悪夢ではあるが――『一下級将校の見た帝国陸軍』(1)

この本は養老先生の『嫌いなことから、人は学ぶ』の巻末のブックリストに挙げてある。
 
著者の山本七平は、法蔵館東京事務所にいるとき、『季刊仏教』の巻頭対談に出てもらったことがある。相手は吉本隆明であった。
 
藤原成一編集長が立てた企画で、私だったら山本七平は選ばない。『日本人とユダヤ人』は大ベストセラーになったが、私はこういうタイトルは好きではない。ユダヤ人にもいろいろあるし、日本人にもいろいろある。一見、人種で問題は立てられそうだが、その内実はおおむねホラばなしである。
 
この2人の対談は初めてなので、きっと評判を呼ぶ、藤原さんはそう期待したのだが、それほどでもなかった。きっと読者が2人に期待するところは、違ったのだろう。

『一下級将校の見た帝国陸軍』は、山本七平が体験したままを描いており、『日本人とユダヤ人』のように、距離をおいて高みから見ているわけではない。
 
まず徴兵を待っている間の気持ち。

「徴兵逃れも、そのさまざまな詐術も、当時は『ある種の常識』であった。その中で最も的確な方法は、役場や区役所の兵事係に多額のワイロを送り、〝特殊技術者〟と登録してもらうこと、いまでいえば一種の脱法的〝裏口脱営〟だということも知っていた。確かに兵役はいやであり、戦場は恐ろしかった。と言ってそういう脱法行為もいやであった。」
 
いかにも素直に書かれているようだが、日本人一般としては、どうだったんだろうか。みんな兵役は嫌だなあと思っていたのか、それともそれは少数だったのか。今は戦争は嫌だ、というのが常識になっているから、そういう書き方しかしないが、実際のところはどうだったんだろう。
 
次は兵役に就く日。

「入営者は、見送りに来てくれた町会や隣組の人びとの激励の辞に答えて挨拶をし、定められたそれぞれの営門へ向かった。〔中略〕見送りの人びとを見るとみな暗い顔、笑いや喜びの表情は皆無で、紋切り型の空虚な言葉以外は、無言であった。心にもないことでも、それを口にすることはできる、しかし表情はその人の心を隠し得ない――特に群衆の個々の顔は。」
 
これは本当だろうか。
 
日米太平洋戦争は1942年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃に始まり、1945年(昭和20年)8月15日に、日本が無条件降伏をして終わった。

しかし戦争の決着は、1943年(昭和17年)6月5日からの、ミッドウェー海戦でついている。日本はこのとき空母4隻と、戦闘機390機を失い、大敗を喫した。あとの3年間は、自分で自分をなぶり殺しにし、それを美辞麗句で飾っただけであった。
 
山本七平が徴兵検査を受けたのは、ちょうどミッドウェー海戦のあたりである。日本は以後、退却を「転進」と言い換えて、国民に嘘をつき続けた。
 
しかしその時の「群衆の個々の顔」は、山本によれば、「みな暗い顔、笑いや喜びの表情は皆無」であったと言う。「大本営発表」で、国民は浮かれていたのではなかったのか。すべて見抜かれていたのか。そうなのか。――どうもよくわからない。
 
私はもちろん、アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』を思い浮かべている。それはブログに書いたとおりだ。
 
たとえばマリヤ・イワーノヴナ・モローゾワは狙撃兵で、もうすぐ18歳になるところだった。ヒットラーがモスクワを占領するなんて、と思うと、矢も楯もたまらず兵士に志願していた。そういう若者はソ連全土から、ものすごい数が来ていた。兵役に取られる前に、志願したのである。
 
日本とはえらい違いである。「見送りの人びとを見るとみな暗い顔、笑いや喜びの表情は皆無で、紋切り型の空虚な言葉以外は、無言であった。」
 
ソ連が日本に戦争を仕掛けたのは、漁夫の利を求めてだけれど、そういうこととは別に、日本はすでにして戦う気がない。これはどういうことだ。

すでに二昔前だが面白い――『編集者T君の謎―将棋業界のゆかいな人びと―』

ときどき発作的に、将棋界のことが読みたくなる。藤井聡汰5冠王と豊島将之九段の王位戦第4局目が、豊島がコロナに罹り延期になった。
 
こちらは、さあ第4局目と、気合を入れて待っていたから、その気合の持って行き場がない。というほどのことはないんだけど、なんとなくガス抜きをしないと、やっぱり困ってしまう。
 
というわけで大崎善生が2002年に、『週刊現代』に連載したコラムを読む。
 
大崎善生は『将棋世界』の編集長を務めていたとき、『聖の青春』を書き、新潮学芸賞を受賞し、作家になった。若くして死んだ村山聖を描いた『聖の青春』は、とてもよかった。これは映画にもなり、それもよかった。

『編集者T君の謎』は週刊誌のコラム集だから、ただ笑っていればよく、そこにちょっぴり考えさせるものがあれば、言うことはない。そしてこれは、言うことのない本なのだ。

「讃美歌ひびく千駄ケ谷」とくれば、パウロ加藤一二三、千駄ケ谷の将棋会館で、試合の合間を縫って、いつも賛美歌を歌っていた。
 
加藤は相手のいない休憩時間などに、相手側に回って考える、という癖がある。あるとき休憩時間に先崎学が見ていると、加藤は例によって相手の方に立ち、盤をにらみつけていた。

「5分、10分。静かにそして真剣に。さてはてどんな局面なのだろうかと先崎は近づいていった。そしてひっくり返りそうになった。
 加藤が睨んでいたその局面はまったくの先後同型だったからである。つまり、どっちから見てもまったく同じなのだ。」
 
ふふふ、まったく可笑しいねえ。でも加藤ならさもありなん、と素人にも思わせる。先後同型であるということが、すでに深遠な謎を含んでいる。――と、そんなことはないか。よくわかりません。
 
森内俊之の「振り駒実験」も面白い。森内と言えば、テレビで見ていると、いかにも実直そうで、「永世名人」の称号を持っているにもかかわらず、誰に対しても謙虚で、まったく飾り気がない。
 
その森内が、こんなことをやっている。

「数年前、先手、後手を決める振り駒に疑問を持った森内が自宅で何千回も実際に駒を振ってみて、その確率を確かめたという話を聞いたことがある。森内の統計によると、歩が表になる確率の方が高いそうである。」
 
疑問があれば、自分で確かめてみずにはおれない、それが森内俊之。そうでなくては羽生より先に、永世名人になることはできない。そんな気がする。
 
将棋界には、名うての飛行機嫌いが何人かいる。森雞二もそのうちの1人だ。そうして森の場合は仕方がないともいえる。

「森さんは東南アジアの方で乗っていた飛行機のエンジンが火を噴いているのを見て、それからいやになったという。」
 
これは言葉がない。よく生きて帰れたものだ。
 
あるとき将棋会館に立ち寄った升田幸三に、羽生が7冠を獲ったときの、谷川との将棋の解説をしてもらった。大崎は、一語も聞き逃すまいと、緊張の極である。

「よろよろと現れた老升田は盤の前に座り細かい解説は一切せずに、ギョロリと目を光らせてこう言い放った。
『谷川、羽生、未だなり』」
 
これも言葉がありません。
 
末尾は「これでいいのか将棋界」。ちょうど二昔前、将棋界は行き詰まっていたのだ。

「残念ながら将棋プロの戦いは見る側にとってどんどん緊迫感のないものになってしまった。〔中略〕順位戦ですら、何だか官僚の出世争いを見ているような気分になる。よくないとわかっていても、棋士たちが決めるから変えられない。そういう自己矛盾から一日も早く抜け出す日がくることを願っている。」
 
あまた天才のいる中に、藤井聡太という一人の大天才が出現し、風景はがらりと変わった。今は藤井聡太にあやかろうと、将棋を知らない人たちが、タイトル戦のおやつに群がっている時代なのだ。

(『編集者T君の謎―将棋業界のゆかいな人びと―』
 大崎善生、講談社文庫、2006年7月14日初刷)

ものは言いよう――『なぜ世界は存在しないのか』(2)

前回、最初に宇宙を前提にする人には、小世界がばらばらに入ってはこないだろう、と書いたら、少し先でマルクス・ガブリエルはこんな反論をしている。

「宇宙は、物理学の対象領域ないし研究領域にほかならない以上、けっしてすべてではない、と。ほかのあらゆる科学と同じく、物理学にも、自らの研究対象でないものはいっさい見えません。だから宇宙は、世界全体よりも小さい。宇宙は全体の一部分にすぎないのであって、全体そのものではありません。」
 
ここは「世界」と「宇宙」の用語にこだわっていて、なるほどそう言えるのかもしれない。しかし逆に、「世界」という語の「曖昧な全体性」を仮定すれば、最初からどんな議論も意味は無くなってしまう、とは言えないだろうか。

「Ⅱ 存在するとはどのようなことか」では、著者はこの章題の問いに対して、「何かが意味の場に現われているという状態、それが存在するということである」と答える。
 
具体的に考えてみよう、と著者は言う。

「草原にいる一頭のサイを考えてみましょう。このサイは、このサイは、たしかに存在しています。〔中略〕このサイが草原に立っているという状態、このサイが草原と言う意味の場に属しているという状態、この状態こそ、当のサイが存在しているということにほかなりません。」
 
そして著者は言う。

「存在するとは、たんにごく一般的に世界のなかに現われていることではありません。世界をなすさまざまな領域のひとつのなかに現われていること、存在するとはこういうことです。」
 
ガブリエル、大丈夫かね。仮にサイを思い浮かべるとして、それがアフリカの草原、またはそれに類する世界を、まったく切り離して、思い浮かべられるものだろうか。「たんにごく一般的に世界のなかに現われている」、というのは一体どんな状態か、逆に聞いてみたいものである。
 
このあと、ポストモダン思想は、なぜ現実を捉えることに失敗したのか、それを超える「新しい実在論」へ、と話は進んでいく。しかしこのブログの読者を、そこまで付き合わせるのはやめておこう。そこは私が信用していないから。
 
いくつかの前提を認めれば、そこを起点にして話は始まる。公理を前提にすれば、定理が積み重なって、数学の物語が始まる。しかしその公理が、いくら断定的に言われても、真であるか偽であるかが、私にはわからない。結局、「哲学」の書物はどれも閉じていて、どこかで閉鎖世界を抜け出してはこないのだ。
 
斎藤幸平が『未来への大分岐――資本主義の終わりか、人間の終焉か?』で、マルクス・ガブリエルと対談したのは、考えてみれば不思議なことである。この本のサブタイトル、「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」には、およそ関係がない。そう思いませんか。
 
蛇足を一つ。マルクス・ガブリエルがこういうことを書いている。

「おそらくどんな犬も、考えるということ自体については考えません。」それは人間にだけ与えられた特権なのだ。――仮にそうであるにしても、証明できないことは、黙って口を慎んだ方がよいと思うがどうか。

(『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル、
 清水一浩・訳、講談社、2018年1月11日初刷、2月6日第3刷)

ものは言いよう――『なぜ世界は存在しないのか』(1)

これは『未来への大分岐――資本主義の終わりか、人間の終焉か?』を読んで、マルクス・ガブリエルというドイツの哲学者がちょっと面白そうだ、だけどその対談では細かいところまではよく分からない、というので評判の本を読んでみた。

『未来への大分岐』は、斎藤幸平が相手になって、マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンと、個別に対談する。
 
マイケル・ハートは政治学者で、アントニオ・ネグリとの共著、『〈帝国〉』で話題になった。

ポール・メイソンは経済ジャーナリストで、資本主義は情報テクノロジーによって崩壊すると主張する。『ポストキャピタリズム』で、次なる経済社会への移行を予言した。
 
マルクス・ガブリエルは本書で著名になった。この本の名前は知っていたけれど、最年少でボン大学の教授になったり、書名がこけおどし臭くて敬遠していた。
 
しかし斎藤幸平との対談を読むと、非常に明晰で分かりやすい。

「概念が間違っていたら、人種差別や不平等、民主主義の危機や資本主義の暴走といった現実的な問題の解決に向けた取り組みを始めることなどできません。現代が困難な時代である理由のひとつは、ここにあります。」
 
そうだったのか。だから私の頭は、脳出血のせいもあるけど、しばらく考えていると、ごちゃごちゃして何が何だかわからなくなったのだな。
 
と思って読んだけど、やっぱりダメでした。このブログでは、なぜ私は「哲学」がダメなのかを考えてみたい(あまり真面目じゃないから、そのつもりで読んでください)。

「形而上学は、この世界全体についての理論を展開しようとする試みであると定義できます。形而上学が説明すべきことは、現実に世界がどのように存在しているのかであって、わたしたちにとって世界がどのように見えるのか、わたしたちにたいして世界がどのように現われるのかではありません。」
 
ものは言いよう。僕はどっちでもいいと思うよ。
 
しかもそのさい明らかなのは、「世界=現実に成立していることがらの総体」という等式から、われわれ人間が抹消されている、ということなのである。そんなばかなと思うけど、かりにそうしておいて読み進めてみる。

「小世界は、現実には互いに関係することなく、たんに並んで存在しているにすぎません。つまり数多くの小世界は存在していても、それらのすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。」
 
これも視点の問題ではないかと思う。マルクス・ガブリエルには、ばらばらに並んでいる小世界がまず迫ってくるが、最初にたとえば宇宙全体から入っていく人には、そんなことはない。

「これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点〔パースペクティヴ〕にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけが――まさしくそれらだけが――存在しているということにほかなりません。」
 
著者はひとまとまりの全体を考えず、あくまで小世界に固執する。そこはいいとして(本当はよくないけども)、それを前提に話は展開するかというと、どうもそうではない。あくまでも、どこまで行っても、ものは言いようのレベルである。

「厳密に言えば、わたしはあらゆる世界像に異議を申し立てることになるでしょう。世界が存在しない以上、世界についてのどんな像も結ぶことなどできないはずだからです。」
 
著者は、最初に自分が置いた前提に、足を取られている。明らかにそうなっているが、哲学をする人の何人かは、呆れたことに、最初に置いた前提に足をすくわれるのが、たまらなく好きなのだ。

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(4)

この本には書いてないけれど、新聞社が隠している「押し紙」の問題がある。
 
新聞社の各販売店には、購買部数以上の数が搬入される(そしてそれは、こっそり捨てられる)。これが「押し紙」である。各新聞社は発行部数を競っており、販売店に納入した部数が、すなわち発行部数になる。そこは広告取りの要になり、新聞本社の経営基盤そのものをかたちづくる。そこで部数の水増しである、「押し紙」問題が起こる。

新聞社の「押し紙」の数は、一説によると発行部数の3割だという。仮に朝日の2021年の「押し紙」の部数を引くと、およそ300万部強になる。
 
新聞はこのままの形では、10年は持つまいと思っていたけれど、とんでもない、あと5年がいいところだ。
 
また別にこの本を読んでいて、いくつかの点が書かれていないことにも、強烈な違和感を覚えた。

『朝日新聞政治部』という本には、例えば私が政治問題だと思える、化石燃料消費による地球温暖化の問題は1行も出てこない。
 
それは科学部の問題だと言われそうだけど、そんなことはない。科学部で現象面は解説できるだろうが、この問題は政治問題とする以外に、解決する道はない。少し考えて見れば分かることだ。これは政党間の国内問題、つまり「コップの中の嵐」ではない。
 
また日本政府は、「移民」は相変わらずシャットアウトしている。移民ではなく、外国からくる労働者も、権利は極端に制限されている。外国人はある年月、労働を提供すれば原則、故国に帰らなければならない(ただしこれは刻々制度が変わっている)。
 
これは日本人の出生率と、合わせて考えるべき事柄だが、それを政治の場で考えている人はいない。
 
日本では現在、年間約80万人が生まれるが、年平均3万人ずつ、出生率は減少している。あとどのくらいで日本人が生まれなくなるかは、割り算してみれば簡単にわかる。
 
移民の問題は、日本人の出生率の低減と、リンクして考えなければいけない。しかしこの話も、考えている政治家がいるのかいないのか、著者が日々仕事をしている政治の場では出てこない。
 
1000兆円を超える赤字国債の話も、ついに見て見ぬふりだ。それは経済部の話、ではないだろう。これこそ差し迫った政治の話ではないか。

かつて、日銀は政府の子会社みたいなものだから、どれだけ借金してもいいんだ、と言った愚かな総理大臣がいたが、バカ言ってんじゃないよ。
 
もっとも全体がシャットダウンして、お金も国債も紙屑になったとき、政治家は情報操作によって、別のものに売り抜けられるのかな。これは70数年前の終戦時に、一度経験していることだから、その知恵を、たとえば爺さん政治家に、伝授してもらっているかもしれない。
 
どちらにしても、いくつか挙げただけでも、朝日新聞政治部は、耐久力が限界に来ていたと思わざるを得ない。
 
そういう点では、著者が関わった「特別報道部」体制は、将来につながる道であったと思う。もう一度思い返してみよう。①記者クラブに属さず、②記者の持ち場がなく、③固定した紙面がなく、④組織の垣根がなく、⑤記事を書くノルマがない。
 
これが前面に出てくると、今の新聞とは少しイメージが変わるけど、受け手としての取材に追われないからこそ、私が挙げた切迫した大きな問題も、取り上げられるかもしれない。しかしその後、「特別報道部」は廃部になった。
 
鮫島浩は朝日を辞めた後、今はウェブで「SAMEJIMA TIMES」を運営している。

(『朝日新聞政治部』鮫島浩、講談社、2022年5月25日初刷、6月10日第3刷)

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(3)

鮫島は「吉田調書」でスクープを放った日、朝日新聞本社にあるコンビニに入って行くと、その場にいる社員たちに取り囲まれ、握手攻めにあった。ちょっとしたアイドル気分だった。報道部長は、木村伊量(ただかず)社長が大喜びしている、と伝えてきた。鮫島のパソコンには、よくやったとか、感動したというメールが溢れかえっていた。
 
それでも特別報道部の中には、「待機命令を知らずに第二原発へ向かった所員もいたと思う。はやめに軌道修正したほうがいい」という記者もいた。著者もそれはそうだと思ったが、軌道修正する暇はなかった。
 
そこに「慰安婦」問題と「池上彰コラム」が重なる。

「私たちは第一報の記事内容が不十分だったという以上に、記事を出した後の危機対応に失敗したのである。これは危機管理の敗北であった。」
 
池上彰は、「慰安婦問題をめぐる『吉田証言』を虚偽と判断して過去の記事を取り消した対応は遅きに失したと批判」したのだが、このゲラを見た木村社長は激怒し、コラム掲載を拒否した。そのいきさつを、週刊誌などが報じたのである。
 
この3点セットで言うと、「池上コラム」の掲載拒否が、もっとも大きな問題だと私は思う。しかし会社の上層部にとっては、「吉田調書」を前面に出して、世間の批判やバッシングが、取材班に集中することが願わしかったのだ。

「朝日新聞社は私たちを守るどころか放置した。ネットに溢れる『捏造記者』などの名誉棄損に対して抗議や撤回を求めることなく、私たちが家族も含めて標的にされることに何の対応もせず黙殺した。」
 
朝日新聞は、言論の自由と人権擁護で鳴らし、分かりやすい世俗左翼の雄だから、弱みを見せると右から徹底的にやられる。ネットは90パーセント右寄りだから、打たれるのに慣れていないエリート集団のトップは、特定の社員を守るどころではなかっただろう、と私は思う。
 
しかし著者の方にしてみれば、憤懣やるかたなく、そしていよいよ引導を渡す。

「新聞社が現場の記者をここまで露骨に切り捨てるとは夢にも思わなかった。私は木村社長が記者会見した2014年9月11日に朝日新聞は死んだと思っている。」
 
鮫島は、左遷されてからも、朝日を蘇らせようとして悪戦苦闘している。なんとかネットを取り込んで、新しい時代の朝日新聞を目指そうとするが、それも横やりを入れられ挫折する。

鮫島浩は2021年5月31日に、朝日新聞社を辞めた。
 
そのころ朝日は、いよいよネットに押されて苦境に立っていた。
 
この本は各章扉の裏に、朝日、読売、毎日、産経各紙の、部数の凋落ぶりが記されているが、ここでは朝日新聞だけを見ておく。

        朝刊販売部数    前年比

  1994年   822万3523部   -9872部

  1999年   829万4751部   -2万3104部

  2005年   818万5581部   -6万9335部

  2008年   803万8100部   -2万2489部

  2012年   765万4978部   -9万4607部

  2015年   675万3912部   -51万3414部

  2021年   466万3183部   -39万1536部

こう見てくると2010年代に、部数が激減している。これはもう、終わりが見えるといっていいくらい、切羽詰まった数の減り方だ。
 
しかしそういうこととは違って、私はいくつかの疑問を感じた。

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(2)

その後、鮫島浩は「特別報道部」に移り、デスクとして「手抜き除染」を報道し、2013年度の新聞協会賞を受賞する。
 
特別報道部は勢いづいた。この部署は、朝日の中でも一風変わった特色があった。それは、①記者クラブに属さず、官製の発表を取材する必要がない。②記者の持ち場がなく、特ダネを抜かれる心配がない。③固定した紙面がなく、穴埋め原稿を書く必要がない。④記者に組織の垣根がなく、年功序列がない。⑤記事を書くノルマがない。
 
取材テーマは記者が主体的に決めていい。単独で取材できなければ、仲間に声をかけ、また部長やデスクにも相談する。
 
特別報道部は、「隠された事実を暴く特ダネを連発し、朝日新聞の報道機関としての影響力を高めること」を掲げ、その上で「新しい取材方法や報道モデルへ挑戦すること」と、「スター記者をつくること」を目標に掲げた。
 
意欲満々だが、逆風が吹くとその分、風当たりはきつくなる。

しかし鮫島は、この部署にいた2年余りがもっとも面白かったという。

「特別報道部デスクに着任してから『吉田調書』報道の責任を問われて更迭・処分されるまでの2年余りは、私の新聞記者人生でいちばん充実した時であり、最高に楽しい日々であり、最も傲慢になっていた時期かもしれなかった。」
 
最後の部分が大事だ。
 
そうして「吉田調書」を入手し、これが脚光を浴びる。
 
これは福島第一原発の吉田昌郎所長が、最前線で危機対応に当たり、それに関し政府の事故調査・検証委員会の聴取に応えた公文書である。政府はこれを極秘文書として公開せず、ひたすら原発事故の真実を国民に隠していた。
 
これは最初、経済部の木村英昭記者が入手したものであるが、「経済部長が自分たちには手に負えないと相談に来たので、特別報道部が引き取ることにした。」
 
私には、ここらあたりの経緯は書かれてはいるが、よくわからない。経済部の木村記者は、2012年度の新聞協会賞を受賞した、「プロメテウスの罠」の執筆者の1人である。これは福島第一原発を正面から扱ったものだ。

なぜそれを「自分たちには手に負えない」として、著者のいる特別報道部に回すのか。これは超の付く特ダネではないか。このときの経済部長は、何を考えていたのか。
 
それはともかく、「吉田調書」は著者の手に渡った。この「調書」で、吉田所長は、3月14日夕方以後を振り返り、「ここで本当に死んだと思ったんです」「これでもう私はだめだと思ったんですよ」「我々のイメージは東日本壊滅ですよ」と証言している。
 
しかし、著者たちが注目したのは、そこではなかった。注目したのは、吉田所長が3月15日朝、社内のテレビ会議で第一原発の所員に対し、「すぐに現場に戻れる第一原発での待機」を命じていたことだった。

「吉田所長は第一原発の現場に踏みとどまるよう命令したのに、所員の9割は第一原発を離れて第二原発へ退避し、第一原発の現場ですぐに事故対応にあたることができない状況だったのである。その間、原子炉は暴走を続けた。しかも第一原発を離れた所員には事故対応を指揮するはずの部課長級の責任者も含まれていた。」
 
東電の隠したいところが如実にわかる。朝日の見出しは、「所長命令に違反 原発撤退」だった。
 
しかし後になって問題が出てくると、著者が反省すべき点は、多々あるという。

「私の見解への賛否は割れると思う。〔中略〕『混乱のなかで待機命令に気づかないまま第二原発へ向かった所員もいたとみられる』という一文を入れたほうがよかったし、『この記事は撤退した所員の責任を問うものではない』という報道目的をもっとはっきり記せばよかった。」
 
前の方はそうすればよかったと思う。後の方は疑問が残る。「撤退した所員の責任を問う」ことは、全く問題ではないのか、と私は思う。
 
いずれにしても、これは現場の記者にではなく、全責任は記事を仕上げた著者にある。そういうことらしい。
 
それでもこれを、後になって「誤報」というのは、それこそ「捏造」ではないか。
 
しかしこのとき朝日は、「吉田調書」と並んで「慰安婦」「池上彰コラム」と、3つの問題が同時に噴出していたのだ。

朝日新聞の没落――『朝日新聞政治部』(1)

鮫島浩は2014年、福島原発事故をめぐる「吉田調書」報道を誤報だと言われ、政治部デスクを解任された。これはその弁明の書。
 
それにしてもよく書けたと思う。「おわりに」のところで、「吉田調書」問題を書く段になると、心身が硬直して一歩も先へ進めない、とあるが、それを何とか克服してよく書いたものだ。
 
本の作りはいかにもノンフィクションで、編集者は手慣れたものだ。まずオビ表から、これは3カ所に分かれている。

「崩壊する/大新聞/の中枢」

「すべて実名で綴る/内部告発/ノンフィクション」

「『池上コラム掲載拒否』/『吉田調書問題』/『慰安婦記事取り消し』/政治部出身の/経営陣は/どこで何を/間違えたのか?」
 
これで概略のところはわかるだろう。
 
次にオビ裏を読めば、これが単に「吉田調書」問題ではないことがわかる。

「そうか、朝日新聞はこれに屈したのだ。ネットの世界からの攻撃に太刀打ちできず、ただひたすらに殴られ続け、『捏造』のレッテルを貼られた。/それにもかかわらず朝日新聞はネット言論を軽視し、見下し、自分たちは高尚なところで知的な仕事をしているというような顔をして、ネット言論の台頭から目を背けた。それがネット界の反感をさらにかき立て、ますますバッシングを増幅させたのだ。/すでに既存メディアをしのぐ影響力を持ち始めたネットの世界を、私はあまりに知らなすぎた。――本文より」
 
朝日新聞が崩壊していったのは、誤報問題だけではなかったのだ。
 
この本の3分の2までは、まあ面白い。まあ、という意味は、駆け出しの記者が徐々に手柄を立て、総理番に就き、小渕恵三首相が倒れるのを間近で見、さらに竹中平蔵蔵相の構造改革を、ただ一人、相手の懐に潜り込んで観察、さらには菅直人の番記者になる。
 
この間、著者は朝日新聞という場で、人間関係のからまった糸をほぐし、それを乗り越え、新しい仕事も意欲的にやっていく。敏腕記者の同時代の実録として、まことに面白い。
 
しかしこの話は、終わり3分の1が重要である。それまでは序章に過ぎない。
 
2011年3月11日、東日本大震災が発生、続いて福島第一原発の事故が起こる。さまざまな事情が重なり、東日本全体が大惨事になるところを、かろうじて免れたが、「のちに福島第一原発の吉田昌郎所長が証言したように『東日本が壊滅する』一歩手前まで危機は迫っていた。」
 
このとき著者は、政治記者としてもっとも腕力を揮える立場にあった。

「官邸の総理、官房長官、首相補佐官はいずれも旧知の政治家で、各社の政治記者の中では屈指の関係を築いていた。朝日新聞社内では政治部次長に抜擢され、政治部長から絶大な信頼を得て、取材体制や報道内容を仕切る権限を託されていた。」
 
これだけ条件が揃うことはあり得なかった。しかも40歳とまだ若い。著者にとっては一世一代の舞台だった。

「にもかかわらず、原発事故という歴史的局面において、政治記者として10年かけて築いた民主党人脈も、紙面づくりで強力な権限を持つ政治部デスクの立場も、読者に必要な情報を伝えるという意味では、まるで役に立たなかったのだ。」
 
ここで、自分をごまかさず反省しているのが、著者の非凡なところだ。
 
しかし刻々と変貌する大事故を前に、その反省を突き詰めている余裕はまったくなかった。

すれ違い――『新宿書房往来記』(2)

杉浦康平さんは「杉浦康平山脈」と題して、章の見出しにしている。杉浦さんには弟子、それも優れたお弟子さんたちが大勢いて、それが山脈を形成している。中垣信夫、鈴木一誌、海保透、赤崎正一、谷村彰彦、佐藤篤司といった人たち。僕はこの中では、谷村彰彦さん、佐藤篤司さんと仕事をしたことがある。
 
村山恒夫さんは平凡社にいるとき、杉浦先生と出会った。

「私たち編集者は杉浦さんに徹底的にしごかれた。書籍を読者と著者を結びつける多面的、構造的なオブジェとして、冗漫で大量な文字よりも、これを視覚化し、フロー化、構造化すること。とくに百科事典などのレファランス系の書籍にはこのことがいかに大事であるかを具体的に教わった。」
 
言葉だけ取り出してみると、百科事典を知らない者にとってはチンプンカンプンだが、杉浦先生の迫力ある話と、具体的に次から次へと、見たこともない本を出してこられると、ただもう感嘆し、深く納得するほかはない。
 
これは『編集とはどのような仕事なのか』の項でも書いたが、本を理路整然と語ることのできるブックデザイナーが、初めて現われたのだ、と鷲尾賢也さんは書いている。
 
村山恒夫さんは新宿書房では、杉浦先生のお弟子さんの谷村彰彦さんとの仕事が多い。

『【生活のなかの料理】学』『踊る日記』『仮面の声』『パルンガの夜明け』『ビルマの民衆文化』『神の乙女クマリ』『見世物小屋の文化誌』『見世物稼業』の8冊。タイトルを見ただけで、この装幀家の強烈な個性がわかろうというものだ。
 
僕は法蔵館東京事務所にいるころに、中村生雄さんの『日本の神と王権』と『折口信夫の戦後天皇論』の装丁をやってもらった。これは中村生雄三部作の予定で、3冊目は『祭祀と供犠―日本人の自然観・動物観―』だったが、谷村さんはガンで倒れて間に合わなかった。

3冊目は、他の2冊とうまく釣り合いをとるように、と高麗隆彦さんにお願いした。そういう厄介なことをお願いするには、高麗さんを措いては考えられなかった。
 
そういえばトランスビューを始めるときに、高麗さんにロゴを作ってもらった。僕はこのロゴを見たとき、トランスビューはうまくいくと確信したのだ。

お礼にいくら払えばいいかと聞いたとき、高麗さんは、こういうのはお金のやり取りはしないものだ、とおっしゃった。だから何も払っていない。
 
村山恒夫さんのこの本は他に、田村義也に師事したこと、平野甲賀の書き文字、急逝した如月小春、宇江敏勝と『VIKING』など、興味深い記事が多い。
 
それとは別に、毛色の変わったところでは、村山恒夫さんの縁者は映画関係者が多い。たとえば叔父の村山新治監督は、『映画芸術』でインタビューを受けている。聞いているのは、深作欣二と澤井信一郎、司会は同誌編集長で脚本家の荒井晴彦。荒井さんは妻・田中晶子の、なんというか、師匠筋というか兄弟子に当たる人だ。
 
このときのインタビューを含む本は、『村山新治 上野発五時三五分―私が関わった映画、その時代―』として2018年5月に刊行している
 
映画を別にすれば、これだけ接点がありながら、全く知らない出版社というのは珍しい。ちょうど飛行機が交わることなく、平行に、高さを違えて飛び続けているようなものだ。高さが違えば、平行に飛んでいる分、視界には入ってこないのだ。

(『新宿書房往来記』村山恒夫、港の人、2021年12月10日初刷)

すれ違い――『新宿書房往来記』(1)

著者の村山恒夫氏は新宿書房の代表、1946年生まれ。早稲田大学を出て、70年、平凡社に入り、世界大百科事典の編集に携わる。80年に平凡社を退社し、百人社を設立、82年に新宿書房に統合する。98年から2001年まで、マイクロソフト社のエンカルタ百科事典の日本版編集長を兼ねている。
 
といえば、なかなかのものだという気がするが、僕がやっていたトランスビューと、どっこいどっこいの弱小出版社である。
 
巻末に「新宿書房刊行書籍一覧」が載っていて、これは1970年から2020年までである。
 
そこに毎年出ている10点から20点くらいの新刊を見ていると、本当に驚く。50年にわたる目録を見ても、僕の意識に残っている書目が1冊もない。人文系の出版社で、真面目なものを出しながら、ただの1冊も見たことがないというのは、つまり目に入ってこないというのは、実に珍しい。
 
いや本当は1冊だけ、買った本がある。石塚純一氏の『金尾文淵堂をめぐる人びと』(2005年)である。
 
このころ元小沢書店の長谷川郁夫さんの提唱で、日本編集者学会を作ることになり、石塚さんも僕もお呼びがかかった。そのころ札幌大学におられた石塚さんとは、初対面なので、著書を読んでおこうと思ったのだ。
 
その本は面白くて、しかも学術書としてもしっかりしていた。新宿書房とは、どういうところだろうと思った。とにかく全然知らない版元だった。
 
編集者学会の年次総会のパーティーで、石塚さんから、社長の村山さんに紹介されたのではないかと思う。
 
そういう縁で、『新宿書房往来記』を読んでみようと思ったのだ。
 
この本に出てくる人で僕にとっては、松本昌次さんと杉浦康平さんが縁が深い。松本昌次さんはトランスビューから、『わたしの戦後出版史』を出している。

『新宿書房往来記』の中で、松本さんは村山恒夫さんに対して、こんなことを話している。

「一人の作家、著者の本をつくる際、スカスカの書き下ろしでなく、さまざまな文を集めた『集め本』にこそ、編集の醍醐味がある。著者の小文をモザイクのように組み立て、どう構成、演出するかで、単行本の思想的、芸術的価値が増すのだ」。
 
僕はこの意見には賛成ではない。松本昌次さんの前提は、「スカスカの書き下ろしでなく」という点にある。書き下ろしで、内容・形式ともにみっちり詰まっていれば、これの価値が一番高いに決まっている。
 
しかしそういう話を面と向かって、松本さんにしたことはない。編集者がどこに本の価値を置くかは、人それぞれである。
 
松本さんは80代後半から、杖をつくようになった。8年前、僕が脳出血で入院したときは、狭山から小金井まで杖をつきつつ、見舞いに来てくださった。

快気祝いのパーティーを出版クラブでしたときも、スピーチをしていただいた。考えてみれば僕はそのころ、頭が正常には働いておらず、大勢人を呼んでパーティーをやれれば、ただ面白いだろうとだけ思っていた。今考えて見れば、冷汗三斗である。
 
村山さんはこの本に書いている。

「昨年、評判の映画『万引き家族』のことが気になり、狭山市の自宅から杖をついて有楽町の映画館まで行ったという。
 最後まで松本さんらしい姿である。」
 
前半の30年を未来社編集長として、後半の30年を影書房社主として腕を振るった松本昌次さんは、2019年1月15日、91歳で亡くなった。