2年後、男はフランスを出て行き、女には連絡もしてこない。
ところがしばらくして、男はフランスに現われ、女に、これからタクシーに乗るところだという。女は喜びでパニックになりながら、化粧をし、身支度を整える。
しかしもう一度会った男は、女があのとき抱かれたいと思い、その後、ずっと抱き続けてきた男性ではなかった。恋は、「シンプルな情熱」は、去ってしまったのだ。
「ほかでもないその男性には、私は絶対に再会することがないだろう。が、それにもかかわらず、あの非現実的で、ほとんど無に等しかったあの夜のことこそが、自分の情熱〔パッション〕の意味をまるごと明示してくれる。いわゆる意味がないという意味、二年間にわたって、この上なく激しく、しかもこの上なく不可解な現実であったという意味を。」
うまい!
しかしこういう小説なのか? 「性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」を目指したはずなのに、どうなっちゃったのさ。
巻頭の宣言がなければ、これはこれで、いかにも上品なフランスの小説なのだろうが、巻頭で勇ましく宣言したのは、いったい何だったのか。ガリマール書店の編集者は、どういうつもりでこの本を出したのか、聞いてみたい。
「シンブルな情熱」というのは、実は難しい。ただ性交したい、それに匹敵する価値あることは、何もない。いわゆる恋の絶頂期においては、そういうことであるはずだ。これを補助線なしに、ただ書くということは、実は難しい。
最近読んだ本でいえば、金原ひとみの『軽薄』が、情交を描いて、脳髄沸騰まであとわずか、だった。しかしそこでも近親相姦という、強力な補助線が引かれている。
なお『シンプルな情熱』の巻頭言で、ポルノ映画を見た著者が、こういうことを言うところがある。
「こんな光景もきっと、見慣れてしまえば何ということもないのだろう。が、初めて見ると動顚してしまう。何十世紀にもわたって、何百回も世代が交替してきたのに、今日に至って初めて、ようやく、女の性器と男の性器の結合するさまや、精液を目にすることができる。――昔はほとんど死ぬ気でなければ見られなかったものが、握手をする手と同じくらい易々とみられるようになった。」
それはその通りかもしれない。あるいは昔から、実は見られたのかもしれない。しかしそういうことと、当事者の立場で性交を描くこととは、まったく違う。
そのものを描くことは、『チャタレイ夫人の恋人』の時代からすれば、驚くほど自由になった。
しかし書くことで、絶頂を確かめることは、実はできない。永遠に漸近線のまま近付いていくけれども、その頂点には決して到達できない。言葉というのは、そういうものだ。
アニー・エルノーのこの小説には結局、取柄はないのだろうか。
そんなことはない。ちょっと古めかしい小説だと思っても、ページを繰る手はとまらない。
秘密は文体にある。彫刻刀で刻み付けたような、よけいな形容詞や修飾語を削ぎ落とした文章は、こちらの頭にずんずん入り込んでくる。
翻訳は堀茂樹。略歴を見れば、アゴタ・クリストフの『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』を訳している。道理でうまいわけである。
(『シンプルな情熱』アニー・エルノー、堀茂樹・訳、
ハヤカワepi文庫、2002年7月31日初刷、2022年10月15日第4刷)
中身が合っていない――『シンプルな情熱』(アニー・エルノー)(1)
アニー・エルノーはフランスの女流作家、2022年のノーベル文学賞受賞者である。
八幡山の啓文堂で平積みになっていたので、つい買った。
初めに「前書き」に当たるものがあり、こういう意図をもってこの作品を書いていく、という決意あるいは心構えが書いてある。以下のような文章である。
この夏、著者は有料の民放テレビ局で、初めてポルノ映画を見た。
「男が女に近づいた。カメラがアップになり、女の性器が現れた。画面はチカチカしているが、そのものはまぎれもなく見える。次に、男の性器が、勃起した状態で現れ、女のものの中へ滑り込んだ。非常に長いあいだ、二つの性器の繰り返すピストン運動が、いくつものアングルで映し出された。ペニスがふたたび現れ、今度は男の手の中にある。そして精液が、女の腹の上に飛び散った。」
この光景は見慣れてしまえば、どうということもないだろうが、初めて見ると動転してしまうものだ。著者はそう思う。そして最後に結論を書く。
「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろう。」
これは期待できそうだ、と思うじゃないですか。
ところが、女(=著者)が必死の思いで、妻子ある男と逢引きしても、話はそういう方向には進まない。
登場人物は2人、著者と等身大の女と、男は東欧出身の外交官。この2人が、くんずほぐれつする場面は、皆無である。
では何が書いてあるか。
男と性交したいだけという、「シンプルな情熱」に捕らえられた女が、そのシンプルさゆえにどんな行動をとるか、というフラスンの伝統文芸を、そのままなぞっているだけなのだ。
もちろんその点に限って言えば、別に文句をつけるところはない。
「私は確信していた。これまでの人生で、自分は子供も持ったし、いろいろな試験にも合格したし、遠方へも旅行したけれど、このこと――昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった、と。」
あるいはこういうところ。
「もちろん、私自身、翌日まで洗浄はせず、彼の精液を保っていた。」
しかしそれをいうなら、精液がドックドックと膣から溢れんばかりに、脳髄を刺激するその瞬間を描いてほしい。
「シンプルな情熱」に捕らわれた女は、どんどん俗になっていく。
「この時期、私は一度としてクラシック音楽を聴かなかった。シャンソンのほうがよかったのだ。そのうちでもとりわけ感傷的ないくつかの曲、以前は一顧だにしなかった類の曲に、心を揺さぶられた。(中略)シルヴィ・ヴァルタンがその頃『どうしようもないの、動物だもの』と歌っているのを耳にして、私は、それを痛感しているのが自分一人ではないことを得心したのだった。」
わかるなあ。もう遥か昔のことだが、そういうふうになったものだ。
著者はどこでも、男を巡る夢想に入ることができた。
「その状態に没入すると、瞬時にして、頭の奥にしびれるような充足感が生じるのだった。それは、肉体的快感に身をゆだねるような感じだった。あたかも脳髄も、繰り返し押し寄せる同じイメージ、同じ記憶の波に反応して、性的な悦びに達することができるかのようであり、他と変わるところのない性器の一つであるかのようだった。」
なかなかうまいけれど、フランス恋愛小説のよくできた一節、という感じがする。
八幡山の啓文堂で平積みになっていたので、つい買った。
初めに「前書き」に当たるものがあり、こういう意図をもってこの作品を書いていく、という決意あるいは心構えが書いてある。以下のような文章である。
この夏、著者は有料の民放テレビ局で、初めてポルノ映画を見た。
「男が女に近づいた。カメラがアップになり、女の性器が現れた。画面はチカチカしているが、そのものはまぎれもなく見える。次に、男の性器が、勃起した状態で現れ、女のものの中へ滑り込んだ。非常に長いあいだ、二つの性器の繰り返すピストン運動が、いくつものアングルで映し出された。ペニスがふたたび現れ、今度は男の手の中にある。そして精液が、女の腹の上に飛び散った。」
この光景は見慣れてしまえば、どうということもないだろうが、初めて見ると動転してしまうものだ。著者はそう思う。そして最後に結論を書く。
「ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろう。」
これは期待できそうだ、と思うじゃないですか。
ところが、女(=著者)が必死の思いで、妻子ある男と逢引きしても、話はそういう方向には進まない。
登場人物は2人、著者と等身大の女と、男は東欧出身の外交官。この2人が、くんずほぐれつする場面は、皆無である。
では何が書いてあるか。
男と性交したいだけという、「シンプルな情熱」に捕らえられた女が、そのシンプルさゆえにどんな行動をとるか、というフラスンの伝統文芸を、そのままなぞっているだけなのだ。
もちろんその点に限って言えば、別に文句をつけるところはない。
「私は確信していた。これまでの人生で、自分は子供も持ったし、いろいろな試験にも合格したし、遠方へも旅行したけれど、このこと――昼下がりにこの人とベッドにいること以上に重要なことは何ひとつ体験しなかった、と。」
あるいはこういうところ。
「もちろん、私自身、翌日まで洗浄はせず、彼の精液を保っていた。」
しかしそれをいうなら、精液がドックドックと膣から溢れんばかりに、脳髄を刺激するその瞬間を描いてほしい。
「シンプルな情熱」に捕らわれた女は、どんどん俗になっていく。
「この時期、私は一度としてクラシック音楽を聴かなかった。シャンソンのほうがよかったのだ。そのうちでもとりわけ感傷的ないくつかの曲、以前は一顧だにしなかった類の曲に、心を揺さぶられた。(中略)シルヴィ・ヴァルタンがその頃『どうしようもないの、動物だもの』と歌っているのを耳にして、私は、それを痛感しているのが自分一人ではないことを得心したのだった。」
わかるなあ。もう遥か昔のことだが、そういうふうになったものだ。
著者はどこでも、男を巡る夢想に入ることができた。
「その状態に没入すると、瞬時にして、頭の奥にしびれるような充足感が生じるのだった。それは、肉体的快感に身をゆだねるような感じだった。あたかも脳髄も、繰り返し押し寄せる同じイメージ、同じ記憶の波に反応して、性的な悦びに達することができるかのようであり、他と変わるところのない性器の一つであるかのようだった。」
なかなかうまいけれど、フランス恋愛小説のよくできた一節、という感じがする。
奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(紅谷愃一、取材・文/金澤誠)(25)
紅谷さんの本の最終回である。こんなに長く書くとは思わなかった。
紅谷さんは最後に、録音技師として、どういう構えで行けばよいかを、端的に語っている。
「紅谷 作品に臨むときにまず思ったことは、演出家の想いを汲み取って、その映画をどのように理解していくかということでした。それで、まず脚本を読みますよね。するとここはこうしたいとか、自分なりの狙いやアイデアが湧き上がる。」
これが第1段階。
「でもロケハンに行ってみたら、脚本を読んだときのイメージと様子が違っている場合もある。それに対応して方法論や、アイデアそのものを変えていく。」
これが第2段階。
「現場で日々音を録りながら、今度は仕上げのときにどうやって音作りをしていくかを考える。そこでまた、ロケハンで思っていたこととは違うものが浮かんでくる。撮影が終わってラッシュを見ると、また音に関する考えが変わっていくときもある。つまりその都度、自分の考えを変えられるだけの度量を持たないといけないと思うんです。」
別に何段階と区切る必要もないのだ。これは出版の世界で、書き下ろしを担当する場合と似ている。臨機応変に立ち位置を変え、編集者はどこまで介入したらよいかを、著者と話していて、瞬時に判断しなければならない。本当によく似ている。
それにしても、この本について書いてきて、あらためて奇跡のような本だと思う。
取材と文を担当した金澤誠が、後書きにかえて、「映画録音技師、紅谷愃一さんの本ができるまで」を書いている。
「紅谷さんの取材を始めたのが六年前の12月末。毎月一度か二度、紅谷さんと会って二時間弱のお話を伺った。取材期間は一年二カ月ほどに及んだが、当時八〇代後半の紅谷さんは精力的に、各作品の撮影状況を事細かに語ってくれた。現場を離れた紅谷さんは、これが自分の最後の仕事だといつもおっしゃっていた。」
80歳代後半に至ってこの記憶力、そして自分の最後の仕事だと、はっきり自覚している。本当に信じられないことだ。
金澤誠はこの後書きで、紅谷さんに注目したわけを、こんなふうに述べている。
「小泉堯史監督の『雨あがる』(00)など、現場で会うと紅谷さんと話すようになった。同時に紅谷さんが担当した映画を音に注目して観ると、四季の移ろいを表現する虫や動物の声、作品の時代性を出す汽車や自動車の疾走音、効果音や音楽の挿入の仕方まで、映画全体の音をサウンドデザインしていることがわかってきた。」
金澤にとっても、それは目の覚めるような体験だったのだ。紅谷さんの聞き書きが、感動に満ちたものであったから、それが僕に直接伝わってきたのだ。
しかし僕には、この本は半分しか味わえない。音と録音に関して述べた部分は、ほとんど分からない。金澤誠は書いている。
「かつて亡くなった映画評論家・淀川長治さんと話したときに、淀川さんは『映画は科学技術と共に歩んできた芸術です』と言っていたが、映画は最初に動く絵を撮る映像に始まり、次にサイレントからセリフを録音するトーキーによって音を手にした。そういう意味でも画と音は、映画の根幹をなす科学技術の二大要素なのである。」
紅谷さんは本文で、音の技術的なことをしゃべっているし、脚注も懇切に付してある。しかし僕にはちんぷんかんぷんである。
しかしそれでも飛び切り面白い。60代の末になって、映画に対し、まったく新しい世界が開けた。生きている間に、この本に出会えて本当によかった。
あらためて紅谷愃一さん、金澤誠さん、キネマ旬報社の編集者・前野裕一さん(誰も直接には知らないが)に、満腔の意をもって感謝を捧げたい。
(『音が語る、日本映画の黄金時代――映画録音技師の撮影現場60年』
紅谷愃一、取材・文/金澤誠、河出書房新社、2022年2月28日初刷)
紅谷さんは最後に、録音技師として、どういう構えで行けばよいかを、端的に語っている。
「紅谷 作品に臨むときにまず思ったことは、演出家の想いを汲み取って、その映画をどのように理解していくかということでした。それで、まず脚本を読みますよね。するとここはこうしたいとか、自分なりの狙いやアイデアが湧き上がる。」
これが第1段階。
「でもロケハンに行ってみたら、脚本を読んだときのイメージと様子が違っている場合もある。それに対応して方法論や、アイデアそのものを変えていく。」
これが第2段階。
「現場で日々音を録りながら、今度は仕上げのときにどうやって音作りをしていくかを考える。そこでまた、ロケハンで思っていたこととは違うものが浮かんでくる。撮影が終わってラッシュを見ると、また音に関する考えが変わっていくときもある。つまりその都度、自分の考えを変えられるだけの度量を持たないといけないと思うんです。」
別に何段階と区切る必要もないのだ。これは出版の世界で、書き下ろしを担当する場合と似ている。臨機応変に立ち位置を変え、編集者はどこまで介入したらよいかを、著者と話していて、瞬時に判断しなければならない。本当によく似ている。
それにしても、この本について書いてきて、あらためて奇跡のような本だと思う。
取材と文を担当した金澤誠が、後書きにかえて、「映画録音技師、紅谷愃一さんの本ができるまで」を書いている。
「紅谷さんの取材を始めたのが六年前の12月末。毎月一度か二度、紅谷さんと会って二時間弱のお話を伺った。取材期間は一年二カ月ほどに及んだが、当時八〇代後半の紅谷さんは精力的に、各作品の撮影状況を事細かに語ってくれた。現場を離れた紅谷さんは、これが自分の最後の仕事だといつもおっしゃっていた。」
80歳代後半に至ってこの記憶力、そして自分の最後の仕事だと、はっきり自覚している。本当に信じられないことだ。
金澤誠はこの後書きで、紅谷さんに注目したわけを、こんなふうに述べている。
「小泉堯史監督の『雨あがる』(00)など、現場で会うと紅谷さんと話すようになった。同時に紅谷さんが担当した映画を音に注目して観ると、四季の移ろいを表現する虫や動物の声、作品の時代性を出す汽車や自動車の疾走音、効果音や音楽の挿入の仕方まで、映画全体の音をサウンドデザインしていることがわかってきた。」
金澤にとっても、それは目の覚めるような体験だったのだ。紅谷さんの聞き書きが、感動に満ちたものであったから、それが僕に直接伝わってきたのだ。
しかし僕には、この本は半分しか味わえない。音と録音に関して述べた部分は、ほとんど分からない。金澤誠は書いている。
「かつて亡くなった映画評論家・淀川長治さんと話したときに、淀川さんは『映画は科学技術と共に歩んできた芸術です』と言っていたが、映画は最初に動く絵を撮る映像に始まり、次にサイレントからセリフを録音するトーキーによって音を手にした。そういう意味でも画と音は、映画の根幹をなす科学技術の二大要素なのである。」
紅谷さんは本文で、音の技術的なことをしゃべっているし、脚注も懇切に付してある。しかし僕にはちんぷんかんぷんである。
しかしそれでも飛び切り面白い。60代の末になって、映画に対し、まったく新しい世界が開けた。生きている間に、この本に出会えて本当によかった。
あらためて紅谷愃一さん、金澤誠さん、キネマ旬報社の編集者・前野裕一さん(誰も直接には知らないが)に、満腔の意をもって感謝を捧げたい。
(『音が語る、日本映画の黄金時代――映画録音技師の撮影現場60年』
紅谷愃一、取材・文/金澤誠、河出書房新社、2022年2月28日初刷)
奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(紅谷愃一、取材・文/金澤誠)(24)
『赤い橋の下のぬるい水』(01)は、今村昌平最後の長編映画である。辺見庸の小説が原作で、セックスの際に大量に水を放出する特異体質の女と、リストラされた男の触れ合いを描く。
このころ今村は、糖尿病のせいもあって、体はまともではなかった。
「紅谷 この作品でも今村監督がキャメラサイドから少し離れている僕をジッと見つめていることがときどきあったんです。何かを訴えていたのでしょう。『もう疲れたよ』ということだったのか、『なかなか思うようにはいかないよ』だったのか、はたまた『長い付き合いだけど、君はいつまで経っても頼りにならないね』ということだったのかもしれません。だからこの頃には、僕はスタッフの中でも別格扱いになっていました。」
この現場は寒くて、今村監督は辛そうだった。夫人が傍についていて、紅谷さんも近くにいるようにした。しかしその紅谷さんが、すでに別格扱いの齢である。
そのあと小泉堯史監督の『阿弥陀堂だより』(02)の話が来る。南木佳士の原作で、信州が舞台の作品だが、僕はほとんど興味がない。
紅谷さんは02年には、『おとなしい日本人』(02)の録音を依頼されている。これは01年9月11日に起こった、アメリカの同時多発テロをテーマに、世界11ヵ国の映画監督が、オムニバスで撮ったものである。
日本からは今村昌平が『おとなしい日本人』を撮り、他にクロード・ルルーシュ、ショーン・ペン、ケン・ローチなどが参加した。
フランスの映画会社が制作したもので、9月11日のシンボル的な意味を込めて、作品はすべて11分9秒1フレームの時間枠とした。
この中で今村は、第2次世界大戦の末期、中国戦線から負傷して復員してきた男が、蛇になってゆく、という物語を考えた。もう戦争には行きたくない、と。そして「テロによる聖戦」なども存在しない、と。
この作品はオムニバスの中でも、直接に9月11日を取り上げていない、という意味で異色であった。
この映画が今村昌平の遺作となった。
このあと中国で撮った降旗康男監督の『赤い月』(04)や、モンゴルにロケをした澤井信一郎監督の『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(07)の仕事が入るが、僕はあまり興味がない。だいたい海外ロケした「大作」というだけで、顔を背けたくなる。
最後に『博士の愛した数式』(06)に言及しておく。小川洋子のベストセラー小説を原作に、小泉堯史が監督したものだ。
交通事故の後遺症で、80分間しか記憶を持てない数学の博士(寺尾聰)と、シングルマザーの家政婦(深津絵里)、彼女の息子のルート、3人の触れ合いを描いたドラマである。
この映画はよかった。小川洋子の小説もよかったが、映画もメルヘンそのもので、小泉堯史監督のアクの強くないのが、逆にいい目に出た。
これは読売文学賞と、『本の雑誌』が主催する第1回本屋大賞を受賞した。映画の影響もあり、文庫は2か月で100万部を突破し、新潮文庫史上最速を記録した。
この売り上げは、結果的に逆目に出た。これ以後、本屋大賞は、作品の価値はそっちのけで、とにかく売れるものを選ぶようになる(だから僕にとっては、本屋大賞というだけで、読書リストから外せるようになった)。
ここで紅谷さんは、音をミックスするときの、紅谷流の心得を説いている。
「紅谷 ダビングのとき最初の一巻目(約一〇分)では、これからじっくり映画を観てくださいという気分でセリフ、音楽、効果音をミキシングする。そしてラストの一巻では、いかがでしたか、どうぞまた映画を見に来てくださいという気持ちで音をミキシングしているんです。お客さんにはそんなこと分からないでしょうけれど、これは僕が音をミキシングするときの気分の問題。どんな映画でも、自分が気分的に乗って感動しなければ、お客さんに感動は伝わらないと思っているんです。だから自分が感動できるように音の流れを考えているんです。」
まず自分が感動できるように、というのは、どこでも、どんな所でも、通用する普遍的なことだ。
紅谷さんは、大岡昇平の『長い坂』を映画化した『明日への遺言』(08)で、録音技師としての最後を飾る。
これはB級戦犯として裁かれることになる、司令官・岡田資中将(藤田まこと)とその妻(富司純子)の、法廷における戦いの物語である。
ラストに主題歌が入るときに、「音を調整するフェーダーを握る手に思わず力が入りましたね。これで長かった映画録音人生が終わる……」と。
このころ今村は、糖尿病のせいもあって、体はまともではなかった。
「紅谷 この作品でも今村監督がキャメラサイドから少し離れている僕をジッと見つめていることがときどきあったんです。何かを訴えていたのでしょう。『もう疲れたよ』ということだったのか、『なかなか思うようにはいかないよ』だったのか、はたまた『長い付き合いだけど、君はいつまで経っても頼りにならないね』ということだったのかもしれません。だからこの頃には、僕はスタッフの中でも別格扱いになっていました。」
この現場は寒くて、今村監督は辛そうだった。夫人が傍についていて、紅谷さんも近くにいるようにした。しかしその紅谷さんが、すでに別格扱いの齢である。
そのあと小泉堯史監督の『阿弥陀堂だより』(02)の話が来る。南木佳士の原作で、信州が舞台の作品だが、僕はほとんど興味がない。
紅谷さんは02年には、『おとなしい日本人』(02)の録音を依頼されている。これは01年9月11日に起こった、アメリカの同時多発テロをテーマに、世界11ヵ国の映画監督が、オムニバスで撮ったものである。
日本からは今村昌平が『おとなしい日本人』を撮り、他にクロード・ルルーシュ、ショーン・ペン、ケン・ローチなどが参加した。
フランスの映画会社が制作したもので、9月11日のシンボル的な意味を込めて、作品はすべて11分9秒1フレームの時間枠とした。
この中で今村は、第2次世界大戦の末期、中国戦線から負傷して復員してきた男が、蛇になってゆく、という物語を考えた。もう戦争には行きたくない、と。そして「テロによる聖戦」なども存在しない、と。
この作品はオムニバスの中でも、直接に9月11日を取り上げていない、という意味で異色であった。
この映画が今村昌平の遺作となった。
このあと中国で撮った降旗康男監督の『赤い月』(04)や、モンゴルにロケをした澤井信一郎監督の『蒼き狼 地果て海尽きるまで』(07)の仕事が入るが、僕はあまり興味がない。だいたい海外ロケした「大作」というだけで、顔を背けたくなる。
最後に『博士の愛した数式』(06)に言及しておく。小川洋子のベストセラー小説を原作に、小泉堯史が監督したものだ。
交通事故の後遺症で、80分間しか記憶を持てない数学の博士(寺尾聰)と、シングルマザーの家政婦(深津絵里)、彼女の息子のルート、3人の触れ合いを描いたドラマである。
この映画はよかった。小川洋子の小説もよかったが、映画もメルヘンそのもので、小泉堯史監督のアクの強くないのが、逆にいい目に出た。
これは読売文学賞と、『本の雑誌』が主催する第1回本屋大賞を受賞した。映画の影響もあり、文庫は2か月で100万部を突破し、新潮文庫史上最速を記録した。
この売り上げは、結果的に逆目に出た。これ以後、本屋大賞は、作品の価値はそっちのけで、とにかく売れるものを選ぶようになる(だから僕にとっては、本屋大賞というだけで、読書リストから外せるようになった)。
ここで紅谷さんは、音をミックスするときの、紅谷流の心得を説いている。
「紅谷 ダビングのとき最初の一巻目(約一〇分)では、これからじっくり映画を観てくださいという気分でセリフ、音楽、効果音をミキシングする。そしてラストの一巻では、いかがでしたか、どうぞまた映画を見に来てくださいという気持ちで音をミキシングしているんです。お客さんにはそんなこと分からないでしょうけれど、これは僕が音をミキシングするときの気分の問題。どんな映画でも、自分が気分的に乗って感動しなければ、お客さんに感動は伝わらないと思っているんです。だから自分が感動できるように音の流れを考えているんです。」
まず自分が感動できるように、というのは、どこでも、どんな所でも、通用する普遍的なことだ。
紅谷さんは、大岡昇平の『長い坂』を映画化した『明日への遺言』(08)で、録音技師としての最後を飾る。
これはB級戦犯として裁かれることになる、司令官・岡田資中将(藤田まこと)とその妻(富司純子)の、法廷における戦いの物語である。
ラストに主題歌が入るときに、「音を調整するフェーダーを握る手に思わず力が入りましたね。これで長かった映画録音人生が終わる……」と。
奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(紅谷愃一、取材・文/金澤誠)(23)
紅谷さんは、この時期たとえば、日中合作映画『曼荼羅 若き日の弘法大師・空海』(91)(テン・ウェンジャ監督)、深作欣二監督『いつかギラギラする日』(92)、神山征二郎監督『遠き落日』(92)、杉田成道監督『ラストソング』(94)、渡邊孝好監督『居酒屋ゆうれい』(94)などの仕事をしている。
このうち『居酒屋ゆうれい』は、テレビで見ている。これは居酒屋の主人・萩原健一が、亡き妻(室井滋)に再婚はしないと約束したのに、若い後妻(山口智子)と結婚したことから、妻の幽霊が現われて、ドタバタになる。いかにもテレビ向き、と言って悪ければ、小ぢんまりした映画だった。
このときショーケンが、スタッフと揉め事を起こし、紅谷さんが矢面に立って、一応の解決を見ている。
このころ僕は映画に興味を失っていた。というか、自分のことで一杯いっぱいになり、映画どころではなかった。結婚もし、会社を変わり、子供も生まれ、とにかく忙しかった。
次は久々の、今村昌平監督『うなぎ』(97)である。この映画は『楢山節考』に続いて、カンヌ映画祭で2度目のパルム・ドールを受賞した。吉村昭の『闇にひらめく』が原作で、殺人罪で服役した男が出所後、自殺未遂した女と関わって、気持ちに変化が起きていく、という話である。
厳しい予算で、苦労の多い仕事だった、と紅谷さんは言う。そのぶんスタッフはチームワークよく働いた、と。
「紅谷 ときには監督のユーモアあふれる演出の指示によって、ともすれば暗くなりがちな撮影現場にホッとした空気が流れ、明るいスタッフの笑い声が疲れた神経を癒してくれました。まさに今村監督の人間的魅力に現場が支えられていた。当然、スタッフ・キャストは今村信者へと傾斜していきますよ。」
このときの今村昌平は、カンヌのパルム・ドールを手放しで喜んだ。次の『カンゾー先生』(98)が撮れることになったからである。
『カンゾー先生』は評価も高く、主演を務めた柄本明や麻生久美子は、多くの映画賞を受賞している。しかし興行的には、報われなかったのが残念だ、と紅谷さんは言う。
98年に入ると、降旗康男監督、高倉健主演、『鉄道員(ぽっぽや)』(99)が入る。浅田次郎の短編が原作。仕事一途の鉄道員は、妻や幼い娘の死にも会えなかったが、冬のある日、奇跡の出会いを体験する、というファンタジー。これは大ヒットした。
僕はもちろんテレビでも観ていない。浅田次郎が書いたファンタジー、人情ものだから、あまり観たくない。
しかし紅谷さんの話は面白いから、ついつい曲げて観たくなってしまう。
「紅谷 1月11日から14日にキハ〔蒸気機関車〕の実景撮影をしたんですが〔中略〕、警笛の音を録りまくりました。機動車を走らせている根室本線は地形が変化に富んでいて、山の形が変わると警笛の音の響きも違うんです。山肌への反響の度合いが違いますから。警笛の音によって情感が加味されるので、その音の変化をシーンによって使い分けたいと考え、場所を変えて異常なほど録音テープを回し続けました。」
警笛の音で情感が変化する。どういうものか聞いてみたい。
98年9月6日に黒澤明が亡くなった。通夜が終わってから、スタッフの間で『雨あがる』(00)の企画が持ち上がった。
これは山本周五郎の小説を、黒澤明が脚本化して、遺稿のかたちで残されたものを、弟子の小泉堯史が監督した。腕は立つが報われない武士(寺尾聰)と、妻(宮崎美子)の愛情を描いた時代劇である。
紅谷さんはこの脚本を読んだとき、ふと、これは小泉監督がモデルではないかと考えた。
「紅谷 小泉さん自身が、真面目過ぎて決して要領のいい人ではないですから。我々は映画界に毒されていますけれど、小泉さんはその毒を持っていない映画界には珍しい人だという印象がありますね。」
毒というか、アクの強さのない監督には、僕は魅力を感じない。しかし『雨あがる』は、大井川の川止めに遇って、どんちゃん騒ぎをするところだけでも観たいと思う。
このうち『居酒屋ゆうれい』は、テレビで見ている。これは居酒屋の主人・萩原健一が、亡き妻(室井滋)に再婚はしないと約束したのに、若い後妻(山口智子)と結婚したことから、妻の幽霊が現われて、ドタバタになる。いかにもテレビ向き、と言って悪ければ、小ぢんまりした映画だった。
このときショーケンが、スタッフと揉め事を起こし、紅谷さんが矢面に立って、一応の解決を見ている。
このころ僕は映画に興味を失っていた。というか、自分のことで一杯いっぱいになり、映画どころではなかった。結婚もし、会社を変わり、子供も生まれ、とにかく忙しかった。
次は久々の、今村昌平監督『うなぎ』(97)である。この映画は『楢山節考』に続いて、カンヌ映画祭で2度目のパルム・ドールを受賞した。吉村昭の『闇にひらめく』が原作で、殺人罪で服役した男が出所後、自殺未遂した女と関わって、気持ちに変化が起きていく、という話である。
厳しい予算で、苦労の多い仕事だった、と紅谷さんは言う。そのぶんスタッフはチームワークよく働いた、と。
「紅谷 ときには監督のユーモアあふれる演出の指示によって、ともすれば暗くなりがちな撮影現場にホッとした空気が流れ、明るいスタッフの笑い声が疲れた神経を癒してくれました。まさに今村監督の人間的魅力に現場が支えられていた。当然、スタッフ・キャストは今村信者へと傾斜していきますよ。」
このときの今村昌平は、カンヌのパルム・ドールを手放しで喜んだ。次の『カンゾー先生』(98)が撮れることになったからである。
『カンゾー先生』は評価も高く、主演を務めた柄本明や麻生久美子は、多くの映画賞を受賞している。しかし興行的には、報われなかったのが残念だ、と紅谷さんは言う。
98年に入ると、降旗康男監督、高倉健主演、『鉄道員(ぽっぽや)』(99)が入る。浅田次郎の短編が原作。仕事一途の鉄道員は、妻や幼い娘の死にも会えなかったが、冬のある日、奇跡の出会いを体験する、というファンタジー。これは大ヒットした。
僕はもちろんテレビでも観ていない。浅田次郎が書いたファンタジー、人情ものだから、あまり観たくない。
しかし紅谷さんの話は面白いから、ついつい曲げて観たくなってしまう。
「紅谷 1月11日から14日にキハ〔蒸気機関車〕の実景撮影をしたんですが〔中略〕、警笛の音を録りまくりました。機動車を走らせている根室本線は地形が変化に富んでいて、山の形が変わると警笛の音の響きも違うんです。山肌への反響の度合いが違いますから。警笛の音によって情感が加味されるので、その音の変化をシーンによって使い分けたいと考え、場所を変えて異常なほど録音テープを回し続けました。」
警笛の音で情感が変化する。どういうものか聞いてみたい。
98年9月6日に黒澤明が亡くなった。通夜が終わってから、スタッフの間で『雨あがる』(00)の企画が持ち上がった。
これは山本周五郎の小説を、黒澤明が脚本化して、遺稿のかたちで残されたものを、弟子の小泉堯史が監督した。腕は立つが報われない武士(寺尾聰)と、妻(宮崎美子)の愛情を描いた時代劇である。
紅谷さんはこの脚本を読んだとき、ふと、これは小泉監督がモデルではないかと考えた。
「紅谷 小泉さん自身が、真面目過ぎて決して要領のいい人ではないですから。我々は映画界に毒されていますけれど、小泉さんはその毒を持っていない映画界には珍しい人だという印象がありますね。」
毒というか、アクの強さのない監督には、僕は魅力を感じない。しかし『雨あがる』は、大井川の川止めに遇って、どんちゃん騒ぎをするところだけでも観たいと思う。