奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(7)

次はいよいよ『神々の深き欲望』(68)である。これは沖縄の波照間島、黒島、南大東島の3つの島を使ってロケをした。
 
沖縄は、このときはまだアメリカの統治下で、渡航手続きだけでも大変だった。1ドル=360円の時代で、とにかく予算が厳しかった。渡航する前に種痘、コレラ、破傷風の予防接種の必要があり、また沖縄のハブに対する予防注射の必要もあった。

『神々の深き欲望』については、註を引いておく。

「監督:今村昌平、出演:三國連太郎、沖山秀子。神話が息づく南の島を舞台に、近親相姦によって島民から蔑まれている一家と、観光開発業者によって島の風俗が壊されていく姿を描いた、今村監督入魂の一作。」
 
これは学生時代にリヴァイバルで見たが、細かい筋は忘れてしまっている。しかし、ただもう圧倒された記憶がある。一緒に見にいった友だちが、「圧倒されまくりやったなあ、疲れたわ。おもろいとか、おもろないとか言うのとは、別の次元の話やなあ」、と印象的なことを言ったのは、今でも忘れない。
 
ロケ先の島は、ホテルや旅館はないから、今村監督や紅谷さんはパートごとに、土地の人たちの農家に分宿した。

「紅谷 水が貴重でしてね。天水桶に溜める水道なので雨が降らないと断水になってしまうし、煮沸しないと生水は飲めないんです。さらにトイレは外にある掘っ立て小屋で一応屋根は付いていますが、雨漏りがする。中は狭くて、トイレの肥溜めは豚小屋からの尿とも直結していますから、臭いがきつくてハエがものすごい。そのハエを追ってヤモリが走り回りますから、落ち着いて用を足していられません。一番怖いのはハブで、噛まれる恐怖が常にありました。」
 
いやどうも大変な所だ。こういうところで合宿していれば、団結するときもすごいだろうけど、いったん不協和音が表に出れば、大変なことである。全体を統括する映画監督が、なまじの才能ではないことが、おぼろげにわかる。
 
録音機材のことはよくわからないのだが、ここで紅谷さんが一生懸命話していることは、貴重だと思うので挙げておく。

「紅谷 とにかく確保しなければならないのは、キャメラの電源です。照明部のゼネレーターは那覇で調達することにしましたが、ミッチェルのキャメラの電源は、当時ポータブル発電機として売り出されたばかりのホンダ製『E1000』型をテストしてみました。エンジン音が大きいのは難点でしたけれど、比較的電圧と周波数が安定していたので発電機をできるだけ現場から離すことにして、これに決めました。発電機を現場で使ってみると、ガソリンを満タンにすると五時間は保つことが分かって、結構重宝しましたね。録音機は出たばかりのナグラ三型を初めて使うことにしました。」
 
例によってまったく分からないが、録音という仕事に賭ける情熱だけは、伝わってくる。
 
この映画は、土地の人が好意をもって受け入れられるものではなかったが、今村監督は、「弁舌さわやかに押しまくって、無理やり納得して協力してもらっ」たのだった。近親相姦の一家がいる村という前提を、納得させて、地元の人たちを映画撮影に参加させる。今村監督、本当にただものではない。
 
また今村監督は、新人の沖山秀子をしごいた。今村監督の部屋へ通って、指導されることが多くなる。

「紅谷 今村さんは魚屋の二階を借りて住んでいたんですけれど、そこへ沖山が一人でしょっちゅう通って、かなり早い段階で二人は男女の関係になってしまいました。それは近所でも有名になっていましたね。」
 
今なら#MeToo(ミーツー)運動で、告発されそうだ。

しかし一方、離れ小島で、獅子奮迅の今村監督の姿を見ていれば、男女がそうなることも、自然なことか、とも思う。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(6)

『赤い殺意』は、日本映画記者会最優秀賞をはじめ、数々の賞を得た。64年は、紅谷さんはほかにも、「中平康監督の『月曜日のユカ』で、ダビング時にミックスを任されるなど、気鋭の監督から信頼を得ていった。」

僕は、『月曜日のユカ』はつまらない映画だと思う。学生時代に池袋・文芸座で見たときも、なんだかなあ、という感じだったが、つい最近テレビで再見して、薄っぺらでつまらぬ映画であることを再認識した。
 
加賀まりこがいろんな男と付き合い、奔放でコケテイッシュな魅力を振りまく、というのだが、それだけである。着ているものを一枚ずつ脱いでいくが、そういうところで、なんだかなあと、どんどんテンションが下がる。
 
紅谷さんは65年に、小林旭・宍戸錠主演の『三匹の野良犬』で、正式に「録音技師」としてデビューする。
 
66年には野坂昭如原作の『「エロ事師たち」より 人類学入門』に参加する。これは註を引いておく。

「監督:今村昌平、出演:小沢昭一、坂本スミ子。八ミリのエロ映画などを製作・販売しているエロ事師が、やがてインポになってダッチワイフ作りにのめり込んでいく様を描く。小沢昭一の好演が光る。」
 
これも学生時代にリヴァイバルで見た。原作の野坂昭如が、僕らの学生時代には圧倒的な人気で、それで見たのだと思う。

映画も素晴らしかった。というか映画の方が、大阪の土俗がよく描けていて、唸ったという記憶がある。大阪の土俗的な土着とは、あくまでも地べたにくっついて、そこで動き回り、絶対に浮上しないというようなことである。
 
これは65年に設立された今村プロダクションの、第1回作品だった。

「――プロデューサーも兼ねるようになった今村さんは、今までと違いましたか。
紅谷 お金にものすごくうるさい(笑)。でもフィルムだけはどんどん回すんですよ。あの頃のフィルムは現像代が高いんですが、フィルムはケチらない。でもそれ以外には一銭たりとも、無駄な金をかけないんです。それでも撮ることに妥協しないですから、どうしても制作費は赤字になっていきました。」
 
たいしたものだ。お金にものすごくうるさいけども、フィルム代だけはケチらない、監督の鏡である。
 
68年に紅谷さんは、今村昌平『人間蒸発』の仕上げだけを頼まれる。僕はこの映画は見ていない。

『人間蒸発』はドキュメンタリーで、今村プロとATG、日本映画新社が共同制作し、日活は配給だけを請け負った。
 
ここで初めてATGが出てくる。僕らの学生時代には、ATGは欠くことのできないものだった。ここでも註を引いておく。

「ATG アート・シアター・ギルドの略。62年、芸術的な映画を専門に上映するために設立され、やがて映画の自主制作を始める。特徴的なのが〝1000万円映画〟で、製作費1000万円を製作者とATGが半額ずつ出資して作った映画である。その中から今村昌平の『人間蒸発』(67)、大島渚監督の『絞死刑』(68)、岡本喜八監督の『肉弾』(68)、篠田正浩監督の『心中天網島』(69)といった意欲作が生まれた。」
 
僕はこの中で『人間蒸発』以外は、みんな見ている。

ほかにも大島渚『新宿泥棒日記』や、羽仁進の『初恋・地獄篇』など、忘れられない映画がある。みなリヴァイバルで見たんだけれど、ATGはあの時代を、鋭角的に切り取っていたと思う。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(5)

紅谷さんは64年に、今村昌平の『赤い殺意』を担当している。
 
その前、63年に、今村監督の『にっぽん昆虫記』があるが、これには紅谷さんは参加していない。

今村昌平はこの作品で、紅谷さんを、助手から録音技師にしようと推してくれたが、会社がOKしなくて、紅谷さんも他の仕事が重なっていて、どうにもならなかった。

『にっぽん昆虫記』は、僕は50年前に新宿で、リヴァイバルで見たのだけれど、これは鮮明に憶えている。人間も昆虫も、与えられた命を精一杯生き切って死んでいく、という点では同じだ(実際に昆虫のカットがたくさん出てくる)。そのメッセージが昨日見た映画のように、鮮烈に蘇ってくる。この年、日活で一番当てたのは、この映画だった。

この映画はまた、オールロケーション、オール同時録音で成功した。これ以後、今村作品はすべてオールロケ、オール同時録音でやろうとする。

『赤い殺意』は藤原審爾の小説を、今村昌平が自ら脚本を書き(長谷部慶次と共同脚本)、映画化した。

筋立てはこうだ。夫(西村晃)と暮らしているヒロイン、貞子(春川ますみ)が、強盗の平岡(露口茂)に犯され、執拗に追い回されていくうちに、奴隷のような結婚生活から、精神的に自立していく物語である。春川ますみが、たくましく生きる女性を、笑いも交えて見事に表現している。
 
この映画は、紅谷さんにとってもエポックメイキングな、転機になった作品らしく、本書で6頁にわたって、録音技術も込みで詳細に解説している。読んでいて、その迫力には圧倒されるが、僕にはそれを要約して伝える能力がない。
 
ここでは一端として、春川ますみと露口茂が、列車の最後尾でもみ合う芝居を挙げておく。2人を乗せた列車が出ていく、長い1シーン1カットの場面で、撮影するだけで一週間かかったという。
 
紅谷さんは、「長年この仕事をしていて、あの撮影だけは今思い返しても興奮しますね」とのこと。ではその場面を。

「紅谷 照明部が二つ手前の駅から列車の後尾の車両に乗り込み、手早く車内でライティングをする。助監督も一緒に乗り込んで、乗客に松島駅で撮影をすることを説明しました。『俳優が車内を通るけれど、彼らを見る分には構わない。でも車外から撮るキャメラの方は見ないでくれ』と。機関車にも制作部が乗り込んで、運転手に汽笛を鳴らす位置や列車の停まる位置、発車するタイミングを指示したんです。」
 
乗客も乗務員も、一体になって映画を作っている。今でもこんなことをしているんだろうか。
 
そして、もう一つ別の部隊が外側から撮影する。

「紅谷 松島駅で待ち受ける撮影班は、軽トラックの上にキャメラをセッティングして、エンジン音が出てはいけないのでトラックはスタッフが手押しで横移動させました。録音に関しては俳優たちにワイヤレスマイクを仕込んで、機材一式をリヤカーに乗せて、トラックと並行して横に移動させました。」
 
ここでは註に写真が入っていて、軽トラックを人力で移動させるところが出ている。これで1シーン1カットを、一週間かけて撮るのである。よくは分からないけど、思わず引きずり込まれる、手作り感満載の映画制作という気がする。
 
音楽担当は、今となっては考えにくいけれど、黛敏郎だった。後年は右翼として有名になったが、黛敏郎は『盗まれた欲情』から『神々の深き欲望』まで、日活時代の全劇映画で、今村昌平とコンビを組んだ。

紅谷さんは、今村昌平から、効果音のテーマを何にするかと訊かれ、「イメージとしてお遍路さんが浮かんでくる」と答え、黛敏郎の音楽に、錫杖の音をミックスさせたのである。

「紅谷 今村監督はいつもクランクアップが近くなると『ダビングのことをどう考えている?』という質問があるんですけれど、そこでどう応えるかによって今村さんはこちらの才能を見抜くんです。だから常に自分なりのアイデアをいくつも持っていないとダメなんですよ。」
 
今村・紅谷のコンビは最上だったけど、その内実は常に真剣勝負が行われていたのである。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(4)

ここでもう一人のスター、小林旭の話が出る。

「紅谷 彼の人気が爆発するのは、この年8月に『南国土佐を後にして』(59)でギャンブルが得意な刑務所帰りのやくざを颯爽と演じ、そのイメージを受け継いだ流れ者に扮した『ギターを持った渡り鳥』(59)が10月に公開されて、大ヒットしてからですね。この作品に始まる『渡り鳥』シリーズ(59~62)で、彼は日活のトップスターになるんです。」
 
僕は小学校に行く前だが、この映画を映画館で見ている。2年保育の幼稚園に入っていて、途中で辞めたのだが、後で母親に聞いたところでは、「つまらんから」と言って、行かなくなったそうだ。幼児の言うことを、真面目に取るとは思えないから、たぶん家にお金がなかったのだろう。
 
父はサラリーマンとして普通に勤めていたはずだが、日本はまだ総じて貧しい時代だった。幼稚園に行かない子も、ずいぶんいたのではないか。母は、結婚したころは毎晩、夕食はコロッケだけだったと、いつも言っていた。
 
僕は幼稚園を辞めて、近所の同年のヨシミと仲良くなった。毎日どこへ行くにも一緒だった。そのお母さんが、少し離れたところにある映画館のモギリをやっていた。たぶん二番館だったのではないか。スクリーンも小さかった。

僕とヨシミはそこで映画を見た。小学生未満はタダだったが、ただし大人の付き添いが必要だった。ヨシミの母親が映画館で働いていれば、これはもう堂々と入れた。

そこで『南国土佐を後にして』や『にあんちゃん』、また『笛吹童子』や『風小僧』、『七色仮面』などを見た。『南国土佐を後にして』や『にあんちゃん』は、話の筋は分からなかったが、映画の断片は憶えている。
 
でもやっぱり幼稚園児の僕は、東映で市川右太衛門扮する旗本退屈男が、「姓は早乙女(さおとめ)、プハッ、名は主水之介(もんどのすけ)、プッハー」と見得を切ったり、また多羅尾伴内(たらおばんない)に扮した片岡千恵蔵が、「ある時は片目の運転手、またある時は……、そしてその正体は正義と真実の人」と、聞き取りにくいセリフで見得を切って、二丁拳銃をぶっ放すほうが、はるかに面白かった。
 
小林旭に戻ろう。

「紅谷 録音の立場から言わせてもらうと、小林旭の声は甲高いですけれど、録りいいんです。声の質によってマイクが少々離れていてもきれいに入る声と、そうじゃない声がある。」
 
このあと、宍戸錠の声はこもっていて録りにくい、何と言っても『盗まれた欲情』にでた滝沢修が、舞台で鍛えられているので、マイクがどんなに離れてもきれいに入った、と話が続く。
 
59年に紅谷さんは、今村昌平の初期の代表作、『にあんちゃん』に就いている。これは在日韓国人の少女の日記で、佐賀の炭鉱町を舞台に、両親を亡くした4人兄妹が、貧しくとも健気に生きてゆく、当時のベストセラーだった。
 
今村はこのあたりから、ロケーションも同時録音にこだわるようになっていくが、当時の録音機材では、完璧に実行するのは難しかった。
 
そのあたりのことを紅谷さんは、当時の録音機器を挙げて事細かに説明しているが、僕には猫に小判である。

『にあんちゃん』ではある時期、今村昌平は会社と対立する。

「紅谷 この作品では今村さんが粘るものだから撮影が延びて、途中で予算がなくなったんです。会社から上層部の人が来て、ロケ隊をいったん引き揚げろと言われたんですけれど、今村さんは悠然としてそのまま撮影を続けていました。」
 
こういうとき、どうしたら悠然と仕事をし続けられるんだろうか。僕は会社の意向を忖度して、本当にダメだった。だから自分で、トランスビューという会社を作ったのだ。
 
この映画は文部大臣賞をはじめ、数々の高い評価を得た。そういえば『にあんちゃん』は、ヨシミの母親の働いている映画館で、僕の母と見た記憶がある。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(3)

紅谷さんが大映で、最後に担当した作品は『舞妓物語』(54)で、監督・安田公義、主演・若尾文子だった。
 
ある撮休日、紅谷さんが河原町を歩いていると、市電の向こうから手を振る人がいた。20歳になったばかりの若尾文子である。

どこ行くの、と聞かれて、映画を見に行くんだ、と逃げるようにして別れた。若尾文子は本当に綺麗で、そして素敵な人だった。「あのとき、京都案内をしてあげればよかったなあって、後から大いに後悔しましたよ(笑)。」
 
1954年、紅谷さんは日活に入るが、このころの日活は映画を撮り始めたばかりだから、「効果音のストック」もなかった。

「紅谷 現代劇だと作った音というわけにいかないので、クランクアップするとダビングに必要な効果音を、知り合いを頼って紹介してもらい、必要な音を撮りに行き、その音を音付けしました。」
 
具体的なことは分からないけれど、仕事で工夫していることは分かる。
 
ここで紅谷さんは、大映時代から付き合った監督を回想している。

「紅谷 いろいろな監督と付き合ってきましたが、その中で伊藤大輔、内田吐夢、溝口健二、この少し後に『今日のいのち』(57)で仕事をした田坂具隆の四人の監督は、精神的に裕福な人たちだと思いました。撮影していても、気分的にすごくゆとりが持てるんです。撮影のペースが緩やかで、それぞれが持っている人格が表に出てくるわけです。戦前からやっている監督は、これだけ豊かな人間性を持っているんだなと感心しました。」
 
それがわかる紅谷さんも、同じ水準にある人だと思う。

川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』(56)に参加したときは、チーフ助監督が今村昌平、浦山桐郎がセカンドだった。今村、浦山とは気が合ってよく飲みに行った。

『洲崎パラダイス 赤信号』は、僕はリヴァイバル上映で見た。もうはっきりとは憶えていないが、懐かしい映画だ。ここは註より引いておく。

「監督:川島雄三、出演:三橋達也、新珠美千代。倦怠感漂う男女のカップルが、離れられずに堕ちていく姿を、洲崎遊郭の入り口にある飲み屋を舞台に描く、川島監督の代表作。」
 
紅谷さんにとって、今村昌平と出会ったことが、一生を決定づけた。

今村は早くから、自分も一本撮るから頼むと言っていた。紅谷さんの仕事に注目していたのだ。撮る前から「鬼のイマヘイ」の噂は広まっていたが、そのころはまだよく分からなかった(あとで嫌というほど思い知る)。
 
その映画は『「テント劇場」より 盗まれた欲情』(58)で、出演は長門裕之、南田洋子。今村昌平の監督デビュー作である。ここから今村・紅谷は、長くコンビの道を歩む。
 
56年に紅谷さんは、『太陽の季節』に参加している。石原裕次郎の登場である。

「紅谷 裕次郎が撮影所に来たとき、彼は間違いなくスターになるぞと一目見て思いました。車から降りて食堂に向かって歩いてくるだけで、『誰だ、あれは』という反応でした。背は高いし、足が長い。八頭身でスタイルは抜群でしたからね。」
 
本物のスターが現れるだけで、日活の社内は一変した。

石原裕次郎は『狂った果実』(56)で主演デビューし、57年には『勝利者』『鷲と鷹』『俺は待ってるぜ』とアクション映画が好調で、大ヒット作『嵐を呼ぶ男』につながる。

僕は小学校に上がる前で、大阪の下町に住んでいた。まだテレビはなくて、一家で映画を見ていたころだ。近くの映画館は日活と東映が並んでおり、僕は東映で、「旗本退屈男」や「七つの顔の男」、美空ひばりの時代劇を、週替わりで毎週見ていた。
 
石原裕次郎のポスターが、日活の映画館の前にあるのは見たが、映画は見られなかった。「裕次郎なんか見たら不良になるで」というのが、30歳になる前の母の言い分だった。僕は仕方なく、「おいらはドラマー」と、歌をがなるだけだった。

その頃の裕次郎は、紅谷さんにはどう映っていたか。

「紅谷 誰も裕次郎の悪口を言う者はいなかったです。彼は人懐っこいし、笑顔がいい。それと頭がよくて勘がいいから、反応が早いんです。先輩を立てるし、基本的な人間の生き方を知っているので、文句の言いようがないんですね。」
 
ただもう絶賛である。兄の石原慎太郎とはエライちがいだ。
 
絶賛ではあるのだが、裕次郎には俳優としての基礎がない。で、どうするか。

「紅谷 僕がついたときは『このセリフだけは歯切れよくやらないとダメだよ』とか、『この地名をしっかり言わないとドラマが分からなくなるよ』とか、個人的に相当注文しました。僕は彼に本物のスターになってほしかったし、裕次郎とはわりと親しかったからそんなことが言えたんです。そうすると裕次郎も『分かった、分かった。俺もちょっと気になっていたんだ』って、気持よくやり直してくれました。」
 
紅谷さんの本領発揮である。本当のスターは、いいものを作ることに賭けている。
 
後の方で、高倉健が同じようなことを言われて、やり直しをしている。それも気持ちのいい話だ。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(2)

この本は聞き書きの本文とは別に、下段に註がついている。おもに映画と映画人の解説で、痒いところに手が届く素晴らしいものだ。その中に録音機器の註もある。これが僕にはチンプンカンプンである。

「光学録音 映画用三五ミリフィルムのパーフォーレーション横に記録されている、鋸歯状のサウンドトラック用の録音機、音声波形を光の濃淡に変換してフィルムに焼き付ける録音法。音声電圧を光の明るさに変換し、サウンド・フィルムに焼き付けた。」
 
カタカナ語も日本語も、皆目見当がつきません。つまり紅谷愃一さんの仕事の本質は、全然分からないのだが、それでも優れた映画にかかわる場面は、血沸き肉躍る面白さだ。
 
当時の大映京都の録音部は、映画1本につき5人の態勢で臨んだ。録音技師がトップで、その下のチーフ助手はレコーダーといい、フィルム・レコーダー室からコードが各セットまでつながっていて、その部屋でフィルム・レコーダーを回した(なんかよく分からないですが)。

撮影現場には、ファースト、セカンド、サードと3人のマイクマンがいて、紅谷さんは入ってすぐのサードだった。
 
ここからは、印象的な場面を抜き出していこう。

『修羅城秘聞』(52=封切りの西暦が上げられている)は、主演・長谷川一夫、監督は名匠、衣笠貞之助だ。

「紅谷 衣笠さんで印象的なのは、いつも植木鋏を持っているんですね。あの人は木の枝越しに人物を撮る画が多いんですが、そのとき手前に入る木の枝を、自分で剪定するんです。監督が植木屋さんのようなことをしている間、スタッフはじっと待っていました。」
 
にわかには信じがたいが、衣笠監督のどんな映画も、枝越しの人物が撮られたのだろうか。監督の植木鋏は、有名だったに違いないが、それにしても可笑しい。
 
この映画のところで、マイクを振る技術と、その心構えについても喋っている。

「紅谷 マイクは例えば二人の人物がしゃべっている場合、ある人物がしゃべり終わったときに、次の人物にマイクが向いていないといけない。早め早めに次の人物にマイクを向けるためには、セリフを全部覚えておくのが一番いいんです。登場人物が増えても全員のセリフを覚えて、その人物配置によってどんなマイクポジションにするかを考えておく。」
 
監督や役者がセリフを覚えるのは、当たり前だと思っていたが、録音担当のサード、つまり一番下までが、そうであることは初めて知った。
 
後半で紅谷さんの言葉として、「××は脚本が甘かった、よくなかった」、という言葉が二、三みられるが、それはこういうことが土台にあってのセリフなのだ。
 
当時の大映京都で巨匠と言えば、溝口健二である。紅谷さんは『雨月物語』(53)の琵琶湖ロケに参加している。

「紅谷 朝から雲の多い、寒い日でした。〔中略〕溝口監督はディレクターチェアに座って、湖上の船をじっと見ていましたね。準備が大体終わってテストをはじめるというときになって、雪が降り出したんです。そのシーンは霞のかかったような曇天狙いですから、雪がやむまで待機になりました。しかし、監督は座ったままじっと動かず、宮川さん〔キャメラマンの宮川一夫〕もクレーンから下りてこない。雪はやむ気配がなくて、むしろ降りが強くなってきた。それでも二人はその場から動こうとしないんです。」
 
雪の降りしきる中で名匠とキャメラマン、2人の決斗という感じがするではないか。
 
ちなみにこのときは、制作担当者が恐る恐る、「やみそうもないので、今日は止めにしていいですか」と言い、監督も了承した。
 
溝口監督は、紅谷さんにはどういうふうに映っていたか。

「紅谷 黒澤明監督も怖かったですが、溝口監督には近づきがたい威厳を感じました。ファッション的にも、いつもジャケットを着てネクタイを締めていましたけれど、そんな恰好で現場に来るのは溝口さんだけなんです。ある種の威圧感がありましたね。」
 
黒澤明も溝口健二も、言うまでもなくヴェネツィア国際映画祭ほかで、数々の賞を得ている。紅谷さんは最初から、生身の巨匠たちを仰ぎ見る位置にいたのである。

奇跡の聞き書き――『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』(1)

この本を読んで、心底よかったと思う。これが生きてるうちに出ていなければ、僕は映画を好きだと言いつつ、映画の半分しか分からないままだった。これを読む前と後では、映画が迫ってくる、その迫り方が違う。
 
映画には音がある。当たり前のことだが、音楽から生活音、台詞まで、そのことをまったく自覚していなかった。それを統括する人の聞き書きである。
 
これは映画録音技師、紅谷愃一(べにたに・けんいち)に、映画ライターの金澤誠と、キネマ旬報社の編集者・前野裕一が、二人三脚で企画した取材内容がもとになっている。
 
そう後書きに、さらりと書いてあるが、しかし考えてみれば、いったいどういうふうに原稿を作成したのか。
 
たとえば大映に入って4本目の現場は、黒澤明監督の『羅生門』であるが、これは今からおよそ70年前である。70年前のことを、昨日のことのように活写することができると思うか。紅谷愃一はそれをやっている。

「――〔『羅生門』は〕林の中へ分け入っていく撮影がありますから、音も撮りにくそうですね。
紅谷 京都府長岡京市粟生にある光明寺というお寺でロケしましたが、やぶ蚊が多いところで大変でした。〔中略〕光と影が作品のテーマですから木の葉の影を強調するために、邪魔になりそうな木を伐採したんです。フレームのギリギリのところに大きな網を張って、その上に葉っぱを乗せる。そうやって人物に葉っぱの影が濃く映り込むようにしたんですよ。〔中略〕何でそういうことを知っているかと言えば、僕は準備の間にマイクを管理する係でもあるから、キャメラのすぐ近くにいつもマイクを持っていたんです。」

紅谷さんは1931年6月10日生まれ。この本を作り始めたときは80代半ばである。それでこの記憶力、考えられんでしょうが。
 
僕なんか10年前の手帖を見たって、著者と会ってどんな話をしたかは、もうまったく霧の中である。
 
紅谷さんが関わったのは、優れた映画ばかりだから、いやでも印象に残ったのだろうか。
 
紅谷さんは1949年、大映京都撮影所に録音助手として入社し、54年に日活へ移籍、今村昌平監督と出会い、『赤い殺意』『神々の深き欲望』から、今村監督の遺作『おとなしい日本人』までコンビを組んだ。
 
一方で石原プロの『黒部の太陽』『栄光への五〇〇〇キロ』といった大作、角川映画の『人間の証明』『復活の日』『セーラー服と機関銃』といった、ヒット作も担当している。
 
その間、『野生の証明』で高倉健と出会い、以降は大ヒット作『南極物語』にはじまり、『夜叉』『鉄道員(ぽっぽや)』など、高倉健の映画には欠かせぬスタッフになった。
 
また90年の『夢』では黒澤明監督の信頼を得て、『八月の狂詩曲』も担当している。
 
その黒沢組の小泉堯史監督とは、『雨あがる』から『明日への遺言』まで、4本のコンビを組んでいる。
 
他に藤田敏八、深作欣二なども担当している。個人的なことを言えば、長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』が懐かしい。
 
というふうに履歴をたどっては来たが、これでもざっと上辺をなぞっただけだ。

何のための経済学!――『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(2)

そもそも日本の賃金は、先進国が上がっていく中で、なぜ日本一国だけがまったく上がらないのか、という問いだったはずである。
 
その際に、日本の中では非正規雇用が増えているだの、医療・介護報酬などは決まっているだのは、ピン呆けの答えではないか。
 
先進諸国の中で、日本一国だけが落ち込んでいる陥穽は、どういうものなのか。そこが肝心なところである。

第15章の有田伸「社会学から考える非正規雇用の低賃金とその変容」は、全体の中でただ一つ、それにこたえている。それを要約してみる。
 
現在、雇用の流動化が世界中で進行しており、日本の非正規雇用の増加も、このような流れで捉えられることが多い。しかし日本の非正規雇用は、諸外国とは異なる面を持っている。
 
日本の非正規雇用の賃金は、諸外国に比べてかなり低い。たとえばヨーロッパの国々では、非正規は正規の70~80%台なのに対し、日本では約50%と、格差は愕然としてある。

「職種や企業規模、さらに年齢、学歴、労働時間が同じであったとしても、日本では正規雇用であるか非正規雇用であるかのちがいによって大きな所得の差が生じてしまうのである。」

「年齢、学歴、労働時間が同じであったとしても」、というところが大事である。まったく同じ条件の2人がいたとして、正規と非正規どちらを雇うかと訊かれたら、経営者であれば、賃金が2分の1で済む、非正規を取るに決まっている。
 
だからこれは、政治の問題になるわけである。ただその政治問題にする前に、経済の問題としてこういう不平等がある、ということを、徹底的にクリアにしておかないと、駄目である。
 
非正規雇用が増えているので、日本の賃金は上がらないのだという本末転倒した、議論にならない議論をやっていては、いつまでたっても賃金は上がらない。
 
しかし有田伸のこの論文にしてからが、2番目の問い、「どうやったら賃金が上がるのか」に対しては、唖然とする答えしか出ない。

「それぞれの従業員カテゴリーに対して付されている期待や想定を可能な限りつまびらかにし、そのうちどこまでが就業者が自由に選択可能なものであり、どこまでが一定の訓練や能力の涵養が必要であるものなのかをできるだけ明確にすることで、非正規雇用と低賃金の無条件の結びつきを防いでいくことが必要であろう。」
 
バカ言ってんじゃないよ! 非正規の人間が集まって、こんな机上の空論をやっている暇があるなら、労働者に与えられた権利、すなわち何をおいてもデモをやることだ。
 
この本には、非正規雇用の人々が自己主張をする、というようなことは、まったくの論外で、およそ労働権は最初から剝奪されている。それと反対側にいる人が、こういう本を書いている。
 
この本が、2017年に出ていることの奇怪さを、考えた方がいい。本の帯には、「エコノミストが選ぶ経済図書ベスト10 第1位」とある。それで経済関係の本は、すべからく読む必要がないとわかる。

(『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』玄田有史・編、
 慶應義塾大学出版会、2017年4月20日初刷、2018年1月25日第6刷)

何のための経済学!――『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(1)

これは玄田有史が編者になって次の問いを投げかけ、21人の経済の専門家が答えている。

 問1、人手不足が続いているにもかかわらず、なぜ賃金が上がらないのか。

 問2、賃金を上げることが今後可能だとすれば、いかにして実現できるのか。

全体は16章、つまり16の論文から構成されている。1つの論文を複数の著者が書く場合があるので、そういうことになる。
 
全体を読むと、経済の専門家とは、まず今あるものを受け入れて、それをうまく解説できることが使命だとわかる。
 
たとえば第1章では、医療の診療報酬制度や、介護サービスの介護報酬制度は、保険によって外から決められるものだから、ほとんど上がらない。

しかも産業全体から見れば、非正規社員が年々増加しているのだから、賃金はいつまでたっても上がらない。そういうことだ。
 
なるほど、よくわかりました。
 
だから問2に対しては、こういう答えになる。

「労働市場における適切な賃金調整を実現するには、その障害となっているさまざまな要因をひとつずつ地道に取り除いていく必要があると言えよう。」
 
どんな現場でもいい。具体的な現場を思い描くことができるなら、こういう寝言を言って済ませてはいられない。しかも全編この調子なのだ。
 
もちろん16本の論文には、知らなかったことも、気づくことも、たくさんあった。そこは感謝している。しかし、その叙述の仕方が、総じて他人事なのである。なぜか。
 
ここで執筆者の全体を上げておく。注意していただきたいのは著者の肩書である(必要なところを強調するために略して書いた)。
 
玄田有史(東京大学教授)、阿部正浩(中央大学教授)、有田伸(東京大学教授)、上野有子(内閣府参事官付)、梅崎修(法政大学教授)、大島敬士(総務省統計局専門職)、太田聰一(慶應大学教授)、小倉一哉(早稲田大学教授)、加藤涼(日本銀行経済研究グループ長)、川口大司(東京大学教授)、神林龍(一橋大学教授)、黒田啓太(厚生労働省課長補佐)、黒田祥子(早稲田大学教授)、近藤絢子(東京大学準教授)、佐々木勝(大阪大学教授)、佐藤朋彦(総務省消費指標調整官)、塩路悦朗(一橋大学教授)、中井雅之(厚生労働省政策統括官)、西村純(労働政策研究副主任研究員)、山本勲(慶應大学教授)
 
執筆者の肩書を見ればわかる通り、パートや派遣の非正規雇用で、明日はどうなるか分からない、今日の生活費も危うい、という人は1人もいない。それどころか、名だたる大学の教授・准教授や、それでなければキャリア官僚の類い、つまり最上級エリートである。
 
なるほど、非正規雇用が増えているので、全体として賃金は増えていかないのである、チョンチョン、で済ましていれば、それでいいわけである。

所詮は他人事、女性と老人に労働政策のしわよせがいき、それをリアルに想像できない人たち、チャーハンや冷やし中華を作っても、ハムも野菜も入れられない人たちがいる、ということが分からない人たち。
 
私は頭に血が上り、終わりの方まで来て、危うくこの本を真っぷたつに引き裂くところであった。がその直前、骨のある論文に行き当たった。

抜群に面白い、けど――『ベルリンは晴れているか』

これは少し前に、「大波小波」(東京新聞)で絶賛されていた、深緑野分(ふかみどり・のわき)の小説。すぐに読もうと思ったのだが、第2次大戦直後のベルリンが舞台で、日本人は一人も出てこない。それでシュリンクしてしまい、しばらく間をおいた。
 
読んでみると、なかなか、いや抜群に面白い。一応ミステリーだが、謎解きは作品の骨格を作っているだけ、内容はアウグステ・ニッケルという17歳の女の子が、連合国に分割されたベルリンを、男たちを巻き添えにしながら、昼も夜も疾駆する話だ。それが作品の本体である。
 
戦争直後のベルリンはよく書けていると思わざるを得ないし(本当はどうであるかは知らない)、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連に分割された街で、行き場のないドイツ人と、複雑なユダヤ人もどき、つまり偽ユダヤ人が絡むところも面白い。とにかく大変な筆力である。
 
アウグステが偽ユダヤ人と対峙し、相手に悲しみをかける場面――。

「怒れたらどんなに良かっただろう。まるで殻を割られて瀕死のカタツムリみたいに、無防備で青白く力のないその顔に、私はどうしようもない悲しみを感じた。」
 
深緑野分の文章はこんなふうである。
 
アウグステは、ソ連兵がベルリンに入ってくるときに、強姦されて、そのとき逆にソ連兵を殺している。アウグステの表情は、もはや老婆のようである。
 
疑問はいくつかある。アウグステの知り合いで、次々に子どもを殺す殺人鬼の動機は何か。最後にアウグステはその訳を訊ねるが、殺人犯は毒薬を持ったまま、無言で去ってゆく。その毒薬は、アウグステが渡したものだ。
 
しかしミステリーは骨組みであって、作者が本当に書きたいことではないということ、だから連続殺人鬼の動機は、謎のままである。しかしこれで本当にいいのかね、僕は疑問を抱く。
 
もっと大きな疑問もある。なぜ終戦直後のベルリンを舞台にして、日本人が一人も出てこない物語を書いたのか。ドイツにそれほど思い入れが強いのか。そう思うしかないのだろうが、しかしそれなら、ドイツ語で書けばいいではないか。
 
外国が舞台の小説は、たとえばブレイディみかこの『両手にトカレフ』がある。このときも、日本語よりも英語で書けばいいのに、と思ったものだが、カネコフミコの自伝が日本語なので、イギリスで本にするのは難しいか、とも思ったりしたのだ。
 
しかしカネコフミコに注釈を加えて、英国で本にすると、どういう反響があるだろうか、それは大変興味がある。
 
外国人のみが出てくるというのでは、『同志少女よ、敵を撃て』がある。これも最初は違和感があったが、夢中で読んでいるうちに、そんなことは忘れてしまい、読み終わると、ただただ圧倒されていた。
 
とすれば、『ベルリンは晴れているか』を読み終わってモヤモヤするのは、やはり少々分裂しているのではないか。
 
それにしても、筑摩書房がこれを出した、それも書き下ろしで、というのは快挙である。こういうものを出そうとすれば、編集者一人のことではなく、会社が後押しをしなければ無理である。しかも内容を見れば、相当の冒険である。僕がいるときとは、筑摩も完全に変わったのだ。

これは1年足らずの間に、8回も重版している。ますますもって、めでたいことである。

(『ベルリンは晴れているか』深緑野分、
 筑摩書房、2018年9月25日初刷、2019年7月5日第8刷)