3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(4)

「第十二章 現前する死者」は、目取真俊の文学について。私はここに取り上げられた、「平和通りと名付けられた街を歩いて」も「水滴」も読んだはずだが、細部は憶えていない。
 
ただ「平和通りと名付けられた街を歩いて」で、家に閉じ込められた痴呆の老婆が、掛け金をねじ切り、街へさまよい出るところは覚えている。というか、その次の場面があまりに強烈なので、他の場面をほとんど忘れたといってもいい。
 
明仁皇太子夫妻が車で通りかかるころ、老婆の「ウタ」は通りに躍り出る。

「それはウタだった。車のドアに体当たりし、二人の前のガラスを平手で音高く叩いている。白と銀の髪を振り乱した猿のような老女はウタだった。」
 
ウタは警備の男たちをものともせず、暴れまくる。「帯がほどけ着物の前もはだけ、下肢の奥は黄褐色の汚物にまみれていた。」
 
そう、「ウタ」はうんこまみれだったのだ。

「黒塗りの高級車は、ウタが『二人』の面前のガラスに付けた『二つの黄褐色の手形』を付けたまま走り始めた。見送る人々の失笑でそれに気付いた助手席の老人が、ハンケチやタキシードの袖で拭き取る。車は『笑いとふくよかな香りを残して市民会館の駐車場に消えた』」
 
見事なクライマックスだが、今読み返すと少し悲しい気もする。
 
私は、皇室に対して、この老婆の持っているものを、心の底に持っていない沖縄人とは、話したくないと思う。もちろん、そんなことを言うなら、お前はどうかと、すぐに自分の方に跳ね返ってくる。
 
自分の優柔不断振りは、自分で分かっている。それと向き合うのが嫌だから、できれば沖縄に関する真面目なものは、読みたくないのだ。
 
目取真俊の話を、もう少し続ける。「水滴」という、芥川賞を受賞した小説の話である。男の右足が突然腫れあがり、そこから滴り落ちる「水滴」を、幽霊となった兵隊たちが嘗めとる。まことに強烈な話で、この話も、ここだけ突出して憶えていた。
 
しかし目取真俊の小説と言えば、ここには取り上げられていない、「マーの見た空」がもっとも感銘深い。森に棲む「マー」は、何というか、沖縄の魂という気がする。
 
これは「目取真俊短篇小説選集」(全3巻)の「1 魚群記」に入っている。そのころ影書房の松本昌次さんが、熱心に編集しておられた。
 
私は電車の中で、「マーの見た空」を読みながら、涙が溢れてくるのを、乗客にばれないよう、必死で俯いて隠していた。
 
菊地さんの『沖縄の岸辺へ』は、私が全体を過不足なく紹介するには、まったく相応しくない。この本に流れる政治の話を、避けてきたからである。どうしてそういうふうになるかは、いささか説明した。あとは一人でも多くの人が、この本を実際に手に取らんことを祈っている。

(『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』菊地史彦、作品社、2022年12月20日初刷)