少し前に山田太一『月日の残像』の何度目かを朗読していて、読書ということについて、なるほどそうだなあ、と共感するところがあった。
それは、『ヘンリ・ライクロフトの私記』のギッシングが書いていることで、彼は若い頃から、大変な量の本を読んできた、しかしかつて読んだことのあるうち、「わずかばかりの断片しか私は覚えていないのである」、だが忘れてしまっても、私は本を読み続けるだろう、そして忘れ続けることだろう、そんなことを述べていた。
山田太一は、そこに強く共感する。彼も、かつて読書したうちの大半は忘れている。「それでも、たぶん死ぬまで刻々の幸せのために本を読み続けてしまうことだろう。」
私もまた、ギッシングや山田太一と同じく本を読み、そして同じく忘れ続けている。だからここを読んだとき、なるほどそうだなあ、と納得させられたものだ。
ところがこのたび、養老孟司先生の『脳が読む―本の解剖学 Ⅰ―』の何度目かを朗読していて、ハッと気がついた。
養老先生は、そのときサンディエゴで解剖学会があり、会場のホテルの裏のショッピング・センターで、S・キングの本を探したが、読んだものばかりであった。
さあ、これは困った。その時どうするか。
「こうなると、昔読んで、中身を忘れているのを読むしかない。ボケてくるのも、こういう点では捨てたものでもない。『ペット・セマタリー』や『クリスティーン』をすっかり忘れて、また読み返して、また怖かったら、丸儲けみたいな気がするではないか。」
うーん、何ということか。そういうふうに考えるのか。
すっかり忘れていて、読み返して、また怖かったら、一粒で二度おいしい気がするではないか。達人の読書術とは、そういうものなんだな。
実はこの本は、1994年に私が作っている。そのとき、およそ70本強の書評をどう並べるかで、暗記するくらい繰り返し読んだはずである。でもそのとき、ここには気づかなかった。
9年前に脳出血になり、そのリハビリ用に、養老先生のものも、何冊か朗読用に入れた。『脳が読む』もその一冊で、この9年間で10回以上、朗読している。
それでも、この度の箇所に注目したのは、初めてである。自分も年を取らなければ、分からないことがあるものだ。
これからも朗読は続けていくから、そういう意味では、また新たに発見することもあるだろう。それは本当に、「丸儲けみたいな」ことである。
(『脳が読む―本の解剖学 Ⅰ―』養老孟司、
法蔵館、1994年12月10日初刷、1995年1月10日第2刷)
それは首の骨か?――『キリン解剖記』(郡司芽久)(3)
キリンの頸椎の7個を解剖してみたけれど、あちこち首を動かすことは、できそうもない。
ここで著者は、ノイローゼになるくらい考え込む。そうして、ある仮説に行きつく。
7個の頸椎で、首を動かすことができないならば、頸椎に続く胸椎が、問題なのではないか。これまでの解剖では、首の側面と、背部の筋肉を観察してきた。しかし本当は、おなか側の筋肉が重要なのではないか。
つまり、「第一胸椎は、背腹方向によく動き、首の運動の支点として機能するのではないか」、という仮説を立てた。
ここまでのところは、文字で読むといかにも難しい。しかしこの本には、挿絵が入っていて、それが見事に、痒いところに手が届く。例えば7個の頸椎の下に、続いて第一胸椎があることが、子供であっても十分に分かる。著者は「おわりに」で、素晴らしいイラストを描いた竹田嘉文に感謝している。
重要なことは、仮説を持っているかどうかである。「第一胸椎を動かすような筋肉は、きっとある。次の解剖のときには、第一胸椎を動かす筋肉をきっと見つけられるはずだ」、という見通しがなければ、その筋肉は見つからないのだ。
この筋肉を見つけるところは感動的だ。本当は解剖する前から、CTデータで、静止画のかたちで、筋肉が動くことは分かっていた。しかし静止画は静止画、著者はまだ半信半疑である。
「一度深呼吸をした後、首をつかみ、ゆっくりと動かす。すると私の動きに合わせ、第一胸椎がゆっくりと動いていく。やっぱり第一胸椎は動くんだ。CTスキャンによる解析によって既にわかっていたことではあったが、目の前で実際に第一胸椎が動いている様子は、あまりに感動的だった。」
著者にとって、このときの感動は格別のものだった。
「パソコン上に表示された『バーチャルの骨格』と、実際に目の前にある本物の遺体では、発するパワーが全然違う。CTデータから第一胸椎が可動性をもつことが示されたときは嬉しかったが、こんな風に心の底から震えるような感動はしなかった。」
著者の感動する力が、大きなものであることは、大事にすべきだ。それを失わない限り、どこまでも発見の道は続くはずだからだ(なんか突然エラソーになってすいません)。
「私は、キリンの第一胸椎が動くことを証明してくれた『アオイの仔』と、彼女と共に過ごした数日間のことを、生涯にわたって絶対に忘れることはないだろう。」
一般に解剖において、たとえば養老孟司先生や、田島木綿子さんの場合、忘れられない解剖というのはあるんだろうか。郡司芽久はその点で、特異な才能がある。
なお「アオイの仔」というのは、多摩動物公園のアオイが生んだ仔で、生まれてすぐになくなった。
著者が発見したことは、簡潔に言うと、「キリンが首を動かすときは、頸椎だけでなく、第一胸椎も動いている」、ということだ。
つまりキリンには、「8番目の首の骨」があって、上下方向への可動範囲を自由にし、「高いところの葉を食べる」「低いところの水を飲む」という、キリン特有の相反する要求を、同時に満たすことを可能にした、ということである。
著者のこの発見は、イギリスが発行する国際的な学術誌に発表され、世界各国で反響を呼んだ。東大の学部生のときに考えていた、「頸椎数の制約のもとで、どのように構造を変えながら、首が長くなってきたのか?」、という疑問は、博士論文の主題になったのである。
(『キリン解剖記』郡司芽久、ナツメ社、2019年8月1日初刷、2022年6月20日第8刷)
ここで著者は、ノイローゼになるくらい考え込む。そうして、ある仮説に行きつく。
7個の頸椎で、首を動かすことができないならば、頸椎に続く胸椎が、問題なのではないか。これまでの解剖では、首の側面と、背部の筋肉を観察してきた。しかし本当は、おなか側の筋肉が重要なのではないか。
つまり、「第一胸椎は、背腹方向によく動き、首の運動の支点として機能するのではないか」、という仮説を立てた。
ここまでのところは、文字で読むといかにも難しい。しかしこの本には、挿絵が入っていて、それが見事に、痒いところに手が届く。例えば7個の頸椎の下に、続いて第一胸椎があることが、子供であっても十分に分かる。著者は「おわりに」で、素晴らしいイラストを描いた竹田嘉文に感謝している。
重要なことは、仮説を持っているかどうかである。「第一胸椎を動かすような筋肉は、きっとある。次の解剖のときには、第一胸椎を動かす筋肉をきっと見つけられるはずだ」、という見通しがなければ、その筋肉は見つからないのだ。
この筋肉を見つけるところは感動的だ。本当は解剖する前から、CTデータで、静止画のかたちで、筋肉が動くことは分かっていた。しかし静止画は静止画、著者はまだ半信半疑である。
「一度深呼吸をした後、首をつかみ、ゆっくりと動かす。すると私の動きに合わせ、第一胸椎がゆっくりと動いていく。やっぱり第一胸椎は動くんだ。CTスキャンによる解析によって既にわかっていたことではあったが、目の前で実際に第一胸椎が動いている様子は、あまりに感動的だった。」
著者にとって、このときの感動は格別のものだった。
「パソコン上に表示された『バーチャルの骨格』と、実際に目の前にある本物の遺体では、発するパワーが全然違う。CTデータから第一胸椎が可動性をもつことが示されたときは嬉しかったが、こんな風に心の底から震えるような感動はしなかった。」
著者の感動する力が、大きなものであることは、大事にすべきだ。それを失わない限り、どこまでも発見の道は続くはずだからだ(なんか突然エラソーになってすいません)。
「私は、キリンの第一胸椎が動くことを証明してくれた『アオイの仔』と、彼女と共に過ごした数日間のことを、生涯にわたって絶対に忘れることはないだろう。」
一般に解剖において、たとえば養老孟司先生や、田島木綿子さんの場合、忘れられない解剖というのはあるんだろうか。郡司芽久はその点で、特異な才能がある。
なお「アオイの仔」というのは、多摩動物公園のアオイが生んだ仔で、生まれてすぐになくなった。
著者が発見したことは、簡潔に言うと、「キリンが首を動かすときは、頸椎だけでなく、第一胸椎も動いている」、ということだ。
つまりキリンには、「8番目の首の骨」があって、上下方向への可動範囲を自由にし、「高いところの葉を食べる」「低いところの水を飲む」という、キリン特有の相反する要求を、同時に満たすことを可能にした、ということである。
著者のこの発見は、イギリスが発行する国際的な学術誌に発表され、世界各国で反響を呼んだ。東大の学部生のときに考えていた、「頸椎数の制約のもとで、どのように構造を変えながら、首が長くなってきたのか?」、という疑問は、博士論文の主題になったのである。
(『キリン解剖記』郡司芽久、ナツメ社、2019年8月1日初刷、2022年6月20日第8刷)
それは首の骨か?――『キリン解剖記』(郡司芽久)(2)
とはいえキリンの解剖が、最初からスムーズに行ったわけではない。
静岡浜松市動物園のキリン「ニーナ」が、東大博物館の解剖室に横たわっていた。著者にとっては、3頭目の解剖用キリンであった。
この度はまったく一人で、何日か通って解剖することになった。クリスマスなので、院生も登校して来ないのである。
「4日後、ふと気がつくと、目の前のニーナの遺体はほとんどの筋肉がそぎ落とされ、骨だけになっていた。この4日間、毎日悪戦苦闘しながら解剖を続けてきたが、小さな発見1つなく、頭の中には無数の疑問が生まれただけであった。」
全体を総評すればこうなるが、内実はもっと深刻だった。
「『無力感』。その一言に尽きる。キリンの遺体に、解剖という名の破壊行為をし、何の新知見にもたどり着けなかった。知識の向上にも至れなかった。命を弄んでしまったかのような後味の悪さと罪悪感が、胸に重くのしかかってきたのを、今でもよく覚えている。」
ニーナの解剖の結果は、終生残る「後味の悪さと罪悪感」だった。
しかし著者にとっては、避けて通れない関門だったのではないか、と僕は思う。数字やアルファベットのデータでは得られない、「生身の体を扱うことが、解剖の魅力でもあり、恐ろしさでもある。」最初にそのことが骨身にしみて、よく分かったのだから。
もっとも遠藤教授のこのときの言葉は、「またきっとチャンスがあるから、少し頭が良くなってから(笑)、また挑戦してください」と、けっこう厳しいものであった。
著者はこのときの反省として、解剖の教科書ばかり眺めて、目の前のキリンをあまり見ていなかったことに気付く。
そこで、教科書でいちいち部位の名前を確かめるのをやめて、解剖の図だけ描くようにした。
「解剖台の横にノートを開き、名前もわからぬ『謎筋A』の付着する場所、走行、大きさ、長さを丁寧に観察し、記録していく。次の解剖でも『謎筋A』であることがわかるよう、筋肉の特徴をなるべく細かく描きこんでいく。名前を特定しようとしていた時はずっと真っ白だったノートが、文章やスケッチで埋められていく。
ようやく頭を使って解剖することができるようになった瞬間だった。」
何にでも、コツを会得する瞬間というのは、あるものである。
そもそも郡司芽久は、キリンの筋肉や骨格の構造を調べて、何を明らかにしようとしたのか。
「キリンは、どうやってあの長い首を動かしているのだろうか? どうやって長い首や大きな体を支えているのだろうか? あの長い首は、どんな構造をしているのだろうか? 私たちの首の構造と同じなのだろうか? それとも全然違う、特殊な構造を獲得しているのだろうか? そもそも、どうして首が長くなったのだろうか?」
いずれも非常にまっとうな疑問であると、僕は思う。
ただ、専門に研究するとなれば、大きな疑問を漠然と出すのではなく、小さな疑問を解いて、少しずつ積み上げていく必要がある。
著者はキリンの首の「頸椎」〔けいつい〕に注目する。哺乳類には、頸椎の数は7個という、体をデザインしている基本ルールがある。首があれだけ長いキリンでも、頸椎数はヒトと同じ7個なのだ。2億年以上昔から、哺乳類の頸椎の数はずっと7個に決まっている。
しかし本当にそうなのだろうか。
「キリンが首を曲げて自分の首の付け根にキスしたり、鼻をお尻に近づけて臭いを嗅いだりしている姿を動物園で目にすると、キリンもヒトも首の構造が似たようなものだなんて、とても信じられない。あんな動き、私ではとてもできない。
キリンの首には、彼らにしかない特徴的な構造があるのではないだろうか。」
研究の第一歩は、正しい疑問を持つことにある。その第一歩が、ここにあるのだ。
静岡浜松市動物園のキリン「ニーナ」が、東大博物館の解剖室に横たわっていた。著者にとっては、3頭目の解剖用キリンであった。
この度はまったく一人で、何日か通って解剖することになった。クリスマスなので、院生も登校して来ないのである。
「4日後、ふと気がつくと、目の前のニーナの遺体はほとんどの筋肉がそぎ落とされ、骨だけになっていた。この4日間、毎日悪戦苦闘しながら解剖を続けてきたが、小さな発見1つなく、頭の中には無数の疑問が生まれただけであった。」
全体を総評すればこうなるが、内実はもっと深刻だった。
「『無力感』。その一言に尽きる。キリンの遺体に、解剖という名の破壊行為をし、何の新知見にもたどり着けなかった。知識の向上にも至れなかった。命を弄んでしまったかのような後味の悪さと罪悪感が、胸に重くのしかかってきたのを、今でもよく覚えている。」
ニーナの解剖の結果は、終生残る「後味の悪さと罪悪感」だった。
しかし著者にとっては、避けて通れない関門だったのではないか、と僕は思う。数字やアルファベットのデータでは得られない、「生身の体を扱うことが、解剖の魅力でもあり、恐ろしさでもある。」最初にそのことが骨身にしみて、よく分かったのだから。
もっとも遠藤教授のこのときの言葉は、「またきっとチャンスがあるから、少し頭が良くなってから(笑)、また挑戦してください」と、けっこう厳しいものであった。
著者はこのときの反省として、解剖の教科書ばかり眺めて、目の前のキリンをあまり見ていなかったことに気付く。
そこで、教科書でいちいち部位の名前を確かめるのをやめて、解剖の図だけ描くようにした。
「解剖台の横にノートを開き、名前もわからぬ『謎筋A』の付着する場所、走行、大きさ、長さを丁寧に観察し、記録していく。次の解剖でも『謎筋A』であることがわかるよう、筋肉の特徴をなるべく細かく描きこんでいく。名前を特定しようとしていた時はずっと真っ白だったノートが、文章やスケッチで埋められていく。
ようやく頭を使って解剖することができるようになった瞬間だった。」
何にでも、コツを会得する瞬間というのは、あるものである。
そもそも郡司芽久は、キリンの筋肉や骨格の構造を調べて、何を明らかにしようとしたのか。
「キリンは、どうやってあの長い首を動かしているのだろうか? どうやって長い首や大きな体を支えているのだろうか? あの長い首は、どんな構造をしているのだろうか? 私たちの首の構造と同じなのだろうか? それとも全然違う、特殊な構造を獲得しているのだろうか? そもそも、どうして首が長くなったのだろうか?」
いずれも非常にまっとうな疑問であると、僕は思う。
ただ、専門に研究するとなれば、大きな疑問を漠然と出すのではなく、小さな疑問を解いて、少しずつ積み上げていく必要がある。
著者はキリンの首の「頸椎」〔けいつい〕に注目する。哺乳類には、頸椎の数は7個という、体をデザインしている基本ルールがある。首があれだけ長いキリンでも、頸椎数はヒトと同じ7個なのだ。2億年以上昔から、哺乳類の頸椎の数はずっと7個に決まっている。
しかし本当にそうなのだろうか。
「キリンが首を曲げて自分の首の付け根にキスしたり、鼻をお尻に近づけて臭いを嗅いだりしている姿を動物園で目にすると、キリンもヒトも首の構造が似たようなものだなんて、とても信じられない。あんな動き、私ではとてもできない。
キリンの首には、彼らにしかない特徴的な構造があるのではないだろうか。」
研究の第一歩は、正しい疑問を持つことにある。その第一歩が、ここにあるのだ。
それは首の骨か?――『キリン解剖記』(郡司芽久)(1)
著者の郡司芽久は1989年生まれ、東大の農学生命科学を出て、国立科学博物館、筑波大学研究員を経て、現在、東洋大学生命科学部助教である。
専門は解剖学・形態学で、哺乳類・鳥類の首の構造や機能の進化を研究している。
この人は国立科学博物館にいたので、『海獣学者、クジラを解剖する』の田島木綿子(これはブログに書いた)と、知り合いである可能性が高い。また解剖学・形態学が専門というのだから、養老さんとも知り合いかもしれない。
『キリン解剖記』のタイトルだけでは分からない、著者の背景が分かってくると、俄然読みたくなってくる。そして全編を読みながら、やはり解剖学者の系譜を引く人は面白いと、かってに興奮してしまう。
郡司芽久は東大に入学した年、全学自由研究ゼミナール「博物館と遺体」という授業を取り、そこで遠藤秀紀教授と出会う。
著者は、この授業を志望する理由として、「キリンの研究がしたいんです」と書いたところ、遠藤教授は、「キリン? キリンの遺体は結構頻繁に手に入るから、解剖のチャンスは多いよ。研究できるんじゃないかな。機会があったら連絡するよ」と返事があった。
これまで何人もの先生に、同じ言葉を伝え、そのたびに「私の研究室では無理だなあ」とか、「研究者として独り立ちした後、チャレンジしたら」といなされてきたので、思わず拍子抜けしてしまう。
僕はここまで読んで、同じ東大でも、理科と文科は違うなあと思った(もっとも僕の東大文科系は50年前で、今は様変わりしているかもしれない)。
著者は最初の授業で、強烈な体験をする。最初に教えられたことは、たった一つ、メスの握り方だけ。あとは何も知識のない状態で、自由に感じて見よ、ということだった。
「ふわふわもこもこのコアラは、想像よりもはるかに華奢な骨格をしていること、バイカルアザラシの眼球はピンポン球と同じくらいの大きさで、ヒトの眼球の2倍近くもあること。ニホンザルの内臓は酸っぱいような強い臭いがすること。烏骨鶏は羽だけでなく骨まで黒いこと。」
この授業は強烈だった。「通常の講義とは全く異なるやり方だったが、頭だけでなく五感をフルに使って学ぶという経験は初めてで、強烈に印象に残った。」
大学1年で、コアラや、バイカルアザラシや、ニホンザルや、烏骨鶏の解剖なんかしたら、もうその道に入るよりしょうがない、そういうものでしょう。
それから2カ月ほどして、早くもキリンの解剖に参加する。神戸の王子動物園で飼育されていた、「夏子」という名のキリンが「亡くなった」のだ。
その解剖の様子は次の通り。
「ブルーシートのせいで少し青みがかったキリンの皮膚を、そっと撫でる。初めて触れるキリンの脚だ。短い毛足が気持ちいい。生まれて初めて手にした刃渡り17cmの解剖刀をキリンの脚にあてがい、慎重に皮膚を切り開いていく。
皮膚を手かぎで引っ張りながら、太腿から蹄に向かってゆっくり丁寧に皮を剥がしていく。すると、私の腕と同じくらいの太さの立派なアキレス腱が見えてくる。
骨と見紛うくらい太く真っ白なアキレス腱を切断すると、かかとにかかっていた張力がなくなり、かかとの関節が緩む。さっきまで動かせなかったかかとが、簡単に曲がるようになった。」
実際のところはよく分からなくても、著者の解剖に打ち込む姿は迫ってくる。
「この非日常の極みともいえる状況に、私はすっかり虜になってしまった。いつまでも心臓がドキドキしていた。」
こんな経験をしたら、もう解剖の他には何もない、となって当然だろう。
専門は解剖学・形態学で、哺乳類・鳥類の首の構造や機能の進化を研究している。
この人は国立科学博物館にいたので、『海獣学者、クジラを解剖する』の田島木綿子(これはブログに書いた)と、知り合いである可能性が高い。また解剖学・形態学が専門というのだから、養老さんとも知り合いかもしれない。
『キリン解剖記』のタイトルだけでは分からない、著者の背景が分かってくると、俄然読みたくなってくる。そして全編を読みながら、やはり解剖学者の系譜を引く人は面白いと、かってに興奮してしまう。
郡司芽久は東大に入学した年、全学自由研究ゼミナール「博物館と遺体」という授業を取り、そこで遠藤秀紀教授と出会う。
著者は、この授業を志望する理由として、「キリンの研究がしたいんです」と書いたところ、遠藤教授は、「キリン? キリンの遺体は結構頻繁に手に入るから、解剖のチャンスは多いよ。研究できるんじゃないかな。機会があったら連絡するよ」と返事があった。
これまで何人もの先生に、同じ言葉を伝え、そのたびに「私の研究室では無理だなあ」とか、「研究者として独り立ちした後、チャレンジしたら」といなされてきたので、思わず拍子抜けしてしまう。
僕はここまで読んで、同じ東大でも、理科と文科は違うなあと思った(もっとも僕の東大文科系は50年前で、今は様変わりしているかもしれない)。
著者は最初の授業で、強烈な体験をする。最初に教えられたことは、たった一つ、メスの握り方だけ。あとは何も知識のない状態で、自由に感じて見よ、ということだった。
「ふわふわもこもこのコアラは、想像よりもはるかに華奢な骨格をしていること、バイカルアザラシの眼球はピンポン球と同じくらいの大きさで、ヒトの眼球の2倍近くもあること。ニホンザルの内臓は酸っぱいような強い臭いがすること。烏骨鶏は羽だけでなく骨まで黒いこと。」
この授業は強烈だった。「通常の講義とは全く異なるやり方だったが、頭だけでなく五感をフルに使って学ぶという経験は初めてで、強烈に印象に残った。」
大学1年で、コアラや、バイカルアザラシや、ニホンザルや、烏骨鶏の解剖なんかしたら、もうその道に入るよりしょうがない、そういうものでしょう。
それから2カ月ほどして、早くもキリンの解剖に参加する。神戸の王子動物園で飼育されていた、「夏子」という名のキリンが「亡くなった」のだ。
その解剖の様子は次の通り。
「ブルーシートのせいで少し青みがかったキリンの皮膚を、そっと撫でる。初めて触れるキリンの脚だ。短い毛足が気持ちいい。生まれて初めて手にした刃渡り17cmの解剖刀をキリンの脚にあてがい、慎重に皮膚を切り開いていく。
皮膚を手かぎで引っ張りながら、太腿から蹄に向かってゆっくり丁寧に皮を剥がしていく。すると、私の腕と同じくらいの太さの立派なアキレス腱が見えてくる。
骨と見紛うくらい太く真っ白なアキレス腱を切断すると、かかとにかかっていた張力がなくなり、かかとの関節が緩む。さっきまで動かせなかったかかとが、簡単に曲がるようになった。」
実際のところはよく分からなくても、著者の解剖に打ち込む姿は迫ってくる。
「この非日常の極みともいえる状況に、私はすっかり虜になってしまった。いつまでも心臓がドキドキしていた。」
こんな経験をしたら、もう解剖の他には何もない、となって当然だろう。
最後まで節度を保ち――『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』(山本文緒)(2)
この日記に、悲壮感や深刻なところはほとんどないが、ユーモラスなところはある。
「私は一度しか抗がん剤を打っていないせいか髪の抜け方もやや半端で落ち武者みたいになってしまった(中心は抜け、周りはぐるっと残る)……。」(6月11日)
自分の髪を見て、「やや半端で落ち武者みたい」、と書き記す女性はめったにない。
次は、健康であれば、次回作の話をしたかった。
「次の長編で、今の日本の中にいる無国籍の女性の話を書こうと思っていたので戸籍の本をだいぶ集めた。戸籍がなくても力強く生きている人もいるし、戸籍でがんじがらめになって生きている人もいる。そういう対比や彼らの未来を書きたかった。」(6月30日)
これは読みたかったなあ。戸籍は、いずれ今ある状態では存続できないし、また存続させるべきではない。ではどうすればよいのか。山本文緒はどう考えるのか。
当然、移民の問題が前面に押し出してくる。もちろん少子化とも関連する。「続・自転しながらから公転する」に、ふさわしいテーマである。現代文学を、さらに推し進める内容でもある。これは本当に読みたかった。
さらにその次の本は、『ばにらさま』に収録した短編に出てくる、純文学作家崩れの女で、連作短編集を作ろうと思っていた。こんな内容だ。
「表現は人を傷つけ時には訴えられることもあるのに、表現を止めることができない。盗作紛いのことをしてまで創作にかじりつく頭のネジが一本飛んでいるみたいな人を書こうとおもっていた。
これは私小説まではいかないけれど、自分が長年文芸の世界で見てきたことを盛り込もうと思っていた。」(6月30日)
これも、ぜひぜひ読みたかったなあ。山本文緒が見てきたこととはいっても、それは狭い文芸の世界に収まるものではなく、どこか広い世界に抜けていったに違いない。本当に残念だ。
こんなユーモラスな場面もある。
「ソファで夫に膝枕をしてもらってNetflixやYouTubeを見たりしていると、年を取って泳げなくなったトドが飼育員によりかかっているような様子である。」(7月6日)
外観はトドで、顔だけ山本文緒ですか。
それでも著者は、最後まで節度は保っている。
ある日、夫が酒を飲みながら調理をして、グラタンをオーブンから出そうとし、手を滑らせて床にひっくり返してしまった。そして夫は、泣き出した。
「料理を作りながら飲んでいるので既に酔っ払っているのもあるし、せっかく作ったグラタンを床にぶちまけてしまったこともあるだろうけど、この人はそうは見せなくてもすごく我慢をしているんだなと感じて私も少しもらい泣きしてしまった。
途方に暮れる夫を寝室に連れて行って寝かしつけ、美味しそうに焦げのついたグラタンがぐちゃっと床に広がっているのを片付けた。」(7月6日)
夫婦の間では、がんにかかった人よりも、その相方の方が参ってしまう、ということはよくある。
しかし「私も少しもらい泣きしてしまった」というのは、それこそ参る話ではないか。「少しのもらい泣き」ではなく、真剣に、本気で泣いていいんだよ、と言ってあげたい。
夫のことでは、こういう記述もある。
「家に戻って疲れたのか突然嘔吐してしまい夫に心配をかけてしまった。」(7月10日)
最後まで、自分のことよりも、周りの人に気を遣っている。でも、旦那にかける心配よりも、嘔吐してしまう自分を心配した方がいい、とは思わないだろうか。
山本文緒の「日記」は、あまりに節度が保たれていて、こちらが一緒になって心配するところまではいかない。著者が毅然としているために、読者が土足で踏み込むわけにはいかないのだ。
しかし考えてみれば、そういう凛とした女性がいたこと、そして別れの挨拶をして去っていったことは、長く記憶に残るに違いない。
(『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』山本文緒、
新潮社、2022年10月20日初刷、11月5日第2刷)
「私は一度しか抗がん剤を打っていないせいか髪の抜け方もやや半端で落ち武者みたいになってしまった(中心は抜け、周りはぐるっと残る)……。」(6月11日)
自分の髪を見て、「やや半端で落ち武者みたい」、と書き記す女性はめったにない。
次は、健康であれば、次回作の話をしたかった。
「次の長編で、今の日本の中にいる無国籍の女性の話を書こうと思っていたので戸籍の本をだいぶ集めた。戸籍がなくても力強く生きている人もいるし、戸籍でがんじがらめになって生きている人もいる。そういう対比や彼らの未来を書きたかった。」(6月30日)
これは読みたかったなあ。戸籍は、いずれ今ある状態では存続できないし、また存続させるべきではない。ではどうすればよいのか。山本文緒はどう考えるのか。
当然、移民の問題が前面に押し出してくる。もちろん少子化とも関連する。「続・自転しながらから公転する」に、ふさわしいテーマである。現代文学を、さらに推し進める内容でもある。これは本当に読みたかった。
さらにその次の本は、『ばにらさま』に収録した短編に出てくる、純文学作家崩れの女で、連作短編集を作ろうと思っていた。こんな内容だ。
「表現は人を傷つけ時には訴えられることもあるのに、表現を止めることができない。盗作紛いのことをしてまで創作にかじりつく頭のネジが一本飛んでいるみたいな人を書こうとおもっていた。
これは私小説まではいかないけれど、自分が長年文芸の世界で見てきたことを盛り込もうと思っていた。」(6月30日)
これも、ぜひぜひ読みたかったなあ。山本文緒が見てきたこととはいっても、それは狭い文芸の世界に収まるものではなく、どこか広い世界に抜けていったに違いない。本当に残念だ。
こんなユーモラスな場面もある。
「ソファで夫に膝枕をしてもらってNetflixやYouTubeを見たりしていると、年を取って泳げなくなったトドが飼育員によりかかっているような様子である。」(7月6日)
外観はトドで、顔だけ山本文緒ですか。
それでも著者は、最後まで節度は保っている。
ある日、夫が酒を飲みながら調理をして、グラタンをオーブンから出そうとし、手を滑らせて床にひっくり返してしまった。そして夫は、泣き出した。
「料理を作りながら飲んでいるので既に酔っ払っているのもあるし、せっかく作ったグラタンを床にぶちまけてしまったこともあるだろうけど、この人はそうは見せなくてもすごく我慢をしているんだなと感じて私も少しもらい泣きしてしまった。
途方に暮れる夫を寝室に連れて行って寝かしつけ、美味しそうに焦げのついたグラタンがぐちゃっと床に広がっているのを片付けた。」(7月6日)
夫婦の間では、がんにかかった人よりも、その相方の方が参ってしまう、ということはよくある。
しかし「私も少しもらい泣きしてしまった」というのは、それこそ参る話ではないか。「少しのもらい泣き」ではなく、真剣に、本気で泣いていいんだよ、と言ってあげたい。
夫のことでは、こういう記述もある。
「家に戻って疲れたのか突然嘔吐してしまい夫に心配をかけてしまった。」(7月10日)
最後まで、自分のことよりも、周りの人に気を遣っている。でも、旦那にかける心配よりも、嘔吐してしまう自分を心配した方がいい、とは思わないだろうか。
山本文緒の「日記」は、あまりに節度が保たれていて、こちらが一緒になって心配するところまではいかない。著者が毅然としているために、読者が土足で踏み込むわけにはいかないのだ。
しかし考えてみれば、そういう凛とした女性がいたこと、そして別れの挨拶をして去っていったことは、長く記憶に残るに違いない。
(『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』山本文緒、
新潮社、2022年10月20日初刷、11月5日第2刷)
最後まで節度を保ち――『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』(山本文緒)(1)
山本文緒は2021年4月に、膵臓がんと診断され、以来亡くなる直前まで「日記」をつけた。5月24日から10月4日まで、断続的に書き継がれ、10月13日に亡くなっている。
山本文緒はその前年、2020年に、『自転しながらから公転する』を出した。これは紛れもない名著で、私は「ウェブ論座」の、その年の3冊に挙げたし、そのことは、このブログにも書いた。
『無人島のふたり』は、亡くなってから出た遺作である。
ということを前提として読んでいくのだが、実は「日記」はあまり面白くない。山本文緒が節度ある書き方をしていて、あまりのめり込まさないようにしているのだ。
たとえば余命を訊ねる場面。
「K先生は『これはあくまでデータ上の話です』と前置きをして、私の予後は半年だと教えてくれました。ちなみに抗がん剤が効いたとしても9か月だそうです。」(5月26日)
読者としては、まあしょうがないなあとしか思いようがない。
山本文緒はがんが分かって、セカンドオピニオンで余命がおよそ120日と、医者に言われたとき、もう一度、新刊を出そうと考えた。新作を書いている暇はない。旧作を集めて新刊としたい。
それで編集者のHさんに頼み込むと、出版社として全力でやらせていただきます、という。
「こんなひどいわがままを聞いて下さって本当にありがとうございます。
編集の方だけではなく、校正やデザインの方や様々な方にご迷惑をおかけすることになると思います。
ごめんなさい。ありがとうございます。」(5月27日)
著者は本当に、裏表のない正直な人だ。同時に気配りの人でもある。
著者が命がけで、最後の新刊を出すというとき、もちろん著者のために、編集者が何とかしてやりたいのは当然である。と同時に、これをチャンスと思わない編集者がいるだろうか。
ちなみにこの新刊は、『ばにらさま』という短編集で、私は書店で見かけたので買ってみた。佳作揃いで、山本文緒ならこんなものであろう、というような作品集だった(つまり最後の新刊としては、もの足りなかった)。
この「日記」の中では、節度を越えて神様に呪詛するところが、1カ所だけある。
「今は安らかな気持ちだ……、余命を宣告されたら、そういう気持ちになるのかと思っていたが、それは違った。
死にたくない、なんでもするから助けてください、とジタバタするというのとは違うけれど、何もかも達観したアルカイックスマイルなんて浮かべることはできない。
そんな簡単に割り切れるかボケ! と神様に言いたい気持ちがする。」(6月6日)
そうこなくっちゃ! と思ったが、山本文緒の、腹の底からの叫びは、ここだけである。
この日記も、派手に売る手があるのではないか、そう著者は考える。
「これ、『120日後に死ぬフミオ』のタイトルで、ツイッターやブログにリアルタイムで更新したりするほうがバズったのではないか。
でもそれは望んでいることからはずいぶん遠い。そんなことだから作家としてイマイチなのかもしれない。
だったら何も書き残したりせず、潔くこの世を去ればいいのに、ノートにボールペンでちまちま書いてしまうあたりが何というか承認欲求を捨てきれない小物感がある。」(6月9日)
何と山本文緒は、「作家としてイマイチ」、「小物感がある」、というような自己認識だったのだ。
別の箇所に、『自転しながらから公転する』は、著者が思っていたよりもはるかによく売れているので、嬉しいことである、とある。
編集者たちは山本文緒に、「現代文学であなたが立っているのは、最前線の一番高いところだ」、と教えてあげなかったのか。
『自転しながらから公転する』を書き、しかもそれが売れに売れている、という事態を、山本文緒はどう考えていたのか。いまはそのことが謎というか、悔しいことでもある。
山本文緒はその前年、2020年に、『自転しながらから公転する』を出した。これは紛れもない名著で、私は「ウェブ論座」の、その年の3冊に挙げたし、そのことは、このブログにも書いた。
『無人島のふたり』は、亡くなってから出た遺作である。
ということを前提として読んでいくのだが、実は「日記」はあまり面白くない。山本文緒が節度ある書き方をしていて、あまりのめり込まさないようにしているのだ。
たとえば余命を訊ねる場面。
「K先生は『これはあくまでデータ上の話です』と前置きをして、私の予後は半年だと教えてくれました。ちなみに抗がん剤が効いたとしても9か月だそうです。」(5月26日)
読者としては、まあしょうがないなあとしか思いようがない。
山本文緒はがんが分かって、セカンドオピニオンで余命がおよそ120日と、医者に言われたとき、もう一度、新刊を出そうと考えた。新作を書いている暇はない。旧作を集めて新刊としたい。
それで編集者のHさんに頼み込むと、出版社として全力でやらせていただきます、という。
「こんなひどいわがままを聞いて下さって本当にありがとうございます。
編集の方だけではなく、校正やデザインの方や様々な方にご迷惑をおかけすることになると思います。
ごめんなさい。ありがとうございます。」(5月27日)
著者は本当に、裏表のない正直な人だ。同時に気配りの人でもある。
著者が命がけで、最後の新刊を出すというとき、もちろん著者のために、編集者が何とかしてやりたいのは当然である。と同時に、これをチャンスと思わない編集者がいるだろうか。
ちなみにこの新刊は、『ばにらさま』という短編集で、私は書店で見かけたので買ってみた。佳作揃いで、山本文緒ならこんなものであろう、というような作品集だった(つまり最後の新刊としては、もの足りなかった)。
この「日記」の中では、節度を越えて神様に呪詛するところが、1カ所だけある。
「今は安らかな気持ちだ……、余命を宣告されたら、そういう気持ちになるのかと思っていたが、それは違った。
死にたくない、なんでもするから助けてください、とジタバタするというのとは違うけれど、何もかも達観したアルカイックスマイルなんて浮かべることはできない。
そんな簡単に割り切れるかボケ! と神様に言いたい気持ちがする。」(6月6日)
そうこなくっちゃ! と思ったが、山本文緒の、腹の底からの叫びは、ここだけである。
この日記も、派手に売る手があるのではないか、そう著者は考える。
「これ、『120日後に死ぬフミオ』のタイトルで、ツイッターやブログにリアルタイムで更新したりするほうがバズったのではないか。
でもそれは望んでいることからはずいぶん遠い。そんなことだから作家としてイマイチなのかもしれない。
だったら何も書き残したりせず、潔くこの世を去ればいいのに、ノートにボールペンでちまちま書いてしまうあたりが何というか承認欲求を捨てきれない小物感がある。」(6月9日)
何と山本文緒は、「作家としてイマイチ」、「小物感がある」、というような自己認識だったのだ。
別の箇所に、『自転しながらから公転する』は、著者が思っていたよりもはるかによく売れているので、嬉しいことである、とある。
編集者たちは山本文緒に、「現代文学であなたが立っているのは、最前線の一番高いところだ」、と教えてあげなかったのか。
『自転しながらから公転する』を書き、しかもそれが売れに売れている、という事態を、山本文緒はどう考えていたのか。いまはそのことが謎というか、悔しいことでもある。
新訳で読む――『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル)(7)
この本には、旧版の訳者である霜山徳爾氏が、巻末に小文を寄せている。終戦後、ドイツで実際に、フランクルと親しく交わったことが書かれている。
霜山氏は、日本の敗戦に至る経緯を冷静に振り返ることは、とてもできなかった。
「戦争の末期に至るや、『特攻』作戦と称して強制的な命令によって、あらゆる中古機、練習機、古い水上機などを主として、これを爆装して、陸海軍合せてなんと七千名の少年兵出身で、やっと操縦できる程度の練度の低いパイロットをのせて、いわゆる、『神風〔しんぷう〕』の体当たり作戦に投じ、ほとんど全滅であった。この無法な作戦の上奏に対して、天皇が許可しなければそれまでであった。しかし彼は黙認してしまった。私には未だに血の逆流する思いが断ちきれない。」
旧版が爆発的なロングセラーになったのは、霜山氏の、天皇に対する「血の逆流する思い」が、根底にあったからである。新訳の池田香代子も、それは分かっている。
なお池田香代子は、「訳者あとがき」に気になることを書いている。
「受難の民は度を越して攻撃的になることがあるという。それを地でいくのが、二十一世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖に終わりをもたらす叡知が、今、私たちに求められている。そこに、この地球の生命の存続は懸かっている。」
そこで再び、戦争はなくせるか、あるいはどうしたらなくせるか、という問題が浮上する。
ところが現状の世界は、それどころではない。異常気象も、二酸化炭素問題も、あるいは世界における人口爆発も、6人に1人の子供が飢えている、という問題も、世界中の人が必死で考えなければ、どうにもならない。
しかしそれどころではない。その前に、今もなお戦争をやっているのだ。
政治の世界で首脳と呼ばれる人たちは、それらをどう考えているのか。戦争以外は、あるいは自国の領土以外のことは、たいして考えていないようなのだ。
こういうことでは、何も収まるまい。この人たちは、人間の本能は戦うことにあり、と思っている。しかしそれでは、世界は存続できまい。
少し前に『ひとはなぜ戦争をするのか』という本を読んだ。アインシュタインがフロイトに、この問いを投げかける、往復書簡集である。この解説を斎藤環と養老孟司が書いている。
詳しい内容は、そのブログを見てもらえば分かるが、ここで養老先生は、今はまだ戦争は起こっているが、いずれ戦争の機能は衰退していくだろう、と述べている。
僕もそう思いたい。しかしそれは、どのくらい先のことだろう。
プーチンの号令一下、何十万人が命を捨てて悔いはない、と思っているのである。しかも敵は、昨日まで同胞として親しくしていた、ウクライナである。
いったん戦争モードのスイッチが入れば、人は180度変わる。ここで、個人を解剖し、集団を腑分けして、原因をつきとめなければ、いつまでたっても同じことが起こるのではないか、という気もする。
(『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子・訳、
みすず書房、2002年11月5日初刷、2016年3月10日第29刷)
霜山氏は、日本の敗戦に至る経緯を冷静に振り返ることは、とてもできなかった。
「戦争の末期に至るや、『特攻』作戦と称して強制的な命令によって、あらゆる中古機、練習機、古い水上機などを主として、これを爆装して、陸海軍合せてなんと七千名の少年兵出身で、やっと操縦できる程度の練度の低いパイロットをのせて、いわゆる、『神風〔しんぷう〕』の体当たり作戦に投じ、ほとんど全滅であった。この無法な作戦の上奏に対して、天皇が許可しなければそれまでであった。しかし彼は黙認してしまった。私には未だに血の逆流する思いが断ちきれない。」
旧版が爆発的なロングセラーになったのは、霜山氏の、天皇に対する「血の逆流する思い」が、根底にあったからである。新訳の池田香代子も、それは分かっている。
なお池田香代子は、「訳者あとがき」に気になることを書いている。
「受難の民は度を越して攻撃的になることがあるという。それを地でいくのが、二十一世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖に終わりをもたらす叡知が、今、私たちに求められている。そこに、この地球の生命の存続は懸かっている。」
そこで再び、戦争はなくせるか、あるいはどうしたらなくせるか、という問題が浮上する。
ところが現状の世界は、それどころではない。異常気象も、二酸化炭素問題も、あるいは世界における人口爆発も、6人に1人の子供が飢えている、という問題も、世界中の人が必死で考えなければ、どうにもならない。
しかしそれどころではない。その前に、今もなお戦争をやっているのだ。
政治の世界で首脳と呼ばれる人たちは、それらをどう考えているのか。戦争以外は、あるいは自国の領土以外のことは、たいして考えていないようなのだ。
こういうことでは、何も収まるまい。この人たちは、人間の本能は戦うことにあり、と思っている。しかしそれでは、世界は存続できまい。
少し前に『ひとはなぜ戦争をするのか』という本を読んだ。アインシュタインがフロイトに、この問いを投げかける、往復書簡集である。この解説を斎藤環と養老孟司が書いている。
詳しい内容は、そのブログを見てもらえば分かるが、ここで養老先生は、今はまだ戦争は起こっているが、いずれ戦争の機能は衰退していくだろう、と述べている。
僕もそう思いたい。しかしそれは、どのくらい先のことだろう。
プーチンの号令一下、何十万人が命を捨てて悔いはない、と思っているのである。しかも敵は、昨日まで同胞として親しくしていた、ウクライナである。
いったん戦争モードのスイッチが入れば、人は180度変わる。ここで、個人を解剖し、集団を腑分けして、原因をつきとめなければ、いつまでたっても同じことが起こるのではないか、という気もする。
(『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子・訳、
みすず書房、2002年11月5日初刷、2016年3月10日第29刷)
新訳で読む――『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル)(6)
フランクルは以上のようなことを、言葉で書くときには、述べ綴ってきたけれども、現実にはそうはいかなかった。
「わたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿を見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。」
『夜と霧』が今もなお、昨日書かれたごとくに胸に迫ってくるのは、こういうところをごまかしてないからだ。
そしてついに第2次大戦が終わり、強制収容所から解放されるときが来る。
しかしフランクルは、自由になったということを、何度も自分に言い聞かせるのだが、それがなかなか腑に落ちないのである。
「『はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね』
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。
解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。にわかには信じることができないのだ。」
収容所から戻ってくる道は、平坦ではなく、むしろ困難極まる道であった。
「強制収容所に入れられていた人間は、当然のことながら、解放されたあとも、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危機に脅かされるのだ。この(精神衛生の観点から見た)危機とは、いわば精神的な潜水病にほかならない。潜函〔せんかん〕労働者が(以上に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ。」
僕はまた、父の世代のことを考える。ナチス強制収容所の捕虜と、日本の旧軍人は、もちろんまるで違う。
しかし閉鎖的なところにいて、日々の極度の精神的緊張にさらされ、いつ命を奪われるか分からないという日常から、突然、戦争は終わった、さあ自由を味わっていいのだ、と言われてもとまどうばかり、旧軍人はどうすることもできなかったに違いない。
まして僕の父のように、シベリアで捕虜に捕られ、終戦後何年間かが空白になっていた人間は、どうしていいか、まったく分からなかったに違いない。
そういう人間と、戦後も8年経ってから生まれた僕が、通じ合うところが無くても当然ではないか、という気がする。そしてそういう家庭は、実は無数にあっただろうと思う。
将校であった旧軍人は、女房子供や近しい人に対して、突然怒り出すことがあった。阿川佐和子は、父である阿川弘之に、緊張せずに接することは、ついになかったという。阿川弘之が突然、烈火のごとく怒りだしたからである。旧軍人の、そういうさまを書き残したものは、枚挙にいとまがない。これは世代的な病理である。
しかし今は、『夜と霧』の最終場面がくる。
「少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。」
それなら、精神医学的な俎上に載ることさえなかった、日本の旧軍人など、どうにもしようがないものではないか。
「わたしは、涙を浮かべてわたしのほうへ、礼を言おうとよろめき寄ってくるぼろぼろの仲間の姿を見たのだ。しかし、この夜のように、苦しみをともにする仲間の心の奥底に触れようとふるい立つだけの精神力をもてたのはごくまれなことで、こうした機会はいくらでもあったのにそれを利用しなかったことを、わたしはここで告白しなければならない。」
『夜と霧』が今もなお、昨日書かれたごとくに胸に迫ってくるのは、こういうところをごまかしてないからだ。
そしてついに第2次大戦が終わり、強制収容所から解放されるときが来る。
しかしフランクルは、自由になったということを、何度も自分に言い聞かせるのだが、それがなかなか腑に落ちないのである。
「『はっきり言って、うれしいというのではなかったんだよね』
わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度学びなおさなければならないなにかになってしまっていた。
解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。にわかには信じることができないのだ。」
収容所から戻ってくる道は、平坦ではなく、むしろ困難極まる道であった。
「強制収容所に入れられていた人間は、当然のことながら、解放されたあとも、いやむしろまさに突然抑圧から解放されたために、ある種の精神的な危機に脅かされるのだ。この(精神衛生の観点から見た)危機とは、いわば精神的な潜水病にほかならない。潜函〔せんかん〕労働者が(以上に高い気圧の)潜函から急に出ると健康を害するように、精神的な圧迫から急に解放された人間も、場合によっては精神の健康を損ねるのだ。」
僕はまた、父の世代のことを考える。ナチス強制収容所の捕虜と、日本の旧軍人は、もちろんまるで違う。
しかし閉鎖的なところにいて、日々の極度の精神的緊張にさらされ、いつ命を奪われるか分からないという日常から、突然、戦争は終わった、さあ自由を味わっていいのだ、と言われてもとまどうばかり、旧軍人はどうすることもできなかったに違いない。
まして僕の父のように、シベリアで捕虜に捕られ、終戦後何年間かが空白になっていた人間は、どうしていいか、まったく分からなかったに違いない。
そういう人間と、戦後も8年経ってから生まれた僕が、通じ合うところが無くても当然ではないか、という気がする。そしてそういう家庭は、実は無数にあっただろうと思う。
将校であった旧軍人は、女房子供や近しい人に対して、突然怒り出すことがあった。阿川佐和子は、父である阿川弘之に、緊張せずに接することは、ついになかったという。阿川弘之が突然、烈火のごとく怒りだしたからである。旧軍人の、そういうさまを書き残したものは、枚挙にいとまがない。これは世代的な病理である。
しかし今は、『夜と霧』の最終場面がくる。
「少なからぬ数の解放された人びとが、新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服するのは容易なことではない。」
それなら、精神医学的な俎上に載ることさえなかった、日本の旧軍人など、どうにもしようがないものではないか。
新訳で読む――『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル)(5)
フランクルの思考をたどってくると、あるところから、僕はついていけなくなる。それは苦悩と死があってこそ、人間の存在は完結したものになる、と考えるところだ。
たいていの人間は、強制収容所を生きて出られるかどうか、が心配の種だった。生きて出られないのなら、そこで苦しんでいることなど、何の意味があろうか、というわけだ。
しかしフランクルの苦悩は、これとは逆だった。
「すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」
「苦しみや死には意味がある」、と考えたい気持ちは分かる。そう考えないと、強制収容所で、主体性を持った人間として生きていくことは、難しいだろう。
しかしフランクルの言う、収容所から抜け出せるかどうかに左右される生など、「もともと生きるに値しない」、というのは言いすぎではないだろうか。
戦争で死ぬことは無意味だ、とする見方こそ大事なのではないか。
捕虜の場合に限ったことではない。兵士の場合も同じことだ。第2次大戦末期の、特攻隊の苦悩の意味を、なんとか称揚したい気持ちは分かるが、それにあらかじめ意味を認めてはいけないのではないか。
もちろん特攻隊員の手記は、今なお価値がある。読んでいれば、思わず引き込まれ、涙するところも多い。しかしそれとは別に、その制度自体に意味があるとする見方を、僕は取らない。こういう無意味で悲惨なことは、未来永劫、願い下げにしたい。
それとは別に、フランクルの言う強制収容所の話に戻ろう。
「そこでは、たとえば一日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると、判で捺したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。」
このあたりはよく分からない。というよりもまったく分からない。強制収容所にいると、こういうものらしい。こういうことを書き残したのは、フランクルの功績である。
また、「生ける屍」の話もある。
「ある被収容者が、かつて、新たに到着した被収容者の長い列にまじって駅から強制収容所へと歩いていたとき、まるで『自分の屍のあとから歩いている』ような気がした、とのちに語ったことがある。この人は、絶対的な未来喪失を骨身に染みて味わったのだ。それは、あたかも死者が人生を過去のものと見るように、その人の人生のすべてが過去のものになったとの見方を強いるのだ。」
自分の人生が過去のものとして、いま存在しているということ。それこそ先は、まったく何もない。
それでもフランクルはなお、人生の目的を定め、人間の内的成長を促そうとする。僕は読んでいて、かなり苦しく、アップアップする思いだ。
しかしそうすることだけが、強制収容所を生き延びるための、唯一の方法だった。そうでない人たちは、よりどころを一切失って、あっという間に崩れていったという。
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」
そうすることで、生きる意味が体の内から湧き上がってくる、というわけだ。僕は何も言えない。
たいていの人間は、強制収容所を生きて出られるかどうか、が心配の種だった。生きて出られないのなら、そこで苦しんでいることなど、何の意味があろうか、というわけだ。
しかしフランクルの苦悩は、これとは逆だった。
「すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」
「苦しみや死には意味がある」、と考えたい気持ちは分かる。そう考えないと、強制収容所で、主体性を持った人間として生きていくことは、難しいだろう。
しかしフランクルの言う、収容所から抜け出せるかどうかに左右される生など、「もともと生きるに値しない」、というのは言いすぎではないだろうか。
戦争で死ぬことは無意味だ、とする見方こそ大事なのではないか。
捕虜の場合に限ったことではない。兵士の場合も同じことだ。第2次大戦末期の、特攻隊の苦悩の意味を、なんとか称揚したい気持ちは分かるが、それにあらかじめ意味を認めてはいけないのではないか。
もちろん特攻隊員の手記は、今なお価値がある。読んでいれば、思わず引き込まれ、涙するところも多い。しかしそれとは別に、その制度自体に意味があるとする見方を、僕は取らない。こういう無意味で悲惨なことは、未来永劫、願い下げにしたい。
それとは別に、フランクルの言う強制収容所の話に戻ろう。
「そこでは、たとえば一日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも一日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると、判で捺したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の一日は一週間より長い、というと、収容所仲間は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。」
このあたりはよく分からない。というよりもまったく分からない。強制収容所にいると、こういうものらしい。こういうことを書き残したのは、フランクルの功績である。
また、「生ける屍」の話もある。
「ある被収容者が、かつて、新たに到着した被収容者の長い列にまじって駅から強制収容所へと歩いていたとき、まるで『自分の屍のあとから歩いている』ような気がした、とのちに語ったことがある。この人は、絶対的な未来喪失を骨身に染みて味わったのだ。それは、あたかも死者が人生を過去のものと見るように、その人の人生のすべてが過去のものになったとの見方を強いるのだ。」
自分の人生が過去のものとして、いま存在しているということ。それこそ先は、まったく何もない。
それでもフランクルはなお、人生の目的を定め、人間の内的成長を促そうとする。僕は読んでいて、かなり苦しく、アップアップする思いだ。
しかしそうすることだけが、強制収容所を生き延びるための、唯一の方法だった。そうでない人たちは、よりどころを一切失って、あっという間に崩れていったという。
「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。」
そうすることで、生きる意味が体の内から湧き上がってくる、というわけだ。僕は何も言えない。
新訳で読む――『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル)(4)
収容所では、個人の命は徹底的に貶められ、無いものに等しかった。それを思い知らされたのは、病気の被収容者が、強制収容所から別の場所へ移送されるときだ。
「〔病人は〕死んでいてもいっしょに運ばれた。リスト通りでなければならないからだ。リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。『番号』の『命』はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。」
このブログは僕にとって、言葉が上手に出てくるようにするための、リハビリを目的としている。しかし、このような文言を書き写していれば、健常な人であっても、パソコンのキーを叩くのは躊躇するだろう。しかしとにかく、やらねばならない。
フランクルが「病人収容所」に到着した段階で、後にしてきた強制収容所では、飢餓状態がいっそう悪化した。
戦争が終わり、解放された後、フランクルは、収容所に残った一人と再会した。
「この男は『収容所警官』をしていたが、収容所最後の日々、死体の山から消えて鍋の中に出現した肉片に手を出したひとりだった……わたしは、あの収容所が地獄と化し、人肉食が始まる直前に、そこを逃れたのだった。」
僕はだいぶ前に、村田沙耶香の『生命式』を読んで、このブログに書いたことがある。これは「人肉食」を戯画化したもので、なんというか、とりあえず面白かった。「人肉食」をメルヘンとして扱える時代に生まれて、よかったなと思う。ほかに言葉はない。
また大多数の被収容者は、「劣等感」にさいなまれていた。被収容者に特有の「コンプレックス」である。
「〔大多数の収容者は〕それぞれが、かつては『なにほどかの者』だったし、すくなくともそう信じていた。ところが今ここでは、文字通りまるで番号でしかないかのように扱われる(より本質的な領域つまり精神性に根ざす自意識は、収容所の状況などにはびくともしなかったのは事実だが、どれだけ多くの人びとが、どれだけ多くの被収容者が、そうした確固とした自意識をそなえていただろうか)。ごく平均的な被収容者は、そうしたことをさして深く考えることも、それほど意識することもなく、なりゆきにまかせてとことん堕落していった。」
戦争中、捕虜であれば、僕は間違いなく、「とことん堕落していった」方に入るだろう。だから戦争には直面したくないのだ。
しかしフランクルは、僕のような人間ではなく、別の人間を典型として描く。
「その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ『わたし』を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。」
ここはちょっと抽象的だ。もう少し具体的な例が欲しい。
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、〔中略〕あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあった」。
フランクルはここでは、読者の一人ひとりに、あなたが強制収容所にいたら、どんな態度をとっているか、そういうかたちで生き方を問うているのだ。これは、生半可な読書体験ではない。
「〔病人は〕死んでいてもいっしょに運ばれた。リスト通りでなければならないからだ。リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。『番号』の『命』はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。」
このブログは僕にとって、言葉が上手に出てくるようにするための、リハビリを目的としている。しかし、このような文言を書き写していれば、健常な人であっても、パソコンのキーを叩くのは躊躇するだろう。しかしとにかく、やらねばならない。
フランクルが「病人収容所」に到着した段階で、後にしてきた強制収容所では、飢餓状態がいっそう悪化した。
戦争が終わり、解放された後、フランクルは、収容所に残った一人と再会した。
「この男は『収容所警官』をしていたが、収容所最後の日々、死体の山から消えて鍋の中に出現した肉片に手を出したひとりだった……わたしは、あの収容所が地獄と化し、人肉食が始まる直前に、そこを逃れたのだった。」
僕はだいぶ前に、村田沙耶香の『生命式』を読んで、このブログに書いたことがある。これは「人肉食」を戯画化したもので、なんというか、とりあえず面白かった。「人肉食」をメルヘンとして扱える時代に生まれて、よかったなと思う。ほかに言葉はない。
また大多数の被収容者は、「劣等感」にさいなまれていた。被収容者に特有の「コンプレックス」である。
「〔大多数の収容者は〕それぞれが、かつては『なにほどかの者』だったし、すくなくともそう信じていた。ところが今ここでは、文字通りまるで番号でしかないかのように扱われる(より本質的な領域つまり精神性に根ざす自意識は、収容所の状況などにはびくともしなかったのは事実だが、どれだけ多くの人びとが、どれだけ多くの被収容者が、そうした確固とした自意識をそなえていただろうか)。ごく平均的な被収容者は、そうしたことをさして深く考えることも、それほど意識することもなく、なりゆきにまかせてとことん堕落していった。」
戦争中、捕虜であれば、僕は間違いなく、「とことん堕落していった」方に入るだろう。だから戦争には直面したくないのだ。
しかしフランクルは、僕のような人間ではなく、別の人間を典型として描く。
「その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ『わたし』を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。」
ここはちょっと抽象的だ。もう少し具体的な例が欲しい。
「強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、〔中略〕あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあった」。
フランクルはここでは、読者の一人ひとりに、あなたが強制収容所にいたら、どんな態度をとっているか、そういうかたちで生き方を問うているのだ。これは、生半可な読書体験ではない。