ホリー・ジャクソンの『優等生は探偵に向かない』(服部京子・訳)の「解説」を、阿津川辰海という人が書いている。その中に、こんなことが書いてある。
「前作〔=『自由研究には向かない殺人』〕を読んで私が思い出したのは、ヒラリー・ウォーの『この町の誰かが』という小説だった。クロックフォードというありふれた町で少女が殺された事件を、ドキュメンタリータッチのインタビュー形式で描出していく傑作だ。」
これだけなら、そうかと思うだけなのだが、『この町の誰かが』は我が国においても、多くの後続作品を生み出したという。
宮部みゆき『理由』、恩田陸『ユージニア』『Q&A』、佐野広美『誰かがこの町で』などがそうで、特に『誰かがこの町で』はタイトルからして、ヒラリー・ウォーを賞賛し、その系譜に連なることを宣言している。
そうか、僕が読んだ宮部みゆきや佐野広美の作品は、アメリカの小説に原点があったのか。これは読まないわけにはいかない。
登場人物は、すべてインタビュー形式で語るので、ついつい引き込まれる。しかもそのインタビューがすべて饒舌なので、人々の暮らしの暗部まで露呈させる。
若竹七海の「解説」を聞こう。
「平和で友愛に満ちた小さな町、しかし事件をきっかけに、町は秘めていた闇を次第にあらわにしていった。よそ者への蔑視、暴力衝動、人種差別、精神病者への偏見。操作は遅々として進まず、公安委員会は中傷の場と化し、誰もが疑心暗鬼にさいなまれていく……。」
若竹はこれを〈アメリカの悲劇〉と言う。
解説の中で焦点を当てていないものに、ホモセクシュアルの問題がある。これはあまりに厄介なので、若竹はスルーしたに違いない。
「暴力衝動、人種差別、精神病者への偏見」とならんで、ホモセクシュアルは教会から見れば、最も罪深いものだった。
司祭の夫婦のうち、妻のセルマ・ウォーレスの話を聞こう。夫のウォルター・ウォーレスは、尖塔の階段の脇で、首を吊って死んでいたのだ。
「あの人は必死の思いで自分の中に住み着いてしまった悪魔と戦ってきたんです。もう少し時間があれば、悪魔を追い出すこともできたかもしれない。〔中略〕ウォルターは見捨てられたんです。神にさえ見捨てられたと、そう感じたんでしょう。もし、ひとりでも誰かが――たったひとりでいいから誰かが――あの人の味方に立って勇気を与えてやっていたら、ひとりではないんだということを知らせてやっていたら、こんな恐ろしいことは起こらなかったんです。」
また別のところで、こうも喋っている。
「さらに悪いことに、あの人の犯した罪は教会の教えの中で最も犯してはならない罪だったということです。殺人や貫通や背信は、心から悔い改めれば許される。でも、ホモセクシュアルは絶対に許されないんです。」
この時代は、殺人よりも罪が重かったのだ。ただしヒラリー・ウォーは、作中でこう書いている。
「今日では、クロックフォードのような町でさえ、教会の目から見れば別だが、ウォルターとレアードの〔ホモセクシュアルの〕関係は罪深いものとはみなされないのだ。」
この小説が発表された1990年には、事態は動いており、このようなものだった。
「暴力衝動、人種差別、精神病者への偏見」、そしてホモセクシュアル。著者は、アメリカの根の深い病根を、余すところなくとらえている。
ついでに言うと、結末に近いところで、司祭の話が出てくるので、僕はてっきり、犯人はこの司祭だと決め込んで、読んでいった。
全然違っていましたね。しかも、犯人が明らかになってから、さらにもうひとひねりあるのだ。
全編インタビュー形式は、微細なところで少し破綻も来たすが、それまでに誰もやったことのない形式は、それだけでもワクワクし、堪能した。
ところで若竹七海の「解説」に、ヒラリー・ウォーが1952年に書いた『失踪当時の服装は』は傑作で、しかも「警察小説」を確立したものとある。うーん、これはどうしたものか。
(『この町の誰かが』ヒラリー・ウォー、法村里絵・訳
創元推理文庫、1999年9月17日初刷)