夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(7)

明治43年8月、漱石は胃潰瘍で、修善寺温泉に転地療養をする。このとき大吐血をし、一時危篤に陥る。いわゆる「修善寺の大患」である。
 
その前から調子が悪く、鏡子は東京から呼ばれて付き添っていた。
 
漱石は顔色が極度に悪く、「顔の色などまるで半紙みたいで、見ていても気持ちが悪」くなった。

「途端に、ゲエーッといういやな音を立てます。様子が只事でありません。〔中略〕ともかく場合が場合ですからなりふりをかまってはおられません。急にその女中さんを呼びまして、今行かれたばかりのお医者さんたちを呼んでもらおうとしました。とまたゲエーッと不気味な音を立てたと思うと、何ともかんとも言えないいやな顔をして、目をつるし上げてしまいました。」
 
連れ合いがこうなっては、ただただ慌てふためくのみ、しかしそれだけでは終わらなかった。

「と鼻からぽたぽた血がしたたります。私は躍気になって通りがかりの番頭を呼んで医者を招ばせます。〔中略〕その間に夏目は私につかまって夥しい血を吐きます。私の着物は胸から下一面に紅に染まりました。」
 
血染めの着物がスクリーン一杯に広がる、迫真の場面である。変な言い方だが、ここらあたりは、鏡子の才能が如実に出ている。亡くなって何年も経っている漱石の、危篤の様子を、昨日のことのように語る。

「顔の色がなくなって、目は上がったっきり、脈がないという始末。それカンフル注射だ、注射器はどうしたというあわてかたです。注射を続けざまに十幾本かを打ちますが依然としてよろしくない。では食塩注射だということになりましたが、あいにくと森成さんも杉本さんもその注射器を持ち合わされない。ようやく土地のお医者から借りてきたものの、それがこわれているという始末。こわれたって針さえあればいい、浣腸器の何とかをどうしてと、上を下への騒動です。」
 
一晩中、壊れかけた注射器で、医者が格闘したおかげで、漱石はかろうじて持ち直す。しばらくは絶対安静だけれど、いいあんばいに、その後吐血はおさまった。
 
このときの鏡子は獅子奮迅の活躍で、さらにこの『思い出』がなければ、「修善寺の大患」がどういう具合であったかは、分からないのだ。
 
そしてよく言われることだが、この「修善寺の大患」以降、漱石はひとが変わったように見えた。

「こんどの病気で、前のように妙にいらいらしている峻〔けわ〕しいところがとれて、たいへん温かくおだやかになりました。私にもほんとうにこの大患で心機一転したように見受けられました。何と申しますか、人情的とでもいうのでしょうか、見違えるばかり人なつこくなったものでした。〔中略〕私などに対しても、この病気以来ずっと心持ちが違ってきたように思われます。」
 
漱石の病気は、完全に治りはしないが、やはり軽減したのだった。
 
修善寺から東京府下の病院に入り、やっと退院できるというときになって、「博士号辞退問題」が起きる。
 
文部省の方では博士称号をやろうといい、漱石は金輪際嫌だという。ここでは辞退の手紙を引いておく。

「博士会で小生を博士に推薦されたについて、右博士の称号を小生に授与になることかと存じます。しかるところ小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。したがって私は博士の学位をいただきたくないのであります。」
 
またこれ以後の手紙では、学問・文芸の領域においては、現今の博士制度は弊害の方が多い、とも述べている。たんに嫌なものは嫌だというのではない、透徹冷静の眼のあることが窺える。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(6)

『猫』は一割五分の印税だった。鏡子は印税を黙って取っておいた。漱石は、金には執着がなかったが、印税が入ると、ときどき鏡子に貯金を勧めた。
 
それで鏡子は、家計がどのようになっているかを、初めて漱石に打ち明けた。

「金のないないということは自分でもよく知っており、子供は増えるしかかりはかかるし、もっとどうにかしなければならないなどと口には言っても、はたしてどれほどになっているのか、根がお大名ですから、買う本は買い、たべるものだってたとい私たちは沢庵ばかりかじっていようと、ともかく頭を使う人にはと、それほどまずいものを喰べさしているわけではないので、そんなに家計が逼迫していたのだとはその時まで気づかずにいたのです。今の話をきいて、
『そうかい』
 とひどくびっくりして、二の句がつげなかったようでした。」
 
幸いなことにこれ以後、「家計の不如意にはまずまず会わなかったといっても」いい。
 
ただ『ホトトギス』、『中央公論』をはじめ、いろいろな雑誌の編集者が出入りするので、鏡子は、手のかかる子供たちもいて、かなり困ったことになった。これが後に、漱石が人に会う曜日を決めた、「木曜会」のはじまりである。
 
鏡子はここで、原稿料のことも言っている。元編集者である私には、見逃せない話だ。

「雑誌にのせた原稿料などの記憶はほとんど確かなものがありませんが、『カーライル博物館』が全体で八円だったのを覚えております。それから『ホトトギス』が始めは多くて一枚五十銭ぐらいだったのが、後では一円に上がりました。『新小説』がやはり一円ぐらい、『中央公論』が一円二、三十銭見当だったかと覚えております。」
 
記憶はほとんどないと言いながら、細かなところまでよく覚えているものだ。しかしまあ、そういうものだろう。鏡子が、金銭の細かいところまで気をつけていたから、漱石は創作に集中できたのである。
 
これは後になって、岩波茂雄が、岩波書店の創業出版として『心』を出したいといったときに、やはり鏡子が金銭の問題で、見事な采配を示したことがある。このことは後に書く。
 
なお通常、『こころ』は平仮名だが、秋山豊さんの『漱石という生き方』では、『心』と漢字に直してある。そしてこれは秋山さんが正しい。しかし間違ったタイトルが、これだけ人口に膾炙してしまうと、正しい方に直すのは難しい(その詳しい経緯は『漱石という生き方』を読まれたい)。
 
鏡子は、漱石の創作熱の、盛んに燃えていたころを懐かしむ。

「『猫』は続いて『ホトトギス』にのり、秋〔=明治三十八年〕になってその中巻が出版されました。『坊っちゃん』が『ホトトギス』に出たのがこの四月〔=明治三十九年〕、『草枕』がたしか九月だったと覚えています。『新小説』に出ました。十月号の『中央公論』に『二百十日』が出て、その三篇を一冊にまとめて、『鶉籠〔うずらかこ〕』という本になって、十二月春陽堂から出しました。この三十八、九年の両年が、夏目にとっていちばん創作熱の旺んな年だったと思います。」
 
鏡子はそんなふうに見ている。朝日新聞に入って、小説家専業になったときではなくて、「明治三十八、九年の両年」が、創作熱の一番盛んなときとしているのだ。これは女房だけが間近で見た、真の漱石だと思う。
 
このころ漱石は、人に会うのを週に一日だけ、木曜日と決めていた。

「さて西片町でも面会日の木曜日は賑わいました。これをいつしか木曜会などとよぶようになったのはこのころからでありましょう。これは今の早稲田南町に越してからも続き、亡くなってからも、今まで書斎に集まったものがこのまま散りばらばらになってしまうのは惜しいとあって、毎月命日の九日に遺室へ集まって談笑することになり、今に至るまで百数十回を重ねております」
 
さらりと書いてあるから、読み飛ばしそうになるが、この一段の後半には、信じられないことが書いてある。
 
漱石が亡くなってから、毎月命日の九日に、木曜会に来ていた連中に集まってもらい、談笑することにしたのだという。それが百数十回、ということは10年以上、続いているということだ。
 
土曜日や日曜日の決まった日ではない、「毎月命日の九日」に集まったというから、信じられない。
 
核心は変わらず、不在の漱石であったろうが、しかし中心は誰が荷なったのだろう。まさか夏目鏡子が中心にいたわけではないだろう。それとも鏡子が、集まってきた人々を細やかにもてなし、誰もが漱石先生の弟子であると再認識して、10年以上が経ってしまったのだろうか。
 
木曜会のその後、「命日九日の会」を、誰か調査した人はいないのだろうか。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(5)

漱石の病気は、車谷長吉の場合とは違って、生涯治ることはなかった。

「あたまの悪くなる前には、まるで酒に酔っ払ったように顔が真赤に上気するのです。〔中略〕子供たちまで上の方の娘などはそれを知って、いくら前の晩ににこにこしていても、顔がゆだったように火照っている時には、それ明日またと警戒しています。ときまって翌朝になると、がらりと雲行きが変わるのだから不思議です。」

家長がこういうふうになると、大変である。鏡子はまあいいとしても、子供は終生、漱石と緊張関係にあったろう。
 
それでも明治40年に早稲田に越してからは、鏡子に虐待をしたり、離縁状を書いたりするような、極端な症状は出なかったらしい。
 
そして明治37年の夏ころ、あの「猫」がやってくる。
 
生まれて間もない子猫は、何度も家の中に入ってきて、追い出しても追い出しても、鏡子の足にじゃれついたり、子供たちが寝ていると、蚊帳の外から引っかいたりする。

「ある朝のこと、例のとおり泥足のままあがり込んできて、おはちの上にいいぐあいにうずくまっていました。そこへ夏目が出て参りました。
『この猫はどうしたんだい』
 と、どこかでもらってでもきたのかと思ったものとみえてたずねます。〔中略〕
『なんだか知らないけれども家へ入ってきてしかたがないから、誰かに頼んで捨ててきてもらおうと思っているのです』と申しますと、
『そんなに入って来るんならおいてやったらいいじゃないか』
 という同情のある言葉です。」
 
これで「猫」の運命が決まると同時に、明治を代表する傑作の端緒が生まれ、併せて文豪漱石の第一歩が記される。
 
もっとも猫の方はいい気になって、子供の寝床に入り込んだりして、「すると夏目が物尺をもって追っかけ歩いたりして、時ならぬ活劇を演じたこともよくありました。」
 
それにしても、この「猫」に名前のないのは、おかしいと思いませんか。ふつうは必ず名前を付ける。子どものいる家であれば、必ずそうする。

それとも、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」、という冒頭の一行に、夏目家の皆は呪縛されたのか。
 
私は55年前の、高校1年から2年になる春休みを思い出す。午前中は『吾輩は猫である』を読み、午後からは漱石の別の作品を読んだ。

『吾輩は猫である』は2週間の春休み中、毎日終わりまで読んだので、3回目くらいから暗記してしまい、本をめくっているのか、暗記した文章が頭の中で鳴り響くのか、分からなくなってしまった。

最後の方の一段、「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。悟ったようでも独仙君の足はやはり地面のほかは踏まぬ。気楽かも知れないが迷亭君の世の中は絵にかいた世の中ではない」というところは、まだ覚えている。そしてこの一段を声に出すと、いつも寂莫とした感に襲われる。
 
なぜ漱石を全部読もうとしたのかは、忘れてしまった。こんなふうに、1人の作家を集中的に全部読もうとしたことは、後にも先にもない。たぶん『猫』があんまり面白かったので、続けて全部読もうとしたのだろう。午前中に『猫』1冊を読むことは、午後別の本を読むときの推進力になったのではないか。
 
明治37,38年はそういうわけで、一大転換点となった年だった。鏡子は、漱石が原稿を書いているところを、愉しそうに見ている。

「書いているのを見ているといかにも楽しそうで、夜なんぞもいちばんおそくて十二時、一時ごろで、たいがいは学校から帰ってきて、夕食前後十時ごろまでに苦もなく書いてしまうありさまでした。」
 
これは朝日新聞に入る前のことで、「倫敦塔」、「カーライル博物館」、あるいは「幻影の盾」や「一夜」、「薤露行」などの短文を指している。

「何が幾日かかったか、今そんなことをはっきりは覚えておりませんが、『坊っちゃん』『草枕』などという比較的長いものでも、書き始めてから五日か一週間とはでなかったように思います。多くは一晩か二晩ぐらいで書いたかと覚えております。〔中略〕傍で見ているとペンをとって原稿紙に向かえば、直ちに小説ができるといったぐあいに張り切っておりました。だから油が乗っていたどころの段じゃありません。」
 
作家の幸福な時代、稀有なことだ。
 
同時に漱石は鏡子に、今何を書いているかを、逐一知らせている。鏡子もまた、それを事細かに憶えている。この夫婦は、見ようによっては、じつに珍しい、奇蹟的なカップルであった。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(4)

ロンドン留学中に、漱石は発狂したという噂が、留学生の間で立つようになる。乏しい金で本を買いまくり、籠城して一心不乱に勉学すれば、神経がおかしくもなるだろう。
 
漱石の帰国後、鏡子はそのことを細かく聞き出している。

「その後当人からきいたのですが、あたまの調子が少しずつ変になってくると、これではいけない、こんなになっちゃいけないと、妙にあせりぎみになって、自分が怖くなるというのか、警戒しぎみになって、だんだん自信を失って行く。それでなるべく小さくなって、人に接しないようにと心がけて、部屋に閉じこもったきり自分を守って行くのだそうです。」
 
これが病気の第一歩で、それがさらに高じると、手が付けられなくなってくる。

「それから自分が小さくなっておとなしくしているのに、いっこう人がそれを察せず、いじめよういじめようとかかって来る。そうなるとこっちも意地ずくになって、これほどおとなしくしているのにそんなにするんならという気になって、むしょうにむかついて癇癪を爆発させる。こういう段取りになるのだそうです。」
 
漱石はかなり冷静に、己の狂気を分析している。鏡子は、こういう漱石の狂気を身近にいてどういうふうに感じたか。問題はそこである。これはもっと後になって、語られることになる。
 
漱石が帰国して以後、鏡子との間で、家計のやりくりをする金銭の話がある。ロンドン留学中、鏡子もまた極貧の生活に甘んじ、金もあちこちから借りている。

しかしそういうことを、漱石にうっぷんをもって訴えたようには見えない。こういうところは鏡子の気性によるものか、それともある階層以上の、明治の女が持っている佇まいなのか。
 
漱石は帰国後、半年ほどして「どんどん頭が悪くなって」、癇癪をおこすようになる。夜中に枕など手あたりしだいにものを投げ、子供が泣いたと言っては怒り出す。
 
鏡子はちょうどそのとき、第3、つわりで苦しみ、始終臥せっていた。まさに最悪のタイミングである。

「どう考えても夏目の癇癪が腑に落ちません。以前はあんなにむちゃくちゃに怒る人じゃなかったのだが、あんまり勉強でもしすぎて、どっか身体なり頭なりに異状のあるのではあるまいか。以前とはまるでころりと違っていますので、不審でもあり心配でもある」

というので、知り合いの医者に診てもらうと、これはたんなる神経衰弱ではない、精神病の一種だろう、とのことだった。
 
また別の、知り合いの医者に診察してもらうと、「ああいう病気は一生なおりきるということがないものだ。なおったと思うのは実は一時沈静しているばかりで、後でまたきまって出てくる〔中略〕。私もそれをきいて、なるほどと思いまして、ようやく腹がきまりました。病気なら病気ときまってみれば、その覚悟で安心していける。」
 
最後の一文は、注目すべき文言である。「その覚悟で安心していける」とは、どういう心境なのか。あらためて鏡子に問えば、文字通りそういう意味である、とだけ答えるに違いないが。
 
またこのとき、夫婦の間を心配した、夏目の兄とも話している。鏡子はここで、注目すべき発言をしている。

「私が、むきにこのまま離籍でもすると思われたものか、夏目のためを思い、私のためを思って、どうか別れるの何のといわず、そのまま黙って怒らずにかえってやってくれ、とこういうお話なのです。で私も、べつに怒っているわけではなし、夫婦別れをしようというのじゃなし、虐待されたからといって、それは誰からでもない自分の夫だから、そんなことで人様に御迷惑はかけないつもりです」
 
虐待されたからといって、離婚もしなければ、人様に迷惑もかけないつもりだ、だって漱石は病気なのだから、と鏡子はあくまで理性的だ。
 
実際に虐待を受けて、これは病気だから、冷静に耐えなければいけない、という判断ができる妻が、いるものだろうか。こういう筋の通しかたは、漱石よりも漱石的である。

漱石はまだ、文豪どころか、原稿を書きだしてもいない。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(3)

滑稽譚はまだまだある。長女が生まれる頃、漱石は謡〔うたい〕に凝っていた。先生は五高の工学部長をしていた桜井房記である。

「『紅葉狩』を教えていただくことになったのですが、たいそう質〔たち〕がいいとのお賞めにあずかって、自分ではしきりに得意で大きな声を出して呻っておりました。けれども根っからいい声らしくも思えないので、桜井さんにほめられたって、そりゃおだてで、なっていないじゃありませんかなどと、いつもの悪口の讐〔かたき〕でも取る気で浴びせかけたものです。」
 
こういうところに夫婦の地が出る。鏡子の突っ込みはなかなか激しい。漱石がそれに応えて言うには、

「俺のもそんなにいいと思ってるわけではないが、まあ、奥〔太一郎〕のをきいてみろ、お湯の中で屁が浮いたようなひよろひょろ声を出すんだから、あれからみればといったぐあいに、なかなか敗けません。」
 
その後、実際に奥太一郎がやってきて、その珍妙な謡い声を聴くと、鏡子は風呂に入っていたが、「さきの尾籠な批評を思い出し」、手拭いを口に当てて笑いをこらえていたという。
 
ロンドンに留学するまでは、漱石と暮らすのは、喧嘩はしても、総じて楽しかったろう。
 
漱石のロンドン留学中は、手紙を書く書かないで、言い争いをしている。漱石もそれほどは書かなかったようだが、鏡子はまったくの筆不精だった。
 
ここは漱石流の言い分がある。読んでみると本当に漱石らしい。

「おれは勉強にきて忙しいのだから、そうそうは手紙も書けないと、ちゃんと最初から断わってあるじゃないか。おまえは断わりなしに手紙をよこさない。断わって書かないのと、断わらずに書かないのとはたいへんな違いだ。」
 
漱石はあくまで筋を通そうとしている。
 
これは鏡子が一計を案じ、自分の代わりに、長女、筆の日記を送ることにした。

「もちろんはなはだおもしろくもないたあいのない記録で、朝起きてオバサンがどこへ連れて行ってくれたとか、こんなおいたをして遊んでいたとか、泣いたとか笑ったとか歯がどうしたとか、風邪を引いたとか、そんな他人が見たらいっこうつまらないことを根気よく欠かさず書きました。それが一月もたつと相当にたまるので、ロンドンへ送ってやることにいたしたのです。」

漱石はたいそう喜んで、それからは送るたびに、礼を言ったという。単身赴任の父親は、昔も今も変わらない。
 
漱石の手紙には、鏡子のハゲや、歯並みの悪いことも書いてある。

「あちらへ行って見ると、こちらでそれほどとも思わなかったことが気になるとみえて、よく私の頭のハゲのこと、歯並みの悪いことなどを気にして、始めのうちは手紙のたびにそれをいってよこしたものです。ハゲが大きくなるといけないから、丸髷を結ってはいけないの、オウ・ド・キニーンという香油をつけるといいのなどと申してきました」
 
漱石は鏡子のことを心配している。対して鏡子はどうか。

「とうとうしまいには『吾輩は猫である』の中にまで、私のハゲのことを書いてしまいました。よほど気になったものものとみえます。」
 
自分が気にすべきなのに、じつに悠然としている。

『猫』の中の「細君」も、女は丸髷を結うからしょうがないんです、と動じる気配がない。ひょっとして鏡子は漱石よりも、いくぶんスケールの大きいところがあったのか、とも思わせる。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(2)

漱石は結婚するとき、鏡子にこう言った。

「俺は学者で勉強しなければならないのだから、おまえなんかにかまってはいられない。それは承知していてもらいたい」
 
明治時代の結婚は、今とは少し違っている。漱石の言い分は、まっとうなこととして2人に捉えられている。

鏡子は漱石に、こう返した。

「私の父も役人ではありましたけれども、相当に本は読むほうでしたから、学者の勉強するのくらいにはびくともしやしません」
 
漱石の方は学者だから当たり前として、鏡子の返答は見事なものと言えるのではないか。
 
ただし鏡子は、朝が起きられなかった。

「新婚早々ではあるし、夫は早く起きてきまった時刻に学校に行くのですから、なんとか努力して早起きをしようとつとめるのですが、なにしろ小さい時からの習慣か体質かで、それが並みはずれてつらいのです」
 
その結果、漱石はしばしば朝ご飯を食べずに、学校へ出かけたという。

これもまた鏡子悪妻説を補強するものだが、これはたぶん極度の低血圧が原因だったのだろう。いまなら医学的に体質を改善するなどして、対処できよう。
 
それよりも自分の新妻としての至らなさを、率直にさらけ出すところに、この本の価値がある。
 
この『思い出』は夏目鏡子が、とくに滑稽さを強調して記憶しているところに、特色がある。
 
漱石が鏡子に、俳句の手ほどきをしてやることになったのだが、どう並べてみても、句らしい句になったためしがない。そのころ熊本五高の教授で、漱石の昔からの友人、菅虎雄が、やはり俳句熱に浮かされて、入門してきた。
 
鏡子は菅虎雄の俳句について、面白そうに語っている。

  「桐の葉のドブンと川に落ちにけり

 という句がありました。夏目が笑って申しますには、蛙じゃあるまいし、ドブンと落ちる木の葉があるものかてんで、この方もとうとう物にならずじまいらしゅうございました。」
 
鏡子は、自分も菅虎雄も、ともに笑い飛ばして屈託がない。
 
俳句の話から、自然と子規の話になる。といっても俳句云々の事ではない。これは漱石が鏡子に語ったことだ。

「子規てやつは横着できたないやつだ。下宿にいるころ、真冬になると火鉢をかかえ込んで厠へ逆に入って、あたりながら用を足してでてきて、その火鉢ですき焼きをして食うんだなんて申していたことを覚えております。」
 
かなり横着ではあるが、旧制高校生がやりそうなことだ。それよりも、漱石がそういうことを語ったのを、鏡子が記憶して、わざわざ滑稽譚として話していることが大事だ。
 
また漱石には、軽妙でひょうきんなところもあった。

「私の年始の紋付を着て歩いてふざけておりました。いったい自分でもきちんとしたなりをしていることの好きな人でしたが、また女のきれいな着物を着ることが好きで、私が脱いでおくとよくそれを羽織って、褄〔つま〕を取ってみたりなんかして、家じゅう歩きまわったものでした。」
 
漱石がロンドンへ行く前、まだ新婚のころである。
 
食べ物の話もある。

「どちらかと言えばこってりした脂っこい肉類のようなものが好きで、魚は臭いといってあまり好みませんでした、年もようやく三十を越したばかりで物の味もわかり、また相当おいしいものも喰べたかったのでしょうが、こっちは年は行かないし、人間お腹さえすいていれば何でもおいしいはずだなどと禅坊主じみた頑固なことを言い張って、多くはうまいもまずいもお構いなしだったのですから、今から考えるとわれながら乱暴だったと気のどくでなりません。」
 
うーむ、鏡子さんはやっぱり悪妻の部類かね。しかし思い出を飾ることのない、正直な人であることは分かる。
 
漱石はまた公平な人だった。

「私の父というのが家庭の暴君でずいぶん短気で母なぞたびたび弱らされていたものでしたが、それに比べると夏目はゆったりしていて、すべてのことについて公平だし、父のように自分かってな向かっ腹を立てるでなし、なるほど先生などというものは修養のできたものだ」
 
何度も言うようだけれど、これは漱石が、ロンドン留学する前のことである。
 
もっとも「公平」であるについては、きっと死ぬまで変わらなかっただろう。そうでなければ、「木曜会」で、あれだけの門人は集まらなかったはずである。
 
女性の好みも、あけすけに喋っている。鏡子の持っていた『文芸倶楽部』の、大塚楠緒子の短歌を見ていて、その品評をしたのだが、「あれは俺の理想の美人だよなどといういらぬことまで付け加えて話してくれました。」
 
鏡子さんのふくれた顔が、想像できる。

夫婦の貫目――『漱石の思い出』(夏目鏡子述・松岡譲筆録)(1)

やっぱり読んでおこうと思った。なぜそう思ったかは、忘れてしまった。夏目鏡子述・松岡譲筆録の『漱石の思い出』は、ずっと気にかかってはいたのだ。
 
2006年5月に、秋山豊さんの『漱石という生き方』を刊行したときに、『漱石の思い出』を一度も取り上げなくていいのですか、と秋山さんに問うと、「漱石が死んだときに、解剖してくださいといった女ですよ」と、まったく相手にしておられなかった。
 
原稿をもらっているときには、どうしても著者の立場に立ってしまう。秋山さんがそういうのだから、読むまでもあるまいと思った。

また夏目鏡子は悪妻という噂があり、写真で見てもでっぷり肥った、およそ文学には縁のない女だと思っていた。

『漱石の思い出』を一読すれば、それがまったくの誤解であることがわかる。
 
なお松岡譲は、漱石の長女、筆子の夫である。つまり夏目鏡子は義母にあたるから、まずいことは書くまい、となるところだが、そんなうわべを繕う水準ではない。
 
まずは結婚前の事から。

「とにかく夏目と松山との関係は、前には子規さんで結ばれ、後では(今に至るまで)『坊っちゃん』で結ばれたといっていいでありましょうが、ここにいた一年間は夏目にとってはたいへん不愉快のものであったらしゅうございます。」
 
松山と漱石の関係については、昔から不思議でならなかった。下宿でも、学校でも、不愉快極まりないことが、次々に起きる。最後は教頭の赤シャツと、腰巾着の野だいこに、生卵をぶっかけて松山を去っていく。漱石にとって懐かしい思い出は、薬にしたくともない。いったい松山市民は『坊っちゃん』を読んだことがあるんだろうか。
 
この本とは関係ない話をすれば、漱石が千円紙幣になるとは恐れ入ったものである。漱石の、特に『猫』などを読めば、紙幣になるなど金輪際ごめんだ、という声が聞こえるではないか。やはり関係者は、漱石文学など1行も読んでいないに違いない。
 
それで言えば、樋口一葉はもっとかわいそうだ。極貧で、それが原因で20歳すぎで死んだのだから。それで紙幣の顔になるなんて、徹底的に死者を愚弄する話だ。
 
漱石の婚約時代、1月3日に鏡子の家へ行って、みんなで正月の福引きを引くと、漱石には絹のみすぼらしい帯〆が当たり、鏡子は男用のハンケチ1ダースが当たった。ハンケチには藍で大きく「国の光」と染めてあった。鏡子の母がそれを見て、取り換えてあげたら、と言った。

「あの人の文運がひらけて、今では一つの国の光になったことの運命を、僭越ながらなんだかその時に私の手で暗示したように感じられもするのであります。」
 
鏡子の、新妻になる喜びがあふれている。
 
もっとも漱石は、「あのハンケチじゃしかたがない。おおかた兄貴の子供のおしめにでもしただろう」と、けんもほろろだった。ひょっとして「国の光」が良くなかったのか。
 
そしていよいよ結婚したのだが、東京ではなくて熊本でやったものだから、「まことに裏長屋式の珍な結婚」だったという。
 
ここはいろいろなことが書いてあるが、一つだけ取り上げる。

結婚祝いの手紙が、狩野亨吉、松本文三郎、米山天然居士、山川信次郎の連名で送られてきた。

「みるとたいへん堂々たるお手紙で、祝辞が滔々と述べてあって、お祝いの品別紙目録どおりとあって、その目録が鯛昆布から始まって、めでたい品の限りを尽くしております。こんなにたくさんの品を送ってくだすったのか、お友達というものはえらくありがたいものだと読んで行きますと、一番終いに小さい文字で、お祝いの品々は遠路のところ後より送り申さず候と、とうとう新婚早々一本かつがれてしまいました。」
 
これは『吾輩は猫である』で、苦沙弥が迷亭にかつがれるやり方と、呼吸がそっくりではないか。

その呼吸は、鏡子にも結婚したときから、備わっていた。漱石と鏡子はともに、迷亭的なるものにコロリと騙される、豊かな素養を持っていたのだ。

ああ、勘違い――『東京島』(桐野夏生)

桐野夏生は、僕には徹底的に合わない。『柔らかな頬』も『グロテスク』も、途中までは面白いのだが、あるところからヨレていく。作家は、虚空に花を摑んだつもりなのかもしれない。しかし花束ではなくて、何か得体のしれないもの、せいぜいが造花に過ぎない。

「真実」を辿って書いていけば、考えてもいなかったところに出るというのが、長編作家の最も大事な資質だろう。
 
桐野夏生も、そういうところを狙っていると思う。しかし「真実」を探求して書いてはいないと思う。

『東京島』は、設定がはっきりしている分、著者が書きながら、とんでもないところに出たとは、ならないのではないか。そう思ったのだ。
 
で、読んでみると、これはひどいと言うしかない。
 
カバー裏の惹句で、粗筋を辿っておく。

「清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。〔中略〕求められ争われ、清子は女王の悦びに震える――。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世記。谷崎潤一郎賞受賞作。」
 
この小説は雑誌「新潮」に2004年1月号から2007年11月号まで、15回にわたって断続的に掲載された。執筆に賭ける、驚くほど粘り強い意志だが、その割には一篇を通して、ダイナミックな流れというものがなく、はっきりしたクライマックスもない。
 
文庫の「解説」を、佐々木敦という批評家が書いている。
 
そもそも『東京島』は、第一章をもって読み切り短篇の予定だったという。

「だが、書き終えた時、まだ『続き』が有るということに気付いた作家は、それから連作短篇のような形式で、物語を継いでいくことになった。今こうしてあるように完成した長篇として読むと、とてもそんな経緯があったとは思えないのだが、しかし桐野小説の近作の多くが、実はほぼ似たような形で書かれているのである。」
 
さもありなん。完成したものを見ると、そういうふうにして書かれているな、という気が強くする。つまり途中からヨレている。

「雑誌や新聞に連載された長篇でさえ、事前に綿密な取材や準備を行いながらも、いざ執筆が開始されてみると、言葉と物語とそこに生きる登場人物たちは、作者である桐野夏生自身さえも予めは想定していなかったほどの思いがけぬ方角へと、勢いをつけて転がってゆくことがあるのだという。」
 
その結果、作者の手には負えない、ぐしゃぐしゃのものが出来上がる。その一篇に、題して『グロテスク』とは、付けも付けたりという気がする。

「小説の姿をした『虚構』が暴走を始めた時、それを押し止めたり制御しようとするのではなく、それを思うさま何処ともなく走ってゆかせる底知れぬ度量が、桐野夏生にはある。」
 
それは作家の度量云々ではなく、要するに締まりがないだけ。そこでは、書くことだけが「真実」に迫っていけるというのを、才能のない作家が、上辺だけ真似をしているに過ぎない。

「『東京島』の物語を通しての「清子」の変化――それはほとんど人格が変わってしまったかにさえ思えるほどの甚大なものだが――は、老衰とか枯淡などと呼ばれるような経年による自然なそれとはまったく別の異様な変化と言えるが、しかしそれは彼女が特別な存在であるからではなく、いわば条件さへ揃えば誰にでも起こりうることなのだ。」
 
それはすべての女性が潜在させているものだ、と桐野夏生は言いたいのだろう。佐々木敦はそう言う。
 
駄法螺もいいかげんにしろと言いたい。長い時間、かってに書き溜めていった結果、作者における統一した人格が、失われただけのことだ。

これはしかも、すべての人物においてそうなのだ。桐野夏生、大丈夫か、と言いたくなる。

その結果、惹句にあるような「新たな創世記」では、全然ないし、谷崎賞は、ああ勘違い、としか言いようがない。

(『東京島』桐野夏生、新潮文庫、2010年5月1日初刷、6月10日第3刷)

3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(菊地史彦)(4)

「第十二章 現前する死者」は、目取真俊の文学について。私はここに取り上げられた、「平和通りと名付けられた街を歩いて」も「水滴」も読んだはずだが、細部は憶えていない。
 
ただ「平和通りと名付けられた街を歩いて」で、家に閉じ込められた痴呆の老婆が、掛け金をねじ切り、街へさまよい出るところは覚えている。というか、その次の場面があまりに強烈なので、他の場面をほとんど忘れたといってもいい。
 
明仁皇太子夫妻が車で通りかかるころ、老婆の「ウタ」は通りに躍り出る。

「それはウタだった。車のドアに体当たりし、二人の前のガラスを平手で音高く叩いている。白と銀の髪を振り乱した猿のような老女はウタだった。」
 
ウタは警備の男たちをものともせず、暴れまくる。「帯がほどけ着物の前もはだけ、下肢の奥は黄褐色の汚物にまみれていた。」
 
そう、「ウタ」はうんこまみれだったのだ。

「黒塗りの高級車は、ウタが『二人』の面前のガラスに付けた『二つの黄褐色の手形』を付けたまま走り始めた。見送る人々の失笑でそれに気付いた助手席の老人が、ハンケチやタキシードの袖で拭き取る。車は『笑いとふくよかな香りを残して市民会館の駐車場に消えた』」
 
見事なクライマックスだが、今読み返すと少し悲しい気もする。
 
私は、皇室に対して、この老婆の持っているものを、心の底に持っていない沖縄人とは、話したくないと思う。もちろん、そんなことを言うなら、お前はどうかと、すぐに自分の方に跳ね返ってくる。
 
自分の優柔不断振りは、自分で分かっている。それと向き合うのが嫌だから、できれば沖縄に関する真面目なものは、読みたくないのだ。
 
目取真俊の話を、もう少し続ける。「水滴」という、芥川賞を受賞した小説の話である。男の右足が突然腫れあがり、そこから滴り落ちる「水滴」を、幽霊となった兵隊たちが嘗めとる。まことに強烈な話で、この話も、ここだけ突出して憶えていた。
 
しかし目取真俊の小説と言えば、ここには取り上げられていない、「マーの見た空」がもっとも感銘深い。森に棲む「マー」は、何というか、沖縄の魂という気がする。
 
これは「目取真俊短篇小説選集」(全3巻)の「1 魚群記」に入っている。そのころ影書房の松本昌次さんが、熱心に編集しておられた。
 
私は電車の中で、「マーの見た空」を読みながら、涙が溢れてくるのを、乗客にばれないよう、必死で俯いて隠していた。
 
菊地さんの『沖縄の岸辺へ』は、私が全体を過不足なく紹介するには、まったく相応しくない。この本に流れる政治の話を、避けてきたからである。どうしてそういうふうになるかは、いささか説明した。あとは一人でも多くの人が、この本を実際に手に取らんことを祈っている。

(『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』菊地史彦、作品社、2022年12月20日初刷)

3部作の、その先へ――『沖縄の岸辺へ―五十年の感情史―』(菊地史彦)(3)

この本は構成そのものが、オリジナリティに富んでいる。ここまで朝ドラに見る沖縄と、喜納昌吉について見てきたが、さらにその先の話題を、章としていくつか挙げてみる。

「沖縄幻想を食い破った映画」、「沖縄チームの甲子園」、「大転換期の『基地問題』」、「アメリカンビレッジの行方」、「現前する死者」など、変化に富んでいる。

最初の「沖縄幻想を食い破った映画」では、中心を占めるのは、1989年に高嶺剛が発表した『ウンタマギルー』であるが、それよりもその前に出てくる、『ひめゆりの塔』(今井正監督)にまつわる話が興味深い。

「ひめゆり学徒たちの信条はあくまでも『殉国』の側にあり、ここからは日本が沖縄で行った差別的政策は見えてこない。今井作品も沖縄の側に立って、日本を批判するものではなかった。結果として、『贖罪』の意識は、沖縄は本土と同じ方向を向いて悲劇を甘受したという虚偽の歴史観から生まれている。」

「ひめゆり学徒」たちは、時の日本政府の、差別的政策の犠牲になったものであるが、映画では、そこは巧妙に避けられている。

「『ひめゆり』の物語は本土側の沖縄幻想の中に係留されたままになった。結局、本土人が身に付けたのは、贖罪という眼差しで沖縄を見るという習性のようなものだけだった。」
 
痛烈で正しい意見だが、それでも「ひめゆり」ものを見るときはいまだに、「贖罪という眼差しで沖縄を見るという習性のようなもの」が、忍び込んでくる。だから私は、「ひめゆり」ものや、沖縄のそれに類するものを、避けて通りたいのだ。

「大転換期の『基地問題』」は、現在に続く問題で、軽々に要約はできない。それでも押さえておくべき、決定的な文言がある。
 
まず大枠の「冷戦」について。

「日本にとってそもそも冷戦とは何だったのか。
 核兵器がもたらす破滅的な結末が逆説的にもたらす偽装的な平和――これが冷戦の実体である。そのまがい物の安定と秩序を最大限に活用し、高度経済成長を手中にした国が日本であったことは間違いない。」
 
これも痛烈である。

もっとも、平和は偽装的であってもなくても同じことだ。政治は結果で、そこだけが問題になる、という言い方をする人もいる。日々を暮らしていく中では、そういう結果が大事であり、またそれを受け入れていくしかない、とも言える。
 
しかし私は、「まがい物の安定と秩序を最大限に活用し、高度経済成長を手中にした国」に生きているということは、忘れないでいたいと思う。
 
そしてそのあとに続く文章。

「高度成長の恩恵を受けた本土から、アジア冷戦体制の拠点になった沖縄が切り離されたことで、本土の日本人の大半は、(沖縄が復帰した後も!)冷戦という現実から目をそらしたままだった。」
 
そしてそれは今も変わらない。これは日本人だけが悪いのではない。この点では、アメリカも必死だったのだ。それは本文を読んでいただきたい。
 
菊地さんは最後を、こんな言葉で締めくくっている。

「立場や利害の違いはあれ、沖縄の人々は大勢では新基地に反対し続けた。その間に、五人の県知事とアメリカ大統領、十二人の日本の首相が沖縄を通り過ぎていった。
 四半世紀の間に世界は変わり、当初の『目論見』の意味はなかば失われてしまったのではないか。世界の情勢は逃げ水のようにつかまえがたい。そして膨大な労役と費用と迷惑の挙句に、無用の長物ができあがっていくナンセンス。我々はその行方をまだ見通せないでいる。」
 
私たちは「その行方をまだ見通せない」というよりは、私たちの手で当面の決着をつけるべきではないか。私はそう思う。