経済学者はいなかった?――『大切なことは言葉にならない―養老孟司の大言論Ⅲ―』(養老孟司)

その『大切なことは言葉にならない』を朗読していて、考え込んでしまった。

「生物多様性と採算性」のこういう箇所だ。

「官僚という仕事は、採算がとれているのだろうか。そもそも赤字の垂れ流し、八百兆円という借金を作っているという日本国そのものは『採算がとれている』のだろうか」(今は赤字国債は1千兆円を超えた)。
 
これは前段があって、林野庁の高官が、島根県の国有林の作業道のセミナーで、「不採算な作業なんて、やめてしまえばいいじゃないか」といったことに対して、養老先生が感じたことである。
 
誤解がないように言っておくと、養老さんは、この官僚を批判しているのではない。言ってみれば、赤字黒字の採算のとり方に問題がある。

「採算は合っていなければならない。それは『見える』。しかし国という組織はどうか、ということなのである。『国の採算』は目に見えない。財務省は見えるというかもしれない。でもそこで本当に採算を考えていたのなら、公共の借金がここまで増えるはずがなかった。神風特別攻撃隊に至っては、採算という言葉は使えまい。いったい採算とは何なのか。」
 
ここでは、あらゆることを「経済」問題とすることの是非を、問うているのである。
 
それは大事なことだけれど、そういう「高尚なこと」ではなく、養老先生とは逆に、私は「経済」問題として、官僚や経済学者に問うてみたい。なぜこうも膨大な借金大国になったのか、と。
 
考えてみれば、おかしなことである。日本は第2次大戦後、おおかた80年間、戦争の当事国にならなかった。むしろアメリカの後ろにくっついていって、朝鮮であれ、ヴェトナムであれ、戦争で儲けたくちではないか。自衛隊という憲法的には問題のあるものを、それでも軍事費は1パーセントの枠内に抑えて、「うまい汁を吸ってきた」ではないか。
 
それがどうして、第2次大戦後70余年を経ってみると、世界に冠たる、並ぶもののない借金大国になっているのだ。
 
経済学者によっては、そんなに気に病むことはない、借金しているのは外国に対してではなく、日本国民なのだから、という語り方もある。
 
私が問題にするのは、そうではなく、なぜ日本一国だけが、あえて言えば「先進国」の中で、膨大な借金漬けになったのか、ということなのだ。
 
日本にまともな経済学者はいなかったのか。そんなことをすれば危ない、借金漬けはまずいと、なぜ言わなかったのか。あるいは言ったけれども、政治家が聞かなかったのか。
 
日本の健康保険制度はよくできているとは、外国から帰った人がみな言うことだ。そこに金を使いすぎたのか。
 
あるいは日本人の寿命は、戦後すぐまでは平均50歳だったのが、このごろは男女とも80歳を超えている。女性は世界で1位、男性も2位である。寿命は1年に半年延びている。ここまで長生きさせることに、国家予算を使いすぎたのか。
 
しかし現状の日本人を見れば、貧困率は先進国の中でもかなり高い。これだけ借金をしておいて、国民の2割が貧困だというのはおかしくないか。
 
経済の本はたまに読む。このブログで明らかなように、一念発起して読んでも、どれもまったくピンとこない。私の頭が経済向きではないのだ。
 
しかし大枠を考えずに、株価や投資信託の話をしても、無駄だと思うんだけど。

(『大切なことは言葉にならない―養老孟司の大言論Ⅲ―』
 養老孟司、新潮社、2011年4月30日初刷)

考えてしまうじゃないですか――『クリスマスのフロスト』(R・D・ウィングフィールド)

例によって「養老孟司の大言論」シリーズ、3冊目の『大切なことは言葉にならない』を朗読している。
 
その巻末に「養老孟司 オススメ本リスト」がついていて、いろんなジャンルから150冊を超える本が選ばれている。
 
そのⅤ項目、「ミステリー中毒のあなたへ」のトップに、R・D・ウィングフィールドの『クリスマスのフロスト』が上がっていた。

この項は、選りすぐりのミステリー、約10冊の本が挙げられていて、そうすると選ばれて読んでないものは、読みたくなる。ミステリー読みの養老さんが、選りに選った10冊を挙げてるんだぜ。
 
で、読んでみた。裏表紙の惹句から。

「ロンドンから70マイル。ここ田舎町のデントンでは、もうクリスマスだというのに大小様々な難問が持ちあがる。日曜学校からの帰途、突然姿を消した八歳の少女、銀行の玄関を深夜金梃でこじ開けようとする謎の人物……。続発する難事件を前に、不屈の仕事中毒〔ワーカホリック〕にして下品きわまる名物警部のフロストが繰り広げる一大奮闘。抜群の構成力と不敵な笑いのセンスが冴える、注目の第一弾!」
 
そういうことなのだが、うーん、ミステリーとしては、はっきり言って大したことない。いくつも難事件は起きるが、それは時にフロストの馬車馬的努力により、また時には幸運が重なって解決してゆく。

問題はフロストの、事件は解決するけど、「不屈の仕事中毒にして下品きわまる名物警部」ぶりである。

「ジャック・フロストは、権威と規律が重んじられるデントン署内では異質の存在である。きわどい冗談を連発し、服務規定を守らず、地道な捜査と書類仕事が大の苦手、上司の命令を平気で忘れ、叱責されれば空とぼけ、同僚に馬鹿にされればふてくされ、食らいついた相手にはしつこくつきまとい、ひとり暴走してはへまをしでかし、それをごまかそうと冷や汗をかきながら奔走する。」(「訳者あとがき」より)
 
要するに官僚的な世界では、やっていけない人間なのである。
 
養老さんは、デントンの田舎町に東京大学を重ね合わせ、留飲を下げていたのではないか。
 
養老さんは中学・高校で、神奈川の栄光学園というカトリックの学校を出た。そこには神父がおり、国籍は多種多様、国連みたいだったという。つまりグローバル化していた。
 
それが東大に就職したとたん、世間は東大一色になり、まるで田舎に来たかと思ったという。一挙にローカル化したわけですな。

東大ストレスをどんどん溜め込んで、それが頂点に達するころ、『クリスマスのフロスト』に行き当たったのだね。書類仕事なんかどうでもいい、万事結果オーライ、それで行けたらどんなにいいだろう。

養老先生は通勤の行き帰り、これを読んで、憂さを晴らしていたに違いない。
 
しかし問題は、そういう人が一杯いたらしいことである。この本は、1994年の「週刊文春」海外部門ミステリーの第1位なのである。考えてしまうじゃないですか。

(『クリスマスのフロスト』R・D・ウィングフィールド、芹澤恵・訳
 創元推理文庫、1994年9月30日初刷、2003年1月24日第31刷)

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(6)

1752年2月7日、『百科全書』第1巻と2巻は、枢密会議によって発行禁止になってしまう。
 
この間の経緯は複雑で、国王側にも『百科全書』に与するもの、内通するものがいて、かなり錯綜している。
 
ただ刊行停止にも関わらず、読者は『百科全書』の刊行を熱望していた。刊行停止という迫害が、格好の宣伝になったという。禁止の時点で予約者の数は2000名だった。それで第3巻は3100部を刷ったという。
 
こういうところになると、私には見当がつかない。1,2巻は発行停止になった。それでもう『百科全書』は、途中でストップしたのではないのか。格好の宣伝になったといって、第3巻を3100部刷るというのは、どういうことか。この時代の出版と流通には、今から見ると分からないことが多い(あるいは私だけがわかっていないのか)。

とにかく、『百科全書』自体はますます好調だ。

「一七五四年二月、第一巻、第二巻の二刷りと三刷りが決定、第三巻もそれに合わせて増刷されました。さらに一〇月に刊行予定の第四巻は四二〇〇部と決まりました。度重なる迫害や妨害にもかかわらず、この売れ行きは驚異的です。」
 
まったくすごいです。昔の異国のことであっても、本が売れることは素直に喜ばしい。ディドロやダランベールだけでなく、それ以上に「協同書籍商」たちは、ほくそ笑んだろう。
 
ディドロやダランベールは栄誉を取り、書籍商は実利を得たことが、この本の後の章に詳しく出てくる。
 
1755年、第5巻が刊行され、ディドロが執筆した長大な項目、「百科全書」(ENCYCLOPEDIE)が評判になる。『百科全書』のなかで、「百科全書」という項目を執筆するのは、何ともおかしい。
 
なおディドロはこの中で、理想の編集者像を描いている。

「すぐれた感覚に恵まれ、広大な知識、高邁な感情と思想、仕事への愛によって知られる人物。公私両面にわたる性格によって愛され、尊敬され、真理、美徳、人間性にかかわる場合はべつとして、けっして物事に夢中になって溺れない人のことである。」
 
ランダムハウスを作ったベネット・サーフの自伝、『アトランダム』に少し似ている。18世紀のフランスでも、20世紀のアメリカでも、望まれる編集者はいつも同じだ。
 
第6巻は1756年10月に刊行された。ここではヴォルテールが、15編も項目を書いている。しかしヴォルテールは、『百科全書』の項目ごとの出来不出来が多いことに苛立っている。
 
1757年11月に第7巻が刊行される。この時点で予約者は4000名、印刷部数4200。書籍商たちは100万フラン以上の収益を上げた。

「進捗状況としては、アルファベットでまだG、項目『ギュティウム』までしか来ていないので、〔中略〕八巻の予定を大幅に超過してしまうことは明らかです。増補版一巻につき二四リーヴルの予約料値上げが発表されました。予定図版数も六〇〇枚から一〇〇〇枚に増え、増補版二巻分で、図版料も当初の四〇リーヴルから一三〇リーヴルへの値上げが布告されます。」
 
まさにイケイケどんどんですな。日本でも、今を去ること50年より前には、百科事典や文学全集で増刊また増刊の、景気のいい時代があったようだ。
 
ところが『百科全書』本文は、その後すったもんだがあって、「しばらく地下に潜り」、1765年から66年にかけて、残りの10巻を一挙に配布する。
 
この辺りもよくわからない、というか信じられない。「残りの一〇巻を一挙に配布」といったって、在庫を置くところだけでも大変で(これは鷲見先生もそう書いている)、どう考えてもおかしい。しかもある時期、「地下に潜」っているのである。一体どうやって配布したんだろう。
 
一方、図版の巻は1762年1月、第1巻を配布し、以後順調に刊行され、1772年に第11巻で完結する。実はこの図版の巻が、『百科全書』と、凡百の百科事典を大きく分ける要なのだ。
 
とはいえ『百科全書』の紹介は、ここまでにしよう。そうでないと、「一身にして二生を経る」というブログが、「『百科全書』の森を歩く」に代わってしまう。

しかしこれでもわずか第2章まで、全体900ページのうち200頁を紹介しただけ、しかも上っ面の筋書きだけである。
 
このあと「第三章 編集者ディドロの生涯/第四章 商業出版企画としての『百科全書』/第五章 『百科全書』編集作業の現場/第六章 「結社」の仲間さまざま/第七章 協力者の思想と編集長の思想」と続いていくが、あとへ行けば行くほど、面白さが倍加する。鷲見先生の筆が、章を追うごとにどんどん乗ってくるのだ。
 
そして最後の2章が来る。「第八章 図版の世界/第九章 身体知のなかの図版」は、あなたがこれまで、まったく読んだことのない経験をすることになる。図版を読み解くとは、こういうことであったのか、まったく知らなかった、と。
 
私が鷲見先生と会って、すぐに書き下ろしをお願いしたのは、この日の講演が、この2章分に集中していたから、それでびっくりしてしまい、すぐにお願いしたのだ。
 
なおこの本全体については、『日本古書通信』の同名のコラム、「一身にして二生を経る」に、また違った角度から記すことにする。

(『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』
 鷲見洋一、平凡社、2022年4月25日初刷)

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(5)

『百科全書』の編集者にとって、宗教と政治、とりわけ神学関係の項目を誰に書かせるかは、最大の難問だった。
 
ディドロは無神論者だったが、面白いことに若いころから、教会とは密接な関係を持っていた。項目執筆者の中にも、何人も聖職者がいる。初期の項目執筆者の代表的な神父と言えば、コレージュ・ド・ナヴァールの神学教授だったエドム=フランソワ・マレである。

マレは『百科全書』第5巻が出た年に亡くなっているが、全部で2000を超える項目を執筆した。「神学」「教会史」「商業」「貨幣」について、900リーヴルを支払う約束の文書が残っている。
 
鷲見先生が確認した限りでは、マレが執筆したジャンルは、政治、数学、医学、宗教、歴史、地理学、商業、軍事、経済、文学、美術、法律などに亙っている。本当にそうなのか。これはもう言ってみれば万能の天才、なんでも来いではないか。
 
しかしディドロは、マレの宗教思想が温和で妥協的なところが満足できず、さらに3名の若い聖職者、クロード・イヴォン、ジャン・ペストレ、ジャン=マルタン・ド・プラドを起用する。

「いずれも聖職にありながら、キリスト教の信仰を人間理性の行使と融和させようとする、当時としてはかなりリベラルな、というよりも危険な思想を奉じていた人びとでした。」
 
そこから話は、さらに深いところに触れるのだが、私にはこの時代のキリスト教信仰というのが、皮膚感覚としてよくわからない。
 
ただディドロが、著者を起用する上で、悪戦苦闘の努力をしていたことだけは十分にわかる。
 
1752年1月末に、第2巻が刊行される。
 
鷲見先生は、この中で目玉項目は、執筆者と対で表わすならば、カユザック「バレー」(BALLET)、ダランベール「気圧計」(BAROMETRE)、ダランベールとディドロ「文字板」(CADRAN)、ディドロ「靴下製造」(BAS)、「ブロンズ」(BRONZE)、「カカオ」(CACAO)、「樹木」(BOIS)、「ビール醸造業」(BRASSERIE)、「印刷活字」(CARACTERES D‛IMPRIMERIE)、「カード」(CARTES)などである。
 
そしてとりわけ注目すべきは、「死体」(CADAVRE)という項目である。これはトゥッサン、ダランベール、ディドロが書いている。

「ようするに三名の執筆者がほぼ等量の記事を書いて、『死体解剖』の問題を論じているのですが、驚くのは三人の主張がまったく食い違っており、編集長二人がそれをよしとして、一切手を加えずにそのまま載せていることです。」
 
これは考えられない。2人の編集長は、中で調整するどころが、まったくアッケラカンとそのまま投げ出しているのだ。
 
それに対して現代の研究者は、こんなことを言う。

「〔鷲見先生の先生である〕ジャック・プルーストはこの項目が『もっとも驚異的な対話の一つ、真の多音音楽〔ポリフォニ〕を構成している』と絶賛しています(『百科全書』、平岡昇・市川慎一訳、岩波書店、一九七九年、一〇六頁)。この『対話の精神』は、今日の私たちには理解を絶するような編集方針となって時おり姿を見せるのです。」
 
こういうところになると、ほんとうに言葉がない。鷲見先生の先生、ジャック・プルーストの批評も、同じく言葉がない。
 
ただここまでで分かることは、『百科全書』とは、現代の「百科事典」とは異なり、かなりジャーナリスティックなものだったということだ。
 
だから『百科全書』第1巻と2巻は、たちまち刊行停止を食らってしまうのだ。

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(4)

1751年6月28日、『百科全書』第1巻が配布される。予約購読者は4月末で1000人強、7月には1400名以上になった。5月1日が予約購読の締切のはずだったが、1巻につき2075部刷っていたので、これは9月まで延期された。
 
のちに空前のベストセラーとなる『百科全書』だが、出だしはそうでもない、と私には思える。それとも予約読者の数はこのくらいでも、全体としてはかなりの売れ行きを見込めたのだろうか。
 
たとえば他の本や辞書事典と比べて、どうだったのか。18世紀フランスの出版事情が分からないから、どうにもしようがない。
 
もう一つ、鷲見先生たち学者の頭を悩ませているのは、『百科全書』は高かったのか、それほどでもなかったのか、という問題である。
 
そこで鷲見先生は推論に推論を重ねて、『百科全書』の購読者が予約した280リーヴルは、円換算で70万円という数字を出す。ただしこの数字はあまり信用されませんように、との留保付きである。
 
しかし多少の増減はあるにせよ、これは結構高い。年金で暮らしてる私なら買えない。

「二八〇リーヴルという大金を払って『百科全書』を読むことのできた社会階層は、まず第三身分と呼ばれた平民でもかなり上層の富裕層だけで、大多数の文盲で経済状態も思わしくない貧困層(すなわち農民や都市下層労働者)にはまったく手が届かない書物だったということを頭に入れておいてください。」
 
なるほど、予約購読者の分布はそういうふうだったわけだ。ついでに言うと、これは言っても詮無いことと思うが、実際に読んだ人が何人くらいいたのか、知りたいと思う。難しいとは思うが、たとえば『百科全書』を読んでみて、というふうな書き物は残っていないのだろうか。
 
この本の中にも、『百科全書』に対して、きつい批判をする者が出てくる。専門的な項目記事と、素人の場所塞ぎなだけの記事が、一緒に並んでいるというのだ。まだ種々の専門が確立していない時期だから、さもありなんと思う。
 
しかしこれは、書き手に近いところからする批判である。そうではなくて、純粋に読者としての評価や批判を知りたい。でも『百科全書』を読んで感想を記し、それを残すというのは、ちょっと難しいかな。
 
執筆者の問題も、考えさせられるところだ。第1巻が出て驚くのは、ディドロの「獅子奮迅の活躍振り」である。
 
細かいことを抜きにするならば(鷲見さんは抜きにしていませんよ、念のため)、項目総数5247編のうち、ディドロの作と分かっているものは1938編あり、それ以外の無数の無署名項目のかなりを、ディドロ作と考えると、まさに「超人的」な働きぶりである。
 
ディドロが執筆した項目では、たとえば「技芸」(ART)、「鋼鉄」(ACIER)、「農業」(AGRICULTURE)、「針製造」(AIGUILLE)、「銀」(ARGENT)などが重要だ、と鷲見先生は言う。
 
そして『百科全書』とは、何をおいてもまず実際的で有益な書物だった。

「『百科全書』第一巻はとりわけ政治的に見ても、衝撃をあたえた書物でした。単なる知識や情報を提供するだけの辞書ではなく、当時の政治体制にたいするかなり遠慮のない批判・誹謗が含まれ、しかもその毒のあるメッセージが行間に隠された形でしか読み取れないという狡猾な仕組みでした。」
 
今日のいわゆる百科事典との違いはここにある。叙述の裏または足りない部分を、どういうふうに暗示させるか。

「当時、政治と神学を扱う文書に対して、検閲は厳しかったので、批判記事はおのずと間接的で暗示的なものにならざるをえなかったのです。予約購読者を確保するためにも、そうした配慮は当然でしたが、逆にその面従腹背の出版戦略は読者の人気を集める結果となりました。『百科全書』はそこに印刷されていた事柄もさることながら、印刷されていない事柄で人びとを魅惑したとも言えるでしょう。」
 
今では想像を絶するやり方である。このあとたとえば、それはこんなふうだと『百科全書』から例が引いてある。そこはどうか、本そのものに当たってほしい。

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(3)

1746年3月、ル・ブルトンは書店主(=印刷人)として認められ、この資格を武器に、それまでの『百科全書』の方向を変える。ささやかな翻訳企画だったものが、フランス独自の大事典出版規格へと、切り替わるのである。
 
そして協同書籍商たちは、『百科全書』の編集責任を、グワ・ド・マルヴという学者神父に委ねる。

この人はロンドン王立協会会員、リヨン美術アカデミー準会員、パリ王立科学アカデミー幾何学部門補佐などを歴任、またコレージュ・ド・フランスでギリシアとラテンの哲学講座を担当している。

絢爛たる経歴である。書籍商たちが、全権を委ねるのに相応しい人間と見込んだのは、当然のことだ。

ところが、そうではなかった。
 
その評価を直接落としたのは、グワ・ド・マルヴ神父の金銭問題で、金に汚く、だらしのない人物だったのだ。

ある時こんなことがあった。『百科全書』の項目を、サミュエル・フォルメーという人に大量に書かせたあげく、編集長のグワ・ド・マルヴは、書籍商たちから預かった謝金300リーヴルを、渡さなかったのだ。払うべき原稿料をネコババしたのだ。

「フォルメーの訴えを聞いたダランベールとディドロの連絡で、協同書籍商も慌て、約束不履行の場合は大法官に訴えて、聖職禄を奪うとまで脅した挙げ句、マルヴにフオルメーへの謝金を払わせました。この一件で、編集長の権威は地に落ち、書店主たちはマルヴが金銭についてはかなりだらしのない人物であると肝に銘じたようです。」
 
いるんですね、こういう人、昔から。著者と出版社の付き合いでいえば、私は直接の経験はないが、最初に入った出版社では、同じフロアの責任者が頭を抱えていたものだった。
 
でも、こういう話は好きだ。マルヴ神父のようなのは、実際に付き合えば困ったものだが、横で見ている分にはいかにも出版社と著者で、これを肴に飲むのは、語弊はあるが、あえて言えば愉しい。
 
原稿料をネコババとまではいかなくとも、民衆史の側に立つ歴史学者が金に汚かったり、紳士然としたエッセイストが女性にいやらしいことをしたり、ま、いろいろありました。もちろん少数の例外ですが。
 
1747年10月16日、ディドロとダランベールは『百科全書』の共同編集者に任命される。
 
ダランベールは30歳という若さで、早くも王立科学アカデミー会員であり、天才的な数学者として国際的な名声を得ていた。
 
一方、34歳のディドロはまだ無名で、英語の翻訳がいくつかあるだけだが、協同書籍商たちの内輪の評価では、才能を絶賛されていた。
 
なぜディドロがダランベールを差し置いて、編集長として重きをなしたか、そして書籍商たちも、ディドロを全面的に頼りにしたかはよく分からない、と鷲見さんは書く。
 
一つありそうな理由は、大法官ダゲッソーがディドロの「溢れんばかりの才気や知性を高く評価し、後押しを惜しまなかった」からではないか、と言うのだが、書籍商たちがディドロの方を買ったのは、単純に人物評価の問題ではないか。
 
金を出すのは協同書籍商なのである。天才的な数学者、ダランベールよりは、「溢れんばかりの才気や知性」を持ったディドロの方を、出版社(=協同書籍商)として推すのは、よくある話ではないかと思う。もちろん真相は闇の中だけれど、こういう話は想像力を羽ばたかせて愉しい。
 
しかし道は平坦ではない。1749年7月、編集長ディドロが、なんと筆禍事件を起こす。『盲人書簡』と題する著作が問題になったのだ。

『盲人書簡』は、「啓示を基礎とするキリスト教神学と真っ向から対立する英国ロック流の感覚論を取り込んで書かれており、危険思想であるとして国王印を捺した勅命逮捕状が発行された」のである。
 
ディドロは、宗教や風紀を乱すような執筆活動はしない、と誓って許されるが、以後は個人的な著作であっても、真情を吐露した危ない作品は一切刊行しなくなった。このあたりは、同時代を生きたルソーとは極端に違う。
 
ところで、筆禍事件で逮捕されるとはどういうことか。「宗教や風紀を乱すような執筆活動はしない」と誓えば、娑婆に出たのち、また元通りの活動ができたのだろうか。
 
ディドロは編集長のままだ。日本では角川春樹氏が、麻薬で捕まったのに、出てきたらまた出版社の社長を元気にやっている。普通なら出版界を追われるが、角川氏は唯一の例外である。
 
18世紀のフランスでは、一度や二度の逮捕では、出版界追放の烙印は押されなかったんだろうか。
 
さらに鷲見先生は書いている。

「ちなみにこの著作〔=『盲人書簡』〕はとりわけ外国で大評判になり、匿名出版であるにもかかわらず注文が殺到して品切れになるほどの人気だったと言います。版元は『百科全書』書店主の一人ロラン・デュランでした。」
 
ここも実態がわからない。ディドロは逮捕されたけど、書籍商(=出版社)は無傷だったのだろうか。「注文が殺到して品切れになるほどの人気」ということは、書籍商は売り続けたということか。品切れになった後、重版したんだろうか。著者が逮捕されているのに、まさかねえ。

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(2)

ディドロとその時代について知りたい、――しかし具体的に、何を知れはいいのか。鷲見先生はあくまで、その時代に寄り添い、ディドロたちの息遣いを再現しようとする。

「ディドロはどういう経緯でこの仕事と関わり、のめり込んでいったのか。ディドロにたいして支払われた報酬や給与、年金とはいかほどのものだったのか。事典項目の執筆者たちは、どういう階層に属し、何をしている人々だったのか。」(「はじめに」)
 
さらに、この時代に特有のことがある。

「事典刊行に際してディドロたちが遭遇した障害、抵抗、弾圧とはいかなる種類のものだったのか。」(「はじめに」)
 
時は18世紀、だれでもカトリックと絶対王政による弾圧が、浮かんでくるだろう。これは厄介で難しい問題だ。研究すればするほど、前のめりになって、一つの陣営に立ちやすいのだ。

鷲見先生はそこをあえて、力まずに「ですます」調を用い、脚注なども一切つけず、「二七〇年前の出来事について、過不足ない公正な評価を下」そうとする。

「第一章 『百科全書』前史」では、英国における先達、ベーコン、ロックらの著作を紹介し、フランスではルイ・モレリの『歴史大辞典』や、フュルティエールの『普遍事典』などを取り上げる。
 
特に『普遍事典』は、日常語から専門用語まで、採録された語彙の領域は多岐にわたり、百科事典の祖ともいえる書物である。
 
つまりディドロの『百科全書』は、ロック以来の実に多くの著作の上に成り立つ仕事で、あるとき思い立って『百科全書』を編纂したわけではない。
 
なおフュルティエールの『普遍事典』の改訂版などを追っていくと、いつの間にか、その編纂方針にイエズス会が介入し、オランダのプロテスタントと、フランスのカトリックの争いが、事典をめぐって繰り広げられる。辞書・事典と言えば、その仕事は冷静にして静謐な感じだが、一皮めくれば闘争の歴史だった。
 
この章では数多くの事典が紹介されるが、それらが一面で、イデオロギーの闘争史だったということが、指摘されてみれば当たり前だが、しかし私には驚きだった。

「第二章 『百科全書』刊行史」では、フランス版『百科全書』は、初めは英国の『サイクロビーデイア』の慎ましい翻訳企画だったが、資料が乏しいので、本当のところはよくわからない。
 
はっきりしているのは、この企画が「協同書籍商」の主導で行われたということだ。しかもその計画は、全巻の構成立てや関わった著者たちも含めて、かなりの修正を迫られることになるが、しかし完成まで導いたのは、この「協同書籍商組合」、つまり現代でいうなら複数の出版社である。
 
その共同出資をする「協同書籍商」は、ル・ブルトン、アントワーヌ=クロード・ブリアソン、ミシェル=アントワーヌ・ダヴィド、ロラン・デュランである。

「書店主たちは出資や権利について取り決めをおこない、ル・ブルトンは、書店主として費用の半分を負担し、印刷業者として自社の印刷機の使用を組合に任せ、莫大な利益を見込んでいました。当時の出版界では、出版業と印刷業とは現在のように区別されておらず、単一のギルドにまとめられ、多くの場合は兼業でした。ただし、書店主は印刷業を営んでおらず、逆に印刷業者は製品を販売することで書店主を兼ねていました。」
 
今とは少し業態は違うが、これは現在で言う出版社である。捕らぬ狸ではないが、『百科全書』で莫大な利益を見込むところも、出版社そのものだ。

最初の百科事典を作った男――『編集者ディドロ―仲間と歩く『百科全書』の森―』(鷲見洋一)(1)

著者は鷲見洋一、1941年生まれ、慶應義塾大学名誉教授、専攻はフランス文学・思想・歴史。
 
この本は書き下ろしで900ページもあり、本というよりは弁当箱に近い。1ページ、45字×18行=810字、つまり400字詰原稿用紙で約1800枚ある。著者の81歳という年齢と、実際の文章の艶と張りを見れば、ただ事ではない。
 
事の起こりは、2014年に「日本編集者学会」で、「編集者ディドロ」という題で講演をお願いしたことによる。

「日本編集者学会」は、元小沢書店の長谷川郁夫氏が提唱してできたものであり、小池三子男(元河出書房)、石塚純一(元平凡社)、川上隆志(元岩波書店)、堀山和子(元講談社)、佐藤美奈子(元図書新聞)らの諸氏に、私(トランスビュー)も末席に連なっていた。
 
鷲見洋一先生の講演は、驚くべき発見と面白さに満ちており、私はさっそく懇親会の席で、講演原稿を基にして、新書版程度の一般向け概説書をお願いした。
 
鷲見先生の仕事は、岩波書店から出た『『百科全書』と世界図絵』を、WEBRONZAの「神保町の匠」で書評したこともあり、中身は素晴らしく、文体に張りのあることも分かっていた。
 
しかし直後に、私は脳出血で倒れた。病院に小池さんが見舞ってくれて、鷲見さんの件は平凡社の松井純さんにお願いした、と言ってくださった。正直ほっとした。
 
ところが松井さんは鷲見先生に、驚くべきことに、「新書サイズと言わず、好きなだけお書きください」と言ったという。そう「あとがき」に書いてある。
 
8年後の今年、この本ができて、それを手にしたとき、私は脳出血にも積極的な意味はあったのだと思った。私ではなく、松井さんが担当編集者になったからこそ、この輝く巨大な本ができたのだ。
 
しかし実は、事態は二転三転する。松井さんは、原稿が出来上がりそうな2020年6月には、亡くなっていたことがわかるのだ(亡くなったのはその年の2月)。
 
鷲見先生は、そのときのことをこう記す。

「衝撃でした。二度までも担当編集者が斃れるという事態はただごとではありません。草葉の陰から、ディドロの霊が『お前さんにはまだ無理だよ』と囁く声が聞こえるような気さえしたものです。」(「あとがき」)
 
けれども、同じ平凡社編集部の日下部行洋氏が、引き継いで完成させたのである(それにしても、松井純氏が完成本を見られなかったのは、あまりに無念である)。
 
それでは本文に入っていこう。まず「はじめに」から。

『百科全書』は、各種「百科事典」や、今の「ウィキペディア」のもとになった、世界最初の本であり、18世紀半ばに刊行された世紀のベストセラーである。もっとも『百科全書』を学問的に研究しようという動向は、1940年代から始まったらしい。
 
私は、鷲見先生のお話を伺って、デイドロが『百科全書』を最初に著すには、驚くべき独創と苦闘の痕があったのだ、という当たり前のことに、初めて気が付いた。

――18世紀、フランス革命がおこる直前、ディドロとダランベールは『百科全書』を作りました。それは絶対王政が倒れ、理性の世紀がやってくるのに相応しい出来事でした。学校の世界史の、陰翳のないまま干からびて残った一項目である。
 
自分が、本の編集という悪戦苦闘の現場に、日々ありながら、全く新しい書物を作り出すことには、実に鈍感だった。ほんの少し『百科全書』という事態を想像してみれば、わかることなのに。いや、わからないということが、わかるのに。
 
それにしても『編集者ディドロ』という書物は、なぜこうも巨大なのか。それを一瞬で理解するために、目次を挙げておこう。

 第一章 『百科全書』前史

 第二章 『百科全書』刊行史

 第三章 編集者ディドロの生涯

 第四章 商業出版企画としての『百科全書』

 第五章 『百科全書』編集作業の現場

 第六章 「結社」の仲間さまざま

 第七章 協力者の思想と編集長の思想

 第八章 図版の世界

 第九章 身体知のなかの図版

 お分かりだろうか。『編集者ディドロ』とは、「ディドロとその世界」、のみならず、「『百科全書』が誕生する過程を内側から体験する本」なのだ。巨大であることの意味が解ろうというものだ。

お話で見る「移民と出入国管理法の現在」――『やさしい猫』(中島京子)(3)

ここに至って日本の難民問題には、ハッと膝を打つ、根本的に相矛盾する要素があることがわかる。「マヤ」と弁護士先生たちの会話――。

「難民を保護するというマインドと、外国人を管理するという入管のマインドは、そもそも相容れないものだからね」
「本来は、入国管理局からは独立した難民認定機関ができなきゃいけないんだよね」
「いや、ここ、じつは根源的な問題なんだよ、マヤちゃん。なぜ、難民保護と入国管理を同じ部署の同じ人間が担っているのかってこと。変だと思わない? 助けてあげたいっていうのと、追い出してやるぜっていうのが、同じ部署なんだよ」
「はっきりいって、『追い出してやるぜ』ってメンタリティに貫かれているよね」
「うん、日本には難民認定制度って、ないに等しいよね。あるのは難民不認定制度だよ」
 
これは、私は愚かにも考えつかなかった。難民保護と入国管理を、一つの部署の人間がやるのはおかしい、ということは、考えてみれば当たりまえのことだ。これは制度的な問題だから、それこそ国会で早急に議論して、改めるべきことだ。
 
参院選が7月にある。「反原発」と並んで、「難民保護と入国管理を分ける」というのを、争点にする候補者に投票したい。
 
この話の結末は、「クマさん」が裁判で「退去強制命令」を取り消され、晴れて「ミユキさん」と結婚して終わりとなる。
 
私はこのエンディングに疑問を持つ。苦労して苦労して結婚という一つのゴールを目指し、それを獲得したのだからいいではないか、という見方もある。そちらの方が圧倒的に多いだろう。
 
しかし、そうではないのではないか。この時代に提起すべきは、「クマさん」は国外退去になり、「ミユキさん」はぽっかり穴の空いた空洞を裡に抱え、「マヤ」はせっかく入った高校に行かなくなる。つまりみんな出口がない。これが現代の、ごく当たり前の真実ではないか。

「マヤ」が1人称で語る話法も、私には居心地が悪く、ひいてはこの話全体に対しても、違和感が残る。
 
そもそもなぜ小説の運びとして、「マヤ」が1人称で語ることになったのか。

これはたぶん著者にとって、「マヤ」が中学・高校の年齢で、そういう眼からみたとき、という前提で話が進められるからだ。そういうふうにしないと、大人の厄介な陰翳を描くことになり、それでは難民問題に集中することができないからだ。
 
しかし15歳ころの娘と言えば、大人よりもはるかに鋭敏であり、「マヤ」のような、変に物わかりのよい、あえて言えば愚鈍な類型は、登場人物の典型としては相応しくない。
 
ここで最初の文学賞の話に戻る。「吉川英治文学賞」は、たぶん面白くて売れていれば何でもいい。「貧困ジャーナリズム特別賞」は、たとえばNHKの「生理の貧困」取材チームが受賞するような賞で、これも底辺ということで広げていけば妥当だ。
 
問題は「芸術選奨文部科学大臣賞」だ。これは文化庁が出す賞で、「芸術各分野において、優れた業績を挙げた者又は新生面を開いた者を、選奨し奨励するもの」(略述)である。
 
文化庁(文科省)と、出入国管理を扱う法務省は、縦割り行政で縁も所縁もないから、同じ話題に、片方で「文部科学大臣賞」を出し、もう片方で外国人を家畜以下に扱っても、それはそれでいいのかね。
 
あるいは文化庁の心ある人が、日本の難民政策はとんでもなくひどい、ということで警鐘を鳴らしたつもりなのか。
 
ここで話はこの本を外れ、難民について語っておく。と言っても、このブログで再三語っていることだ。
 
日本人は早晩、難民や移民に対して、手のひらを返さざるを得ない。人口がこのまま推移すれば、日本人は100年どころか50年もたてば、ほとんど生まれなくなる。今現在そういう統計が出ているにもかかわらず、政治は全く何もしない。

それが本当に目の前に迫ってくれば、移民や難民に、三顧の礼を持って日本に来てください、と言わざるを得ない。
 
そのとき大事なのは、難民保護と入国管理を、2つに分けなければいけない、ということだ。この2つは真っ向から対立する概念だ。私が中島京子の作品から学んだのは、このことである。「芸術選奨文部科学大臣賞」は、ここを狙って賞を与えようとしたなら、まことに納得できる話だ。

(『やさしい猫』中島京子、
 中央公論新社、2021年8月25日初刷、2022年3月15日第6刷)

お話で見る「移民と出入国管理法の現在」――『やさしい猫』(中島京子)(2)

こうして「クマさん」と「ミユキさん」は再び会うのだが、そのとき「クマさん」は、目を潤ませながら、仕事を決めておかないと、結婚することに後ろめたさが付きまとう、と思ったという。

「『おまえらガイジンができることなんてせいぜいそれくらいだ』と、自動車専門学校を卒業する年に就職活動をしてて言われたこと。言われたというより、そう言い続ける人が近くにいたこと。それから、新聞配達をしていて、ポストの前に立っていたらそれだけで警察を呼ばれたこと。契約になかったのに集金に行かされて、玄関に出てきた人から、顔に消臭剤だかなんかを吹きつけられたこと。接客のバイトをしていたときに、ガイジンには注文しないと言われたこと。」
 
そういう嫌なことを、若いときから一人で乗り越えてきたから、今度もまた、一人で乗り越えようと思ったのだ。
 
ここは中島京子が、破裂しそうな憤懣を胸に、書き付けたところである。
 
私も実際、こうして読んでいても、たまらなくなる。日本人のかなりの部分がこういうものであり、同じ国にはいたくないなと思う。人の「貫目」が限りなく低い、あるいは最初から腐っている。ヘイトに群がる人たち、いわゆる「ヘイト族」である。
 
こうして「クマさん」と「ミユキさん」は、結婚することになった。本格的な事件は、このあと起きるのである。

「クマさん」は、結婚の事実を記載した戸籍謄本を持ち、電車で品川駅港南口からバスに乗って、東京入国管理局に在留資格の相談に行こうとしていた。在留期限が切れていて、結婚した場合には、そこで調整することが可能だった。
 
しかし入管に相談する前に、2人の警察官に呼び止められる。

「『在留カード持ってるね。見せて』
  〔中略〕
『すみません。いまから入管に行きますから、どうか、行かせてください』
『見せられない理由があるの?』
『入管に、相談に行くところなんです。在留資格の相談です。いまから』
『それ、わかったから。行く前に見せて。見せてくれたら行っていいよ』
 クマさんはあきらめてお財布から期限の切れた在留カードを出した。
『不法残留、入管法違反だね』
 二人の警察官は目を見合わせた。」
 
品川駅港南口でめぼしい外国人を見つけたら、在留カードを点検し、不法残留であれば、そのまま入管に留め置く。警察官の点数稼ぎ、いわゆるネズミ捕りである。

「クマさん」はオーバーステイで、国外退去処分になるはずだけれど、日本人の妻がいるから、家族を引き裂くわけにはいかない。それで在留を認められる可能性がある。

「二人の結婚が『偽装』なんかじゃなくて、『真摯な結婚』だと認めてもらえれば、法務大臣が『在留特別許可』を出してくれる。その決定は『裁決』と呼ばれていて、クマさんの場合、『口頭審理』の三週間後に『裁決告知』された。」
 
お話の絵解きだから、非常に分かり易い。
 
入管施設の収容については、その期限が定められていない。これは異常なことである。刑務所に入る場合だって刑期は決まっている。しかし入管では、「無期限収容」である。はっきりした規則がないのである。これは「無期懲役」と似ていないだろうか。

「あの年、牛久にある東日本入管センターで、収容されたインド人が自殺した。『仮放免』申請が却下されたと聞いた翌日だったそうだ。収容期間は十ヶ月に及んでいたという。その人は、帰国すれば迫害されるおそれがあるので『難民申請』をしていた。でも、それも不認定になって、『仮放免』も許可されず、絶望してシャワー室で、タオルで首を吊ったのだった。」
 
この小説は『読売新聞』夕刊に、2020年5月7日から2021年4月17日に亙って連載された。
 
それと重なるように、2021年3月6日、名古屋入国管理局の施設で、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさん(当時33歳)が、身体の具合が悪いのを放置されて亡くなった。実質、入管施設で殺されたのである。
 
優れた作家は、危険を察知する〈カナリア〉だということがよく分かる。