夫婦の貫目――『漱石の思い出』(1)

やっぱり読んでおこうと思った。なぜそう思ったかは、忘れてしまった。夏目鏡子述・松岡譲筆録の『漱石の思い出』は、ずっと気にかかってはいたのだ。
 
2006年5月に、秋山豊さんの『漱石という生き方』を刊行したときに、『漱石の思い出』を一度も取り上げなくていいのですか、と秋山さんに問うと、「漱石が死んだときに、解剖してくださいといった女ですよ」と、まったく相手にしておられなかった。
 
原稿をもらっているときには、どうしても著者の立場に立ってしまう。秋山さんがそういうのだから、読むまでもあるまいと思った。

また夏目鏡子は悪妻という噂があり、写真で見てもでっぷり肥った、およそ文学には縁のない女だと思っていた。

『漱石の思い出』を一読すれば、それがまったくの誤解であることがわかる。
 
なお松岡譲は、漱石の長女、筆子の夫である。つまり夏目鏡子は義母にあたるから、まずいことは書くまい、となるところだが、そんなうわべを繕う水準ではない。
 
まずは結婚前の事から。

「とにかく夏目と松山との関係は、前には子規さんで結ばれ、後では(今に至るまで)『坊っちゃん』で結ばれたといっていいでありましょうが、ここにいた一年間は夏目にとってはたいへん不愉快のものであったらしゅうございます。」
 
松山と漱石の関係については、昔から不思議でならなかった。下宿でも、学校でも、不愉快極まりないことが、次々に起きる。最後は教頭の赤シャツと、腰巾着の野だいこに、生卵をぶっかけて松山を去っていく。漱石にとって懐かしい思い出は、薬にしたくともない。いったい松山市民は『坊っちゃん』を読んだことがあるんだろうか。
 
この本とは関係ない話をすれば、漱石が千円紙幣になるとは恐れ入ったものである。漱石の、特に『猫』などを読めば、紙幣になるなど金輪際ごめんだ、という声が聞こえるではないか。やはり関係者は、漱石文学など1行も読んでいないに違いない。
 
それで言えば、樋口一葉はもっとかわいそうだ。極貧で、それが原因で20歳すぎで死んだのだから。それで紙幣の顔になるなんて、徹底的に死者を愚弄する話だ。
 
漱石の婚約時代、1月3日に鏡子の家へ行って、みんなで正月の福引きを引くと、漱石には絹のみすぼらしい帯〆が当たり、鏡子は男用のハンケチ1ダースが当たった。ハンケチには藍で大きく「国の光」と染めてあった。鏡子の母がそれを見て、取り換えてあげたら、と言った。

「あの人の文運がひらけて、今では一つの国の光になったことの運命を、僭越ながらなんだかその時に私の手で暗示したように感じられもするのであります。」
 
鏡子の、新妻になる喜びがあふれている。
 
もっとも漱石は、「あのハンケチじゃしかたがない。おおかた兄貴の子供のおしめにでもしただろう」と、けんもほろろだった。ひょっとして「国の光」が良くなかったのか。
 
そしていよいよ結婚したのだが、東京ではなくて熊本でやったものだから、「まことに裏長屋式の珍な結婚」だったという。
 
ここはいろいろなことが書いてあるが、一つだけ取り上げる。

結婚祝いの手紙が、狩野亨吉、松本文三郎、米山天然居士、山川信次郎の連名で送られてきた。

「みるとたいへん堂々たるお手紙で、祝辞が滔々と述べてあって、お祝いの品別紙目録どおりとあって、その目録が鯛昆布から始まって、めでたい品の限りを尽くしております。こんなにたくさんの品を送ってくだすったのか、お友達というものはえらくありがたいものだと読んで行きますと、一番終いに小さい文字で、お祝いの品々は遠路のところ後より送り申さず候と、とうとう新婚早々一本かつがれてしまいました。」
 
これは『吾輩は猫である』で、苦沙弥が迷亭にかつがれるやり方と、呼吸がそっくりではないか。

その呼吸は、鏡子にも結婚したときから、備わっていた。漱石と鏡子はともに、迷亭的なるものにコロリと騙される、豊かな素養を持っていたのだ。