にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(1)

高橋順子のエッセイ集。『夫・車谷長吉』を何度も朗読しているうちに、この人の書くものを、他にも読みたくなった。
 
それで『博奕好き』を読んだのだが、なるほど高橋順子の文体は、『夫・車谷長吉』のときとは違っている。何というか、もっと我を張っている。

「結婚とは確かに異文化との出会いを日常とするものである。それを契機とし、それまで属していた文化圏を、異なった文化圏の眼で眺めるということをしなくてはならなくなった。男社会と女社会の違いはもちろんのことだが、関西と関東、農村と漁村という異なった文化圏の衝突であった。」
 
これは結婚してすぐのときだろう。こういう言い方は変だが、自分というものがしっかりしていて、個人の及ぶ範囲が、くっきりと切り取られている。

「私もじつは十何年かに及ぶ会社勤務の間は男社会に属していた。女性の少ない職場であった。退社後、所属していた同人誌の縁で、女詩人たちとのつきあいが、わっと増えた。何年か経つうちに親しさを増し、疑似大家族のようになった。男社会のように競争心が表にあらわれることはない。」
 
これはこれで、東大仏文科出身、一人の女詩人のエッセイとしては面白い。
 
私はこれで、『夫・車谷長吉』の次のような、文体についてのところを、初めて理解した。

「自分を追い詰めてゆくと、長吉の息苦しさと息を合わせているような気になってしまうのだ。でもこの本は長吉との共著だと私は思っているので、彼に似ているところがあったら、そのほうがいいだろう。そこは長吉が私のワープロを打つ手を借りて声を発しているのかもしれないのだから。」
 
今度の本を読むまでは、この内実がわかっていなかった。

「手」は、仕事する手を取り上げ、幸田文を真っ向から論じている。初出は『幸田文全集』(岩波書店)の月報である。

「ビニールの手袋で手を保護し、目の助けだけで食器を洗う。白い皿に餅の固くなったのがこびりついているのを指摘されたこともあるが、私の台所仕事はこのビニール手袋が語っているように物の芯に直接触れることがないようだ。連れ合いはそれを手抜きだという。彼は幸田文を敬愛している。」連れ合いはもちろん車谷長吉。
 
著者は幸田文の文章を、1行で言い切る。

「虚飾をはらい落とした手の人は、文章からも虚飾を落とすようである。」
 
ちなみに私は、幸田文の文章は、高校の教科書以外には、読んだことがない。こういう方向に進むと歯止めが利かなくなり、自分が小言幸兵衛になりそうな気がして、敬遠している。