中身が合っていない――『シンプルな情熱』(アニー・エルノー)(1)

アニー・エルノーはフランスの女流作家、2022年のノーベル文学賞受賞者である。
 
八幡山の啓文堂で平積みになっていたので、つい買った。
 
初めに「前書き」に当たるものがあり、こういう意図をもってこの作品を書いていく、という決意あるいは心構えが書いてある。以下のような文章である。
 
この夏、著者は有料の民放テレビ局で、初めてポルノ映画を見た。

「男が女に近づいた。カメラがアップになり、女の性器が現れた。画面はチカチカしているが、そのものはまぎれもなく見える。次に、男の性器が、勃起した状態で現れ、女のものの中へ滑り込んだ。非常に長いあいだ、二つの性器の繰り返すピストン運動が、いくつものアングルで映し出された。ペニスがふたたび現れ、今度は男の手の中にある。そして精液が、女の腹の上に飛び散った。」
 
この光景は見慣れてしまえば、どうということもないだろうが、初めて見ると動転してしまうものだ。著者はそう思う。そして最後に結論を書く。

「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろう。」
 
これは期待できそうだ、と思うじゃないですか。
 
ところが、女(=著者)が必死の思いで、妻子ある男と逢引きしても、話はそういう方向には進まない。
 
登場人物は2人、著者と等身大の女と、男は東欧出身の外交官。この2人が、くんずほぐれつする場面は、皆無である。
 
では何が書いてあるか。

男と性交したいだけという、「シンプルな情熱」に捕らえられた女が、そのシンプルさゆえにどんな行動をとるか、というフラスンの伝統文芸を、そのままなぞっているだけなのだ。
 
もちろんその点に限って言えば、別に文句をつけるところはない。

「私は確信していた。これまでの人生で、自分は子供も持ったし、いろいろな試験にも合格したし、遠方へも旅行したけれど、このこと――昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった、と。」
 
あるいはこういうところ。

「もちろん、私自身、翌日まで洗浄はせず、彼の精液を保っていた。」
 
しかしそれをいうなら、精液がドックドックと膣から溢れんばかりに、脳髄を刺激するその瞬間を描いてほしい。

「シンプルな情熱」に捕らわれた女は、どんどん俗になっていく。

「この時期、私は一度としてクラシック音楽を聴かなかった。シャンソンのほうがよかったのだ。そのうちでもとりわけ感傷的ないくつかの曲、以前は一顧だにしなかった類の曲に、心を揺さぶられた。(中略)シルヴィ・ヴァルタンがその頃『どうしようもないの、動物だもの』と歌っているのを耳にして、私は、それを痛感しているのが自分一人ではないことを得心したのだった。」
 
わかるなあ。もう遥か昔のことだが、そういうふうになったものだ。
 
著者はどこでも、男を巡る夢想に入ることができた。

「その状態に没入すると、瞬時にして、頭の奥にしびれるような充足感が生じるのだった。それは、肉体的快感に身をゆだねるような感じだった。あたかも脳髄も、繰り返し押し寄せる同じイメージ、同じ記憶の波に反応して、性的な悦びに達することができるかのようであり、他と変わるところのない性器の一つであるかのようだった。」
 
なかなかうまいけれど、フランス恋愛小説のよくできた一節、という感じがする。