「みのり」は、サークルで知り合った、国際ジャーナリストを目指す宮原玲や、カメラマンを志望する遠藤翔太といった、野心も才能もある連中と、肩を並べているつもりだった。
しかしあるときヨルダンの難民キャンプで、善意からとはいえ、キャンプを抜け出す少年たちに手を貸してしまう。「みのり」の善意は、日本国内でのみ通用する、自分勝手なものだった。
40歳間近になった「みのり」は、積極的に何かに関わることは、もうやめようと思う。今は結婚して、ケーキ屋の仕事を淡々とこなしている。自分には、宮原玲や遠藤翔太のような才能や取柄はなかったのだ、と。
そこに、高跳びでパラリンピックを目指している「涼花さん」や、義足の祖父が絡んで、「みのり」はもう一度、自分にできることがあるのではないか、と考えるようになる。
夫の「寿士」との会話。
「『この状況〔=コロナの蔓延〕が落ち着いて、遠出できるようになったり、気やすく人に会えるようになったら、やってみようかなと思うことがあって』
『え、何』寿士が顔を上げる。
『なんていうか、今さらなんだけど、義足について勉強したいと思うようになって。あのさ、不要になった義足を、足りてないところに届けたりできないのかなって思ってて。』」
「みのり」が、自分にも使命があるのではないか、と自問自答するところである。行く手にわずかな希望が見出せるところで、小説は閉じられる。
1999年から2019年までと言えば、アメリカの9.11同時多発テロや、東北大地震とそれに伴うボランティア、さらにはコロナ騒動も含み、それらは素材として上手に取り込まれている。
私はこの小説を大変面白く読んだ。
しかし妻は、面白いことは面白いけれど、ちょっと古い感じもすると言った。
ここを分析してみたい。考えてみれば、この小説を時間軸に沿ったかたちで叙述するとすれば、まことに平凡なものになるだろう。
夢を抱いて大学生活を送り、就職してからも、アジアの国々と関わって生きてきた女性が、自分には何の取柄もなかったのだと悟り、その結果、今日をなんとか生きているだけの存在になる。
それがまた、やるべき使命、義足をアジアの国に贈りたいという使命を、おぼろげに見出す。
これは小説の主人公としては、いかにも弱い。そこで小説家は、苦心して時間を錯綜させ、祖父の独白を、章を割って入らせ、目先をくるくると変えながら、終わりまで面白く読ませている。
そういう努力を、私は多とする。もっといえば、小説家の才能とは、そこに賭けられるものだと思う。
一方、文筆家たる妻は、そういう小手先のことをしても、全体を通してみれば、この主人公はいかにもひ弱だし、これでは作家として第一線を走っている角田光代にしては、物足りないのではないか、と考えたに違いない。
私はそういうふうには考えない。元編集者としては、あれもよしこれもよし、と捉える。
ただ一言、『タラント』という題について。これは聖書に出てくる話で、自分の持っている天分、才能に応じて、つまり「タラント」(という貨幣)に応じて、努力しなさいという教えである。貨幣はもとより比喩である。
私は中学・高校を、カトリックの学校で過ごした。中学入学式でも高校入学式でも、神父は「タラント」の話をした。
私はこの話がピンとこなかった。だいたいお金を比喩として、人間の才能をはかるというのが、ゲスな感じがしてたまらなく嫌だ。聖書が基本にある欧米では、人間の才能、天分も、秤できっちり量るんだろう。でも人間はそんなものじゃない。
この話で面白いのは、1タラントをもらった人は、それを使うことをせずに、土に埋めてしまう、それで神様に叱られるという話なのだが、自分の才能を発揮することなく、それを人に隠して生きるということが、なぜ神様に叱られるのだろうか。人間の奥ゆかしさが分からないのか。
能ある鷹は爪を隠す、もっと言えば、弓の名人が、ついには弓そのものを忘れてしまう中島敦『名人伝』の世界、これが分からない神様なんて、実にはすっぱだと思った。
そういうわけで、タイトルにはわずかに疑問符を付すが、作品そのものはとても面白かった。
(『タラント』角田光代、中央公論新社、2022年2月25日初刷)