろうか。
ためしに、日本郵政や日本たばこ産業を、ネットで引くと、大体5パーセントという配当金が挙げられている。
なるほどこれは、はるか昔の定期預金の利率である。うーん、やろうかな、と思わせるに足る額だ。
しかしこれを、もっと引いてみてみると、たとえば日本全体は、1千兆円の借金をしている。あるとき、これを返せといわれたら、一体どうなるんだろう。
私には日本全体が、いったんシャット・ダウンしそうな気がする。と言って、そのシャット・ダウンが、具体的にどういうふうになるのかは、分からないのだが。
また時間軸を入れて、もっと引いてみた場合、例えば経済思想家の斎藤幸平は、『人新世の「資本論」』などで、もはや経済成長は終わった、これからは「経済は成長しない」または「成長しなくていい」、という新しいパラダイムで、生きていかねばという。
これは、斎藤幸平の本を読んでいるうちは、ふむふむと半分納得していたけれど、考えてみれば大変である。
齋藤の言っていることが正しければ、そもそも証券会社は、成り立たなくなる。常に右肩上がりの曲線は、もう放棄しようということなのだから。
そういうことが世界中で起きるためには、少数の覚醒した人たちが先頭に立てばいい、と斎藤は言うが、およそイメージが湧かない。
人は絶えず上を目指すもので、その結果、経済はたえざる発展を目指す、という考え方を、放棄しなければならないのだが、そんなことができるのだろうか。
中世のヨーロッパでは、宗教改革のカルヴァンが出てくるまでは、農民は貯蓄をしなかったというが、本当だろうか。もう一度、ホイジンガを読まなければ。
しかし逆に、敢えて言えば資本主義に毒された先進国の、今の状況は、格差社会や環境問題を見ても、どん詰まりに来ている、と見えないことはない。
株式の売り買いを中心にして、その周りに会社がある、という見慣れた構図は、もうそろそろ終わりにしていいか、とも思う。
株を買って、それを保有している資本家が、地球上で飢えに苦しむ人が大勢いるときに、大きな顔をしているのは、やっぱり正常ではないと思うから。
(『しんがり―山一證券 最後の12人―』清武英利、
講談社+α文庫、2015年8月20日初刷、10月13日第8刷)
しかしその追及によって、何が変わったのか。総会屋の脅しや、裏帳簿による簿外債務は、山一の事例があって、その結果、罰則は強化されたのか。
こういうところ、つまりその後の証券業界の変貌を描いてないので、「最後の12人」のヒーローものとしてしか、読みようがない。
WOWOWの連続ドラマの原作にはいいのだろうが、株をやろうと思っている人間にとっては、まったく役に立たない。
ここからは、『しんがり』とは少し離れて、株を見ていく。
かりに総会屋の脅しや簿外債務が、今は無くなっているとして(とてもそうは思えないけど)、株を買った場合、これは、ときどきは下降線を描くとしても、総じて右肩上がりの曲線を描かなければ、買う意味がない、と考えていいのだろうか。
新NISAをやるとしても、それは投資であって、投資であるからには、時間を伴って増えていかなければ、意味はない、とふつうは考える。
そういうふうに考えるならば、私の父親とつきあいのあった、証券会社の人が言ったみたいに、例えば「官」に近い「民」の会社であれば、定期預金代わりに持っていて、安心なのだろうか。
ためしに、日本郵政や日本たばこ産業を、ネットで引くと、大体5パーセントという配当金が挙げられている。
なるほどこれは、はるか昔の定期預金の利率である。うーん、やろうかな、と思わせるに足る額だ。
しかしこれを、もっと引いてみてみると、たとえば日本全体は、1千兆円の借金をしている。あるとき、これを返せといわれたら、一体どうなるんだろう。
私には日本全体が、いったんシャット・ダウンしそうな気がする。と言って、そのシャット・ダウンが、具体的にどういうふうになるのかは、分からないのだが。
また時間軸を入れて、もっと引いてみた場合、例えば経済思想家の斎藤幸平は、『人新世の「資本論」』などで、もはや経済成長は終わった、これからは「経済は成長しない」または「成長しなくていい」、という新しいパラダイムで、生きていかねばという。
これは、斎藤幸平の本を読んでいるうちは、ふむふむと半分納得していたけれど、考えてみれば大変である。
齋藤の言っていることが正しければ、そもそも証券会社は、成り立たなくなる。常に右肩上がりの曲線は、もう放棄しようということなのだから。
そういうことが世界中で起きるためには、少数の覚醒した人たちが先頭に立てばいい、と斎藤は言うが、およそイメージが湧かない。
人は絶えず上を目指すもので、その結果、経済はたえざる発展を目指す、という考え方を、放棄しなければならないのだが、そんなことができるのだろうか。
中世のヨーロッパでは、宗教改革のカルヴァンが出てくるまでは、農民は貯蓄をしなかったというが、本当だろうか。もう一度、ホイジンガを読まなければ。
しかし逆に、敢えて言えば資本主義に毒された先進国の、今の状況は、格差社会や環境問題を見ても、どん詰まりに来ている、と見えないことはない。
株式の売り買いを中心にして、その周りに会社がある、という見慣れた構図は、もうそろそろ終わりにしていいか、とも思う。
株を買って、それを保有している資本家が、地球上で飢えに苦しむ人が大勢いるときに、大きな顔をしているのは、やっぱり正常ではないと思うから。
(『しんがり―山一證券 最後の12人―』清武英利、
講談社+α文庫、2015年8月20日初刷、10月13日第8刷)
わずか25年前の話――『しんがり―山一證券 最後の12人―』(清武英利)(2)
国家と株式の関係どころか、「山一證券、あほか」、というほかない体たらくである。第一章を読んだところで、これは役に立たないと思ったのだけど、続けて読んでいくうちに面白くなって、そのまま読了してしまった。
1997年11月22日、日本経済新聞は朝刊で、「山一證券自主廃業へ 負債3兆円、戦後最大」とすっぱ抜いた。
どうしてそうなったかというと、一つは総会屋に対する利益供与があった。総会屋に暴れられるのが嫌で、利益を貢いでいたのである。ただしこれは山一だけでなく、野村證券以下どこもやっていたことである。
もう一つは山一證券に、約2600億円の「簿外債務」があったことである。要するに帳簿に付けていない金額、言い換えれば、裏帳簿の金額が、約2600億円あったということだ。
大蔵省証券局と東京地裁は、簿外債務のような法令違反があると、会社更生法の適用は難しい、という判断だった。
私はこの二つの原因を考えて、何というか、ただ啞然とした。これがわずか25年前の話である。
「『うちは大丈夫だ』という思い込みが強すぎると、冷静な判断ができなくなって対応が大きく遅れる。山一の首脳には危機を直視したくないという、気弱で無謀なところがあった。」
こういう気弱さや無謀は、会社で重責を負っている人間ばかりではなく、そもそも社会人として、欠陥があるのではないか。
それはそれとして、証券会社のうち、山一證券だけが、極度に劣化していたのだろうか。それはとても信じられない。
それにしても、総会屋が凄めば、すぐに損益を別のところへ付け替え、かわりに利益供与を申し出て、ご機嫌を取るとは、どういうことなのだろう。総会屋はすべからくヤクザで、そういうことをしなければ、証券会社の社員は、身に危険が及んだのだろうか。
「山一の場合も、小池〔=大物総会屋〕の脅しの窓口は本社総務部であり、社長や副社長の承認のもと、総務部と株式部、首都圏営業部が一体となって小池と儲けさせていた。」
まあ、ろくなものではない。
一方で、真面目に株を買っていた大半の人たちは、どう思ったろう。やってられないと言って、株から手を引くのが、当たり前だと思うが、そういうことはなかったらしい。
簿外債務の件は、株式を大量に買ってもらった法人には、あらかじめ利益を確定させておいた。あるいは利益を確定させるから、株を大量買いしてもらったのだ。こんなことはもちろん、やってはいけない。
「客に儲けさせる手口には、値上がりが確実な証券類を提供する方法と、儲けが確定した証券会社の売買益を提供する方法の二つがあった。前者は客が最終的に売買する時点で値下がりすることもあるが、後者はより確実に儲けさせることでよりうまみがある。」
しかし、そういうふうにはならなかった。いつまでも続く不況で、利益が出せない場合には、その株式を、別のところに「飛ばす」やり方で、しのいでいた。
別のところとは、山一の子会社で、これは「飛ばし」の相手になるだけなので、まったくのペーパー・カンパニーである。
景気のいいときもあれば、不況のときもある。好景気さえ来れば、株の簿外債務など相殺して余りある。これは旧大蔵省も、そう考えたらしい。この業界は、どうやら一蓮托生であるらしい。
しかし不況は、延々続いた。
1997年11月22日、日本経済新聞は朝刊で、「山一證券自主廃業へ 負債3兆円、戦後最大」とすっぱ抜いた。
どうしてそうなったかというと、一つは総会屋に対する利益供与があった。総会屋に暴れられるのが嫌で、利益を貢いでいたのである。ただしこれは山一だけでなく、野村證券以下どこもやっていたことである。
もう一つは山一證券に、約2600億円の「簿外債務」があったことである。要するに帳簿に付けていない金額、言い換えれば、裏帳簿の金額が、約2600億円あったということだ。
大蔵省証券局と東京地裁は、簿外債務のような法令違反があると、会社更生法の適用は難しい、という判断だった。
私はこの二つの原因を考えて、何というか、ただ啞然とした。これがわずか25年前の話である。
「『うちは大丈夫だ』という思い込みが強すぎると、冷静な判断ができなくなって対応が大きく遅れる。山一の首脳には危機を直視したくないという、気弱で無謀なところがあった。」
こういう気弱さや無謀は、会社で重責を負っている人間ばかりではなく、そもそも社会人として、欠陥があるのではないか。
それはそれとして、証券会社のうち、山一證券だけが、極度に劣化していたのだろうか。それはとても信じられない。
それにしても、総会屋が凄めば、すぐに損益を別のところへ付け替え、かわりに利益供与を申し出て、ご機嫌を取るとは、どういうことなのだろう。総会屋はすべからくヤクザで、そういうことをしなければ、証券会社の社員は、身に危険が及んだのだろうか。
「山一の場合も、小池〔=大物総会屋〕の脅しの窓口は本社総務部であり、社長や副社長の承認のもと、総務部と株式部、首都圏営業部が一体となって小池と儲けさせていた。」
まあ、ろくなものではない。
一方で、真面目に株を買っていた大半の人たちは、どう思ったろう。やってられないと言って、株から手を引くのが、当たり前だと思うが、そういうことはなかったらしい。
簿外債務の件は、株式を大量に買ってもらった法人には、あらかじめ利益を確定させておいた。あるいは利益を確定させるから、株を大量買いしてもらったのだ。こんなことはもちろん、やってはいけない。
「客に儲けさせる手口には、値上がりが確実な証券類を提供する方法と、儲けが確定した証券会社の売買益を提供する方法の二つがあった。前者は客が最終的に売買する時点で値下がりすることもあるが、後者はより確実に儲けさせることでよりうまみがある。」
しかし、そういうふうにはならなかった。いつまでも続く不況で、利益が出せない場合には、その株式を、別のところに「飛ばす」やり方で、しのいでいた。
別のところとは、山一の子会社で、これは「飛ばし」の相手になるだけなので、まったくのペーパー・カンパニーである。
景気のいいときもあれば、不況のときもある。好景気さえ来れば、株の簿外債務など相殺して余りある。これは旧大蔵省も、そう考えたらしい。この業界は、どうやら一蓮托生であるらしい。
しかし不況は、延々続いた。
わずか25年前の話――『しんがり―山一證券 最後の12人―』(清武英利)(1)
この本は、読むに至った経緯がある。
父が死んだとき、遺産として株券をもらった。とはいっても株に興味はない。おそらく父が経営の末席にあったために、自社株をもらったか、または買ったのであろう。
父の思いが分からないので、これは塩漬けにするほかない、よほど困ったときは、売ることにしよう。
そう思っていたら、父と取引のあった証券会社から、来年から新NISAが始まるから、これは絶対やった方がいい、と勧誘が来た。
年間240万までの投資は、税金がかからないし、それが最長5年間続くという。つまり合計1200万円はまでは無税、しかも配当金は、それとは別に無税なのだという。そしてそれを持っている期間は無期限、つまり一生持っていられるのだという(ほかに積立NISAもあるが、いまは話を簡略化するためにそれは外す)。
そうはいっても株式である。買ったときよりも値下がりして、配当が出ないときもあるだろう。
そう言うと、それでは国営から民営化したところはどうですか、という。日本郵政、日本たばこ……、これらは潰れることは考えなくていい、配当が全く出ないということも考えにくい、一生持っていていいんだったら、定期預金の代わりになりまっせ、しかも銀行預金の何百倍、何千倍かの利子が付く。
来年の話なので考えておく、と電話を切ったが、あとでいろいろと疑問が湧いた。
年間240万ということは、月に20万の剰余金である。ということは、よほどの金持ちでないと、この要請に十全には応えられない。
これはもともと持っている人を、さらに富ませるやり方ではないか。とくに若い人は、いったい誰のための政策なのかと憤慨し、呆れるだろう。
もう一つ、それよりも大きな問題がある。日本は現在、1千兆円を超える借金がある。日本国よりも大きなところが、借金を返せといわないので、政治家はそれをいいことに、どんどん借りまくっている。こういうのは、あたりまえだが必ず破綻する。
逆に言うと、逆説的だが、それでなければいろいろな意味で、国家がもたない。
株は現在、90年代のバブル期と同じく、高値を付けている。国全体が借金で破綻しそうなときに、この瞬間、株は高値を謳歌していていいのだろうか。というか国は株式と、どういう関係にあるんだろう。それとも関係ないのか。
もともと株の仕組みが分からないし、それと破綻しそうな借金国家とが、どういう関係にあるのかが分からない。そのことを、スパっと簡明に解いた本はないだろうか。
そう思っていろいろ探すうちに、『しんがり』を見つけたのだ。
著者は巨人軍球団代表で、今は解任された清武英利氏。この人はもともと、読売新聞の社会部記者であり、本職はジャーナリストである。
しかしマスコミに出たのは、巨人軍代表が最初であるから、もともとはジャーナリストと言われても、戸惑ってしまう。
どちらにしても、「国家と株式」を論じた本がないので、著者に興味もあった『しんがり』から入ることにした。ちなみにこの本は、講談社ノンフィクション賞を受賞している。
山一證券の破綻を描いた本から入るのは、株を始めるなら、とても良いことだ、と自分で納得させる。
そう思って読んでみたが、株を中心に、世の中の見取り図を描くところまでは、いかなかった。
それどころか、啞然とするほど、金の亡者のうごめく世界で、読んでいてつくづく、株の世界とは金輪際、関わりを持ちたくないと思った。
父が死んだとき、遺産として株券をもらった。とはいっても株に興味はない。おそらく父が経営の末席にあったために、自社株をもらったか、または買ったのであろう。
父の思いが分からないので、これは塩漬けにするほかない、よほど困ったときは、売ることにしよう。
そう思っていたら、父と取引のあった証券会社から、来年から新NISAが始まるから、これは絶対やった方がいい、と勧誘が来た。
年間240万までの投資は、税金がかからないし、それが最長5年間続くという。つまり合計1200万円はまでは無税、しかも配当金は、それとは別に無税なのだという。そしてそれを持っている期間は無期限、つまり一生持っていられるのだという(ほかに積立NISAもあるが、いまは話を簡略化するためにそれは外す)。
そうはいっても株式である。買ったときよりも値下がりして、配当が出ないときもあるだろう。
そう言うと、それでは国営から民営化したところはどうですか、という。日本郵政、日本たばこ……、これらは潰れることは考えなくていい、配当が全く出ないということも考えにくい、一生持っていていいんだったら、定期預金の代わりになりまっせ、しかも銀行預金の何百倍、何千倍かの利子が付く。
来年の話なので考えておく、と電話を切ったが、あとでいろいろと疑問が湧いた。
年間240万ということは、月に20万の剰余金である。ということは、よほどの金持ちでないと、この要請に十全には応えられない。
これはもともと持っている人を、さらに富ませるやり方ではないか。とくに若い人は、いったい誰のための政策なのかと憤慨し、呆れるだろう。
もう一つ、それよりも大きな問題がある。日本は現在、1千兆円を超える借金がある。日本国よりも大きなところが、借金を返せといわないので、政治家はそれをいいことに、どんどん借りまくっている。こういうのは、あたりまえだが必ず破綻する。
逆に言うと、逆説的だが、それでなければいろいろな意味で、国家がもたない。
株は現在、90年代のバブル期と同じく、高値を付けている。国全体が借金で破綻しそうなときに、この瞬間、株は高値を謳歌していていいのだろうか。というか国は株式と、どういう関係にあるんだろう。それとも関係ないのか。
もともと株の仕組みが分からないし、それと破綻しそうな借金国家とが、どういう関係にあるのかが分からない。そのことを、スパっと簡明に解いた本はないだろうか。
そう思っていろいろ探すうちに、『しんがり』を見つけたのだ。
著者は巨人軍球団代表で、今は解任された清武英利氏。この人はもともと、読売新聞の社会部記者であり、本職はジャーナリストである。
しかしマスコミに出たのは、巨人軍代表が最初であるから、もともとはジャーナリストと言われても、戸惑ってしまう。
どちらにしても、「国家と株式」を論じた本がないので、著者に興味もあった『しんがり』から入ることにした。ちなみにこの本は、講談社ノンフィクション賞を受賞している。
山一證券の破綻を描いた本から入るのは、株を始めるなら、とても良いことだ、と自分で納得させる。
そう思って読んでみたが、株を中心に、世の中の見取り図を描くところまでは、いかなかった。
それどころか、啞然とするほど、金の亡者のうごめく世界で、読んでいてつくづく、株の世界とは金輪際、関わりを持ちたくないと思った。
これぞ一級品――『連鎖』(黒川博行)
そういうわけで、御託を並べる必要のない、黒川博行の小説を読む。全編571ページ、大部である。そして相変わらず面白い。
しかしこれまでの、漫才の台本のように面白いのではなく(そういうところも、もちろんあるが)、面白さが深化している。
例によって主人公は大阪京橋署の刑事、磯野次郎、通称ジロさんと、上坂勤、勤(ごん)ちゃんの2人組。
勤ちゃんは、例によって映画フリークであり、また痛風であるにもかかわらず、食い物に執着する。
2人の会話は、始めはやはり漫才ふうである。
アイドルの握手会をめぐって。CDの中に入っている握手券を、10枚集めたら、1分ほど握手ができる。
「ああいうことに新たな経済的価値の創出があるんかと、俺は首をひねった」とジロさん。
「アイドルの手を握ることで、明日も働こうという活力が湧くんです」
「ファンの中には定年になったおっさんもおったぞ」
「おっさんの貯め込んだ金を回収して世の中にまわすんです」
「オレ詐欺といっしょやな」
「あのね、オレ詐欺とアイドルをいっしょくたにしたら炎上しますよ。コアなファンは怖いんやから」
しかしこういうところは、今回はページ数のわりには多くない。だから面白さの質が、これまでとは少し違う。
食品卸業の社長が失踪し、その妻が京橋署に届を出すが、社長は車の中で、青酸カリで自殺しているのが発見される。
そのまわりでは筏組(いかだぐみ)の若頭や組員、斎藤商事の顧問や番頭、華光通商の社長など、怪しいヤツがてんこ盛り。そういえば失踪届を出しにきた女房も怪しい。
そもそも社長の自殺も、偽装ではないか。ここはコロンボ顔負けのトリックを、ジロさんと勤ちゃんが見破る。
こうして、1億6500万の手形を手中に収めた、怪しい面々の化けの皮が剝がれていくのだ。
ではこういうことの、どこがおもしろいのか。
終末近くで、勤ちゃんと上役の刑事が話を交わす。
「『みんな、きれいにつながりましたね』上坂がいった。
『つながったな』仲村はうなずく。」
こういうことなのである。分かりますか。ただひたすら歩いて(というのは車に乗って)、手がかりを集め、真相に迫っていく。これは「警察捜査小説」の、王道を行くものである。
そう、「警察捜査小説」といえば、ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』が元祖、これは1952年の出版で、黒川博行の作品は、70年前のこの系譜に連なる。
しかし70年経てば、捜査も飛躍的に発展するし、それを書きつける黒川博行の文章も、関西弁を駆使して堂に入ったものだ。
ヒラリー・ウォーがもう少し長生きして、『連鎖』の英訳版を(それがあるとして)読めば、自分の蒔いた素朴な種から、驚くべき大輪の華が咲き誇っているのを見て、仰天したに違いない(しかし関西弁を、どういうふうに英訳したらよいのか)。
もっともこれは、ただ地道な「警察捜査小説」というだけではない。最後に湿地帯で死体を探すところは、大勢の警官を動員して鬼気迫る、というか、腐臭迫るものがある。
571頁の警察小説を読了して、ああこれで終わりか、もっと長ければいいのに、と正直思った。
(『連鎖』黒川博行、中央公論新社、2022年11月25日初刷)
しかしこれまでの、漫才の台本のように面白いのではなく(そういうところも、もちろんあるが)、面白さが深化している。
例によって主人公は大阪京橋署の刑事、磯野次郎、通称ジロさんと、上坂勤、勤(ごん)ちゃんの2人組。
勤ちゃんは、例によって映画フリークであり、また痛風であるにもかかわらず、食い物に執着する。
2人の会話は、始めはやはり漫才ふうである。
アイドルの握手会をめぐって。CDの中に入っている握手券を、10枚集めたら、1分ほど握手ができる。
「ああいうことに新たな経済的価値の創出があるんかと、俺は首をひねった」とジロさん。
「アイドルの手を握ることで、明日も働こうという活力が湧くんです」
「ファンの中には定年になったおっさんもおったぞ」
「おっさんの貯め込んだ金を回収して世の中にまわすんです」
「オレ詐欺といっしょやな」
「あのね、オレ詐欺とアイドルをいっしょくたにしたら炎上しますよ。コアなファンは怖いんやから」
しかしこういうところは、今回はページ数のわりには多くない。だから面白さの質が、これまでとは少し違う。
食品卸業の社長が失踪し、その妻が京橋署に届を出すが、社長は車の中で、青酸カリで自殺しているのが発見される。
そのまわりでは筏組(いかだぐみ)の若頭や組員、斎藤商事の顧問や番頭、華光通商の社長など、怪しいヤツがてんこ盛り。そういえば失踪届を出しにきた女房も怪しい。
そもそも社長の自殺も、偽装ではないか。ここはコロンボ顔負けのトリックを、ジロさんと勤ちゃんが見破る。
こうして、1億6500万の手形を手中に収めた、怪しい面々の化けの皮が剝がれていくのだ。
ではこういうことの、どこがおもしろいのか。
終末近くで、勤ちゃんと上役の刑事が話を交わす。
「『みんな、きれいにつながりましたね』上坂がいった。
『つながったな』仲村はうなずく。」
こういうことなのである。分かりますか。ただひたすら歩いて(というのは車に乗って)、手がかりを集め、真相に迫っていく。これは「警察捜査小説」の、王道を行くものである。
そう、「警察捜査小説」といえば、ヒラリー・ウォーの『失踪当時の服装は』が元祖、これは1952年の出版で、黒川博行の作品は、70年前のこの系譜に連なる。
しかし70年経てば、捜査も飛躍的に発展するし、それを書きつける黒川博行の文章も、関西弁を駆使して堂に入ったものだ。
ヒラリー・ウォーがもう少し長生きして、『連鎖』の英訳版を(それがあるとして)読めば、自分の蒔いた素朴な種から、驚くべき大輪の華が咲き誇っているのを見て、仰天したに違いない(しかし関西弁を、どういうふうに英訳したらよいのか)。
もっともこれは、ただ地道な「警察捜査小説」というだけではない。最後に湿地帯で死体を探すところは、大勢の警官を動員して鬼気迫る、というか、腐臭迫るものがある。
571頁の警察小説を読了して、ああこれで終わりか、もっと長ければいいのに、と正直思った。
(『連鎖』黒川博行、中央公論新社、2022年11月25日初刷)
岩波書店のB級ノワール小説――『破果(はか)』(ク・ピョンモ)
女殺し屋の話。これはあちこちで評判になったらしい。僕は東京新聞の「大波小波」で見た。出版元は、なんと岩波書店。
そのとき買おうと思ったのだが、肝心のコラムの内容は忘れてしまった。フェミニズムにかこつけてあったような気がする。
オビに「韓国文学史上最強の/『キラー小説』、/遂に日本上陸!」とある。
カバー折り返しは、こんな言葉で読者を煽っている。
「稼業ひとすじ四五年。かつて名を馳せた女殺し屋・爪角〔チョガク〕も老いからは逃れられず、ある日致命的なミスを犯してしまう。拾ってしまった捨て犬、しきりに突っかかってくる同業者、たまたま秘密を共有することになった医者――。周囲の存在に揺り動かされ、みずからの変化を受け入れるとき、人生最後の死闘がはじまる。『生への讃歌』と絶賛された韓国初の新感覚ノワール、待望の邦訳。」
繰り返すが、版元は岩波書店。これで期待しない方が、どうかしている。
と思ったのだが、うーん、どうしたものかねえ。
まあB級のノワール小説としては、よくできてはいる。日本で言えば、黒川博行のちょっと下くらいの出来、というのが僕の感想。
もともと、闇のエイジェントに属する凄腕の女殺し屋、というところからして、これはB級小説と、作者は規定したはずだと思う(このB級は、A級、B級、C級と、将棋のように地位を示すものではない)。
65歳の女殺し屋という、荒唐無稽な嘘を中心に、著者は、その回りに本当らしさを塗り込めたのだ。
これが「『生への讃歌』と絶賛された韓国初の新感覚ノワール」とは、大袈裟で見当はずれだし、定価が270頁強で2700円+税も、高すぎて嫌になる。
初版の部数を操作し、翻訳印税、翻訳料などを交渉して、このくらいのページ数であれば、2000円+税でできるはずだ。岩波はこういうところが、全く硬直している。何度も言うが、B級ノワール小説だぜ。
「訳者あとがき」にこうある。
「映像で見たい、実者で物語を味わいたい、と読者に思わせることからもわかるように、本書はエンターテインメント性を備えたノワール小説である。」
そうではないでしょう。ノワール小説はすべからく、エンターテインメント性を備えていて、そうでないノワール小説はただの駄作だ。
ここに2本、書評が上がっている。
「アクションシーンやぞわりとする場面を交えつつ、より広い社会的メッセージが伝わってくる。」(ニューヨーク・タイムズ)
「高齢者に対する社会の無関心、生きているにもかかわらず無価値のように扱われてしまう恐怖を、見事に描ききった。」(ワシントン・ポスト)
そうも言えるが、僕からすると、力点が違う。
荒唐無稽の殺し屋の話を書いてさえも、韓国の女性差別と、女の年寄りの、鼻もひっかけられない社会的無視は、目に余るものだ、そういうことではないか。
タイトルの『破果』は、「傷んでしまった果実」と「女性の年齢の十六歳」の2つの意味がある。肉体は衰えても、16歳のみずみずしい心が、消え去るわけではない。それは、「老いへの偏見に向けられた強烈な一撃とも読める。」
いろいろ文句は書いたけども、僕は満足して読んだよ。
(『破果(はか)』ク・ピョンモ、小山内園子・訳、
2022年12月16日初刷、2023年5月25日第4刷)
そのとき買おうと思ったのだが、肝心のコラムの内容は忘れてしまった。フェミニズムにかこつけてあったような気がする。
オビに「韓国文学史上最強の/『キラー小説』、/遂に日本上陸!」とある。
カバー折り返しは、こんな言葉で読者を煽っている。
「稼業ひとすじ四五年。かつて名を馳せた女殺し屋・爪角〔チョガク〕も老いからは逃れられず、ある日致命的なミスを犯してしまう。拾ってしまった捨て犬、しきりに突っかかってくる同業者、たまたま秘密を共有することになった医者――。周囲の存在に揺り動かされ、みずからの変化を受け入れるとき、人生最後の死闘がはじまる。『生への讃歌』と絶賛された韓国初の新感覚ノワール、待望の邦訳。」
繰り返すが、版元は岩波書店。これで期待しない方が、どうかしている。
と思ったのだが、うーん、どうしたものかねえ。
まあB級のノワール小説としては、よくできてはいる。日本で言えば、黒川博行のちょっと下くらいの出来、というのが僕の感想。
もともと、闇のエイジェントに属する凄腕の女殺し屋、というところからして、これはB級小説と、作者は規定したはずだと思う(このB級は、A級、B級、C級と、将棋のように地位を示すものではない)。
65歳の女殺し屋という、荒唐無稽な嘘を中心に、著者は、その回りに本当らしさを塗り込めたのだ。
これが「『生への讃歌』と絶賛された韓国初の新感覚ノワール」とは、大袈裟で見当はずれだし、定価が270頁強で2700円+税も、高すぎて嫌になる。
初版の部数を操作し、翻訳印税、翻訳料などを交渉して、このくらいのページ数であれば、2000円+税でできるはずだ。岩波はこういうところが、全く硬直している。何度も言うが、B級ノワール小説だぜ。
「訳者あとがき」にこうある。
「映像で見たい、実者で物語を味わいたい、と読者に思わせることからもわかるように、本書はエンターテインメント性を備えたノワール小説である。」
そうではないでしょう。ノワール小説はすべからく、エンターテインメント性を備えていて、そうでないノワール小説はただの駄作だ。
ここに2本、書評が上がっている。
「アクションシーンやぞわりとする場面を交えつつ、より広い社会的メッセージが伝わってくる。」(ニューヨーク・タイムズ)
「高齢者に対する社会の無関心、生きているにもかかわらず無価値のように扱われてしまう恐怖を、見事に描ききった。」(ワシントン・ポスト)
そうも言えるが、僕からすると、力点が違う。
荒唐無稽の殺し屋の話を書いてさえも、韓国の女性差別と、女の年寄りの、鼻もひっかけられない社会的無視は、目に余るものだ、そういうことではないか。
タイトルの『破果』は、「傷んでしまった果実」と「女性の年齢の十六歳」の2つの意味がある。肉体は衰えても、16歳のみずみずしい心が、消え去るわけではない。それは、「老いへの偏見に向けられた強烈な一撃とも読める。」
いろいろ文句は書いたけども、僕は満足して読んだよ。
(『破果(はか)』ク・ピョンモ、小山内園子・訳、
2022年12月16日初刷、2023年5月25日第4刷)