究極の難問に挑む――『ひとはなぜ戦争をするのか』(3)

養老先生の「解説Ⅰ ヒトと戦争」は難しい。
 
アインシュタインとフロイトの往復書簡の後、第2次大戦が起こり、そのあと2人の時代にはなかったものが現われる。ITである。パソコンとスマホに代表されるITは、現代の日常生活を変えた。

「現代のシステムはアルゴリズム、つまり計算や手続きと考えてもらえばいいが、それに従って成立する。それまでは社会システム、たとえば世間はいわば『ひとりでにできる』、あるいは『自然にできてしまった』という面が大きかった。でも現代ではそれは違う。『アルゴリズムに従って創られる』面が大きい。経済や流通、通信はそうなっている。それを合理的とか、効率がいいとか、グローバル化とか表現する。」
 
最後の一文に、養老先生の面白くなさそうな顔が浮かんでくる。
 
そこから話はテロに行く。アルゴリズムに従って人を選別すれば、どうしたって格差が生じる。格差が下の者は面白くない。そこで場合によっては、テロが起きる。一言で話をまとめれば、こういうことになる。
 
その先に脳機能の話があり、「個人でいえば意識と身体、集団でいえばアルゴリズム的な社会と自然発生的な社会、その両者のバランスの上に将来の社会システムが構築されていく。」
 
だから戦争の地位も、その中で定まるというのが、養老先生の予想である。

「ただしその地位は、すでに述べてきたように、アインシュタインやフロイトが生きていた時代よりはるかに小さくなってきており、いずれ、飼い殺されるに違いない。ヒトは変わり、社会も変わるのである。」
 
だから、ウクライナにおけるロシアの戦争は限定付きだし、最後の戦争に近い、と私は希望をもって予測したい(でもまだ駄目だろうなという気も、それに「核」の問題もある)。
 
斎藤環の「解説Ⅱ 私たちの『文化』が戦争を抑止する」は、大枠でフロイトをなぞったものだ。
 
ただ途中で出てくる、人間に「本能」はない、という話は面白かった。

「動物の場合は、遺伝子にあらかじめ刻まれたプログラム(=本能)によって、教わらなくても生殖を行うことができます。しかし人間の場合は、生殖などの行動も、言葉を通して後天的に学ばなければできません。つまり人間は、生きる上で必要なありとあらゆる行動を、後天的に学ばなければ実行できないという限界を抱えた生きものなのです。ただしそのことは、人間に対して限界と同時に大きな自由も与えたわけですが。」
 
この発見は精神分析学の功績の1つである、と斎藤は言う。
 
そして斎藤は、フロイトに倣って「文化」を押し出していく以外に、戦争を避ける道はないと言い、最後にその具体的成果である、「世界的に見てもトップレベルの『日本国憲法』」を出してくる。

「そこにはフロイトすら思いもよらなかった戦争解決の手段、すなわち『戦争放棄』の文言が燦然と輝いています。この美しい憲法において先取りされた文化レベルにゆっくりと追いついていくことが、これからも私たちの課題であり続けるでしょう。」
 
これをどういうふうに考えたらいいのか。ウクライナにおけるロシアの戦争で、日本国憲法の価値は二分している。ロシアを見て戦争に備えるべきだという見方と、だから戦争に巻き込まれないよう、「日本国憲法」が最後の砦だという見方と。
 
これも長い議論が必要だが、結論だけを記せば、私は日本国憲法は最後の砦だと思う。
 
最後にこの本とは別に、以下はポッカリと頭に浮かんだことである。
 
今度のウクライナ・ロシアの戦争を見ていると、ヨーロッパの首相その他の要職には、驚くほど女性が多く就いている。女性は少数の例外を除けば、率先して戦争はしないような気がする。戦争は後片付けが大変だからなあ。
 
またこういうことも浮かんでくる。プーチンは、NATOがもう領土を広げることはないと言いつつ、ジワリと押し寄せてくることが、不気味で寒気がしたという。それならロシアもNATOに入れてあげればいいのに。
 
そうすると、何か不都合があるのだろうか。あるのだろうな。そんなことをしたら、敵がいなくなっちゃうじゃないか。しかしそれは、本末転倒ではないか。
 
人間が、現在の殻をぶち破って、本当に戦争のない状態を作るには、「人間の壁」を超えなければ、難しい気もする。それができたとき、フロイトが言ったように、滅亡の道が始まるというのは、人間の限界を指し示したものとして、象徴的だという気がする。

(『ひとはなぜ戦争をするのか』A・アインシュタイン、S・フロイト、浅見昇吾・訳
 講談社学術文庫、2016年6月10日初刷、2017年12月8日第8刷)