男社会を憎悪する――『ババヤガの夜』

少し前に東京新聞の読書面で、『破果』が取り上げられ絶賛されていた。

ネットで見ると、帯の文句は「韓国文学史上最高の『キラー小説』、待望の日本上陸!」、「女殺し屋、人生最後の死闘がはじまる」というので、いやあ、これは期待させる。

ところが、出版元がなんと岩波書店で、思わず躊躇する。女殺し屋の死闘に、難しい理屈が付いていたり、哲学的反省が入ってないだろうな。
 
書評の欄外に、もう一つ読むならこれも、と言うことで、同傾向の作品として、王谷晶『ババヤガの夜』が出ていた。で、『破果』の前にこっちを読んでみる。
 
よく考えれば、素直に『破果』を読めばいいのだが、ここ10年ほどの岩波の本は、嫌いなのだ。毎月の広告を見ても、企画決定の際に、これは社会に必要な本だとか、良質な本だとか、もっともらしい声が聞こえてきて、うんざりする(もちろん岩波の企画会議など、覗いたこともないけれど)。
 
王谷晶(おうたにあきら)については、何も知らない。晶という名は、男女どちらでも可能だが、著者略歴に、「一九八一年、東京都生まれ。著書に『完璧じゃない、あたしたち』『どうせカラダが目当てでしょ』など」とあるから、たぶん女性だろう。
 
書き出しの1行は、「日暮れ始めた甲州街道を走る白いセダンは、煙草と血の匂いで満ちていた」と、のっけからバイオレンス調だ。そしてそのまま、4分の3まで行く。
 
はっきり言って、うんざりである。ヤクザに雇われた凶暴な女主人公と、組長の娘の、荒唐無稽な話で、そこにハチャメチャな暴力描写が挿入される。
 
その間、主人公や組長の娘の内面の描写など、薬にしたくとも無い。
 
それが、組長の娘が、自分を犯しに来た組長を殺してからは、まったく一変する。
 
その描写も、言ってみれば、かなりブラックで変態的、というか寓話的なのだ。
 
主人公は言う。

「何を、してる。あんた、父親だろうが……」〔中略〕
「儂の娘だから、儂がぶち込む権利があるんだろうが。あの変態のところにやる前にできるだけやり貯めとかんと損だからな。」
 
組長のお嬢さんは大学生だが、すでに別の組長と婚約している。その変態組長は、関係者みんなの前で、1か月間、射精を我慢して、新婚の夜に精液を浴びせるのが楽しみでならない、と股間を突っ張らかしたまま言う。
 
お嬢さんは、父親である組長を弓で射殺し、主人公と果てしない逃走の旅に出る。
 
ここには一つ、トリックがあって、それはなかなか見事なものだ。組長と娘の前から、母親が、子分のヤクザを連れて、もう何年も逃げ続けている。このことと、主人公とお嬢さんが逃げるのとが、重ね合わせになって叙述のトリックが成立し、しかも実によく効いている。
 
しかしながら、この小説の中心は、半世紀近くを生き延びる、女2人の生活、しかも決して人に知られてはならない、静かな生活にある。

「男に見えるもの〔=お嬢さん〕と女に見えるもの〔=主人公〕が一緒にいれば、すなわちそれは夫婦と見られる。カタにはまった世の中ほど騙しやすい。」
 
きっとそんなふうにして、著者は女の人と、人知れず静かな生活を送ってきたのだろう、と空想させるに十分だ。
 
読み終わってみれば、ヤクザのバイオレンスという古臭い設定が、著者の、男社会に対する、痛烈な批判であることがわかる。しかもそこは、隙あらば女を犯したい、バレなければ自分の娘だって犯したい、という社会なのだ。

これはもちろん、極端に戯画化された世界だ。しかし王谷晶はそのくらい、男社会におぞ気を奮うほど、嫌い抜いているのだ。

(『ババヤガの夜』王谷晶、河出書房新社、2020年10月30日初刷)