今度は白眉の小説――『両手にトカレフ』(ブレイディみかこ)(2)

次はカネコフミコの自伝から。カネコフミコは「無籍者」、つまり戸籍がない。一家は都会から田舎へ落ち延びてゆく。

こちらの方も、ブレイディみかこの翻案なので、非常に読みやすく、分かりやすい。

「この村では、朝早く起きて日が暮れるまで誰もがせっせと働き、それ以外の暮らし方はあり得ないのだった。〔中略〕
 だが、それがいくら理想的なものに思えても、それで田舎の貧しさを補えるとは思えなかった。都会のビルディングや着飾った人々が行き来する商店街を知っている人間には、田舎の暮らしはまるで時代をいくつか遡ったような、原始的なものだった。」
 
フミコは都会と田舎をじっくり見比べて、ある結論を下す。

「都会は田舎からいろんなものをだまし取って繁栄しているのではないか。私はそう考えるようになった。朝から晩まで働いて彼らが得たわずかなお金をだまし取るために、都会の人間たちがやってくるからだ。」
 
都会と田舎の関係、まるで養老さんの話のようだ。
 
それにしてもミアが、カネコフミコに共感し、極貧の自分と同じだと思って読んでいる本は、大正時代の本だ。このことをどう考えるか。

現代の英国と、大正時代の日本は、本当にパラレルなんだろうか。もしそうだとすると、英国は、異常だ、狂っているということにならないだろうか。とはいえしかし、日本の方は大丈夫なのか。僕が実情を知らないだけなんじゃないだろうな。
 
次は英国の階級の話。前提として、カネコフミコの親戚が、貧乏育ちのフミコの言葉づかいを嫌っている、というのがある。

「ミアも自分の発音がミドルクラスの子たちと違うことを知っている。レイラやウィル〔=同級生〕のような、単語の最後の音までしっかり発音してゆっくり喋る子たちと自分の話し方は違う。ミアはあんな風に口の中にプラムでもふくんでいるみたいなまろやかな英語は喋らない。〔中略〕
 英国では、こういう風に生まれ育った場所や職業で人の喋り方が分かれていることを『階級』と呼ぶのだが、日本もそうなのだろう。」
 
日本はそうではない(と思う)。英国の労働者階級とそれ以外では、言葉遣いも、ラジオ放送も違うと、昔、加藤周一の本で読んだことがある。

そして日本では、階級は整然と区別されてはおらず、というところから「雑種文化論」が始まるのだった。
 
さてしかし、ミアの話によれば、今も階級は整然と分かれている、というのはどういうことか。

今度は白眉の小説――『両手にトカレフ』(ブレイディみかこ)(1)

ブレイディみかこの初めての小説。これは傑作、もっと言えば、大傑作である。
 
ブレイディみかこの本は、はじめ僕が買ってきて、田中晶子も読んで、そのうちに彼女が全部買うようになった。やっぱりいいものもあれば、それほどではないものもある、と彼女は言う。

僕はこのところ、ブレイディみかこには辛口である。なぜ彼女は、保守党の緊縮政策に反対なのか。というよりも、なぜ緊縮政策を執る保守党が、それに反対する労働党よりも選挙で多数を得るのか、ということがまったく説明されていない。これでは労働党のアジ演説と変わらない。
 
小説は評論やエッセイとは違う。主人公が少数派であろうと多数派であろうと、関係ない。主人公がどこまで強烈に存在を主張するか、周りを取り巻く人たちが、これでもかというくらい躍動しているか、小説はここに尽きている。
 
14歳のミアは、食うや食わずの悲惨な生活を送っている。貧困家庭で、ひ弱な弟と2人、母親はアル中でほとんど廃人だ。
 
ミアはあるとき図書館で、見知らぬおじさんの手引きで、「カネコフミコ」という人の自伝に出会う。
 
ブレイディみかこの小説は、ミアの日常生活と、カネコフミコの自伝が、互い違いに表われて進行していく。カネコフミコの自伝は、もちろんブレイディみかこの翻案だ。
 
著者はカネコフミコについて、説明はしていない。だから私が付け加えておく。

カネコフミコはアナーキストの金子文子。関東大震災の2日後に、内縁の夫、朴烈と共謀し、天皇暗殺の疑いをかけられ、そのまま獄死する。22年6ヶ月の短い生涯だった。代表作に自伝、『何が私をこうさせたか』があり、また歌集がある。
 
ブレイディみかこは、金子文子の自伝その他を、昔から知っていたに違いない。そういう共感を寄せるような精神的土壌があって、英国に渡っても、下層階級に共感したのだ。
 
小説の文体は右のようだ。はじめの方で、近くの図書館のエレベーターに、見知らぬおじさんと乗ったとき。

「くさいんだろう。おじさんが臭うのだ。ミアはこの臭気には慣れている。アルコールとアンモニアが混ざったような独特の臭い。ミアの母親もこんな臭いをさせるときがある。何日もシャワーを浴びず、洗濯もしないで酒を飲んでいると人はこんな臭いを発し始める。」
 
文章は素晴らしく上手い。過不足がないだけでなく、細かく臭うような皮膚感覚がある。
 
次の場面は、ミアが学校で、食べ物を万引きするところだ。

「ミアのような家庭の子どもは、学校では無料でランチを食べることができた。だけど、それには限度額があり、それを超えるとカードがレジで使えなくなる。でも万引きをすればカードが限度額にならないし、万引きしたものを家に持って帰れば夕食にできる。ミアだけじゃない。切羽詰まった家庭の子どもたちはみんなやっていることだ。他の生徒たちだってそのことを知っている。学校側だって本当は知っていて見逃しているのだ。」
 
貧困な子どもたちが、どんな環境に置かれているか。そして最後の1行で、英国の学校の、底辺の悲惨さを抉り出している。
 
それにしてもこんなことが、英国の公立の学校で、本当に起こっているんだろうか。

にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(高橋順子)(4)

本はだいたい定価を付けて、書店で売られている。しかしそうでないものも、実は膨大に作られている。
 
高橋順子は初めての詩集、『海まで』を250部、牧神社から自費出版した。これは本屋には並ばない。自費出版だから。

しかし牧神社はその直後に、不渡手形を出して倒産した。債権者が著者に渡したのは、わずか12冊だった。

「あなたも、倒産に縁があったのね。しようがないわね、と私は私の白い表紙の詩集に言った。自分の分身のごとき本であった。」
 
大学を出た後、高橋順子は河出書房に入り、そこはたちまち倒産し、青土社に拾ってもらったのだ。

「このように人は自費出版をするのである。後年自分に、他者の自費出版の本がぞくぞくと送られてくることになろうとは、そのときは夢にも思わなかった。商品ではない本が一日おきくらいに届くのである。みな作者の分身である。」
 
私は考える。ネットの時代、本は時代遅れである、とみんな思っている。街の書店はどんどんつぶれていく。
 
しかし本屋が潰れた先には、自費出版の本だけは残るのではないか。高橋順子の言う「自分の分身のごとき本」は、きっと変わらずにあり続けるだろう。「自分の分身」は、本以外には考えられないからである。あるいは本が、もっとも簡便だからである。
 
もう一か所、「物としての本」から引いておく。これはいわばカビの生えた、従来の主張である。

「そばに置いてあることで精神の安寧を得られる物である本。背表紙を見るだけで、その本の著者がこの世に生きていること、或いは生きてきたことに勇気づけられる、さまざまな意匠でもって飾られた本という精神的な物。はたしてフロッピーディスクのような物が、こういう気分を人に与えてくれるものかどうか。」
 
これはその通りだと思う。本には固有の、本だけの価値がある。だから問題は、作った本を、どういうかたちで人の手に渡していくか、というところに尽きる。
 
それを本の流通過程と呼んでは、間違いになる。これは知恵のあるものを、本当に呼んでいると思う。
 
第Ⅳ章は「俳句」である。およそ80句のうち、右の3句だけが印象に残った。

    九十九里浜
  しらうをは海のいろして生まれけり

  虻一つ死にたるまゝの書斎かな

  椿落つ大音響の夢の中

どれもいい句だと私は思うが、いかんせん80句のうち3句では寂しい。高橋順子とは、言葉の好みが違うとしか言いようがない。それで詩集は1冊も読まずにいる。
 
もちろん朗読は、これからも何度も続けるけれど。

(『博奕好き』高橋順子、新潮社、1998年12月20日初刷)

にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(高橋順子)(3)

「Ⅰ 連れ合いとの日々」の終わりは、「書下ろし」である。題して「長吉の験かつぎ――直木賞受賞まで」。
 
読者のために、最後はこのテーマが必要だ、と新潮社の担当者、川嶋眞仁郎氏は考えたにちがいない。締めるところは締めてよし、と。

川嶋さんはもう亡くなったが、ひと頃、新宿のバーで、しょっちゅう会っていたことがある。深い話はしなかった。
 
車谷の直木賞なのに、高橋順子の「験かつぎ」が面白い。

「私は日々、何事もありませんように、となにものかに祈った。お皿を割りませんように、スリッパが破れませんように、下駄の鼻緒が切れませんように、猫の糞を踏んづけませんように、水道管が壊れませんように、灰皿に使っている缶ビールの空き缶がなにかの拍子に倒れませんように、長吉が嫌っている私の友人の誰かれから電話がありませんように、といった具合に、はらはらし通した。」
 
この辺はちょっと現代詩ふうだ。「猫の糞を踏んづけませんように」、というのはおかしい。そこに重ねて、「水道管が壊れませんように」、というのはもっとおかしい。たしかに水道管が破裂すれば、どんな望みも実現しそうにない。
 
長吉の直木賞は、『夫・車谷長吉』では、人生に起こったこととして、そこに収まるように書いてあったが、この本を出すときには、そうでもない。結びの一行はこうなっている。

「愚かで滑稽なドタバタ劇を演じたひと月だったが、確かにあのときから、現実と虚構をまき込んでの荷崩れが起こったのだった。」

「荷崩れ」というところがおかしい。

話かわって「私の水平線」という文章に、こんな一節がある。

「私の連れ合いは小説を書いているが、彼と近所を散歩すると、江戸時代からこの辺りに生きていたようなもの言いをする。この道は、この坂は、この建築様式はとなめらかである。」(「るしおる」二一号)
 
長吉の書くものに、江戸時代のものや、江戸趣味のものはなかった気がする。そこは隠し味だったのか。興味は尽きない。

「人魚好き」は、自分が詩を書くいわれを探っている。アンデルセンの『人魚姫』に魅せられた、少女時代の話。

「誰にも言わずに、人魚姫を心に抱いていた。夢見がちなところはあったが、作文は不得手で、文字を書こうとすると気持が閉ざされ、無邪気さを失った。文学少女の時期はなく、詩を書くようになったのは、二十歳を過ぎてからだ。」
 
信じられない。では東大文Ⅲに入り、仏文に行ったのはなぜなのか。

「人魚姫の物語は、私が人生のいちばん初めに触れた詩だった。童話というよりは詩だった。それから後の私の人生を見つめる眼になったのだ。そういう作品は詩と呼ぶべきだろう。
 私が詩を書き始めたことが、この作品に少女時代に出会ったことと無関係であるとは思えない。」
 
高橋順子のもとをたどってゆけば、このようになるのかもしれない。しかし二十歳を超えて、詩を書き始めたことは、他に何本か補助線がなければ、すんなりとは分かりにくい。

にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(高橋順子)(2)

「鬼の雪隠」は、車谷長吉と奈良を旅行したときのもの。これも『夫・車谷長吉』に書かれた情緒ある旅の風景とは、かなり異なっている。

「強迫神経症を病んでいる私の連れ合いに、奈良県明日香村の風景を見せたいと思った。連れ合いは行ったことがないという。私は二十七年前の台風の翌日、勤務先の出張で、明日香路を歩いたことがある。仕事とはいえ、深い安息をもたらしてくれた旅であった。」
 
ここでは高橋順子が、はっきりした目的を持って、車谷を誘導している。

「連れ合いは虚無的なものに傾斜しがちな人だが、生の方にも強く手をかけている人である。振幅が大きい。その人と、主人公たちの死に絶えた村を歩いてみたかった。そこから生の方へと立ち上がってくるものがあれば、私たちは救われるような気が、少なくとも私はしたのである。」
 
切羽詰まった旅だった。車谷の強迫神経症はかなり重く、場合によって高橋順子は、命の危険も覚悟したのである。

車谷が亡くなり、三回忌に間に合うように書いた追悼の文章とは、同じ題材でも印象は全く違う。
 
と同時に追悼とは、距離を正確に見定めて書くものだ、ということがはっきり分かる。これだけ繰り返し朗読しておきながら、『夫・車谷長吉』に別の光が当てられようとは、私自身、何とも鈍感なことであった。
 
タイトルにも取られた「博奕好き」は、『文學界』のエッセイである。

高橋順子は本当に競馬が好きだ。『夫・車谷長吉』にも、車谷が入院したとき、たいして重い病気ではないと見定め、競馬場へ友だちと繰り出していくところがある。
 
まあその程度と思っていたが、実際はかなり重症である。
 
夫婦で交わす競馬談議がある。

「私が競馬に行って帰って来ると、必ずどうだった、と訊ねる。三百円勝った、とか、千二百円負けた、と私は報告するのだが、そのたびにさも軽蔑したように、『おれは小博奕は打たん。小説という博奕を打ってるからな』と言ってわざとらしく溜め息をつくのである。『三万円勝ったとか十万円すった、とかやってきたらどうなんだ、女子と小人のすることは』。」
 
何度読んでも面白い。高橋順子は、夫婦になったから、「三百円勝った、とか、千二百円負けた」ですんでいるが、独身のときは、相当なものだったのではないだろうか。
 
夫婦のことがらでは、料理の話も面白い(これは読売新聞)。

「魚料理については困った。連れ合いは播州飾磨、私は下総九十九里浜の産である。二人とも魚料理が好きなのはいいのだが、連れ合いは煮魚、焼き魚、刺し身の順に好きで、私とはまったく逆。煮魚の味つけも私は甘辛で、連れ合いは薄味である。」
 
二人とも五十近くの結婚で、戸惑うことが多かった、と『夫・車谷長吉』にある。
 
それでも長吉が十年近く、料理人の下働きとして修業を積んだのは、良かったようだ。

「連れ合いにはお米の磨ぎ方から、庖丁の引き方、だしのとり方、調味料を入れる順序、火加減・水加減、さらに、砂糖専門店や貝の専門店まで教わった。」
 
その中で一つ、教えてくれないものがあった。

「家庭料理の基本はほとんど教えてくれたのだが、揚げ物は教えてくれなかった。私が相当のうっかり屋なので、鍋の油に火がまわって家を燃やされたら一大事だというのである。」
 
『夫・車谷長吉』に、棒だらを煮ていて、うっかり眠ってしまい、鍋を黒焦げにした話が出てくる。車谷は、「順子ちゃんの尻拭いだ」と、嬉々として鍋の底を洗ったそうである。

にわかに興味が湧いてきた――『博奕好き』(高橋順子)(1)

高橋順子のエッセイ集。『夫・車谷長吉』を何度も朗読しているうちに、この人の書くものを、他にも読みたくなった。
 
それで『博奕好き』を読んだのだが、なるほど高橋順子の文体は、『夫・車谷長吉』のときとは違っている。何というか、もっと我を張っている。

「結婚とは確かに異文化との出会いを日常とするものである。それを契機とし、それまで属していた文化圏を、異なった文化圏の眼で眺めるということをしなくてはならなくなった。男社会と女社会の違いはもちろんのことだが、関西と関東、農村と漁村という異なった文化圏の衝突であった。」
 
これは結婚してすぐのときだろう。こういう言い方は変だが、自分というものがしっかりしていて、個人の及ぶ範囲が、くっきりと切り取られている。

「私もじつは十何年かに及ぶ会社勤務の間は男社会に属していた。女性の少ない職場であった。退社後、所属していた同人誌の縁で、女詩人たちとのつきあいが、わっと増えた。何年か経つうちに親しさを増し、疑似大家族のようになった。男社会のように競争心が表にあらわれることはない。」
 
これはこれで、東大仏文科出身、一人の女詩人のエッセイとしては面白い。
 
私はこれで、『夫・車谷長吉』の次のような、文体についてのところを、初めて理解した。

「自分を追い詰めてゆくと、長吉の息苦しさと息を合わせているような気になってしまうのだ。でもこの本は長吉との共著だと私は思っているので、彼に似ているところがあったら、そのほうがいいだろう。そこは長吉が私のワープロを打つ手を借りて声を発しているのかもしれないのだから。」
 
今度の本を読むまでは、この内実がわかっていなかった。

「手」は、仕事する手を取り上げ、幸田文を真っ向から論じている。初出は『幸田文全集』(岩波書店)の月報である。

「ビニールの手袋で手を保護し、目の助けだけで食器を洗う。白い皿に餅の固くなったのがこびりついているのを指摘されたこともあるが、私の台所仕事はこのビニール手袋が語っているように物の芯に直接触れることがないようだ。連れ合いはそれを手抜きだという。彼は幸田文を敬愛している。」連れ合いはもちろん車谷長吉。
 
著者は幸田文の文章を、1行で言い切る。

「虚飾をはらい落とした手の人は、文章からも虚飾を落とすようである。」
 
ちなみに私は、幸田文の文章は、高校の教科書以外には、読んだことがない。こういう方向に進むと歯止めが利かなくなり、自分が小言幸兵衛になりそうな気がして、敬遠している。

将棋指し今昔――『将棋指しの腹のうち』(先崎学)(3)

毎年3月はA級順位戦の最終日で、俗に「将棋界の一番長い日」と言われている。これはあるときから、NHKがテレビ放送するようになった。
 
何年前かは忘れたが、これを羽生善治名人、矢内理絵子、先崎学の3人で、朝2時間、夕方2時間、夜10時から深夜2時までの4時間を、生放送することになった。
 
夕方6時までの放送が終わり、3人は死んだようになっていた。
 
私のような門外漢にはわからないが、なにせ10人のリーグ戦だから、5局同時進行で、スタジオには5つの盤を用意し、先崎たちがリードして、「はい次はこの将棋」とやってゆくのである。まあ、死にそうになるのはわかる気がする。
 
先崎と羽生は、夜中の4時間に備えて、「チャコあめみや」で、400グラムくらいのステーキを食べたという。かなり若いときですな。
 
そして10時が来て生放送が始まるのだが、このときから終局まで、先崎たちにカメラのスイッチングが任されたのである。どの画面を放映するかは、先崎と羽生で決めてくれというわけである。

「要は、テレビ側は、指し手が動くところを見せたいのである。指す瞬間を、天井カメラで撮って視聴者に見せたい、しかし、当たり前だが、指した瞬間に画面を切り替えてもときすでに遅しなのである。〔中略〕よってプロである我々が、ここはこの一手だから一分以内には指すだろうとか、ここはしばらく動かないとか、ここは一手進むとセットで三手は動くとか、どこも指しそうもないから大盤横カメでつなごうとか、全部その場で判断することになったのだ。」
 
これは素人でも、大変さがわかろうというものだ。なるほど、「チャコあめみや」の400グラムのステーキに頼りたくもなる。

「普通ならテレビ側がやるのだが、これまで書いたことをよーく考えていただきたい。同じ棋士でないと絶対にできないのである。ちょっとした仕草で指すかどうかを判断するなんてテレビ側の人間に分かるわけがない。指し手の意味ですら分からないわけで、全部こちらでやるよりないのだった。」
 
ふうー、言葉が出ませんぜ。
 
このときは、最後にもう一山ある。「将棋界の一番長い日」が終わって、挑戦者に決まった森内俊之と、名人・羽生善治で、2人並んで名人戦の決意表明をやってくれというのだ。

「これから闘う相手とは出られません」、羽生は敢然と断った。
 
するとNHKのスタッフは、あろうことか、「先崎先生からもお願いしてもらえませんか」と言ってきた。もちろん答えは「絶対に嫌です」。
 
こういう話が、わんさか山盛りになっている。
 
ここからは私の感想。将棋界は、大山・中原の時代を第1期とすると、谷川・羽生の時代が第2期、そして今、藤井聡太の第3期が始まったばかりだ。
 
第1期は大山、升田に象徴されるように、棋士本人たちが、他を圧して偉くなければいけなかった。将棋指しは、まだまともな職業ではなく、棋士全体としては食うや食わずの時代だった。東京にも大阪にも、将棋会館はまだなかった。どちらも大山が奔走して、寄付を募り建てたのである。
 
第2期は谷川に始まる。21歳で名人位を獲得したとき、谷川は「来年まで一年間、名人を預からせていただきます」と言ったのだ。もう自分を偉く見せる必要はなかった。
 
これは羽生も同じだった。羽生は永世7冠を獲ったとき、芭蕉が死ぬ直前に言ったことをもじって、「自分の将棋は、スタートから一、二歩出ただけだ」と言ったのだ。
 
そして第3期。藤井聡太は10度タイトル戦に出て、負けたことがない。こんな人はいない。しかも20歳にして、5冠王である。もはや言葉がない。

その藤井がタイトルを防衛して、最初に言う言葉はいつも、「中盤はよくわかりませんでした。もっと精確であらねば、精度を上げないと」。ただただ反省の弁ばかりである。人間は上へ行けば行くほど謙虚になる、ということを初めて見ることができた。
 
藤井聡太はあと2,3年のうちに、全8冠を取るだろう。それから後は、横綱双葉山の69連勝が、目標になるに違いない。そうしていつの日か、その栄えある記録を抜くことだろう。

(『将棋指しの腹のうち』先崎学、文藝春秋、2020年1月25日初刷)

将棋指し今昔――『将棋指しの腹のうち』(先崎学)(2)

この本とは直接関係のない、しかし間接的には大いに関係のある話を書く。
 
将棋指しが昔ほど、レストランや定食屋に行かなくなったのは、対局中は将棋連盟から一歩も出てはならない、というお達しが出たからである。
 
どうしてそういうふうになったかといえば、あるとき三浦弘行九段が、対局中にしばしば席を外すのは、見えないところでコンピューターに指し手を訊いているからだ、という疑いが持たれたからだ。
 
これは羽生善治も渡辺明も、三浦のことを限りなく黒に近い灰色だと、週刊誌などで書いた。三浦の指し手が、それほどコンピーターと一致していたのだ。
 
そこで当時の谷川浩司・将棋連盟会長が公に調査した。

結果は何もなかった。それまで三浦は調査中、対局中止を言い渡されていたが、無事晴れて将棋が指せるようになった。

将棋連盟は三浦に詫びを入れ、賠償金を払い、谷川浩司は会長を辞め、佐藤康光に代わった。
 
一連の騒動で、日本将棋連盟の評価は地に落ちた。もともと将棋は辛気臭いものであり、おっさんや爺さんの時間潰しと見られていた。それが、もっと時代遅れで暗いものになった。

先崎は、それを何とかしようとして駆けずり回り、うつ病になったのである。
 
それがその直後、藤井聡太の登場で、光景は劇的に変わった。ルールも分からない者が、藤井の今日の勝負メシを聞くや、「みろく庵」に殺到するのである。「みろく庵」は「聖地」として、何度もワイドショーに出た。
 
考えてみてほしい。あの三浦のAI疑惑と、それに基づく対局規定の変更、メシは出前を取れ、連盟からは対局が終わるまで出るな、ケータイはあらかじめ没収、その他もろもろのことは、舞台を藤井聡太仕様に作り替えるためだったのだ、そうとしか思えない。
 
藤井は局面が煮詰まれば煮詰まるほど、正確にAIの候補手を指す。場合によっては、「AI超え」の手を指す。

あるとき、藤井が瞬時に指した手を、コンピューターが時間をかけ、8億手を読んだところで、初めて第一候補手に挙げていた。考えられないことだ。そして藤井は、そういう「AI超え」の手を、しばしば指した。
 
もし三浦の不幸な騒動がなければ、そして対局規定が昔のままだったとすれば、つまり昼飯は「みろく庵」や「ほそ島や」で食べ、あとは喫茶店などに行ってもよし、どこへ行こうと、規定の時間までに帰ってくればいいとなれば、藤井聡太は隠れたところで、コンピューターに訊いている、百人が百人そう思うだろう。その行動はまっ黒であると断定するにちがいない。

それほど藤井聡太の将棋は、異次元を羽ばたき、天を翔けている。
 
神様の作った、昭和・平成・令和の将棋の歴史はよくできている。三浦弘行は本当につらかったと思う。しかし調査する方も、谷川は会長の職を辞したのち、心労で入院している。羽生も渡辺も、決して無傷ではあり得なかったろう。
 
しかし、それを乗り超えたからこそ、心おきなくスーパースターが現われたのだ。

将棋指し今昔――『将棋指しの腹のうち』(先崎学)(1)

先崎学九段の食事・酒をめぐるエッセイ。ただしその店は、将棋指しが出入りする店だ。
 
全部で7章立てになっているが、第1章とはせずに、「第一局【みろく庵】」というふうに、読者の心を微妙にくすぐる。
 
しかし最初に言っておくと、この本は編集がずさんだ。「第四局【チャコあやみや】」は、ステーキ屋で「チャコあめみや」が正しい(そう店のホームページに書いてある)。本文中では1か所、「あめみや」になっているが、目次、章扉を含め、他はすべて「あやみや」である。

本文中がこれでは、ずさんな編集者以上に、先崎が本文を丹念に読んだかどうか。具合でも悪いんじゃないかと心配になる。誤植のみならず、助詞その他でもう少し気をつかえばいいものを、ゲラの手入れ、いわゆるカンナの掛けかたが荒いのだ。
 
この前の先崎の本は、同じ文藝春秋から出た『うつ病九段』で、これは大宅壮一ノンフィクション賞の候補になり、すぐに文庫も出たので、よく売れただろうと思う。その先チャンの本にしては、扱いが雑なんじゃないか。
 
と文句を言っておいて、しかし中身を読むと、これがなかなか読み応えがある。
 
まず「第一局【みろく庵】」のさわりから。
 
少し前、先崎はうつ病を発症して入院しており、藤井聡太が巻き起こした旋風を、実感をもって感じることができなかった。
 
あるとき中村太地と話をしていて、「みろく庵」が「セイチ」になっている、という話を聞いた。そうか、「みろく庵」も立ち退きで、「整地」にされたのか、千駄ヶ谷も変わっていくなあ、と先崎は感慨にふけっていた。

が、「セイチ」違いで、「聖地」だったのだ。

「太地くんは得意気に続けた。
『藤井くんが豚キムチうどんを頼んだらですね、お店にお客が殺到してみんな豚キムチうどんを食べて、すぐに売り切れになったんですよ』
『??? なんすか、それ、本当かよ?』
『本当です。出前の電話がかかってくるところや、出前持ちが店を出るところがワイドショーで流れまくっているんです』
 私は頭がくらくらした。あのみろく庵がワイドショーだあ?」
 
しかし現代の話は「みろく庵」のさわりだけで、あとは将棋界が昭和の頃、大山名人を頂点としてしのぎを削った、いわば「暗闘(?)の時代」というか、「にこごりの時代」というか、そんなころの話である。
 
ま、棋士の失敗談といえば、そのくらい昔にならないと、障りがあって書きにくかろう。しかしずいぶん昔でも、先崎の筆は、昭和の情景を目の前に繰り広げて圧巻である。

将棋小説は難しい――『死神の棋譜』(奥泉光)

奥泉光は『石の来歴』で芥川賞を受賞した。他にも『東京自叙伝』で谷崎潤一郎賞、『雪の階』で毎日出版文化賞、柴田錬三郎賞など、受賞歴は華々しい。
 
でも私は読んだことがない。『神器―軍艦「橿原」殺人事件―』や『「吾輩は猫である」殺人事件』といったタイトルの付け方に、ちょっと面白そうでしょう、という卑近な違和感を覚えてしまう。

そういえば、処女作かもしれない『ノヴァーリスの引用』にも、小説のタイトルとしては気取りすぎ、という印象を持ってしまう。引用するのに、ドイツ・ロマン主義の詩人ノヴァーリスでっせ。
 
しかし、『死神の棋譜』には吸い込まれた。帯の表が「圧倒的引力で/読ませる/前代未聞の/将棋ミステリ。」である。
 
書き出しはこんなふうである。

「その『図式』を私が見たのは、二〇一一年の五月、第六九期将棋名人戦七番勝負、第四局一日目の夜のことであった。
 名人は羽生善治三冠、これに七勝二敗でA級順位戦を抜けた森内俊之九段が挑戦するシリーズは、ここまで三局いずれも挑戦者が勝利して……」。
 
これでは期待するなという方が無理である。
 
で、この本全体を読んだ印象としては、うーん、あまり面白くない。勢い込んで読むから、よけいにその印象が強い。
 
著者は純文学とミステリー、現実の棋士と架空の棋士、をすべてごちゃまぜにして、新しい文学の創造を企てたのだ。
 
カギになるのは、現代将棋以前の中将棋なるものだ。歴代名人は、大山康晴にせよ羽生善治にせよ、人に知られることなく、これを指したという。そういう設定になっている。

その駒は、「麒麟」「獅子」「鳳凰」「酔像」「奔王」「老亀」「銀蝮(ぎんふく)」「凶雲」……。将棋盤は9マス×9マスではなくて、無限の将棋盤である。
 
これを指すときは、必然的に幻想的なシーンになる。純文学の書き手、奥泉光の独擅場である。
 
ところがこのミステリーの骨格たるや、麻薬がどうたらこうたら、テレビの2時間サスペンスそのものなのだ。
 
しかも最後に至って、骨格がはっきりしなくて、探偵と犯人が立ってこない。いわゆるヌケが悪いのだ。

純文学と通俗文学、架空の将棋指しと現実の棋士の、虚実皮膜の融合、そして純も通俗もない、止揚した、それこそ大文字の文学としかいいようのないもの、そういうふうになるはずであった。

しかしすべてがバラバラで、融合、止揚の後は、どこにも見られない。

(『死神の棋譜』奥泉光、新潮社、2020年8月25日初刷、9月25日第2刷)