平日の午後、NHK・BSで洋画を放送している。そこで『ボブという名の猫―幸せのハイタッチ―』を見た。なかなか軽妙なところのある映画で、主人公がコカインと縁を切ろうとするのも含めて、面白かった。
これはイギリスの実話で、原作本はベストセラーになったという。さっそくネットで注文した。
作者は20代のジェームズ・ボーエン。原作は、映画とは少し違って、『ボブという名のストリート・キャット』である。
ジェームズは幼いころ親が離婚し、オーストラリアとイギリスをあてどなく放浪する。イギリスでホームレスの認定をうけ、薬物依存症の治療をしている最中に、野良猫のボブと会う。
この最初に会うところがおかしい。ジェームズは、初めは知らん顔をして、通り過ぎようとする。しかし野良猫は、ジェームズの部屋の前でじっと待っている。
ジェームズは路上で音楽を奏で、通行人が投げ入れる金で、かつかつの生活をしている。野良猫を飼う余裕はなく、一度は捨てに行ったが、帰ってみると、また部屋の前で待っている。
この猫はジェームズが好きで、片時もそばを離れない。しょうがないので、路上で演奏するときも、ボブと名づけたその猫を、そばに置いておいた。
すると何ということか、人々はボブに挨拶をし、ちょっかいを出し、たちまち人気者になるではないか。
私はここで、突拍子もないことだが、夏目漱石の猫を思い出した。
こちらは生まれて間もない黒猫が、何度追い出しても、漱石の家に来てしまう。夫人の鏡子が手を焼いていると、書斎から出て来てきた漱石が、それなら置いてやったらよかろう、という。
こうして生まれたばかりの黒猫は、明治の文学史を書き換える活躍をするのである。
漱石のは黒猫だが、ジェームズ・ボーエンの猫は茶トラである。しかしいずれにしても、この猫たちは、自分たちが活躍する本の、いずれは著者になる人のところに、しつこく懐いていく。
まるでこの後、飼い主の運命が、猫とともに激変することを、知っているようだ。そこが実に面白い。
『ボブという名のストリート・キャット』のクライマックスは、末尾近くでジェームズが、ヘロイン中毒を治すところだ。それはおよそ5ページに及んでいるが、その中でも、頂点に当たる部分を取り上げておく。
「その夜は最悪だった。光と音が頭に突き刺さり、テレビを見ることもできなかった。暗い場所に移ると、焦燥感が増し、身体の内側で獰猛な怪物がのたうった。いつやむともなく、脚は暴れまわっていた。体温が急激にあがったりさがったりした。溶鉱炉のなかにいるのかと思うほどいきなり身体がカッカと熱くなり、その直後には氷のように冷たくなる。噴きだした汗が一瞬のうちに引き、ぼくはガタガタと震えだした。毛布を引っかぶると、とつぜんまた身体が燃えるように熱を帯びた。それが何度も何度も繰りかえされた。」
映画でもこの通りだったが、ここは映画で見るよりも、文章の方が、これでもかこれでもかと畳みかけていて、迫力がある。
ジンとするところはジンとさせ、通俗ノンフィクションとしては、言うことのない出来であった。
(『ボブという名のストリート・キャット』ジェームズ・ボーエン、服部京子・訳、
辰巳出版、2013年12月20日初刷、2014年4月1日第5刷)
一時代を築いた装幀家――『装幀余話』(菊地信義)(3)
「僕が編集した本の領域に収まる」とは、どういうことか。
それを記すとすれば、ここからは菊地信義さんへの批判になる。
菊地さんはこう言う。
「つまりその瞬時においてだけは、まさに本を自己化してしまって、物にしてしまっている。極端に言えば、読まなくてもいい、そこで目が釘付けになって、それを瞬時にレジへ持って行ってお金を払い、開きもしないというところまで装幀が行けるんじゃないかと思っているところがあります。」(「加納光於×菊地信義 世界を捲る『書物』あるいは『版画』」、『現代詩手帖』1987年3月号)
素晴らしい。出版社の社長なら、もろ手を挙げて歓びそうなところだ。文句のつけようのない、素晴らしい装幀が出来てきそうだ。
しかし一点の曇りもなく、そう信じていいのか。
「ごく普通に成立している本という、色々な条件の中での作物を、一瞬でもいい、平台における眼差しの瞬間だけ、そこだけオブジェ化してみせようという思いがあるんですよね。といいますのも、今の書物の生成と流通の中で、装幀という過程でかかわる装幀者の作業を正確にしてゆくと、それしかないんじゃないかという思いが僕にあるんですよね。」
装幀者として、「平台における眼差しの瞬間だけ」に賭けるわけだ。それはたしかに才能の要ることだ。
しかし本が生きる時間は、それだけではない。平台で一定期間、陳列されたのち、本は棚に入る。つまり背文字だけで、選ばれていくことになる。
もちろん棚に入ってもなお、平台と同じく、表紙を見せておくやり方もある(「面陳」という)。これは少数だが、今もなお売れていることをアピールするのに、いいやり方だ。そしてここでは、菊地さんの言う「平台の思想」が、なお力を持つ。
しかし本として、もっとも長い年月を過ごすことになるのは、実は読者が買って行った後である。その本は長く読者のもとにあり、場合によっては、繰り返し読まれることになる。
そのときこそ、その装幀は、滅びることのない輝きを持つのだ。
平台にあって燦然と輝き、読者のもとにあって長く愛蔵される本。それは例えば、養老孟司『唯脳論』である。『唯脳論』は今でも、本棚から出して装幀を見ただけで、ドキドキしてしまう。
この装幀は高麗隆彦さんである。だから僕はトランスビューを作ったとき、高麗さんをメインの装幀家にしたのだ。高麗さんは、トランスビュ―のロゴまで作ってくださった。
高麗さんには、森岡正博『無痛文明論』を装幀してもらった。平台でインパクトがあり、棚に長く置かれ、購入した後、読者は愛蔵していると思う。
あえて本が、どのような状態に置かれることが望ましいか、と問われれば、それは読者のもとに愛蔵されることである。
『夫・車谷長吉』(高橋順子著)は、表紙に車谷の絵手紙を入れ、タイトルと著者でそれを挟んだだけの素朴なものだ。その素朴さが、何度も繰り返し朗読することを、支えている。
しかし菊地さんのこの本は、「平台の思想」を、これでもかというくらい強調しているが、菊地さん自身は、それだけではなかった。
たとえば、山川出版の教科書や参考書、歴史地図や歴史年表などは、ほとんど菊地信義が装幀したものだという。菊地さんは、本によって、長く横に置いておくものを、ちゃんと分かっていたのだ。
(『装幀余話』菊地信義、作品社、2023年3月28日初刷)
それを記すとすれば、ここからは菊地信義さんへの批判になる。
菊地さんはこう言う。
「つまりその瞬時においてだけは、まさに本を自己化してしまって、物にしてしまっている。極端に言えば、読まなくてもいい、そこで目が釘付けになって、それを瞬時にレジへ持って行ってお金を払い、開きもしないというところまで装幀が行けるんじゃないかと思っているところがあります。」(「加納光於×菊地信義 世界を捲る『書物』あるいは『版画』」、『現代詩手帖』1987年3月号)
素晴らしい。出版社の社長なら、もろ手を挙げて歓びそうなところだ。文句のつけようのない、素晴らしい装幀が出来てきそうだ。
しかし一点の曇りもなく、そう信じていいのか。
「ごく普通に成立している本という、色々な条件の中での作物を、一瞬でもいい、平台における眼差しの瞬間だけ、そこだけオブジェ化してみせようという思いがあるんですよね。といいますのも、今の書物の生成と流通の中で、装幀という過程でかかわる装幀者の作業を正確にしてゆくと、それしかないんじゃないかという思いが僕にあるんですよね。」
装幀者として、「平台における眼差しの瞬間だけ」に賭けるわけだ。それはたしかに才能の要ることだ。
しかし本が生きる時間は、それだけではない。平台で一定期間、陳列されたのち、本は棚に入る。つまり背文字だけで、選ばれていくことになる。
もちろん棚に入ってもなお、平台と同じく、表紙を見せておくやり方もある(「面陳」という)。これは少数だが、今もなお売れていることをアピールするのに、いいやり方だ。そしてここでは、菊地さんの言う「平台の思想」が、なお力を持つ。
しかし本として、もっとも長い年月を過ごすことになるのは、実は読者が買って行った後である。その本は長く読者のもとにあり、場合によっては、繰り返し読まれることになる。
そのときこそ、その装幀は、滅びることのない輝きを持つのだ。
平台にあって燦然と輝き、読者のもとにあって長く愛蔵される本。それは例えば、養老孟司『唯脳論』である。『唯脳論』は今でも、本棚から出して装幀を見ただけで、ドキドキしてしまう。
この装幀は高麗隆彦さんである。だから僕はトランスビューを作ったとき、高麗さんをメインの装幀家にしたのだ。高麗さんは、トランスビュ―のロゴまで作ってくださった。
高麗さんには、森岡正博『無痛文明論』を装幀してもらった。平台でインパクトがあり、棚に長く置かれ、購入した後、読者は愛蔵していると思う。
あえて本が、どのような状態に置かれることが望ましいか、と問われれば、それは読者のもとに愛蔵されることである。
『夫・車谷長吉』(高橋順子著)は、表紙に車谷の絵手紙を入れ、タイトルと著者でそれを挟んだだけの素朴なものだ。その素朴さが、何度も繰り返し朗読することを、支えている。
しかし菊地さんのこの本は、「平台の思想」を、これでもかというくらい強調しているが、菊地さん自身は、それだけではなかった。
たとえば、山川出版の教科書や参考書、歴史地図や歴史年表などは、ほとんど菊地信義が装幀したものだという。菊地さんは、本によって、長く横に置いておくものを、ちゃんと分かっていたのだ。
(『装幀余話』菊地信義、作品社、2023年3月28日初刷)
一時代を築いた装幀家――『装幀余話』(菊地信義)(2)
菊地信義さんの装幀は、他の装幀家とはまったく違う。
「例えば、この作家の今度の作品はこういう哀しい女性が主人公だ。この女性のイメージは誰がうまいだろうか、というので絵描きを捜すというレベルで絵が発生し、装幀が発生するというところから僕は無縁でありたいんです。一つの美学的で芸術的だった今までの装幀ジャンルには憧れがない。〔中略〕
むしろ、そういうものに対しても、またそれを存在せしめる現代という時代や読者に向かっても批評的でありたい。〔中略〕現代そのものをいかに批評しながら編むかということです。」(「読書人」1984年11月5日付)
これは難しいことを言っているようだが、装幀という具体物が入ってくると、よくわかる話だ。
たとえば島田雅彦の『優しいサヨクのための喜遊曲』や、干刈あがたの『しずかにわたすこがねのゆびわ』の装幀を受け取ったときの、編集者の驚きはどれほどのものであったか。
また別のところでは、装幀家の名前を挙げて、そういう人たちとの違いを述べている(「週刊文春」1984年11月15日号)
そこでは司修や和田誠、山藤章二や安野光雅の装幀は、「たんなる内容の説明ではない、内容の構造を絵解きした仕事」であるという。さらに杉浦康平になると、もはや本の「説明」ではなく、「解説」である。杉浦康平は「本を人体にたとえ、本の表面はその人体の顔にあたる。顔を見ただけで人品がわかるように、本の表面にすべてを盛りこみたい」と語っている。
菊地信義はそれらとは違う。
「装幀の仕事は、本の内容を読みきるところから始まります。装幀に生かされる図像、色、紙の質感、文字の表情などは、テキストの内容から当然見えてこなければならない。」
これを正確にやれる人が、何人いるというのか。だから装幀家は、何人かのトッププロが独占する状態になっているのだ。
しかし菊地信義の、誰とも違う真骨頂は、ここから先にある。
「私が考えるのは、そうやって見えてきたものをひとまず置いて、読者の側に一度立ってみることなんです。こんなふうに見えてきた本を読みたいと思う人はどういう人だろう。いまはまだかくれているこの本の読者の心の状態や精神構造ってどんなものなんだろう? 五千部刷られた本は、五千人の読者を発見するための五千通りの顔をもつべきです。ではその顔はどんな顔がいいんだろう? そこが私にとって装幀の重要な角度なんです。」
これはたしかに、出版社にとっては有り難い話だ。編集者が策を凝らして考えるべきことを、菊地さんがやっている。
これは場合によっては、ちょっと困ったことにもなる。1つの仕事に、編集者は2人いらないからだ。
僕は法蔵館にいるとき、菊地さんに一度だけ装幀を頼んだことがある。トランスビューになってからは、創業して10年近くたってから、若松英輔さんと菊地史彦さんの装幀を頼んだ。
若松さんのは、『神秘の夜の旅』、『魂に触れる―大震災と、生きている死者―』、『池田晶子 不滅の哲学』の3冊、菊地さんのは『「幸せ」の戦後史』、『「若者」の時代』の2冊である。
これらなら、菊地信義がどう工夫をこらそうが、僕の方でおさめる力があると思われたのだ。その5点はいずれも素晴らしい装幀であり、そして僕が編集した本の領域に収まっていた。
では、僕が編集した本の領域とは、どういうことか。
「例えば、この作家の今度の作品はこういう哀しい女性が主人公だ。この女性のイメージは誰がうまいだろうか、というので絵描きを捜すというレベルで絵が発生し、装幀が発生するというところから僕は無縁でありたいんです。一つの美学的で芸術的だった今までの装幀ジャンルには憧れがない。〔中略〕
むしろ、そういうものに対しても、またそれを存在せしめる現代という時代や読者に向かっても批評的でありたい。〔中略〕現代そのものをいかに批評しながら編むかということです。」(「読書人」1984年11月5日付)
これは難しいことを言っているようだが、装幀という具体物が入ってくると、よくわかる話だ。
たとえば島田雅彦の『優しいサヨクのための喜遊曲』や、干刈あがたの『しずかにわたすこがねのゆびわ』の装幀を受け取ったときの、編集者の驚きはどれほどのものであったか。
また別のところでは、装幀家の名前を挙げて、そういう人たちとの違いを述べている(「週刊文春」1984年11月15日号)
そこでは司修や和田誠、山藤章二や安野光雅の装幀は、「たんなる内容の説明ではない、内容の構造を絵解きした仕事」であるという。さらに杉浦康平になると、もはや本の「説明」ではなく、「解説」である。杉浦康平は「本を人体にたとえ、本の表面はその人体の顔にあたる。顔を見ただけで人品がわかるように、本の表面にすべてを盛りこみたい」と語っている。
菊地信義はそれらとは違う。
「装幀の仕事は、本の内容を読みきるところから始まります。装幀に生かされる図像、色、紙の質感、文字の表情などは、テキストの内容から当然見えてこなければならない。」
これを正確にやれる人が、何人いるというのか。だから装幀家は、何人かのトッププロが独占する状態になっているのだ。
しかし菊地信義の、誰とも違う真骨頂は、ここから先にある。
「私が考えるのは、そうやって見えてきたものをひとまず置いて、読者の側に一度立ってみることなんです。こんなふうに見えてきた本を読みたいと思う人はどういう人だろう。いまはまだかくれているこの本の読者の心の状態や精神構造ってどんなものなんだろう? 五千部刷られた本は、五千人の読者を発見するための五千通りの顔をもつべきです。ではその顔はどんな顔がいいんだろう? そこが私にとって装幀の重要な角度なんです。」
これはたしかに、出版社にとっては有り難い話だ。編集者が策を凝らして考えるべきことを、菊地さんがやっている。
これは場合によっては、ちょっと困ったことにもなる。1つの仕事に、編集者は2人いらないからだ。
僕は法蔵館にいるとき、菊地さんに一度だけ装幀を頼んだことがある。トランスビューになってからは、創業して10年近くたってから、若松英輔さんと菊地史彦さんの装幀を頼んだ。
若松さんのは、『神秘の夜の旅』、『魂に触れる―大震災と、生きている死者―』、『池田晶子 不滅の哲学』の3冊、菊地さんのは『「幸せ」の戦後史』、『「若者」の時代』の2冊である。
これらなら、菊地信義がどう工夫をこらそうが、僕の方でおさめる力があると思われたのだ。その5点はいずれも素晴らしい装幀であり、そして僕が編集した本の領域に収まっていた。
では、僕が編集した本の領域とは、どういうことか。
一時代を築いた装幀家――『装幀余話』(菊地信義)(1)
菊地信義氏のこの本は、本書を編集した作品社の増子信一さんに頂いた。
菊地さんは、2022年3月28日に亡くなった。この本は没後の出版であり、その意味では、「本書は『未完』であり、事実関係や言い回しの未確定な部分の最終的な判断は、筆者〔=増子〕がなしたものである。」(「解題」)
それを前提に読んでいくのだが、さすがに読みごたえがある。菊地信義という一時代を築いた人の、最後の本にふさわしいと言える。
菊地さんがやった装幀のカラー口絵が8ページついており、これは本文と連動している。それは次の通り。
1 中上健次『水の女』(1p.)
2 瀬戸内晴美『花火』(1p.)
3 埴谷雄高『光速者』(2p. )
(ここは函だけでなく、見返しに埴谷さんの脳のCTスキャンが載せてある。)
4 中上健次『鳳仙花』(3p.)
5 古井由吉『槿』〔あさがお〕(4p.)
6 入沢康夫『夢の佐比』(5p.)
7 鈴木順三郎『切株の優しい人語、神様の舌はみどり』(5p.)
8 谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』(6p.)
9 山口百恵『蒼い時』(7p.)
10 俵万智『サラダ記念日』(7p.)
11 竹西寛子『兵隊宿』(8p.)
12 古井由吉『椋鳥』(8p.)
この口絵だけで、入沢康夫の詩集から、中上健次、古井由吉の純文学作品、そして山口百恵、俵万智の大ベストセラーまで、この装幀家のカバーした、驚くべき範囲がよく分かる。
「序」として「装幀の余白から」という講演が入っている。これは2014年7月5日、神奈川近代文学館で、「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」を、開催したときのものだ。
このときは僕も参加した。その冒頭にこんなことが述べられる。
「『いまどきなんで装幀展を文学館でやるんだ?』という冷やかしを受けたりもしました。それに対して、『紙の本が博物館の陳列ケースの中でしか見られなくなる時代がすぐそこまで来ているんだ』と。いってみれば、近未来の紙の本への警告なんですね。」
10年前にはこのテーマで、菊地信義が講演することになれば、ある数の人が集まったのだ。いまはもう、菊地さんが生きていたって、このテーマでは人は集まるまいし、菊地さんも断ったのではないか。
しかし10年前には、この道でやっていくと決めた、一群の人たち(僕も含まれる)が、たしかにいたのだ。
そういう人たちが、菊地さんの次のような話を、ふむふむと納得しながら聞いていた。
「実は紙の匂いというのも本にとっては大事な要素です。もう三、四十年も昔のことですが、ある編集者の方から、『紙は出版社によってみんな違う匂いがする。中央公論の紙はすこし酸っぱい、新潮社は少し甘い匂いがする』と教えられました。というのは、そのころ大手の出版社はそれぞれ特漉〔とくす〕きの紙――各社独自の注文で製造した本文紙――を使っていたんです。」
僕は中学生のころを思い出す。あのころ加古川から姫路まで通っていた僕は、加古川駅前の下司〔げし〕書店で、文庫の棚を行きつ戻りつしていた。
新潮文庫と角川文庫には、はっきり違う匂いがあり、新潮文庫の『赤と黒』と、角川文庫の『吾輩は猫である』は、それぞれぴったりした匂いがついていた。
菊地さんは、2022年3月28日に亡くなった。この本は没後の出版であり、その意味では、「本書は『未完』であり、事実関係や言い回しの未確定な部分の最終的な判断は、筆者〔=増子〕がなしたものである。」(「解題」)
それを前提に読んでいくのだが、さすがに読みごたえがある。菊地信義という一時代を築いた人の、最後の本にふさわしいと言える。
菊地さんがやった装幀のカラー口絵が8ページついており、これは本文と連動している。それは次の通り。
1 中上健次『水の女』(1p.)
2 瀬戸内晴美『花火』(1p.)
3 埴谷雄高『光速者』(2p. )
(ここは函だけでなく、見返しに埴谷さんの脳のCTスキャンが載せてある。)
4 中上健次『鳳仙花』(3p.)
5 古井由吉『槿』〔あさがお〕(4p.)
6 入沢康夫『夢の佐比』(5p.)
7 鈴木順三郎『切株の優しい人語、神様の舌はみどり』(5p.)
8 谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』(6p.)
9 山口百恵『蒼い時』(7p.)
10 俵万智『サラダ記念日』(7p.)
11 竹西寛子『兵隊宿』(8p.)
12 古井由吉『椋鳥』(8p.)
この口絵だけで、入沢康夫の詩集から、中上健次、古井由吉の純文学作品、そして山口百恵、俵万智の大ベストセラーまで、この装幀家のカバーした、驚くべき範囲がよく分かる。
「序」として「装幀の余白から」という講演が入っている。これは2014年7月5日、神奈川近代文学館で、「装幀=菊地信義とある『著者50人の本』展」を、開催したときのものだ。
このときは僕も参加した。その冒頭にこんなことが述べられる。
「『いまどきなんで装幀展を文学館でやるんだ?』という冷やかしを受けたりもしました。それに対して、『紙の本が博物館の陳列ケースの中でしか見られなくなる時代がすぐそこまで来ているんだ』と。いってみれば、近未来の紙の本への警告なんですね。」
10年前にはこのテーマで、菊地信義が講演することになれば、ある数の人が集まったのだ。いまはもう、菊地さんが生きていたって、このテーマでは人は集まるまいし、菊地さんも断ったのではないか。
しかし10年前には、この道でやっていくと決めた、一群の人たち(僕も含まれる)が、たしかにいたのだ。
そういう人たちが、菊地さんの次のような話を、ふむふむと納得しながら聞いていた。
「実は紙の匂いというのも本にとっては大事な要素です。もう三、四十年も昔のことですが、ある編集者の方から、『紙は出版社によってみんな違う匂いがする。中央公論の紙はすこし酸っぱい、新潮社は少し甘い匂いがする』と教えられました。というのは、そのころ大手の出版社はそれぞれ特漉〔とくす〕きの紙――各社独自の注文で製造した本文紙――を使っていたんです。」
僕は中学生のころを思い出す。あのころ加古川から姫路まで通っていた僕は、加古川駅前の下司〔げし〕書店で、文庫の棚を行きつ戻りつしていた。
新潮文庫と角川文庫には、はっきり違う匂いがあり、新潮文庫の『赤と黒』と、角川文庫の『吾輩は猫である』は、それぞれぴったりした匂いがついていた。
トラウマと記憶をめぐる話――『記憶を消す子供たち』(レノア・テア)(3)
この本が特に優れているのは、第6章の『名子役』少女の物語」で、「偽記憶」を扱っている点だ。
レノア・テアは、女性の児童精神科医が、患者に対する性的虐待で訴えられた事件を担当する。患者はルア・グリーンという10歳の美少女である。
自動車修理工の父親と、母親が、娘の代理人として訴えた。これは刑法違反としては証拠不十分で起訴を免れたが、民事賠償を求める訴訟は続いていた。
「偽記憶の可能性が高いのは、近親姦の被害者専門のセラピストの場合である。この場合、患者は最初から子供時代の近親姦の記憶を予想している。セラピストと患者が、トラウマ体験の記憶が掘り起こされなければ治療が成功しないと信じている場合には、ますます〔偽記憶の〕問題が起こりやすい。」
患者は、自分の記憶に対し懐疑的なセラピストは、好まないのである。その結果、偽記憶がまかり通ることになる。
「記憶が偽りであるかどうかを判断する方法のひとつは、記憶と関連する症状や徴候があるかどうかを観察することである。〔中略〕恐ろしい噂や他者のトラウマの症状にさらされただけの場合、子供は一、二の症状を示したり、『物語』をつくりあげたりするかもしれないが、一連の症状や徴候を示すことはない。」
しかしこう述べたからといって、偽記憶のすべてが意図的な偽りではないし、また意図的に植え付けられたとも限らない。家族やセラピストの示唆、善意の人々の噂や、本やテレビ番組に影響されて、ありもしないことを、経験したと思っているだけなのだ。
10歳のルア・グリーンの証言は、嘘というよりも、男の兄弟をかわいがり過ぎる母親の注目を引こうとする、無意識の補償的行動だったのだろう。
この訴訟は、一切の不法行為も怠慢もないということで無罪になった。
第7章の「『ブラック・ダリア』の息子」の主役は、ミステリー作家のジェイムズ・エルロイ、『ブラック・ダリア』や『LAコンフィデンシャル』のエルロイだ。
彼は10歳のとき、母親を惨殺され、犯人は今も捕まっていない。この母親は離婚して、エルロイと一緒に暮らしていた。
1958年6月23日の『ロサンゼルス・タイムズ』の記事によると、
「日曜日の早朝にジーン・エルロイという看護婦の絞殺死体が、ロサンゼルス郊外のエルモンテで発見された。〔中略〕プリント柄のドレスは破れて腹部までめくりあげられ、下着はなかった。ブラジャーは遺体のそばの蔦にひっかかっていた。裸足で、ストッキングの片方はくるぶしまで引き下げられ、もう一方は遺体の首に巻きついていた。下半身は女性用のネイヴィーブルーのオーバーでおおわれていた。被害者の真珠のネックレス切れ、真珠がそばに散乱していた。」
ここまで書かれると、どんな子供でもトラウマになる。
記事はまだ続く。
「ミセス・エルロイは細い丈夫な綿の紐で締められていた。被害者の首についた痕からみて、ストッキングが凶器でないのはあきらかだった。被害者は激しく抵抗したらしく、爪が一本折れていた。左の臀部にはアスファルトの上をひきずられた跡があった。」
これはトラウマになるというよりは、子供のその後の人生を、決定づけることになりそうだ。
しかもこの母親は、家の中ではしばしば裸で暮らし、エルロイはその裸を盗み見ていた。その後の彼は、徹底的に孤独であり、必然的に麻薬中毒になっていく。原稿を書くまでのエルロイの人生は、悲惨なものだった。
レノア・テアは、もう一人の作家、スティーヴン・キングを思い出す。キングは4歳のとき、友だちと線路で遊んでいて、友だちが貨車にはねられた。
キングは、列車事故の記憶はないという。しかしその作品には、機械的な怪物がたくさん出てくるし、恐怖を表現するのに、列車の比喩をよく使う。『スタンド・バイ・ミー』では、文字通り列車に追いかけられ、間一髪のところで難を逃れる。
「キングとエルロイの子供時代の遊びの陰には、突然の破滅的な死が横たわっている。恐ろしい記憶が意識的にか無意識的にか、成人後の遊び、つまり作品のテーマを決定している。」
この本は、実は半分は学術書である。脳の中を心理的、神経学的に探究すればどうなるか、そのことを細かく書いている。養老さんが「名著である」と言ったのは、そこの事だと思う。しかし私には、脳の中の事よりは、それが外に出た後が、面白かったのである。
(『記憶を消す子供たち』レノア・テア、吉田利子・訳、
草思社、1995年8月29日初刷、1998年6月5日第12刷)
レノア・テアは、女性の児童精神科医が、患者に対する性的虐待で訴えられた事件を担当する。患者はルア・グリーンという10歳の美少女である。
自動車修理工の父親と、母親が、娘の代理人として訴えた。これは刑法違反としては証拠不十分で起訴を免れたが、民事賠償を求める訴訟は続いていた。
「偽記憶の可能性が高いのは、近親姦の被害者専門のセラピストの場合である。この場合、患者は最初から子供時代の近親姦の記憶を予想している。セラピストと患者が、トラウマ体験の記憶が掘り起こされなければ治療が成功しないと信じている場合には、ますます〔偽記憶の〕問題が起こりやすい。」
患者は、自分の記憶に対し懐疑的なセラピストは、好まないのである。その結果、偽記憶がまかり通ることになる。
「記憶が偽りであるかどうかを判断する方法のひとつは、記憶と関連する症状や徴候があるかどうかを観察することである。〔中略〕恐ろしい噂や他者のトラウマの症状にさらされただけの場合、子供は一、二の症状を示したり、『物語』をつくりあげたりするかもしれないが、一連の症状や徴候を示すことはない。」
しかしこう述べたからといって、偽記憶のすべてが意図的な偽りではないし、また意図的に植え付けられたとも限らない。家族やセラピストの示唆、善意の人々の噂や、本やテレビ番組に影響されて、ありもしないことを、経験したと思っているだけなのだ。
10歳のルア・グリーンの証言は、嘘というよりも、男の兄弟をかわいがり過ぎる母親の注目を引こうとする、無意識の補償的行動だったのだろう。
この訴訟は、一切の不法行為も怠慢もないということで無罪になった。
第7章の「『ブラック・ダリア』の息子」の主役は、ミステリー作家のジェイムズ・エルロイ、『ブラック・ダリア』や『LAコンフィデンシャル』のエルロイだ。
彼は10歳のとき、母親を惨殺され、犯人は今も捕まっていない。この母親は離婚して、エルロイと一緒に暮らしていた。
1958年6月23日の『ロサンゼルス・タイムズ』の記事によると、
「日曜日の早朝にジーン・エルロイという看護婦の絞殺死体が、ロサンゼルス郊外のエルモンテで発見された。〔中略〕プリント柄のドレスは破れて腹部までめくりあげられ、下着はなかった。ブラジャーは遺体のそばの蔦にひっかかっていた。裸足で、ストッキングの片方はくるぶしまで引き下げられ、もう一方は遺体の首に巻きついていた。下半身は女性用のネイヴィーブルーのオーバーでおおわれていた。被害者の真珠のネックレス切れ、真珠がそばに散乱していた。」
ここまで書かれると、どんな子供でもトラウマになる。
記事はまだ続く。
「ミセス・エルロイは細い丈夫な綿の紐で締められていた。被害者の首についた痕からみて、ストッキングが凶器でないのはあきらかだった。被害者は激しく抵抗したらしく、爪が一本折れていた。左の臀部にはアスファルトの上をひきずられた跡があった。」
これはトラウマになるというよりは、子供のその後の人生を、決定づけることになりそうだ。
しかもこの母親は、家の中ではしばしば裸で暮らし、エルロイはその裸を盗み見ていた。その後の彼は、徹底的に孤独であり、必然的に麻薬中毒になっていく。原稿を書くまでのエルロイの人生は、悲惨なものだった。
レノア・テアは、もう一人の作家、スティーヴン・キングを思い出す。キングは4歳のとき、友だちと線路で遊んでいて、友だちが貨車にはねられた。
キングは、列車事故の記憶はないという。しかしその作品には、機械的な怪物がたくさん出てくるし、恐怖を表現するのに、列車の比喩をよく使う。『スタンド・バイ・ミー』では、文字通り列車に追いかけられ、間一髪のところで難を逃れる。
「キングとエルロイの子供時代の遊びの陰には、突然の破滅的な死が横たわっている。恐ろしい記憶が意識的にか無意識的にか、成人後の遊び、つまり作品のテーマを決定している。」
この本は、実は半分は学術書である。脳の中を心理的、神経学的に探究すればどうなるか、そのことを細かく書いている。養老さんが「名著である」と言ったのは、そこの事だと思う。しかし私には、脳の中の事よりは、それが外に出た後が、面白かったのである。
(『記憶を消す子供たち』レノア・テア、吉田利子・訳、
草思社、1995年8月29日初刷、1998年6月5日第12刷)
トラウマと記憶をめぐる話――『記憶を消す子供たち』(レノア・テア)(2)
「銀色の水面」という章に、ダイヴィングの好きな男性が出てくる。この人は幼児期に、母親に何度も川へ放り込まれたり、風呂で溺れさせられようとした。
しかしそういう子供時代の記憶はなく、大人になって、ダイヴィングにとり憑かれた。
恐ろしい目に遇った子供が、成人したのち、自発的に同じことをするようになるとは、皮肉な感じがするだろう。
だがレノア・テアは、そうではないという。
「芸術家は子供時代のトラウマを作品のなかでくりかえし再現している。ルネ・マグリットが十四歳のとき、母が不慮の死を遂げた。母親はサンブル川に身を投げて自殺し、遺体は数日間あがらなかった。画家になったマグリットはこの思い出を何度も再現し、ウナギがたくさん棲む工場地帯の川から引きあげられ、家に運ばれた母の遺体のイメージを『もてあそんだ』。母の遺体の顔は損なわれ、腹部はふくれあがっていたにちがいない。」
ルネ・マグリットの子供時代に、そんなことがあったとは、全く知らなかった。
「マグリットはこれらの思い出を、ベールをかぶった人間や顔のない人間の絵にくりかえし再現している。彼は布包み、リンゴ、山高帽、空などさまざまなものを描くが、顔だけはない。また水のような背景をよく描く。彼は恐怖のイメージを再製している。また、ふくらんだ腹の、一部は人間で一部は魚という奇妙な女性を描く。水から引きあげられた女性にきわめて近いイメージである。」
信じられないことだが、洗練されたポップな絵の向こうに、土座衛門の母の姿が浮かんでいる。
こういう種明かしに近いことをやって見せられると、このような絵の見方から、自由になることは難しい。
ルネ・マグリットの次は、ムンクの話である。
「エドアルド・ムンクは五歳のときに結核で母をなくした。妹も十四歳のときに同じ病気で亡くなった。これらの死は、ムンクの、棺のなかの女性や赤ん坊(あるいは胎児)の絵にくりかえされている。彼は死の床を描く。恐怖を描く。彼の描く女性は生きていても死んでいるようだ。だが何よりもすさまじく恐ろしいのは、恐怖におののく生き残った人間たちのイメージである。それは彼自身なのだ。」
そこで例の『叫び』が、心に浮かんでくる。ムンクの『叫び』は、母を喪い、妹を喪った結果であったのか。あの絵を観ても、そういうふうにしか読み取れなくなってくる。
そして、あのフリーダ・カーロ。
「十代のとき、乗っていた路面電車がバスと衝突し、身体に金属の手すりが突き刺さった。この事故の苦痛の影響は、ひどく傷つき、ときには表情を歪め、目を見張った自画像にくりかえしあらわれている。」
フリーダの自画像には、そういう秘密があったのだ。
とはいえ交通事故なら、程度の差はあれ、遭った人は大勢いる。フリーダ・カーロの特異な感受性が、交通事故を契機に花開いたというべきだろう(花開いた、はおかしいかな)。
しかしフリーダの次の例は、それとは少し違う。
「彼女は六歳のときに小児麻痺で右足が不自由になり、九カ月床についていた。このとき彼女は、地球の中心に住んでいてダンスができる想像上の少女を『訪れ』た。この記憶も焼きついて離れなかったらしい。四十歳のカーロが描いたもっとも有名な作品のひとつ、『二人のフリーダ』は、健康なフリーダが瓜二つの弱ったフリーダに輸血している絵だ」。
フリーダ・カーロの絵で、もっとも有名なのはこれだろう。
マグリットにしてもムンクにしてもフリーダ・カーロにしても、こういうことがトラウマになって、だからこういう絵を描いたのだ、と絵解きすることは、つまらないことではないだろうか。
そうではなくて、絵として結晶する際、トラウマが触媒となって働いたということだろう。
ただ子供のころのトラウマが、大人になっても、何度も何度も現われたというのは、どうしようもなく事実なのだ。
しかしそういう子供時代の記憶はなく、大人になって、ダイヴィングにとり憑かれた。
恐ろしい目に遇った子供が、成人したのち、自発的に同じことをするようになるとは、皮肉な感じがするだろう。
だがレノア・テアは、そうではないという。
「芸術家は子供時代のトラウマを作品のなかでくりかえし再現している。ルネ・マグリットが十四歳のとき、母が不慮の死を遂げた。母親はサンブル川に身を投げて自殺し、遺体は数日間あがらなかった。画家になったマグリットはこの思い出を何度も再現し、ウナギがたくさん棲む工場地帯の川から引きあげられ、家に運ばれた母の遺体のイメージを『もてあそんだ』。母の遺体の顔は損なわれ、腹部はふくれあがっていたにちがいない。」
ルネ・マグリットの子供時代に、そんなことがあったとは、全く知らなかった。
「マグリットはこれらの思い出を、ベールをかぶった人間や顔のない人間の絵にくりかえし再現している。彼は布包み、リンゴ、山高帽、空などさまざまなものを描くが、顔だけはない。また水のような背景をよく描く。彼は恐怖のイメージを再製している。また、ふくらんだ腹の、一部は人間で一部は魚という奇妙な女性を描く。水から引きあげられた女性にきわめて近いイメージである。」
信じられないことだが、洗練されたポップな絵の向こうに、土座衛門の母の姿が浮かんでいる。
こういう種明かしに近いことをやって見せられると、このような絵の見方から、自由になることは難しい。
ルネ・マグリットの次は、ムンクの話である。
「エドアルド・ムンクは五歳のときに結核で母をなくした。妹も十四歳のときに同じ病気で亡くなった。これらの死は、ムンクの、棺のなかの女性や赤ん坊(あるいは胎児)の絵にくりかえされている。彼は死の床を描く。恐怖を描く。彼の描く女性は生きていても死んでいるようだ。だが何よりもすさまじく恐ろしいのは、恐怖におののく生き残った人間たちのイメージである。それは彼自身なのだ。」
そこで例の『叫び』が、心に浮かんでくる。ムンクの『叫び』は、母を喪い、妹を喪った結果であったのか。あの絵を観ても、そういうふうにしか読み取れなくなってくる。
そして、あのフリーダ・カーロ。
「十代のとき、乗っていた路面電車がバスと衝突し、身体に金属の手すりが突き刺さった。この事故の苦痛の影響は、ひどく傷つき、ときには表情を歪め、目を見張った自画像にくりかえしあらわれている。」
フリーダの自画像には、そういう秘密があったのだ。
とはいえ交通事故なら、程度の差はあれ、遭った人は大勢いる。フリーダ・カーロの特異な感受性が、交通事故を契機に花開いたというべきだろう(花開いた、はおかしいかな)。
しかしフリーダの次の例は、それとは少し違う。
「彼女は六歳のときに小児麻痺で右足が不自由になり、九カ月床についていた。このとき彼女は、地球の中心に住んでいてダンスができる想像上の少女を『訪れ』た。この記憶も焼きついて離れなかったらしい。四十歳のカーロが描いたもっとも有名な作品のひとつ、『二人のフリーダ』は、健康なフリーダが瓜二つの弱ったフリーダに輸血している絵だ」。
フリーダ・カーロの絵で、もっとも有名なのはこれだろう。
マグリットにしてもムンクにしてもフリーダ・カーロにしても、こういうことがトラウマになって、だからこういう絵を描いたのだ、と絵解きすることは、つまらないことではないだろうか。
そうではなくて、絵として結晶する際、トラウマが触媒となって働いたということだろう。
ただ子供のころのトラウマが、大人になっても、何度も何度も現われたというのは、どうしようもなく事実なのだ。
トラウマと記憶をめぐる話――『記憶を消す子供たち』(レノア・テア)(1)
これは養老先生の『臨床読書日記』を読んでいるときに、行き当たった。この本はもう何度も朗読しているが、その度に心に引っかかるところが違う。
今回は、「『記憶を消す子供たち』は名著である」という何気ない1行に、感応してしまった。たった一言、「名著である」。これでは何も分からない。しかし養老さんがそう言っているのだから、必ず読む価値はある。
著者はレノア・テア、カリフォルニア大学の精神医学臨床教授。トラウマ体験と記憶に関するエキスパート、と著者紹介にある。
全部で8つの事件を取り上げてある。
第1章は「二〇年前の殺人の目撃者」。これはアイリーンという8歳の女の子が、親友と遊んでいるときに、自分の父親が親友を殺すのを見て、それを20年間、記憶の底に沈め、そして浮かび上がらせてきた話である。
ちなみにこの本で取り上げるのは、実名、仮名を含めて、すべて実話である。
この女性の場合は、自分の子供が、20年前に殺された親友とよく似ていることから、記憶が甦った。
しかしそんなことがあるんだろうか。
「抑圧された記憶がよみがえる条件としては、基盤となる全般的な感情の状態ときっかけの両方がある。家を出たあとの安らぎは、記憶回復につながる基盤である。ほとんどの人は二十代で家を出て、やがて自分自身の家庭をつくる。わが子の誕生や発育は、自らの子供時代を考えさせる刺激になる。」
それはそうかもしれない。自分の子供を見ているうちに、自分の子供時代を思い出す。これは誰でもある話だ。
しかしそれに付随して、自分の父親が殺人を犯したのを思い出す、というのはありそうにない。というか、子供の前で殺人を犯す父親というのは、あまりに稀有な存在だろう。
「子どもの場合、抑制は抑圧への一里塚であることが多い。フロイトは抑圧を『フェルドゥレングング』(押しのけること)と呼んだ。押しのけられた記憶はかんたんに、そして永久に意識から取り除かれてしまう。一部の子供、とくにすでにトラウマ体験を有している子供の場合、この作用は単純でほとんど自動的に起こる。」
信じられないことだけど、精神医学の専門家が言うんだから、そういうこともあるのだろう。
「アイリーン・フランクリンもそうだった。八歳の彼女にとって、抑制はもはや一時的な営為ではなく、即、抑圧につながった。考えたり意図したりしなくても、アイリーンは記憶を意識の外に押しのけることができたのだろう。」
ところがそれだけではなかった。
「アイリーンは、裁判前の数カ月間につぎつぎに近親相姦の記憶を取り戻した。抑圧が起こるのも無理はなかった。たとえばあるとき、父親は家のバスタブのなかで彼女をレイプし、アナル・セックスをした。アイリーンは三歳から五歳のあいだだったらしい。〔中略〕そして、アイリーンは幼いころのほかの多くの恐怖を忘れ、記憶も失った。」
さらにアイリーンは7,8歳の頃に、名付け親にレイプされたことがある。そのとき父親のジョージは、彼女の左肩を押さえ、悲鳴を上げないよう口を塞いでいたのだ。
これは名付け親の男が、ジョージに娘をレイプさせろと言ったので、父から友人への「恐るべきプレゼント」だった。
なんだか「記憶を消す子供たち」よりも、「アメリカの信じられない崩壊家庭」の方が、切実に迫ってくる。
「一九八六年、サンフランシスコの女性九三〇人を調査したベイ・エリアの社会学者ダイアナ・ラッセルは、六人に一人が十八歳未満に近親姦を経験していたと述べている。」
これは本当なのかな。たとえば日本の場合、こういう調査をした例はあるのだろうか。仮に調査をするとして、素直に応じるものだろうか。子供のときの記憶を、消している女性もいるだろうに(とこれはイヤミ)。
ともあれこの20年前の事件は、著者の努力の甲斐もあって、父親は有罪になった。
最後の一段は、アイリーンがアメリカ精神医学会で、「記憶の回復と裁判での証言」について講演するところである。
「つぎつぎに精神科医に話しかけられ、ねぎらいの言葉をかけられているうちに、アイリーンの表情はだんだん明るくなった。そして、やがてはお月さまのように輝きはじめたのである。」
アイリーンは苦労したけれど、今は幸せになろうとしている、と著者は言いたいらしい。しかしこの女性は、これからも苦しむことになるのではないか。
今回は、「『記憶を消す子供たち』は名著である」という何気ない1行に、感応してしまった。たった一言、「名著である」。これでは何も分からない。しかし養老さんがそう言っているのだから、必ず読む価値はある。
著者はレノア・テア、カリフォルニア大学の精神医学臨床教授。トラウマ体験と記憶に関するエキスパート、と著者紹介にある。
全部で8つの事件を取り上げてある。
第1章は「二〇年前の殺人の目撃者」。これはアイリーンという8歳の女の子が、親友と遊んでいるときに、自分の父親が親友を殺すのを見て、それを20年間、記憶の底に沈め、そして浮かび上がらせてきた話である。
ちなみにこの本で取り上げるのは、実名、仮名を含めて、すべて実話である。
この女性の場合は、自分の子供が、20年前に殺された親友とよく似ていることから、記憶が甦った。
しかしそんなことがあるんだろうか。
「抑圧された記憶がよみがえる条件としては、基盤となる全般的な感情の状態ときっかけの両方がある。家を出たあとの安らぎは、記憶回復につながる基盤である。ほとんどの人は二十代で家を出て、やがて自分自身の家庭をつくる。わが子の誕生や発育は、自らの子供時代を考えさせる刺激になる。」
それはそうかもしれない。自分の子供を見ているうちに、自分の子供時代を思い出す。これは誰でもある話だ。
しかしそれに付随して、自分の父親が殺人を犯したのを思い出す、というのはありそうにない。というか、子供の前で殺人を犯す父親というのは、あまりに稀有な存在だろう。
「子どもの場合、抑制は抑圧への一里塚であることが多い。フロイトは抑圧を『フェルドゥレングング』(押しのけること)と呼んだ。押しのけられた記憶はかんたんに、そして永久に意識から取り除かれてしまう。一部の子供、とくにすでにトラウマ体験を有している子供の場合、この作用は単純でほとんど自動的に起こる。」
信じられないことだけど、精神医学の専門家が言うんだから、そういうこともあるのだろう。
「アイリーン・フランクリンもそうだった。八歳の彼女にとって、抑制はもはや一時的な営為ではなく、即、抑圧につながった。考えたり意図したりしなくても、アイリーンは記憶を意識の外に押しのけることができたのだろう。」
ところがそれだけではなかった。
「アイリーンは、裁判前の数カ月間につぎつぎに近親相姦の記憶を取り戻した。抑圧が起こるのも無理はなかった。たとえばあるとき、父親は家のバスタブのなかで彼女をレイプし、アナル・セックスをした。アイリーンは三歳から五歳のあいだだったらしい。〔中略〕そして、アイリーンは幼いころのほかの多くの恐怖を忘れ、記憶も失った。」
さらにアイリーンは7,8歳の頃に、名付け親にレイプされたことがある。そのとき父親のジョージは、彼女の左肩を押さえ、悲鳴を上げないよう口を塞いでいたのだ。
これは名付け親の男が、ジョージに娘をレイプさせろと言ったので、父から友人への「恐るべきプレゼント」だった。
なんだか「記憶を消す子供たち」よりも、「アメリカの信じられない崩壊家庭」の方が、切実に迫ってくる。
「一九八六年、サンフランシスコの女性九三〇人を調査したベイ・エリアの社会学者ダイアナ・ラッセルは、六人に一人が十八歳未満に近親姦を経験していたと述べている。」
これは本当なのかな。たとえば日本の場合、こういう調査をした例はあるのだろうか。仮に調査をするとして、素直に応じるものだろうか。子供のときの記憶を、消している女性もいるだろうに(とこれはイヤミ)。
ともあれこの20年前の事件は、著者の努力の甲斐もあって、父親は有罪になった。
最後の一段は、アイリーンがアメリカ精神医学会で、「記憶の回復と裁判での証言」について講演するところである。
「つぎつぎに精神科医に話しかけられ、ねぎらいの言葉をかけられているうちに、アイリーンの表情はだんだん明るくなった。そして、やがてはお月さまのように輝きはじめたのである。」
アイリーンは苦労したけれど、今は幸せになろうとしている、と著者は言いたいらしい。しかしこの女性は、これからも苦しむことになるのではないか。
名人戦のさなかに――『藤井聡太論―将棋の未来―』(谷川浩司)
この4月から渡辺明名人と藤井聡太竜王が、第81期名人戦(七番勝負)を戦っている。1回戦は藤井が勝利した。
それと並行して 第8期叡王戦(五番勝負)を、藤井聡太叡王と菅井竜也八段で戦っており、これも1回戦は藤井が勝利をおさめた。
いずれもアベマTVで実況中継するので、ついつい見てしまう。忙しくってしょうがない。
それと合わせて、「藤井推し」のゲンかつぎに、本を読むのも将棋のジャンルになる。
今回は谷川浩司の『藤井聡太論―将棋の未来―』を読んだ。これは一昨年の5月に出ているから、藤井聡太は、棋聖戦と王位戦で勝利して、まだ2冠である(現在は6冠)。
藤井聡太が大活躍し、それにつれて将棋界が激変していく、そこを谷川浩司が、独特の視線で捉える。
たとえば谷川は、現代の将棋指しをこう考える。
「棋士は『勝負師』と『研究者』と『芸術家』の三つの顔を持つべきだ」。
しかし現在、トップ棋士は、事前の研究を十分過ぎるほどする必要があり、「研究者」の面が強くなり、「芸術家」の顔は後方に退いている。そしてその結果、棋士はそれぞれの持つ個性を、盤上で発揮しにくくなっている。それはこういうことだ。
「棋士が指す将棋の平均手数は百十手強とされる。一人が指すのは五十五手で、そのうち絶対の一手や厳然たる最善手が存在する局面での選択が二十五手ほどである。つまり一局の対局で一人の棋士が自分の個性を発揮できる手は、もともとわずか三十ほどしかないということになる。」
なるほど、そういうふうに考えるのか。「わずか三十ほどしかない」手を、どう個性化していくか。これはちょっと大変だ。
しかし待てよ、藤井聡太が言っていた。将棋の指し手はほとんど無限で、私の指す手は一生かかっても、ほんのわずかなものです、と。
つまり最善手と見なされる「二十五手ほど」が、実は最善手ではない、あるいは最善手が同時にいくつもある、ということではないか。と、ここは恐れ多いことだが、名人谷川に異議を唱えたい。
その藤井がこんなことを言っている。
「(強くなるための課題は)たくさんあると思いますけど、まずは序中盤の形成判断でしょうか……。将棋にはものすごく強くなる余地があると思っていますので、自分の頑張り次第かと思います。」(『将棋世界』)
タイトルの1個や2個は、強くなることに比べれば、問題ではないのだ。ここが藤井のきわだつ個性だ。
そして今、7冠目を懸けて争っていても、「本当に強くなる」ことに比べれば、それはどうでもいいことなのだ。藤井聡太と、それ以外の棋士との違いは、そこに尽きている。
この本の中身は、すでに谷川がインターネットその他で喋ったことであり、全体としてはやや古い。
しかし「第六章 AI革命を生きる棋士」のところは、話し言葉では説明を尽くせないものだ。
「飛躍的に演算処理能力を高めたAIによって将棋というゲームがすべて解明される可能性はないとは言えない。
解明されてしまえば、初手の最善手が定められ、それに対する二手目の最善手が決まり、最終的な結論が出てしまうことになる。先手と後手とどちらが有利なのか、あるいは五分五分なのかにも決着が付く。
その時、将棋はどうなるのか。棋士はいなくなるのか。」
谷川は、こういう絶対的な結論に対して、たぶんそういう時は来ないだろう、将棋が最後まで解明されることはないだろう、と言う。
しかし谷川は、定見があってそういうのではない、と断っている。あくまでもそこは、棋士として楽観的でありたいと言う。
私もそこは谷川説を信じたい。将棋の初手の最善手は複数あって、たぶんその決着はつかないだろうからである。
(『藤井聡太論――将棋の未来』谷川浩司、講談社+α新書、2021年5月19日初刷、6月7日第2刷)
それと並行して 第8期叡王戦(五番勝負)を、藤井聡太叡王と菅井竜也八段で戦っており、これも1回戦は藤井が勝利をおさめた。
いずれもアベマTVで実況中継するので、ついつい見てしまう。忙しくってしょうがない。
それと合わせて、「藤井推し」のゲンかつぎに、本を読むのも将棋のジャンルになる。
今回は谷川浩司の『藤井聡太論―将棋の未来―』を読んだ。これは一昨年の5月に出ているから、藤井聡太は、棋聖戦と王位戦で勝利して、まだ2冠である(現在は6冠)。
藤井聡太が大活躍し、それにつれて将棋界が激変していく、そこを谷川浩司が、独特の視線で捉える。
たとえば谷川は、現代の将棋指しをこう考える。
「棋士は『勝負師』と『研究者』と『芸術家』の三つの顔を持つべきだ」。
しかし現在、トップ棋士は、事前の研究を十分過ぎるほどする必要があり、「研究者」の面が強くなり、「芸術家」の顔は後方に退いている。そしてその結果、棋士はそれぞれの持つ個性を、盤上で発揮しにくくなっている。それはこういうことだ。
「棋士が指す将棋の平均手数は百十手強とされる。一人が指すのは五十五手で、そのうち絶対の一手や厳然たる最善手が存在する局面での選択が二十五手ほどである。つまり一局の対局で一人の棋士が自分の個性を発揮できる手は、もともとわずか三十ほどしかないということになる。」
なるほど、そういうふうに考えるのか。「わずか三十ほどしかない」手を、どう個性化していくか。これはちょっと大変だ。
しかし待てよ、藤井聡太が言っていた。将棋の指し手はほとんど無限で、私の指す手は一生かかっても、ほんのわずかなものです、と。
つまり最善手と見なされる「二十五手ほど」が、実は最善手ではない、あるいは最善手が同時にいくつもある、ということではないか。と、ここは恐れ多いことだが、名人谷川に異議を唱えたい。
その藤井がこんなことを言っている。
「(強くなるための課題は)たくさんあると思いますけど、まずは序中盤の形成判断でしょうか……。将棋にはものすごく強くなる余地があると思っていますので、自分の頑張り次第かと思います。」(『将棋世界』)
タイトルの1個や2個は、強くなることに比べれば、問題ではないのだ。ここが藤井のきわだつ個性だ。
そして今、7冠目を懸けて争っていても、「本当に強くなる」ことに比べれば、それはどうでもいいことなのだ。藤井聡太と、それ以外の棋士との違いは、そこに尽きている。
この本の中身は、すでに谷川がインターネットその他で喋ったことであり、全体としてはやや古い。
しかし「第六章 AI革命を生きる棋士」のところは、話し言葉では説明を尽くせないものだ。
「飛躍的に演算処理能力を高めたAIによって将棋というゲームがすべて解明される可能性はないとは言えない。
解明されてしまえば、初手の最善手が定められ、それに対する二手目の最善手が決まり、最終的な結論が出てしまうことになる。先手と後手とどちらが有利なのか、あるいは五分五分なのかにも決着が付く。
その時、将棋はどうなるのか。棋士はいなくなるのか。」
谷川は、こういう絶対的な結論に対して、たぶんそういう時は来ないだろう、将棋が最後まで解明されることはないだろう、と言う。
しかし谷川は、定見があってそういうのではない、と断っている。あくまでもそこは、棋士として楽観的でありたいと言う。
私もそこは谷川説を信じたい。将棋の初手の最善手は複数あって、たぶんその決着はつかないだろうからである。
(『藤井聡太論――将棋の未来』谷川浩司、講談社+α新書、2021年5月19日初刷、6月7日第2刷)
どこで泣くんや?――『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)(2)
「第二章 暇と退屈の系譜学」では、1万年前の縄文人の「定住生活」と、それ以前の狩猟採集民の「遊動生活」が、比較される。
ここでは驚くべきことに、國分功一郎の憧れは、「遊動生活」にある。
「生きるために次々と課題をこなしていく遊動生活。それは苦しい生活というよりは、むしろ語の正確な意味において充実した生活であろう。そこでは、生きることと自らの活動とががっちりと組み合っている。」
ものは言いよう。現代でも、底辺にうごめく人たちは、生きることと自らの活動とががっちりと組み合っている。それはそうである、人間として生きるよりも、まず動物として生きるほうが、生活は「よりがっちり嚙み合っている」。底辺に生きれば、そのこと以外には考えられない。
「対し、定住生活において人は余裕をもつ。夕日を眺めて物思いに耽り、調理の仕方も工夫し、食事の後には感謝のお祈りもする。この余裕が退屈へと移行するのにほとんど時間はかからない。どちらの生活がよかったとかわるかったとかいった話ではない。この革命は人類に大きな課題を与えたのである。」
バカ言ってんじゃないよ。どちらの生活が良かったか悪かったか、本当にそれが分からない人間とは、これから先も話すことはないだろう。
最後の一文、「この革命は人類に大きな課題を与えた」は、「人類」のところを、「少数の富裕階級」とすれば、間違ってはいない。でも所詮、それだけのことだ。
とはいうものの、少数の富裕階級は、全体におけるパーセンテージは少数でも、絶対量としては相当な数にのぼる。『暇と退屈の倫理学』を、途中で投げずに読み進めるためには、そちらの方も考えなくてはならない。
この富裕層は自由と金を持っている。そこで出現するのがレジャー産業である。
「レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに『したいこと』を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものをつくりだす。」
20世紀後半の豊かな中産階級が論じられるときには、ここがポイントになる。
「一九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転嫁する術を見出した。二〇世紀の資本主義は余暇を資本に転嫁する術を見出したのだ。」
気の利いた言い回しだが、これも使い古されたもので新味はない。
退屈と向き合うことになった人間は、例えば芸術を生み、生活を工夫し、生を飾るようになった。
「それらはどれも、存在しなくとも人間は生存していける、そのような類いの営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間が、そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」(「第七章 暇と退屈の倫理学」)
そういうことも言えるかもしれない。しかし大半は、そういうことではないだろう。それどころか、せっぱ詰まって、場合によっては命をも賭けて、取り組んだモノやコトがあったのではないか。
どうも〈哲学者〉の言うことは、決めつけが過ぎて、たえず眉に唾をつけながら読む、ということになりがちだ。
そうして最終段階に至って、次のようになる。
「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。」(「結論」)
はっきり言って、正気の沙汰とは思えない。ハイデッガーやパスカル以下、歴史を彩る人名を、恣意的に、しかも乱暴極まる要約で繫いだ後に、この結論ですか。
〈哲学〉あるいは〈倫理学〉の組み立ては、いつもこれである。自分の文脈に会う人を、恣意的に選び、叙述を開陳してゆく。たしかにそうも言えるが、しかしまた別にこういうことも言えよう、ということは極力遮断する。
ところでオビにある若林正恭という芸人は、いったいどこで泣いたのか。それが大きな疑問として残った。
(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、新潮文庫、2022年1月1日初刷、2023年2月15日第15刷)
ここでは驚くべきことに、國分功一郎の憧れは、「遊動生活」にある。
「生きるために次々と課題をこなしていく遊動生活。それは苦しい生活というよりは、むしろ語の正確な意味において充実した生活であろう。そこでは、生きることと自らの活動とががっちりと組み合っている。」
ものは言いよう。現代でも、底辺にうごめく人たちは、生きることと自らの活動とががっちりと組み合っている。それはそうである、人間として生きるよりも、まず動物として生きるほうが、生活は「よりがっちり嚙み合っている」。底辺に生きれば、そのこと以外には考えられない。
「対し、定住生活において人は余裕をもつ。夕日を眺めて物思いに耽り、調理の仕方も工夫し、食事の後には感謝のお祈りもする。この余裕が退屈へと移行するのにほとんど時間はかからない。どちらの生活がよかったとかわるかったとかいった話ではない。この革命は人類に大きな課題を与えたのである。」
バカ言ってんじゃないよ。どちらの生活が良かったか悪かったか、本当にそれが分からない人間とは、これから先も話すことはないだろう。
最後の一文、「この革命は人類に大きな課題を与えた」は、「人類」のところを、「少数の富裕階級」とすれば、間違ってはいない。でも所詮、それだけのことだ。
とはいうものの、少数の富裕階級は、全体におけるパーセンテージは少数でも、絶対量としては相当な数にのぼる。『暇と退屈の倫理学』を、途中で投げずに読み進めるためには、そちらの方も考えなくてはならない。
この富裕層は自由と金を持っている。そこで出現するのがレジャー産業である。
「レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに『したいこと』を与えることだ。レジャー産業は人々の要求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものをつくりだす。」
20世紀後半の豊かな中産階級が論じられるときには、ここがポイントになる。
「一九世紀の資本主義は人間の肉体を資本に転嫁する術を見出した。二〇世紀の資本主義は余暇を資本に転嫁する術を見出したのだ。」
気の利いた言い回しだが、これも使い古されたもので新味はない。
退屈と向き合うことになった人間は、例えば芸術を生み、生活を工夫し、生を飾るようになった。
「それらはどれも、存在しなくとも人間は生存していける、そのような類いの営みである。退屈と向き合うことを余儀なくされた人間が、そのつらさとうまく付き合っていくために編み出した方法だ。」(「第七章 暇と退屈の倫理学」)
そういうことも言えるかもしれない。しかし大半は、そういうことではないだろう。それどころか、せっぱ詰まって、場合によっては命をも賭けて、取り組んだモノやコトがあったのではないか。
どうも〈哲学者〉の言うことは、決めつけが過ぎて、たえず眉に唾をつけながら読む、ということになりがちだ。
そうして最終段階に至って、次のようになる。
「人はパンのみにて生きるにあらずと言う。いや、パンも味わおうではないか。そして同時に、パンだけでなく、バラももとめよう。人の生活はバラで飾られていなければならない。」(「結論」)
はっきり言って、正気の沙汰とは思えない。ハイデッガーやパスカル以下、歴史を彩る人名を、恣意的に、しかも乱暴極まる要約で繫いだ後に、この結論ですか。
〈哲学〉あるいは〈倫理学〉の組み立ては、いつもこれである。自分の文脈に会う人を、恣意的に選び、叙述を開陳してゆく。たしかにそうも言えるが、しかしまた別にこういうことも言えよう、ということは極力遮断する。
ところでオビにある若林正恭という芸人は、いったいどこで泣いたのか。それが大きな疑問として残った。
(『暇と退屈の倫理学』國分功一郎、新潮文庫、2022年1月1日初刷、2023年2月15日第15刷)
どこで泣くんや?――『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)(1)
どうも嫌なタイトルで、ロングセラーになっているのを横目で見ながら、素通りしていた。
しかし國分功一郎は、雑誌などで見る限りは、まっとうなことを言っている。
今度、文庫になったのを機に読んでみた。文庫の帯にはこうある。
「2022年 東大・京大で/1番読まれた本」
それに続いて、
「まさか國分先生、/哲学書で涙するとは/思いませんでした…/――若林正恭(芸人)」
まず、何が問題になっているのだろう。
「資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」
これは戦後の経済成長の後で、日本が豊かになったときから(いまでは一瞬の錯覚とわかるが)、ある階層、つまり中流以上に起こった疑問である。
「このままでは暇のなかで退屈してしまう。〔中略〕では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。」
正直なところを言えば、この問いはちょいと古い。70年代の高度経済成長の残像が残っているうちは、こういう問いが、錯覚にしても、成立していた。
しかし平成の末から令和にかけては、もう無理である。日本は先進国ではなくなったし、国の借金は1千兆円を超えており、目を見開いてみれば、日本国はすでに破綻している。
どれだけ借金をして、先進国ふうの上辺を整えてみたって、結局はうまく行かない後進国、開発途上国でしかない。
こういう日本国で、暇と退屈を持て余しているのは、比較的裕福な家庭の子弟で、もう十分に働けるにも関わらず、世のなかへ出ていない大学生、特に暇を持て余すことに極めて自覚的な「東大・京大」の学生だろう。だから帯にそう書いてある。
しかし一度は本を購入した縁だ、とにかく終わりまで読んでみよう。
「日常的な不幸には、そうした大きな非日常的不幸〔=たとえば飢餓や貧困や戦争〕とは異なる独特の耐え難さがある。何かと言えば、原因が分からないということである。」
何度も言うが、こういう原因の分からない退屈の耐え難さは、「東大・京大」生を除いて、現代に生きる人には無縁のものだろう。
しかし人は、ふと立ち止まって、本当に好きなことをやっているかと問うならば、こういう疑問が起こっても不思議はない。
著者はそこで、ひとつの処方箋を提出する。
「幸福な人とは、楽しみ・快楽をすでに得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。」
これはまったくその通りである。もっとも哲学書の体裁を取っているから、そういうつもりで読むが、これは三笠書房の「知的生き方文庫」に書かれていても、まったく違和感はない。
しかし國分功一郎は、雑誌などで見る限りは、まっとうなことを言っている。
今度、文庫になったのを機に読んでみた。文庫の帯にはこうある。
「2022年 東大・京大で/1番読まれた本」
それに続いて、
「まさか國分先生、/哲学書で涙するとは/思いませんでした…/――若林正恭(芸人)」
まず、何が問題になっているのだろう。
「資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」
これは戦後の経済成長の後で、日本が豊かになったときから(いまでは一瞬の錯覚とわかるが)、ある階層、つまり中流以上に起こった疑問である。
「このままでは暇のなかで退屈してしまう。〔中略〕では、どうすればよいのだろうか? なぜ人は暇のなかで退屈してしまうのだろうか? そもそも退屈とは何か?
こうして、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いがあらわれる。〈暇と退屈の倫理学〉が問いたいのはこの問いである。」
正直なところを言えば、この問いはちょいと古い。70年代の高度経済成長の残像が残っているうちは、こういう問いが、錯覚にしても、成立していた。
しかし平成の末から令和にかけては、もう無理である。日本は先進国ではなくなったし、国の借金は1千兆円を超えており、目を見開いてみれば、日本国はすでに破綻している。
どれだけ借金をして、先進国ふうの上辺を整えてみたって、結局はうまく行かない後進国、開発途上国でしかない。
こういう日本国で、暇と退屈を持て余しているのは、比較的裕福な家庭の子弟で、もう十分に働けるにも関わらず、世のなかへ出ていない大学生、特に暇を持て余すことに極めて自覚的な「東大・京大」の学生だろう。だから帯にそう書いてある。
しかし一度は本を購入した縁だ、とにかく終わりまで読んでみよう。
「日常的な不幸には、そうした大きな非日常的不幸〔=たとえば飢餓や貧困や戦争〕とは異なる独特の耐え難さがある。何かと言えば、原因が分からないということである。」
何度も言うが、こういう原因の分からない退屈の耐え難さは、「東大・京大」生を除いて、現代に生きる人には無縁のものだろう。
しかし人は、ふと立ち止まって、本当に好きなことをやっているかと問うならば、こういう疑問が起こっても不思議はない。
著者はそこで、ひとつの処方箋を提出する。
「幸福な人とは、楽しみ・快楽をすでに得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることこそが貴重なのだ。」
これはまったくその通りである。もっとも哲学書の体裁を取っているから、そういうつもりで読むが、これは三笠書房の「知的生き方文庫」に書かれていても、まったく違和感はない。