今や未来は不確かなものになった、と著者は言う。現代文明が、ここにきて明らかに崩壊し始めた兆候がある、と言う。
地球上の富を無制限に濫費すれば、いずれは枯渇することになる。これは明らかである。
「私たちは文明、そして政治家たちを夢中にした経済成長が健全な環境の上に成り立っているという事実を見失っていたのだ。ミツバチ、土壌、糞虫、ミミズ、きれいな水と空気がなければ、食料を生産できず、食料がなければ経済もない。」
これは根本的な、文明の価値の転換なのだが、私たちは、これを受け入れることができるだろうか。
1992年に、世界中の1700人の科学者たちが、「人類への警告」を発表した。
「人間は生存に欠かせない土壌を浸食し、劣化させているうえ、オゾン層を破壊し、大気を汚し、多雨林を伐採し、海で乱獲し、酸性雨をもたらし、海洋に汚染された『死の領域』をつくり、空前のスピードで種を絶滅させ、貴重な地下水資源を枯渇させてきた」。
だから大惨事を避けたいなら、地球と、そこに住む生命とのつきあい方を、大きく変えなければならない。今から30年前に、この警告は出されている。
「温室効果ガスの排出量の削減、化石燃料の段階的な使用停止、森林伐採の削減に取り組まなければならないほか、生物多様性が崩壊しつつある傾向を逆転させる必要もある。」
けれども各国の政府も、大多数の人間も、この警告に耳を貸そうとしなかった。
92年と言えば、法蔵館で『季刊仏教』を編集していたころだ。「環境問題」は、この雑誌にはもってこいだった。
そのころ、養老孟司先生に連載をお願いしていたから、環境問題についても、話を聞いていたに違いない。養老先生は、今では環境問題が一番大きい、とおっしゃっていたはずだ。でも私には記憶がない。凡庸な編集者とはこんなものだ。
環境問題の根本原因は、資本主義制度にある、と著者は言う。
「巨大な多国籍企業が、政治家や、さらには国家全体さえもはるかに凌駕する大きな力を集めることを許し、人間や環境が負う代償を顧みることなく利益を最大化するように世界を形成したというのだ。」
この方向で走ってきた文明が、急に方向を転換することができるだろうか。
「まだ手遅れではない」と著者は言う。将来の子孫を思い、真剣に考えを変えるべきなのだ。そうすれば、違う未来が見えてくる。
「昆虫は食物連鎖の底辺近くに位置していることから、昆虫の回復は鳥やコウモリ、爬虫類、両生類などの個体数が回復する礎となる。人間がおびただしい数の大小さまざまなほかの生き物とともに生きる、活気と緑に満ちた持続可能な未来に、手が届くようになるのだ。」
大半の昆虫が絶滅するのと、人間が考えを改めるのと、どちらが早いか。結局はそういうことだろう。
話は違うが、このところ同性婚について、岸田首相が、こんなことをすれば、社会が変わってしまう、と述べている。それに対して、革新系の人たちは、同性婚を認めても、異性婚をしている人たちには、何の変化もないと言っている。
何というか、「バカ」に合わせるには、これも方便だが、本当はこれではだめなのだ。
私たちが同性婚を認めることは、実は世界がほんの少し変わることであり、動物と共存できれば、世界は90度変わることになる。さらに昆虫とも共存できるようになれば、世界は180度変わることになるのだ。
そういうことができるかどうか。この方向に努力しなければいけない、と思いつつ、しかし私には自信がない、というか、はっきりしたヴィジョンを描くことができない。
(『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』デイヴ・グールソン、
藤原多伽夫・訳、NHK出版、2022年8月30日初刷、9月30日第2刷)
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(デイヴ・グールソン)(3)
第3章は「昆虫の不思議」である。ここは全部を紹介したいが、そうもいかないのでピックアップしておく。
まずはセックスの話。
「ブラジルの洞窟にすむチャタテムシは、交尾のとき雌が雄の上に乗り、とげのある膨張式のペニスのような大きな器官を雄に挿入して、精子を吸い上げる。『ペニス』にとげがあることで、雌は交尾を終えるまで雄をしっかりつかまえることができる。交尾は五〇時間以上も続くことがあるという。」
精子を吸い上げる、とげのある膨張式の疑似ペニス、しかもその交尾は、50時間以上も続くことがあるという。
こういうことになると、雌雄というのも、考えなくてはいけなくなる。人間を基準にしてはいけない、昆虫学者から見れば、そんなの当たり前と言われそうだが。
しかし、もっとすごいのがいる。
「〔チャタテムシは〕ある種のナナフシに比べれば、まだ短いほうだ。昆虫界のセックスの達人ともいうべきそのナナフシは何週間も交尾したままでいられ、最長で七九日という記録が残っている。」
どこからツッコミをいれようか、と関西人なら思わず考えてしまう。いや、ほんま、飯も食わんと二か月半、オメコばっかりしとる。そんなアホな、と言いたくなる。
しかしまた、これを観察するほうも、するほうだね。来る日も来る日も、じっと交尾を見つめているなんて、……。
やはりいずれ人間と昆虫は、なんとか意思疎通の道を見出すべきだ。2か月半、セックスをしたナナフシは、それほど深く相手と交わりたかったのか。雄と雌のどちらが、セックス中毒であったのか、あるいはどちらも同じくらい、狂おしいほど一つになりたかったのか。ぜひとも2匹で会見してほしい。
こうなるとカフカの『変身』は、目の付けどころはよかったが、そこから筆が伸びていない。人間から虫に変身(変態)し、今度は虫になって、虫としての存在を、考え詰めなければいけなかった(しかしなにしろ100年前だからなあ)。
これは村田沙耶香あたりが、『変身 2』として考えてもいいところだ。虫と人間では、たとえば交尾の意味が違うというように。
変わった例では、ネジレバネというのがいて、世界中に棲息している。雄と雌は形がまったく違う。
ネジレバネの雌は寄生虫で、ハチやバッタなどに寄生している。成長すると、宿主の体内の9割を占めることもあるが、それでも宿主のハチやバッタはなんとか生きて活動している。まるでゾンビだ。
「ネジレバネの雌は成虫になっても、ウジのように目も脚も翅もなく、一見自分では何もできなさそうな見かけだが、それでも宿主の腹部の体節と体節のあいだから目のない頭部を押し出し、フェロモンを放出して交尾相手を誘う。」
実に不気味である。目も脚も翅もなく、しかし宿主の体節の間から、フェロモンを出して雄を誘う。この存在は、もう雌そのものというしかない。
これに対して、雄はまったく違う。
「雄は小型で繊細な昆虫で、黒っぽい三角の翅を一対もっていて自由に飛べる。宿主の体内にいる雌と交尾するとすぐ、力尽きて死んでしまう。雌が産んだ無数の子は、母親の体を食べ尽くすと宿主の体から這い出して、そのなかの雌がまた生きのいい宿主を探す。」
こういう昆虫は、たぶん人間の役には立たない。しかし「地球上のあらゆる生物は人間と同じようにこの惑星に存在する権利がある」と著者は言う。
ここは著者が、一歩踏み出したところだ。
「ナメクジが『何のため』にいるかを知ろうとする必要などない。それを知らなくても、彼らの存在を許すべきだ。ペンギンだろうと、パンダだろうと、シミだろうと、美しいかどうかに関係なく、そして生態系に欠かせない役割を果たしているかどうかに関係なく、惑星『地球号』に同乗している仲間たちすべての面倒を見る道徳的義務が、私たちにあるのではないのだろうか?」
しかし人間は凝りもせず、まだ「戦争」をしている。ロシアだけではない。世界中のあらゆるところで、「戦争」をしている。
著者の境地へ、人類の大半が行き着くまでに、何千年、何万年かかることだろうか。しかし、そこに達するまでは、人間はたびたび、滅びの一歩手前を歩むことになるのだろう。
まずはセックスの話。
「ブラジルの洞窟にすむチャタテムシは、交尾のとき雌が雄の上に乗り、とげのある膨張式のペニスのような大きな器官を雄に挿入して、精子を吸い上げる。『ペニス』にとげがあることで、雌は交尾を終えるまで雄をしっかりつかまえることができる。交尾は五〇時間以上も続くことがあるという。」
精子を吸い上げる、とげのある膨張式の疑似ペニス、しかもその交尾は、50時間以上も続くことがあるという。
こういうことになると、雌雄というのも、考えなくてはいけなくなる。人間を基準にしてはいけない、昆虫学者から見れば、そんなの当たり前と言われそうだが。
しかし、もっとすごいのがいる。
「〔チャタテムシは〕ある種のナナフシに比べれば、まだ短いほうだ。昆虫界のセックスの達人ともいうべきそのナナフシは何週間も交尾したままでいられ、最長で七九日という記録が残っている。」
どこからツッコミをいれようか、と関西人なら思わず考えてしまう。いや、ほんま、飯も食わんと二か月半、オメコばっかりしとる。そんなアホな、と言いたくなる。
しかしまた、これを観察するほうも、するほうだね。来る日も来る日も、じっと交尾を見つめているなんて、……。
やはりいずれ人間と昆虫は、なんとか意思疎通の道を見出すべきだ。2か月半、セックスをしたナナフシは、それほど深く相手と交わりたかったのか。雄と雌のどちらが、セックス中毒であったのか、あるいはどちらも同じくらい、狂おしいほど一つになりたかったのか。ぜひとも2匹で会見してほしい。
こうなるとカフカの『変身』は、目の付けどころはよかったが、そこから筆が伸びていない。人間から虫に変身(変態)し、今度は虫になって、虫としての存在を、考え詰めなければいけなかった(しかしなにしろ100年前だからなあ)。
これは村田沙耶香あたりが、『変身 2』として考えてもいいところだ。虫と人間では、たとえば交尾の意味が違うというように。
変わった例では、ネジレバネというのがいて、世界中に棲息している。雄と雌は形がまったく違う。
ネジレバネの雌は寄生虫で、ハチやバッタなどに寄生している。成長すると、宿主の体内の9割を占めることもあるが、それでも宿主のハチやバッタはなんとか生きて活動している。まるでゾンビだ。
「ネジレバネの雌は成虫になっても、ウジのように目も脚も翅もなく、一見自分では何もできなさそうな見かけだが、それでも宿主の腹部の体節と体節のあいだから目のない頭部を押し出し、フェロモンを放出して交尾相手を誘う。」
実に不気味である。目も脚も翅もなく、しかし宿主の体節の間から、フェロモンを出して雄を誘う。この存在は、もう雌そのものというしかない。
これに対して、雄はまったく違う。
「雄は小型で繊細な昆虫で、黒っぽい三角の翅を一対もっていて自由に飛べる。宿主の体内にいる雌と交尾するとすぐ、力尽きて死んでしまう。雌が産んだ無数の子は、母親の体を食べ尽くすと宿主の体から這い出して、そのなかの雌がまた生きのいい宿主を探す。」
こういう昆虫は、たぶん人間の役には立たない。しかし「地球上のあらゆる生物は人間と同じようにこの惑星に存在する権利がある」と著者は言う。
ここは著者が、一歩踏み出したところだ。
「ナメクジが『何のため』にいるかを知ろうとする必要などない。それを知らなくても、彼らの存在を許すべきだ。ペンギンだろうと、パンダだろうと、シミだろうと、美しいかどうかに関係なく、そして生態系に欠かせない役割を果たしているかどうかに関係なく、惑星『地球号』に同乗している仲間たちすべての面倒を見る道徳的義務が、私たちにあるのではないのだろうか?」
しかし人間は凝りもせず、まだ「戦争」をしている。ロシアだけではない。世界中のあらゆるところで、「戦争」をしている。
著者の境地へ、人類の大半が行き着くまでに、何千年、何万年かかることだろうか。しかし、そこに達するまでは、人間はたびたび、滅びの一歩手前を歩むことになるのだろう。
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(デイヴ・グールソン)(2)
この本には章の間に、ところどころ「私の好きな虫」というコラムが入っている。最初は題して「魔性のホタル」。
ある種のホタルの雌は、別のホタルの雌の光を、真似る能力を発達させた。その目的は交尾ではなく、獲物となる昆虫やミミズ、カタツムリなどを、おびき寄せるためだ。これは雄も、同じ罠にかかる。
「かわいそうな好色の雄がその誘いに乗ると、あっという間に食べられる。この習性から、こうした雌は『ファム・ファタル(魔性の女)』ホタルとも呼ばれている。」
人間にも、そのままいそうですね。「ファム・ファタル・ホタル」なんて、遠くから見てる分には、ときどき光って、ちょっと素敵ではありませんか。
それはともかく、昆虫は地球上で知られている種の、大半を占めるというから、絶滅していけば、地球上の生物多様性は激減されるだろう。
「その多様性と膨大な個体数を考えると、昆虫が陸上と淡水環境のあらゆる食物連鎖と食物網に密接にかかわっているのは明らかだ。」
そうか、植物の受粉に果たす役割の前に、食物連鎖という、もっと大きな役割があったのだ。
「たとえば、イモムシやアブラムシ、トビケラの幼虫、バッタは草食で、植物の構成物質をより大型の動物にとってはるかにおいしくて消化しやすい昆虫のタンパク質に変えてくれる。スズメバチやオサムシ、カマキリといったほかの昆虫は草食の昆虫を食べる捕食者で、食物連鎖の次の段階にある。そして、これらの昆虫たちすべてが多数の鳥類やコウモリ、クモ、爬虫類、両生類、小型哺乳類、魚類の獲物となる。昆虫がいなくなれば、こうした動物たちが食べるものはないに等しい。」
そうすると巡りめぐって、人間が食べる動物や魚類は無くなってしまう。
さらに著者は、推定によれば2050年に100億から120億の人を、養おうとするなら、従来の家畜に替えて、より持続可能な「昆虫食」を試し、「昆虫養殖」を真剣に考えるべきだという。
日本でもごく一部の昆虫は、食用になっている。私は、飲み屋の「鮒忠」で出すイナゴの佃煮は大好きである。しかし30年前に台湾に行ったとき、円環の屋台で出た幼虫の、半生に焼いたものは食べられなかった。
というようなことはどうでもよくて、昆虫の養殖は、緊急に考える必要があるだろう。
そしていよいよ受粉の話である。花粉運びのほとんどは、昆虫に頼っている。
「色とりどりの花びら、花の香りと蜜は送粉者(花粉媒介者)を引きつけるために進化した。花粉の運び屋がいなければ、花粉の運び屋がいなければ、野花は結実せず、やがて大半が姿を消すだろう。ヤグルマギクもポピーも、ジギタリスもワスレナグサもなくなる。世界から徐々に色が失われていくことを嘆き悲しむ人もいるだろうが、送粉者がいなくなることは美しい花の喪失よりもはるかに甚大な影響を生態系に及ぼすことになる。植物はあらゆる食物連鎖の基礎をなす存在だから、膨大な数の植物種が結実できなくなって死滅すれば、地上のあらゆる生物群集が一変し、貧弱になってしまうだろう。」
貧弱になるどころの話ではない。たちまち飢餓が襲ってくる。なお「生物群集」というのは、特定の地域にすむ生物種を、ひとまとめに捉えたもののこと。
ある種のホタルの雌は、別のホタルの雌の光を、真似る能力を発達させた。その目的は交尾ではなく、獲物となる昆虫やミミズ、カタツムリなどを、おびき寄せるためだ。これは雄も、同じ罠にかかる。
「かわいそうな好色の雄がその誘いに乗ると、あっという間に食べられる。この習性から、こうした雌は『ファム・ファタル(魔性の女)』ホタルとも呼ばれている。」
人間にも、そのままいそうですね。「ファム・ファタル・ホタル」なんて、遠くから見てる分には、ときどき光って、ちょっと素敵ではありませんか。
それはともかく、昆虫は地球上で知られている種の、大半を占めるというから、絶滅していけば、地球上の生物多様性は激減されるだろう。
「その多様性と膨大な個体数を考えると、昆虫が陸上と淡水環境のあらゆる食物連鎖と食物網に密接にかかわっているのは明らかだ。」
そうか、植物の受粉に果たす役割の前に、食物連鎖という、もっと大きな役割があったのだ。
「たとえば、イモムシやアブラムシ、トビケラの幼虫、バッタは草食で、植物の構成物質をより大型の動物にとってはるかにおいしくて消化しやすい昆虫のタンパク質に変えてくれる。スズメバチやオサムシ、カマキリといったほかの昆虫は草食の昆虫を食べる捕食者で、食物連鎖の次の段階にある。そして、これらの昆虫たちすべてが多数の鳥類やコウモリ、クモ、爬虫類、両生類、小型哺乳類、魚類の獲物となる。昆虫がいなくなれば、こうした動物たちが食べるものはないに等しい。」
そうすると巡りめぐって、人間が食べる動物や魚類は無くなってしまう。
さらに著者は、推定によれば2050年に100億から120億の人を、養おうとするなら、従来の家畜に替えて、より持続可能な「昆虫食」を試し、「昆虫養殖」を真剣に考えるべきだという。
日本でもごく一部の昆虫は、食用になっている。私は、飲み屋の「鮒忠」で出すイナゴの佃煮は大好きである。しかし30年前に台湾に行ったとき、円環の屋台で出た幼虫の、半生に焼いたものは食べられなかった。
というようなことはどうでもよくて、昆虫の養殖は、緊急に考える必要があるだろう。
そしていよいよ受粉の話である。花粉運びのほとんどは、昆虫に頼っている。
「色とりどりの花びら、花の香りと蜜は送粉者(花粉媒介者)を引きつけるために進化した。花粉の運び屋がいなければ、花粉の運び屋がいなければ、野花は結実せず、やがて大半が姿を消すだろう。ヤグルマギクもポピーも、ジギタリスもワスレナグサもなくなる。世界から徐々に色が失われていくことを嘆き悲しむ人もいるだろうが、送粉者がいなくなることは美しい花の喪失よりもはるかに甚大な影響を生態系に及ぼすことになる。植物はあらゆる食物連鎖の基礎をなす存在だから、膨大な数の植物種が結実できなくなって死滅すれば、地上のあらゆる生物群集が一変し、貧弱になってしまうだろう。」
貧弱になるどころの話ではない。たちまち飢餓が襲ってくる。なお「生物群集」というのは、特定の地域にすむ生物種を、ひとまとめに捉えたもののこと。
世界の見方が変わる――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(デイヴ・グールソン)(1)
タイトルに借用した『沈黙の春』(Silent Spring)は、あまりに有名なレイチェル・カーソンの作品。DDTなど殺虫剤・農薬の化学物質の危険性を訴えた。
著者のデイヴ・グールソンは英国人。昆虫、特にマルハナバチの研究と保護が専門で、激減するマルハナバチを保護する基金を設立した。EU全域に、ネオニコチノイド系殺虫剤の使用禁止を決断させた推進者である。以上は「著者紹介」から。
ネオニコチノイドと言えば、菅原文太を思い出す。このブログにも書いたが、ヤクザ映画の元大スターは、晩年は農業従事者として、自然農法による作物の育成を推進していた。そのさい、昆虫に最も害を与えるのが、ネオニコチノイド系農薬だ。
菅原文太さんは、ミツバチが死滅していく例を挙げ、ヨーロッパではネオニコチノイドは禁止されつつある、日本も早急にそうしなければ、取り返しのつかないことになる、と警鐘を鳴らした。
この本も、全体を読み終わって、しばし愕然とさせる。これに重ねて、斎藤幸平の『人新生の「資本論」』を読めば、人間だけが地球上でのさばっているのは、明らかにまずいと思わされる。
中身を読んでいこう。
「マルハナバチはうっかり者のテディベアのような見かけだが、実際は昆虫界の知の巨人であり、目印になる地形や花が咲いている場所の位置を記憶し、それを頼りに飛び回ることができるうえ、精妙な形の花の奥にあるごちそうを効率的に採取するし、コロニーでは複雑な社会が形成され、陰謀や女王殺しが絶えない。」
さすがマルハナバチの専門家、その肩の入れ具合は並のものではない。「コロニーでは複雑な社会が形成され」というところは分かるが、「陰謀や女王殺しが絶えない」とはどういうことか。ウーム、知りたい。
しかもこの後に蛇足がついている。
「マルハナバチと比べてしまうと、子どもの頃に追いかけていたチョウは、美しいが愚かな生き物のように見えてくる。」
昆虫の知能を検査すれば、マルハナバチは「昆虫界の知の巨人」、すなわち立花隆であり、チョウは美しいが愚かな、たとえばマリリン・モンローである、と言っているのだ(マリリン、ごめん)。
それはともかく、昆虫の数は減り続けている。
「推定値はさまざまで正確ではないが、私が五歳だったとき以降、昆虫の数はどうやら七五%以上も減ったとみられている。」
しかし昆虫が減ることが、人間にとって、それほど危機的な状況なのだろうか。実はそうなのである。それは植物の「受粉」ということと関係している。
しかしその前に、昆虫の歴史を見ておこう。
5億年前の海にいた、バージェス頁岩から出土した奇妙な生き物の話は、省略する。
こういうことを言い出すと、スティーヴン・J・グールドの『ワンダフル・ライフ』を思い出す。この本が大ベストセラーになったので、日本のおもちゃメーカーが、「お風呂で遊べるアノマロカリス」を発売した。アノマロカリスはカンブリア紀の、巨大なゲジゲジのような生き物である。
昆虫は、飛行能力を持ったことが、長く繁栄する決め手となったが、そのほかにも「ある種の昆虫が『変態』という能力を獲得した。イモムシからチョウに、あるいはウジからハエに変わるように、未成熟の期間(幼虫)からまったく異なる姿の成虫に変化する驚くべき能力だ。」
これが、石炭紀が終わってすぐ、2億8000万年前のことである。
昆虫の変態は、さなぎと呼ばれる段階が、クライマックスである。
たとえばイモムシは、最後に葉を食べてから、「絹糸〔けんし〕」と呼ばれる糸で、体を植物の茎に固定する。この状態で何週間も、種によっては何カ月も過ごすことになる。
「ぴかぴかの蛹〔さなぎ〕の表皮の下では、体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解するようにあらかじめ決まっている。自身はただのスープのような状態になる。ただし胚細胞の集まりはいくつか残り、それらが増殖して新たな内臓と構造が一からつくり直されて、まったく新しい体に変身する。」
ほんとかね、「自身はただのスープのような状態になる」って。信じられないね、「体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解する」って。
もう一度、子どものときに戻って、イモムシのさなぎを解剖してみたい。
著者のデイヴ・グールソンは英国人。昆虫、特にマルハナバチの研究と保護が専門で、激減するマルハナバチを保護する基金を設立した。EU全域に、ネオニコチノイド系殺虫剤の使用禁止を決断させた推進者である。以上は「著者紹介」から。
ネオニコチノイドと言えば、菅原文太を思い出す。このブログにも書いたが、ヤクザ映画の元大スターは、晩年は農業従事者として、自然農法による作物の育成を推進していた。そのさい、昆虫に最も害を与えるのが、ネオニコチノイド系農薬だ。
菅原文太さんは、ミツバチが死滅していく例を挙げ、ヨーロッパではネオニコチノイドは禁止されつつある、日本も早急にそうしなければ、取り返しのつかないことになる、と警鐘を鳴らした。
この本も、全体を読み終わって、しばし愕然とさせる。これに重ねて、斎藤幸平の『人新生の「資本論」』を読めば、人間だけが地球上でのさばっているのは、明らかにまずいと思わされる。
中身を読んでいこう。
「マルハナバチはうっかり者のテディベアのような見かけだが、実際は昆虫界の知の巨人であり、目印になる地形や花が咲いている場所の位置を記憶し、それを頼りに飛び回ることができるうえ、精妙な形の花の奥にあるごちそうを効率的に採取するし、コロニーでは複雑な社会が形成され、陰謀や女王殺しが絶えない。」
さすがマルハナバチの専門家、その肩の入れ具合は並のものではない。「コロニーでは複雑な社会が形成され」というところは分かるが、「陰謀や女王殺しが絶えない」とはどういうことか。ウーム、知りたい。
しかもこの後に蛇足がついている。
「マルハナバチと比べてしまうと、子どもの頃に追いかけていたチョウは、美しいが愚かな生き物のように見えてくる。」
昆虫の知能を検査すれば、マルハナバチは「昆虫界の知の巨人」、すなわち立花隆であり、チョウは美しいが愚かな、たとえばマリリン・モンローである、と言っているのだ(マリリン、ごめん)。
それはともかく、昆虫の数は減り続けている。
「推定値はさまざまで正確ではないが、私が五歳だったとき以降、昆虫の数はどうやら七五%以上も減ったとみられている。」
しかし昆虫が減ることが、人間にとって、それほど危機的な状況なのだろうか。実はそうなのである。それは植物の「受粉」ということと関係している。
しかしその前に、昆虫の歴史を見ておこう。
5億年前の海にいた、バージェス頁岩から出土した奇妙な生き物の話は、省略する。
こういうことを言い出すと、スティーヴン・J・グールドの『ワンダフル・ライフ』を思い出す。この本が大ベストセラーになったので、日本のおもちゃメーカーが、「お風呂で遊べるアノマロカリス」を発売した。アノマロカリスはカンブリア紀の、巨大なゲジゲジのような生き物である。
昆虫は、飛行能力を持ったことが、長く繁栄する決め手となったが、そのほかにも「ある種の昆虫が『変態』という能力を獲得した。イモムシからチョウに、あるいはウジからハエに変わるように、未成熟の期間(幼虫)からまったく異なる姿の成虫に変化する驚くべき能力だ。」
これが、石炭紀が終わってすぐ、2億8000万年前のことである。
昆虫の変態は、さなぎと呼ばれる段階が、クライマックスである。
たとえばイモムシは、最後に葉を食べてから、「絹糸〔けんし〕」と呼ばれる糸で、体を植物の茎に固定する。この状態で何週間も、種によっては何カ月も過ごすことになる。
「ぴかぴかの蛹〔さなぎ〕の表皮の下では、体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解するようにあらかじめ決まっている。自身はただのスープのような状態になる。ただし胚細胞の集まりはいくつか残り、それらが増殖して新たな内臓と構造が一からつくり直されて、まったく新しい体に変身する。」
ほんとかね、「自身はただのスープのような状態になる」って。信じられないね、「体が溶け、胎内組織と内臓の細胞が死んで分解する」って。
もう一度、子どものときに戻って、イモムシのさなぎを解剖してみたい。
4度目の正直――『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)(2)
話の骨格は、火星から脱走してきた8人の指名手配のアンドロイドと、それを追う賞金稼ぎのリック、という単純なものだ。賞金稼ぎとはいっても、リックは正式の警官である。
大枠の筋道の中で、女のアンドロイドとリックが、惹かれ合って寝たり、リックに協力した人間が、本人は人間だと思っているが、実はアンドロイドだったりして、つまりこれは、アイデンティティをめぐる話だと分かる。
「人間」というのが、フィリップ ・K・ディックの中では、それほど輪郭がはっきりしていないのだ。あるいはこれまで思っていたよりも、「人間」というものが、アンドロイドに名を借りて、拡張して考えられている、と言ったらいいか。
原書が1968年だから、この時代としては圧倒的に斬新だったろう。自己のアイデンティティを定めることができずに、苦悩、苦闘する人間とアンドロイド。
カフカの『変身』が1910年代だから、それから50年経って、SFを纏ってフィリップ・K・ディックが現われたのだ。
しかし私は閉口した。
「ベッドわきの情調〔ムード〕オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。」
これが冒頭の1行である。それから少し進んだところ。
「かたわらのベッドでは、妻のイーランが陰気な灰色の目をひらき、まばたきし、うめきをもらして、また目をつむってしまった。
『そっちのペンフィールドの調節が弱すぎたんだ』リックはいった。『いまリセットしてやるから、それでちゃんと目をさまして――』
『あたしの機械にさわらないでよ』妻の声には苦いとげとげしさがこもっていた。」
こういう冒頭を、いつものSF調だと心得て、安心して読める人がいる。
私は駄目である。こんな訳の分からないところで、著者と読者が暗黙の了解を取り、周りにはわからない隠微な世界で、お互いに心地よいふりをする、ということがたまらなく嫌なのだ。
そういうわけで、ディックのこの本は、読みかけて3回挫折した。4回目に全部を読んで、なるほどこういう話かと納得はしたが、それだけのこと。臨床読書体験としては、可もなし不可もなしである。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック、浅倉久志・訳
早川書房、1977年3月15日初刷、2014年7月15日第68刷)
大枠の筋道の中で、女のアンドロイドとリックが、惹かれ合って寝たり、リックに協力した人間が、本人は人間だと思っているが、実はアンドロイドだったりして、つまりこれは、アイデンティティをめぐる話だと分かる。
「人間」というのが、フィリップ ・K・ディックの中では、それほど輪郭がはっきりしていないのだ。あるいはこれまで思っていたよりも、「人間」というものが、アンドロイドに名を借りて、拡張して考えられている、と言ったらいいか。
原書が1968年だから、この時代としては圧倒的に斬新だったろう。自己のアイデンティティを定めることができずに、苦悩、苦闘する人間とアンドロイド。
カフカの『変身』が1910年代だから、それから50年経って、SFを纏ってフィリップ・K・ディックが現われたのだ。
しかし私は閉口した。
「ベッドわきの情調〔ムード〕オルガンから、アラームが送ってきた陽気な弱いサージ電流で、リック・デッカードは目をさました。」
これが冒頭の1行である。それから少し進んだところ。
「かたわらのベッドでは、妻のイーランが陰気な灰色の目をひらき、まばたきし、うめきをもらして、また目をつむってしまった。
『そっちのペンフィールドの調節が弱すぎたんだ』リックはいった。『いまリセットしてやるから、それでちゃんと目をさまして――』
『あたしの機械にさわらないでよ』妻の声には苦いとげとげしさがこもっていた。」
こういう冒頭を、いつものSF調だと心得て、安心して読める人がいる。
私は駄目である。こんな訳の分からないところで、著者と読者が暗黙の了解を取り、周りにはわからない隠微な世界で、お互いに心地よいふりをする、ということがたまらなく嫌なのだ。
そういうわけで、ディックのこの本は、読みかけて3回挫折した。4回目に全部を読んで、なるほどこういう話かと納得はしたが、それだけのこと。臨床読書体験としては、可もなし不可もなしである。
(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック、浅倉久志・訳
早川書房、1977年3月15日初刷、2014年7月15日第68刷)
4度目の正直――『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック)(1)
フィリップ・K・ディックのこの本は、大学に入ったとき読みかけたのだが、最初の数ページで挫折した。
2度目は会社が倒産したときで、逼塞して、食うや食わずで、文庫本でも読むしかなかった。しかしこのときも、本格的な物語に入る前に投げ出した。
3度目は新婚の時代、田中晶子が私に見せるために、ビデオ屋で『ブレードランナー』を借りてきた。監督、リドリー・スコット。出演、ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、そして自分を人間だと思っていたレプリカントにショーン・ヤング。これは面白かった。
この原作が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、今度はじっくり読もうと思ったが、なんと3度目も挫折した。
これで普通は諦める。というかその本があること自体、もう忘れている。
そして去年、『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』を読んだ。すると長い「あとがき」があって、なんとそこにフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のことが、書かれているではないか。
その前に前段がある。
「あと一〇年もたてば、情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現していることでしょう。」
そして具体的な例として、鷲見洋一先生は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を挙げているのだ。
「はじめの方で、主人公が自宅でテレヴィに似た機械装置の前に腰掛けて準備し、スイッチを押すと、おそらくは有料の『ヴァーチャル・リアリティ』番組が始まります。そこでは画面に登場する人物がなぜか周囲から疎まれ、石を投げられるのですが、石の一つが人物の額に当たると、同時に主人公のおなじ場所にも激痛が走り、本物の血が流れるのです。こうした『疑似体験型』の身体知データベースこそが、今後の百科事典の主流になる日はさほど遠くないような気がします。」
こういう流れであれば、なんとか本を投げ出さずに済むのではないか。というよりも、この機会を逃したら……。で、読んでみた。
こんな小説だったのか。映画の『ブレードランナー』を面白いと言いつつ、よく分かってなかったですね。
その前に、まず石ころの場面。
「不意に石ころが飛んできて、腕にあたった。痛みがおそった。首をふりむけようとしたとき、第二の石ころが体すれすれをかすめていった。地面にぶつかった石ころは、ぎくりとするような音を立てた。だれが? いぶかしみながら、虐待者を見つけようと目をこらした。」
こういうところに目を留めて、「情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現している」に違いない、と考える鷲見洋一は、確かに卓抜した想像力を持っている。
少なくとも私は、10年もすれば実現している新しい百科事典の主流、としては、どうにも考えられない。
しかし「私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって」、というところは面白い。脳髄の視神経や脳神経と、直接コンタクトできるのであれば、あるいは五感を超えた「第六感」を、示唆することにはならないだろうか。
2度目は会社が倒産したときで、逼塞して、食うや食わずで、文庫本でも読むしかなかった。しかしこのときも、本格的な物語に入る前に投げ出した。
3度目は新婚の時代、田中晶子が私に見せるために、ビデオ屋で『ブレードランナー』を借りてきた。監督、リドリー・スコット。出演、ハリソン・フォード、ルトガー・ハウアー、そして自分を人間だと思っていたレプリカントにショーン・ヤング。これは面白かった。
この原作が『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、今度はじっくり読もうと思ったが、なんと3度目も挫折した。
これで普通は諦める。というかその本があること自体、もう忘れている。
そして去年、『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』を読んだ。すると長い「あとがき」があって、なんとそこにフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のことが、書かれているではないか。
その前に前段がある。
「あと一〇年もたてば、情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現していることでしょう。」
そして具体的な例として、鷲見洋一先生は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を挙げているのだ。
「はじめの方で、主人公が自宅でテレヴィに似た機械装置の前に腰掛けて準備し、スイッチを押すと、おそらくは有料の『ヴァーチャル・リアリティ』番組が始まります。そこでは画面に登場する人物がなぜか周囲から疎まれ、石を投げられるのですが、石の一つが人物の額に当たると、同時に主人公のおなじ場所にも激痛が走り、本物の血が流れるのです。こうした『疑似体験型』の身体知データベースこそが、今後の百科事典の主流になる日はさほど遠くないような気がします。」
こういう流れであれば、なんとか本を投げ出さずに済むのではないか。というよりも、この機会を逃したら……。で、読んでみた。
こんな小説だったのか。映画の『ブレードランナー』を面白いと言いつつ、よく分かってなかったですね。
その前に、まず石ころの場面。
「不意に石ころが飛んできて、腕にあたった。痛みがおそった。首をふりむけようとしたとき、第二の石ころが体すれすれをかすめていった。地面にぶつかった石ころは、ぎくりとするような音を立てた。だれが? いぶかしみながら、虐待者を見つけようと目をこらした。」
こういうところに目を留めて、「情報メディアは私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって、信じられないような伝達や受容が実現している」に違いない、と考える鷲見洋一は、確かに卓抜した想像力を持っている。
少なくとも私は、10年もすれば実現している新しい百科事典の主流、としては、どうにも考えられない。
しかし「私たちの脳髄の中にまで進入し、視神経や脳神経と直接繫がって」、というところは面白い。脳髄の視神経や脳神経と、直接コンタクトできるのであれば、あるいは五感を超えた「第六感」を、示唆することにはならないだろうか。
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒)(3)
もう一つだけ挙げておく。富山県黒部市の黒部市美術館、「開館二五周年企画『風間サチコ展 コンクリート組曲』」である。
「風間サチコ(一九七二~)は、一貫して木版技法を用いた作品を発表してきた。極めて伝統的な手法を使いながらも作品テーマは現代的で、特に評判になったのは、《ディスリンピック2680》(二〇一八年)である。」
「ディスリンピック2680」は242.4×640.5cmと大きなもので、本書のカバー裏にモノクロで載っている。46判の単行本のカバーに、ピタリと収まる比率である。
著者はそこで、白鳥さんに説明を始める。
「まず、ここはどこだ? ええと、オリンピック競技場だ。〔中略〕わたしはよくわからないまま言葉を絞り出した。
『オリンピック競技場みたいに段差がある建物で、中心には競技ができそうな広いスペースがある。巨大な建造物で、造っている途中みたい……。ところどころパルテノン神殿みたいな柱があって、ギリシャ神話っぽい感じもする。でも、建設に使っている機械はブルドーザーだから、時代は現代なのかも。』」
これは最初に背景の空間が真っ暗、あるいは真っ黒であることを説明した方がいい。「ディスリンピック」というタイトル通り、真っ暗な中に「ディストピア的世界」が広がる。
「そこは、ひとが競争原理によってランクづけされ、いわゆる勝ち組と負け組が選別される過酷なオリンピックだった。役に立たない負け組は柵で囲われ、生き埋めにされる。逆に『役に立つ』と選ばれた人々はのっぺらぼうでマスゲームに参加する。羽がもがれた勝利の女神・ニケは、右側の世界の象徴だった。」
左側は勝ち組、右側は負け組の世界から、著者は「旧・優生保護法」の世界を想像する。今では「出性前診断」により、生まれてくる子の障害のあるなしが、簡単にわかる。その結果、産まないことを選ぶ人も増えてきた。
「それぞれの切迫した事情や考え方が入り組み、抱える病の重篤さによっても区別され、どんな治療をどこまで認めるのかという議論は複雑化の一途をたどっている。ただハッキリと言えることは、いまや受精の段階で、いやもうそれ以前に事実上の命の選別が始まっていることだ。」
「ディスリンピック2680」は、著者にそこまで考えさせるのだ。
川内有緒は、ほかにもいろんなものを見ているのだが、何かが足りない。そのことは正直に書いている。
「そろそろ白鳥さんとの鑑賞体験を一冊の本にまとめたい。伝えたいことはすでにたくさんあり、かなりの分量の文章を書き終えていた。それでも、なにかが決定的に足りないという感覚に苛まれ、行き詰まっていた。不足しているのは鑑賞体験の量や質なのか、会話の深みなのか、白鳥さんの言葉なのか、リサーチや思索なのか、本を書ききるための集中力なのか、それすらもわからない。わからないことがわからない、というメビウスの輪的な状況のなか、なにかがぽっかりと抜けていることだけが妙にくっきりしていた。」
「白鳥さんと見にいく」は、文字通り「白鳥さんと見にいく」だけであって、そのために著者の見る目が鋭くなったのは、結構なことである。でもそれだけのことだ。
その鋭くなった目で、最先端のアート・パフォーマンスを見れば、どうなるか。それが本書の中身だろう。
だから『目の見えない白鳥さんとアートを見にいってわかったこと』というのが、正確なタイトルであり、白鳥さんが主役ではなく、川内有緒が主人公でなくてはいけない。それがはっきりしてしまえば、全体の半分くらいは、書き方が変わっただろう。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒、
集英社インターナショナル、2021年9月8日初刷、2022年8月6日第7刷)
「風間サチコ(一九七二~)は、一貫して木版技法を用いた作品を発表してきた。極めて伝統的な手法を使いながらも作品テーマは現代的で、特に評判になったのは、《ディスリンピック2680》(二〇一八年)である。」
「ディスリンピック2680」は242.4×640.5cmと大きなもので、本書のカバー裏にモノクロで載っている。46判の単行本のカバーに、ピタリと収まる比率である。
著者はそこで、白鳥さんに説明を始める。
「まず、ここはどこだ? ええと、オリンピック競技場だ。〔中略〕わたしはよくわからないまま言葉を絞り出した。
『オリンピック競技場みたいに段差がある建物で、中心には競技ができそうな広いスペースがある。巨大な建造物で、造っている途中みたい……。ところどころパルテノン神殿みたいな柱があって、ギリシャ神話っぽい感じもする。でも、建設に使っている機械はブルドーザーだから、時代は現代なのかも。』」
これは最初に背景の空間が真っ暗、あるいは真っ黒であることを説明した方がいい。「ディスリンピック」というタイトル通り、真っ暗な中に「ディストピア的世界」が広がる。
「そこは、ひとが競争原理によってランクづけされ、いわゆる勝ち組と負け組が選別される過酷なオリンピックだった。役に立たない負け組は柵で囲われ、生き埋めにされる。逆に『役に立つ』と選ばれた人々はのっぺらぼうでマスゲームに参加する。羽がもがれた勝利の女神・ニケは、右側の世界の象徴だった。」
左側は勝ち組、右側は負け組の世界から、著者は「旧・優生保護法」の世界を想像する。今では「出性前診断」により、生まれてくる子の障害のあるなしが、簡単にわかる。その結果、産まないことを選ぶ人も増えてきた。
「それぞれの切迫した事情や考え方が入り組み、抱える病の重篤さによっても区別され、どんな治療をどこまで認めるのかという議論は複雑化の一途をたどっている。ただハッキリと言えることは、いまや受精の段階で、いやもうそれ以前に事実上の命の選別が始まっていることだ。」
「ディスリンピック2680」は、著者にそこまで考えさせるのだ。
川内有緒は、ほかにもいろんなものを見ているのだが、何かが足りない。そのことは正直に書いている。
「そろそろ白鳥さんとの鑑賞体験を一冊の本にまとめたい。伝えたいことはすでにたくさんあり、かなりの分量の文章を書き終えていた。それでも、なにかが決定的に足りないという感覚に苛まれ、行き詰まっていた。不足しているのは鑑賞体験の量や質なのか、会話の深みなのか、白鳥さんの言葉なのか、リサーチや思索なのか、本を書ききるための集中力なのか、それすらもわからない。わからないことがわからない、というメビウスの輪的な状況のなか、なにかがぽっかりと抜けていることだけが妙にくっきりしていた。」
「白鳥さんと見にいく」は、文字通り「白鳥さんと見にいく」だけであって、そのために著者の見る目が鋭くなったのは、結構なことである。でもそれだけのことだ。
その鋭くなった目で、最先端のアート・パフォーマンスを見れば、どうなるか。それが本書の中身だろう。
だから『目の見えない白鳥さんとアートを見にいってわかったこと』というのが、正確なタイトルであり、白鳥さんが主役ではなく、川内有緒が主人公でなくてはいけない。それがはっきりしてしまえば、全体の半分くらいは、書き方が変わっただろう。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒、
集英社インターナショナル、2021年9月8日初刷、2022年8月6日第7刷)
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒)(2)
川内有緒は、白鳥さんと美術館をめぐるうちに、彼に美術品の解説をしていると、目の前の作品を見る眼が、変わっていくことに気がつく。対象をはっきり見定めるように、目が変化していくのだ。
「美術館に足を運び、長い列に並び、入場料を払い、やっとのことで見た作品でも実は見えていないもののほうが圧倒的に多い。しかし、『見えないひと』が隣にいるとき、普段使っている脳の取捨選択センサーがオフになり、わたしたちの視点は文字通り、作品の上を自由にさまよい、細やかなディテールに目が留まる。おかげで『いままで見えなかったものが急に見えた』」ということが起こりうる。
この本では、いろんな美術館を訪れているが、その中では圧倒的に「はじまりの美術館」が面白い。所在地は福島県の真ん中あたり、磐越西線の猪苗代駅から車で5分の距離にある。
「はじまりの美術館」は、障害のある人の作品を中心に展示している。今回は白鳥さんとマイティ、それに著者の娘で、保育園に通うナナオの4人である。
展示作品には、たとえば折元立身〔たつみ〕のシリーズ、《アート・ママ》、この本では「タイヤチューブ・コミュニケーション 母と近所の人たち」(1996年)と、「アート・ママ+息子」(2008年)が掲載されている。
どちらも写真で、前者はカラー、3人のお婆さんが車のタイヤを首にかけ、ソファに座っている。この中には、折元立身の母親も入っている。
後者はモノクロで、折元が母親を抱きしめ、口づけをしている。折元はファインダーを見つめているが、抱き締められた母親は、迷惑そうにギュッと目を瞑っている。
「作者の折元立身(一九四六~)は、もともと国内外の芸術祭や美術館で広く活躍するアーティストだったが、あるとき母親の男代〔おだい〕が認知症と鬱を発症。母と一緒に暮らしていた折元は、その後二〇年にもわたって介護を続け、制作活動は制限せざるを得なくなった。しかし、そうする中で『絵を描いたり、彫刻を彫ったりするのだけがアートではない』、『介護することもアート』、『食卓を一緒に囲むのもアート』という新しい境地に達し、母、男代と一緒に作品を作り始めた。」
この写真がアートであるかないかは、よくわからない。というか、そんなことはどうでもいい。ただ面白いのである。写真を見つめていると、何とも言えないものが湧き上がってきて、ただ面白い。母親の迷惑そうな顔がすばらしい(でも彼女の方は、とにかくかなわん、ただそれだけかもしれない)。
展示の中には、色とりどりのおもちゃのブロックが置いてあるコーナーがあり、「搬入プロジェクト(悪魔のしるし)」という作品の一部をなしている。
これを著者の娘のナナオが大喜びし、著者たちが展示を見ている間、このコーナーに入り浸っていた。
学芸員が、工作用の色鉛筆や紙を出してくれるのを、著者は感激の面持ちで見ている。
「一般的には、子連れで美術館に行くのはけっこうハードルが高い。でもここなら子連れや、身体が不自由なひとでも気後れすることなく来られる。間口は狭いけれど、懐はでっかい美術館だった。」
いわゆる普通の美術館ではない。これを立ち上げたのは、知的障害者などの支援を行う、社会福祉法人「安積〔あさか〕愛育園」である。
そこでは、実にユニークな作品が生まれる。
たとえば酒井美穂子の「サッポロ一番しょうゆ味」。彼女は、サッポロ一番の醤油ラーメンのパックを触るのが好きで、20年にわたって1日中、ラーメンの袋を握りしめてきた。味噌味や塩味では駄目で、醤油味のみである。
その20年分をズラッと展示してあるのが、カラー図版で出ている。酒井美穂子作「サッポロ一番しょうゆ味」、これを圧巻と言わずして何というか。
「美術館に足を運び、長い列に並び、入場料を払い、やっとのことで見た作品でも実は見えていないもののほうが圧倒的に多い。しかし、『見えないひと』が隣にいるとき、普段使っている脳の取捨選択センサーがオフになり、わたしたちの視点は文字通り、作品の上を自由にさまよい、細やかなディテールに目が留まる。おかげで『いままで見えなかったものが急に見えた』」ということが起こりうる。
この本では、いろんな美術館を訪れているが、その中では圧倒的に「はじまりの美術館」が面白い。所在地は福島県の真ん中あたり、磐越西線の猪苗代駅から車で5分の距離にある。
「はじまりの美術館」は、障害のある人の作品を中心に展示している。今回は白鳥さんとマイティ、それに著者の娘で、保育園に通うナナオの4人である。
展示作品には、たとえば折元立身〔たつみ〕のシリーズ、《アート・ママ》、この本では「タイヤチューブ・コミュニケーション 母と近所の人たち」(1996年)と、「アート・ママ+息子」(2008年)が掲載されている。
どちらも写真で、前者はカラー、3人のお婆さんが車のタイヤを首にかけ、ソファに座っている。この中には、折元立身の母親も入っている。
後者はモノクロで、折元が母親を抱きしめ、口づけをしている。折元はファインダーを見つめているが、抱き締められた母親は、迷惑そうにギュッと目を瞑っている。
「作者の折元立身(一九四六~)は、もともと国内外の芸術祭や美術館で広く活躍するアーティストだったが、あるとき母親の男代〔おだい〕が認知症と鬱を発症。母と一緒に暮らしていた折元は、その後二〇年にもわたって介護を続け、制作活動は制限せざるを得なくなった。しかし、そうする中で『絵を描いたり、彫刻を彫ったりするのだけがアートではない』、『介護することもアート』、『食卓を一緒に囲むのもアート』という新しい境地に達し、母、男代と一緒に作品を作り始めた。」
この写真がアートであるかないかは、よくわからない。というか、そんなことはどうでもいい。ただ面白いのである。写真を見つめていると、何とも言えないものが湧き上がってきて、ただ面白い。母親の迷惑そうな顔がすばらしい(でも彼女の方は、とにかくかなわん、ただそれだけかもしれない)。
展示の中には、色とりどりのおもちゃのブロックが置いてあるコーナーがあり、「搬入プロジェクト(悪魔のしるし)」という作品の一部をなしている。
これを著者の娘のナナオが大喜びし、著者たちが展示を見ている間、このコーナーに入り浸っていた。
学芸員が、工作用の色鉛筆や紙を出してくれるのを、著者は感激の面持ちで見ている。
「一般的には、子連れで美術館に行くのはけっこうハードルが高い。でもここなら子連れや、身体が不自由なひとでも気後れすることなく来られる。間口は狭いけれど、懐はでっかい美術館だった。」
いわゆる普通の美術館ではない。これを立ち上げたのは、知的障害者などの支援を行う、社会福祉法人「安積〔あさか〕愛育園」である。
そこでは、実にユニークな作品が生まれる。
たとえば酒井美穂子の「サッポロ一番しょうゆ味」。彼女は、サッポロ一番の醤油ラーメンのパックを触るのが好きで、20年にわたって1日中、ラーメンの袋を握りしめてきた。味噌味や塩味では駄目で、醤油味のみである。
その20年分をズラッと展示してあるのが、カラー図版で出ている。酒井美穂子作「サッポロ一番しょうゆ味」、これを圧巻と言わずして何というか。
ノンフィクションというよりは随筆――『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒)(1)
著者の川内有緒はノンフィクション作家、1972年東京生まれの女性である。
オビに「2022年本屋大賞ノンフィクション本大賞ノミネート!」とある。「本屋大賞」は全国の書店員が選ぶから、どうしても「売らんかな」の側面が強く表に出る。
これも同じで、まずタイトルでびっくりさせ、それで1年の間に7刷りまで行った。
読んでみると、ヘソのない本というか、まとまりに欠けるところがある。
なによりも「全盲の美術鑑賞者、白鳥健二さん」の人間像が、くっきりと浮かび上がってこない。「全盲の美術鑑賞者」は、どういうふうに美術を鑑賞しているのか、あまりに言葉が足りなくて(これは最終的には白鳥さんではなくて、著者の責任である)、よく分からない。ノンフィクションとしてはもの足りない。
それではこの本を打ち捨てておけるか、というと、そんなことはない。いいところもあるのだ。これはノンフィクションというよりも、エッセイ、随筆といったほうがいい。そう思えば、面白さの際立っているところも挙げやすい。
経巡ったところは三菱一号館美術館、国立新美術館、水戸芸術館、はじまりの美術館、黒部市美術館、茨城県近代美術館などである。
ちなみに本文中には、そこに展示されたもののほかに、何点ものカラー図版が入っている。
第1章は三菱一号館美術館、これは大手町にあり、私も行ったことがある。
著者が、白鳥さんとアートを見にいくのは、こんなふうにしてである。
「細く開いた目の奥にかすかに瞳が見えたものの、こちらのほうは見ていない。それが白鳥健二さんだった。〔中略〕
あたふたしながら白鳥さんの横に立った。すると彼は『じゃあ、お願いします』と言い、わたしのセーターの肘部分にそっと手を添え、半歩後ろに立った。こうすることで、白杖がなくても正しい方角に歩いていけるらしい。内心、ちょっとドキドキした。全盲のひとをアテンドするのは初めてだったし、自分の周りには視覚障害者はほとんどいなかった。」
それはそうだろうなあ。でも「視覚障害者はほとんどいなかった」ということは、少しはいたということか。そんなことがありうるのか。
このとき三菱一号館美術館では、「フィリップス・コレクション展」をやっていた。赤煉瓦の建物の入り口に、巨大ポスターが貼られていて、そのコピーが「全員巨匠!」。分かりやすいと言えば言えるけれど、どうも身もふたもないものだった。
著者たちは最初に、ピエール・ボナールの「犬を抱く女」(1922年)を鑑賞する。ちなみにこれは、カラー図版が3分の1ページの大きさで入っている。
実物ではないから正確な品評はできないが、私にはどうという感想もない。絵全体がぼやけているのだ。
著者と白鳥さんのやり取りは、こんなふうである。
「『じゃあ、なにが見えるか教えてください』
あさっての方向を向いたままの白鳥さんが小声で囁く。マイティ〔=著者の20年来の友人、佐藤麻衣子〕が『絵があるのはこっちだよ』と白鳥さんの体に手を添え、絵に向かってまっすぐ立たせた。
この瞬間、稲妻のように理解した。そうか彼は『耳』で見るのだ。」
そしてこのあと、絵を説明するのだが、それがトンチンカンでおかしい。
「『一人の女性が犬を抱いて座っているんだけど、犬の後頭部をやたらと見ています。犬にシラミがいるかどうか見ているのかな』
マイティと白鳥さんは『えー、シラミ?』と小さな笑い声をあげた(実際には動物にたかるのはノミだが、このときは勘違いしていた)。」
なかなか愉快である。そして白鳥さんは、この勘違いを喜んだ。
「どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、『目の前にあるもの』という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそに興味があるようだった。」
そういうことなので、著者はずいぶん気楽になり、一方で、「わたしはあんまり美術に詳しくない」という、ヘンな自身も持つことになった。
オビに「2022年本屋大賞ノンフィクション本大賞ノミネート!」とある。「本屋大賞」は全国の書店員が選ぶから、どうしても「売らんかな」の側面が強く表に出る。
これも同じで、まずタイトルでびっくりさせ、それで1年の間に7刷りまで行った。
読んでみると、ヘソのない本というか、まとまりに欠けるところがある。
なによりも「全盲の美術鑑賞者、白鳥健二さん」の人間像が、くっきりと浮かび上がってこない。「全盲の美術鑑賞者」は、どういうふうに美術を鑑賞しているのか、あまりに言葉が足りなくて(これは最終的には白鳥さんではなくて、著者の責任である)、よく分からない。ノンフィクションとしてはもの足りない。
それではこの本を打ち捨てておけるか、というと、そんなことはない。いいところもあるのだ。これはノンフィクションというよりも、エッセイ、随筆といったほうがいい。そう思えば、面白さの際立っているところも挙げやすい。
経巡ったところは三菱一号館美術館、国立新美術館、水戸芸術館、はじまりの美術館、黒部市美術館、茨城県近代美術館などである。
ちなみに本文中には、そこに展示されたもののほかに、何点ものカラー図版が入っている。
第1章は三菱一号館美術館、これは大手町にあり、私も行ったことがある。
著者が、白鳥さんとアートを見にいくのは、こんなふうにしてである。
「細く開いた目の奥にかすかに瞳が見えたものの、こちらのほうは見ていない。それが白鳥健二さんだった。〔中略〕
あたふたしながら白鳥さんの横に立った。すると彼は『じゃあ、お願いします』と言い、わたしのセーターの肘部分にそっと手を添え、半歩後ろに立った。こうすることで、白杖がなくても正しい方角に歩いていけるらしい。内心、ちょっとドキドキした。全盲のひとをアテンドするのは初めてだったし、自分の周りには視覚障害者はほとんどいなかった。」
それはそうだろうなあ。でも「視覚障害者はほとんどいなかった」ということは、少しはいたということか。そんなことがありうるのか。
このとき三菱一号館美術館では、「フィリップス・コレクション展」をやっていた。赤煉瓦の建物の入り口に、巨大ポスターが貼られていて、そのコピーが「全員巨匠!」。分かりやすいと言えば言えるけれど、どうも身もふたもないものだった。
著者たちは最初に、ピエール・ボナールの「犬を抱く女」(1922年)を鑑賞する。ちなみにこれは、カラー図版が3分の1ページの大きさで入っている。
実物ではないから正確な品評はできないが、私にはどうという感想もない。絵全体がぼやけているのだ。
著者と白鳥さんのやり取りは、こんなふうである。
「『じゃあ、なにが見えるか教えてください』
あさっての方向を向いたままの白鳥さんが小声で囁く。マイティ〔=著者の20年来の友人、佐藤麻衣子〕が『絵があるのはこっちだよ』と白鳥さんの体に手を添え、絵に向かってまっすぐ立たせた。
この瞬間、稲妻のように理解した。そうか彼は『耳』で見るのだ。」
そしてこのあと、絵を説明するのだが、それがトンチンカンでおかしい。
「『一人の女性が犬を抱いて座っているんだけど、犬の後頭部をやたらと見ています。犬にシラミがいるかどうか見ているのかな』
マイティと白鳥さんは『えー、シラミ?』と小さな笑い声をあげた(実際には動物にたかるのはノミだが、このときは勘違いしていた)。」
なかなか愉快である。そして白鳥さんは、この勘違いを喜んだ。
「どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、『目の前にあるもの』という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそに興味があるようだった。」
そういうことなので、著者はずいぶん気楽になり、一方で、「わたしはあんまり美術に詳しくない」という、ヘンな自身も持つことになった。
エメラルドゴキブリバチの毒――『サイレント・アース―昆虫たちの「沈黙の春」―』(デイヴ・グールソン)
2月8日の東京新聞、斎藤美奈子の「本音のコラム」を読んでいて、とっぴな例だが『サイレント・アース』の、エメラルドゴキブリバチを連想してしまった。
コラムの内容は、「同性婚もLGBT平等も選択的夫婦別姓も日本ではいまだ法制化されていない」、これを阻む壁として「自民党の保守派に配慮」という文言が、必ず入るというもの。
これは何かというと、旧統一教会にべったりの、自民党政治家のことである。
この団体は、同性婚は「決して認めるべきではない」と主張し、選択的夫婦別姓は、日本の家族制度を根本的に変えるもの、と主張している。
僕は、岸田首相が安倍晋三、菅義偉と替わったとき、これでちょっとは政治も中道になり、穏健になるかと思った。
初めは確かにそうなりそうだった。それが、LGBTの平等も選択的夫婦別姓も、そんなことをすれば、世のなか変わってしまう、と岸田首相が言いだした。それは実に急旋回だった。
ついで国民が、エネルギーをはじめとする物価高にあえいでいても、子供が限りなく生まれなくなっても、軍備だけは重税をもって重装備にする、と言い放った。
この急旋回が、エメラルドゴキブリバチにやられたゴキブリに、よく似ているのである。
エメラルドゴキブリバチは、体長2センチほど、メタリックな緑色と、鮮やかな赤い足をもち、熱帯地方の大部分に生息している。
エメラルドゴキブリバチはゴキブリを見つけると、胸部に針を刺して、一時的にマヒ状態にする。
ゴキブリが動けなくなったところで、脳に慎重に針を刺して、ふたたび毒を注入し、完全に動けなくする。
そのあと、ゴキブリの触角のそれぞれを、半分ずつ嚙み切り、そこから沁み出してくる血液(昆虫の血リンパ)を飲む。そうして最初に入れた毒を吸い取り、2回目に注入した毒の効果を、最大限に引き出す。この辺りは実に芸が細かい。
そうすると、獲物はどうなるか。
「ゴキブリはほとんどゾンビのように従順になり、エメラルドゴキブリバチは自分よりはるかに体が大きい獲物の残った触角をくわえて、リードにつながったイヌのように自分の巣へ導く。」
この辺、リアルですなあ。
そのあと、エメラルドゴキブリバチはゴキブリの体の表面に、1個の卵を産みつける。卵は間もなく孵る。
「ゴキブリは、〔中略〕逃走も防御もできない状態で、エメラルドゴキブリバチの幼虫にゆっくりと生きたまま体をむさぼられる。最初は体の外側だけだが、やがて体内へと侵入され、生命維持に不可欠な内臓を食べられる。」
だから今は、「ほとんどゾンビのように従順になり」、内部を侵食されている途中なのだ。そう思えば、岸田首相の急激な右旋回も納得がいく。
僕はそんなふうに妄想を膨らませた。それにしてもエメラルドゴキブリバチ、美しくも邪悪な昆虫である。
なお『サイレント・アース』は読んでる途中なので、読み終わったら、全体の書評を書く。
コラムの内容は、「同性婚もLGBT平等も選択的夫婦別姓も日本ではいまだ法制化されていない」、これを阻む壁として「自民党の保守派に配慮」という文言が、必ず入るというもの。
これは何かというと、旧統一教会にべったりの、自民党政治家のことである。
この団体は、同性婚は「決して認めるべきではない」と主張し、選択的夫婦別姓は、日本の家族制度を根本的に変えるもの、と主張している。
僕は、岸田首相が安倍晋三、菅義偉と替わったとき、これでちょっとは政治も中道になり、穏健になるかと思った。
初めは確かにそうなりそうだった。それが、LGBTの平等も選択的夫婦別姓も、そんなことをすれば、世のなか変わってしまう、と岸田首相が言いだした。それは実に急旋回だった。
ついで国民が、エネルギーをはじめとする物価高にあえいでいても、子供が限りなく生まれなくなっても、軍備だけは重税をもって重装備にする、と言い放った。
この急旋回が、エメラルドゴキブリバチにやられたゴキブリに、よく似ているのである。
エメラルドゴキブリバチは、体長2センチほど、メタリックな緑色と、鮮やかな赤い足をもち、熱帯地方の大部分に生息している。
エメラルドゴキブリバチはゴキブリを見つけると、胸部に針を刺して、一時的にマヒ状態にする。
ゴキブリが動けなくなったところで、脳に慎重に針を刺して、ふたたび毒を注入し、完全に動けなくする。
そのあと、ゴキブリの触角のそれぞれを、半分ずつ嚙み切り、そこから沁み出してくる血液(昆虫の血リンパ)を飲む。そうして最初に入れた毒を吸い取り、2回目に注入した毒の効果を、最大限に引き出す。この辺りは実に芸が細かい。
そうすると、獲物はどうなるか。
「ゴキブリはほとんどゾンビのように従順になり、エメラルドゴキブリバチは自分よりはるかに体が大きい獲物の残った触角をくわえて、リードにつながったイヌのように自分の巣へ導く。」
この辺、リアルですなあ。
そのあと、エメラルドゴキブリバチはゴキブリの体の表面に、1個の卵を産みつける。卵は間もなく孵る。
「ゴキブリは、〔中略〕逃走も防御もできない状態で、エメラルドゴキブリバチの幼虫にゆっくりと生きたまま体をむさぼられる。最初は体の外側だけだが、やがて体内へと侵入され、生命維持に不可欠な内臓を食べられる。」
だから今は、「ほとんどゾンビのように従順になり」、内部を侵食されている途中なのだ。そう思えば、岸田首相の急激な右旋回も納得がいく。
僕はそんなふうに妄想を膨らませた。それにしてもエメラルドゴキブリバチ、美しくも邪悪な昆虫である。
なお『サイレント・アース』は読んでる途中なので、読み終わったら、全体の書評を書く。