〈耳〉から鱗!――『月日の残像』

また山田太一の本を朗読している。「陰の存在」という章を朗読していて、自分がまったく読めていなかったことに気がついた。何度も何度も朗読しているのになあ。

「陰の存在」とはこの場合、映画に携わっている人々で、監督や主役級の役者以外をいう。
 
こういうところだ。

「照明のスタッフのアパートへ夕食に招かれたことがあった。新婚の二人住まいで、そのつましく丁寧で堅実な暮しぶりに、独身で気儘な助監督〔=山田太一〕は襟を正すような思いをした。一緒の映画にたずさわっていたのに、そうではないような視点のちがいも感じた。作品のストーリーやテーマや台詞も演技もあまり関心がなく、万事が照明を通して語られ、なるほどそういうものかと内心ほとんどびっくりしていた。」
 
ここがまったく読めていなかった。「万事が照明を通して語られ」る、とはどういうことか。
 
それを気づかせてくれたのは、この本を読んだからだ。
 
紅谷愃一(べにたにけんいち)、『音が語る、日本映画の黄金時代―映画録音技師の撮影現場60年―』。ただもう圧倒されてしまった。

黒澤明『羅生門』を振り出しに、今村昌平のほとんどの作品、石原裕次郎、高倉健らスターたち、藤田敏八、神代辰巳、長谷川和彦の作品など、数え上げれば切りがないほどの映画に、録音技師として参加している。
 
そこで私は、雷に打たれるごとく気づいたのだ。これらの映画に、音響というものがなければ、これらは無に等しいことを(こういうことは、またブログに書く)。

紅谷愃一が関わった映画だけではない。たとえば『仁義なき戦い』も、『目撃者―刑事ジョン・ブックー』も、音楽、音響がなければ、魅力は半減どころかゼロである。

これは照明も同じことだ。山田太一の文章はこう続く。

「その思いの続きで俳優と話すと映画は俳優がすべて、衣装係と話すと作品を左右するのは衣装で、メイキャップの人と話すと、いかにメイキャップの上手下手が作品の質を決めるかを語るのだった。」
 
映画は、例えば本とは全然違う。著者が表に出て、編集が黒幕の元締で、校正、装幀、印刷、製作、営業を束ねても、映画全体と比べるとあまりに小さすぎて、それぞれがてんでに我がことを主張する、とまではいかない。
 
それにしても、そういうのを全部、束ねなければいけない監督というのは、一体どういう存在なんだろう。
 
そんなことをつらつら考えていると、横から田中晶子が、「でも」と言う。「音楽は監督と並んで、音楽だれそれとクレジットがあるでしょう」。
 
そうか、そうすると紅谷愃一の、『音が語る、日本映画の黄金時代』は、子細にもう一度読んで、考えなければならない。
 
この著者の仕事の本質とは、何だったのか。

(『月日の残像』山田太一、新潮社、2013年12月20日初刷)