中身が合っていない――『シンプルな情熱』(アニー・エルノー)(2)

2年後、男はフランスを出て行き、女には連絡もしてこない。
 
ところがしばらくして、男はフランスに現われ、女に、これからタクシーに乗るところだという。女は喜びでパニックになりながら、化粧をし、身支度を整える。
 
しかしもう一度会った男は、女があのとき抱かれたいと思い、その後、ずっと抱き続けてきた男性ではなかった。恋は、「シンプルな情熱」は、去ってしまったのだ。

「ほかでもないその男性には、私は絶対に再会することがないだろう。が、それにもかかわらず、あの非現実的で、ほとんど無に等しかったあの夜のことこそが、自分の情熱〔パッション〕の意味をまるごと明示してくれる。いわゆる意味がないという意味、二年間にわたって、この上なく激しく、しかもこの上なく不可解な現実であったという意味を。」
 
うまい!
 
しかしこういう小説なのか? 「性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」を目指したはずなのに、どうなっちゃったのさ。
 
巻頭の宣言がなければ、これはこれで、いかにも上品なフランスの小説なのだろうが、巻頭で勇ましく宣言したのは、いったい何だったのか。ガリマール書店の編集者は、どういうつもりでこの本を出したのか、聞いてみたい。

「シンブルな情熱」というのは、実は難しい。ただ性交したい、それに匹敵する価値あることは、何もない。いわゆる恋の絶頂期においては、そういうことであるはずだ。これを補助線なしに、ただ書くということは、実は難しい。
 
最近読んだ本でいえば、金原ひとみの『軽薄』が、情交を描いて、脳髄沸騰まであとわずか、だった。しかしそこでも近親相姦という、強力な補助線が引かれている。
 
なお『シンプルな情熱』の巻頭言で、ポルノ映画を見た著者が、こういうことを言うところがある。

「こんな光景もきっと、見慣れてしまえば何ということもないのだろう。が、初めて見ると動顚してしまう。何十世紀にもわたって、何百回も世代が交替してきたのに、今日に至って初めて、ようやく、女の性器と男の性器の結合するさまや、精液を目にすることができる。――昔はほとんど死ぬ気でなければ見られなかったものが、握手をする手と同じくらい易々とみられるようになった。」
 
それはその通りかもしれない。あるいは昔から、実は見られたのかもしれない。しかしそういうことと、当事者の立場で性交を描くこととは、まったく違う。
 
そのものを描くことは、『チャタレイ夫人の恋人』の時代からすれば、驚くほど自由になった。
 
しかし書くことで、絶頂を確かめることは、実はできない。永遠に漸近線のまま近付いていくけれども、その頂点には決して到達できない。言葉というのは、そういうものだ。
 
アニー・エルノーのこの小説には結局、取柄はないのだろうか。
 
そんなことはない。ちょっと古めかしい小説だと思っても、ページを繰る手はとまらない。

秘密は文体にある。彫刻刀で刻み付けたような、よけいな形容詞や修飾語を削ぎ落とした文章は、こちらの頭にずんずん入り込んでくる。
 
翻訳は堀茂樹。略歴を見れば、アゴタ・クリストフの『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』を訳している。道理でうまいわけである。

(『シンプルな情熱』アニー・エルノー、堀茂樹・訳、
 ハヤカワepi文庫、2002年7月31日初刷、2022年10月15日第4刷)