3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(菊地史彦)(2)

私が喜納昌吉に会ったのは、2010年前後だったと思う。神保町のⅯというバーだった。

そのころそのバーで、糸数慶子の秘書をしているというIさんと知り合いになった。糸数慶子は、2006年の沖縄県知事選に出て敗れ、2007年の国政選挙で参議院議員に返り咲いた。
 
そのころIさんと知り合ったのだ。何度か飲んでいるうちに、こんど喜納昌吉を連れてくるから、会うかといった。
 
喜納昌吉は、「ハイサイおじさん」や「花~すべての人の心に花を~」であまりにも有名であり、このころは民主党の参議院議員をしていた。
 
バーで会ったとき、けっこう長く飲んだが、政治の話が主で、早口の沖縄言葉で話すものだから、肝心のところは聞きそびれた。話に出てきた中では、しきりに小沢一郎のことを喋っていたのが、印象に残っている。
 
菊地さんは「第六章 島唄から始まった」で、喜納昌吉を取り上げている。
 
喜納が音楽の世界で活躍する、少し前のあたりから。

「〔1973年頃〕喜納昌吉は沖縄刑務所を出所し、今後の身の振り方を試行錯誤で探っているところだった。麻薬の不法所持で起訴され、実刑1年半という判決が下ったのだ。コザで経営する『ミカド』が成功し、稼ぎまくって遊蕩を尽くした挙句のことだった。獄中では、膨大な書物を乱読し、自身と向き合った。」
 
やんちゃな時代があったのだ。その後、喜納昌吉はもう一度、音楽と向き合っていく。「喜納昌吉&チャンプルーズ」は1968年に結成されたが、このころ活動を再開している。
 
そうして「ハイサイおじさん」の大ヒットとなる。
 
このモデルの男は、一家で隣家に暮らしていたが、そこで惨劇が起きる。

「喜納は学校の帰りに窓の外から室内を覗いた。玄関の脇には、毛布にくるまれた小さな塊があった。首を切られた少女の死体だった。首は、切り落とした母親が大鍋で煮て食べようとしていたという。」
 
これは1962年5月23日に、実際に起きた事件である。もう少し詳しく見ていこう。

「娘を殺害した母親の夫は那覇の遊郭へ客を運ぶ馬車の車夫だったが、自動車の普及で仕事を失い、自暴自棄の果てにアルコールに溺れた。錯乱状態にあった母親の凶行は、この無為の夫にも原因があったのだろう。彼こそ『ハイサイおじさん』だ。」
 
ここで「ハイサイおじさん」の歌詞を、引いておくべきだろうが、それはしない。全編、沖縄ことばが横溢していて、外の人間には皆目分からないのだ。

菊地さんは、曲全体の不思議な印象を、こんなふうに書きつける。

「それにしても『ハイサイおじさん』は不思議な曲だ。喜納は、不幸に見舞われた『おじさん』へのシンパシーがあったとコメントしているが、歌詞の中に現れる少年は『おじさん』に酒や娘を要求し、ハゲやヒゲを笑い、女郎を買いに行けとからかう。これはいったい、シンパシーなのだろうか。なぜ、中学生の喜納は、惨劇を瞼に焼き付けながら、こんなコミカルで軽快な曲を書いたのだろうか?」
 
この問いに対する答えは、もちろん推測の域を出ない。それでも沖縄の人々の鬱屈や、「沖縄の現実への苦い認識(絶望)」から、我知らず噴出したイメージなのだろう。

「近い世代の歌手たちにはない、喜納の不可解な凄みは、この最初の歌にも現れていた。」
 
私は喜納昌吉について、まったく理解していなかった。「ハイサイおじさん」が、こういう曲だということも知らなかった。
 
歌から政治へ(そしてその後、また歌へ)。喜納昌吉については、そのくらいのイメージしかなかった。バッカだねえ、私は本当にどうしようもない。
 
その後、沖縄の歌(「島唄」)は、数多くの傑作を生みだした。BEGIN、夏川りみ、安室奈美恵、りんけんバンドなどなど、数え上げれば切りがない。
 
しかし、と菊地さんは言う。

「喜納昌吉はその中にはいない。彼だけがそこにいない。一九八〇年代に生まれ、九〇年代にかけて『内発的ブーム』の先駆けを務めた沖縄ポップスのいちばん先鋭的な唄者は、その『原型』を保ったまま、今も沖縄のあるべき姿を掲げ続け、たった一人で歌い、語り続けている。」
 
私は喜納昌吉の、いまの歌を聞いてみたいと思う。